日々愚案

歩く浄土141:情況論41-さまざまな共同幻想/足下にある危機2

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さまざまな共同幻想というとき、外延自然の遷ろう自然のことを指している。内包論からすると共同幻想は外延的な自然にほかならないが、狭義の共同幻想を外延自然の下でもっと拡張すべきだと考えている。テロの脅威が差し迫っていると国家を運営する者は言う。医療の担当者はがんの早期発見・早期治療をことあるごとに訴える。吉本隆明の国家が共同幻想であるという思想はわたしのなかに根づいて認識にとっての自然となっている。心身が健康であることを善とし、損なわれた身体の健康を矯めていくことを拒否することは容易ではない。健康を善とする観念は高度に支配的で心身の状態をビッグサイエンスで絡め取り、医療のしくみはまるでブラックボックスのようになっている。やがて誕生から死にいたるまでの医学的に精密な工程がビットマシンによって計量されるようになるだろう。世界のグローバルな地殻変動が、難民の急増や格差のひろがりをきっかけに一気に国家が一斉に内面化を強めている。ハイテクノロジーによる世界のグローバルな改編が世界の帰趨を決する主たる駆動力であり、この圧力に耐えかねて国家が内面化をはじめたとわたしは理解している。ともに生のあたらしい様式を生みだす力はない。ハイテクノロジーに引きずられる電脳社会の範疇に属する金融工学は外延自然を線形的になぞるだけであり、国家の内面化は共同性の規範を強化し人びとの内面を締めあげる。わたしはどちらにも与しない。

吉本隆明は共同幻想について定義している。「心的な領域は、生物体の機構に還元できる領域では、自己自身または自己と他者の一対一の関係しか成り立たない。また、生物体としての機構に還元されない心的な領域は、幻想性としてしか自己自身あるいは外的現実と関係しえない」(『心的現象論序説』)ある時代の牧歌的な共同幻想の定義だと思う。外延自然の下で共同幻想はさまざまに遷ろうが、外延自然が高度に人工化されるとき、自己幻想の心身相関も自動的に高度化される。
精神の古代性としてある天然自然が身体を媒介に外界に延長され、そこで粗視化された貨幣は自己に属している。自己の観念に属しながらどうじに共同幻想でもある貨幣の謎は隠蔽されたまま、やがて紙幣ではなく電子決済によって貨幣の身体性は失われていくだろう。貨幣もまたおそらく電脳社会のなかでだけ存在する信用という共同幻想に収奪されていく。外延知では貨幣の謎は解けない。自己と共同幻想のつなぎ目は判然としない。そこでつぎのような問いが生まれる。一体いま、これはわたしの自己幻想であるという観念を自己がどれほど所有しているだろうか。とても深刻な問題だと思う。心の不調があると病院で精査をうけ種々の薬をもらう。健康診断や人間ドックで精査すれば病気はいくらでも見つかる。がんだと最悪。脅迫と一体化した善意によって患者は易々と命を預ける。この強度はさらに強まる。生誕から死までが生権力のシステムとして制度化される。共同幻想に同期するしかない自己幻想は定義に矛盾する。矛盾した存在のありようが自己幻想とでもいうのか。ニック・レーンの『生命、エネルギー、進化』なんか読んでるとすごい。めまいを起こしそうだ。紙と鉛筆があればできる数学基礎論はシンプルでいいなあ。ギターがあれば音はつくれるし、絵の具があれば絵は描ける。化学や免疫学のなにが面倒かというと、推論の論理式は簡単なのだが、化学用語や免疫学用語が入り組んでいて慣れないと理解しにくい。レーンは生命や人間の心的な過程を徹底的に容赦なく物理学や科学の過程に還元する。1+1=2であることを理解すればレーンの論理を拒否することはできない。

しかしその厳密さにもかかわらず人間の心的な現象はかけらも解明できない。それは驚異なのだが、外延自然の遷移する共同幻想という自然のなかにも、人間の内面という自然のなかにも存在しない。最期のフーコーの言葉は味わい深い。「最後に私が強調しておきたいのは以下のことである。すなわち、真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ。真理、それは決して、同じものではない。真理は、他界および別の生の形式においてしかありえないのだ」。最期のフーコーが「主体は実体ではありません。それはひとつの形式であり、とりわけこの形式はつねに自己にたいして同一になることはないのです」と遺言のような言葉をのこしてくれたことに励まされる。なんだ、おれとおなじことを言っているじゃないか。

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もういちど世界認識の方法についてわたしの考えを述べる。国家が内面化するのはグローバルな世界の変化に対応できなくてうろたえているからである。世界史の地殻的な変動がもたらす圧力と国家の内面化は対等な格としてあるのではない。国家は防衛すべきであると支配者が私性を保身しているにすぎないのである。国家が自然であれば私性も自然である。さまざまな自然が入り乱れておおきな自然をつくっている。意識の外延表現である外延知はこの堂々めぐりを破ることはできない。この思考の範型の内部にいて対象を論じることは不毛である。グローバルな外延知の革新が世界史の動向を大枠で決めており、変化の従属物になりつつある国家が内面化することで相克している。わたしはそう判断している。

ここでひとつのシミュレーションをやってみる。犯罪を計画した段階で処罰する「共謀罪」法案が閣議決定され、国会に上程されるとする。法として成立すれば平成の治安維持法として機能することは自明である。考えてみたいのは思考の慣性ということだ。ある思考の慣性が前提とされるならば共謀罪という治安維持法はさしたる反対もなく法案として成立するだろう。わたしは共謀罪が成立することは自然だと思う。主観的には猛烈な反感をわたしはもっている。しかしそれにもかかわらず自然に成立する。この自然がくせ者なのだ。わたしは思考の慣性に市民主義的な理念は歯が立たないということを主張したい。おおくの人びとの反対にもかかわらず共謀罪は自然に生成する。この自然を解くことはわたしたちの思考の慣性をひらくことになる。また思考の慣性をひらかないかぎり市民主義的理念の向こう側には行けない。

わたしはグローバルなスタンダードは半ば実現していると思っている。国家を内面化しても非正規雇用というグローバルな公準は適用される。かつて世界には支配者と支配者に抗する労働者という世界認識の画像があった。むろんこの世界認識は完膚なきまで敗北し、適者生存の条理は人びとをCEOと非正規雇用に分別する。この世界図式では人びとは総アスリートとして生を晒される。生の牧歌性はどこにもない。わたしたちの生はハイパーリアルな生存競争にさらされ、システムの属躰となるほかない。生誕から死まで生権力によって監視され、雇用を破壊するAIとの熾烈な競争を勝ち抜こうとして、ゲノムも編集されることになるだろう。もちろんわがアジア的な心性この遷ろう自然を、自然に受けいれていくことになる。わたしたちの国にあっては世界を改変する自然とこの国の自然がいつも二重化されている。生権力が生を管理することを花鳥風月のように受けいれるということだ。国破れて山河ありという牧歌はすでにないにもかかわらず、そのないものを補うものとして天皇親政が残りつづける。なんだ、それなら絶望しかないじゃないか、と言いたいわけではない。生を外延知でかたどるかぎり生きることは非命を意味し、余儀なき生を受容するしかない。私利と私欲は自由と平等と相性がよく、三人称は赤の他人であるというこの世の条理を、否定するのではなく、拡張することが可能だと内包論は考えている。外延知は人類史としてほぼ使いつくされた。その人類史的な転換点にわたしたちは生きている。フーコーは、さあこれから生きるぞ、というとき突然に斃れた。主体は実体ではなく同一なものに回帰しない。他性を措定するとき真理が生のべつの形式であらわれる。フーコーはこの言葉を最期にのこして亡くなったが、もっと世界を駆けて欲しかった。できれば対面していちど話をしてみたかった。

わたしたちは歴史について野蛮・未開・原始という先史時代から歴史時代に入ったという通念をもっている。このとき悠遠の太古は過ぎた時代であり、いま現代文明社会を生きていることが前提とされている。根深い思考の慣性がここにある。歴史も生も時間の経過と共にすぎていく。はたして時間は流れていくのだろうか。横に流れていくように知覚される。公理のようなものとしてある思考の慣性。わたしは内包論でこの時間を縦にすることができることに気づいた。この知覚で思考の慣性をほどこうとしている。わたしは歴史年表のような時代区分を内在的に表現することができるとあるときから考えるようになった。空間的な概念としてある歴史を縦に表現すればいいことに気づいた。気づくとかんたんなことだった。植物には維管束があり、光合成をした代謝産物や水がそこを行き交い、栄養された細胞たちは周辺に押しやられ、樹皮や樹肉となり年輪を刻む。植物の真芯にある生成の源に根源の二人称が比喩される。生や歴史の真芯に根源の性があり、ひとはいつもこの根源の性を分有するという形式で生きている。だれの、どんな生であっても、その生に人類一万年の、あるいは数百万年の、もっと言えば意識化できない生命発生以来の記憶が内蔵されている。わたしの生涯は人類史そのものであると言うことができる。生の原像を喰い、寝て、念ずると解するかぎり、わたしの言及することは真である。さらに言うことができる。ある特定の時代を、ある生育史を余儀なく生きているのではない。わたしがわたしを生きるということは累乗化された人類史を一身に生きることと等価である。なぜ等価か。根源の二人称を分有することにおいて、わたしたち一人ひとりの生が自由で平等であるからである。この生の基底は、遙かな太古も、いまも、おそらくこれからも変わらない。恐ろしいほど自由で、恐ろしいほど平等なのだ。

だれもこういうことを言った人はいないが、わたしの内包論では、人為ではなく、おのずからそうなる。なんと戯けたことを言う。すると、なんだ、おまえは気の持ちようで生も歴史も変わると言うのか。うん、そうだよ。そういうことを内包論で真剣に考えている。内包論を貶めることはできても、内包論がへこむことはない。根源の二人称の派生態が同一性にすぎないということは、わたしのなかではこれよりほかになにがあるというほどのリアルとしてある。基をただせば、神や仏というものもじつは内包存在が心身一如に引き取られた痕跡である。おなじことだが、内包存在を同一性に縮減したときそれぞれの神や仏が誕生した。そういう意味では人間という生命形態を同一性でよくなぞっており、さまざまな歴史と自然が外延知から派生した。

ここで外延知と内包知の根本的な違いについて触れる。外延知は歴史を、あるいは生をなにかへの過程としてとらえる意識の呼吸法である。この外延知が歴史や生をかたどってきた。いつもじぶんがじぶんにとどかない意識が呼吸されている。いつかはとどくと仮定されて歴史は順延され繰り延べられる。いつかはとどくとされ意識は内面化される。自然や自己を粗視化することは観察する理性として行使される。知識人と大衆という世界を分割する二項図式も、科学する理性もこのようにしてつくられてきた。外延知では心身は計測され可視化される。なにか架空の健康という善があり、悪を除去し善に近づくという硬い意識のことだ。私利と私欲が外延知に矛盾することはなく適者生存は外延知によって成就される。それがわたしたちが手にした理念だ。内包知と総表現者が外延知がかたどった強固な自然を拡張し転倒する。根源の二人称から照らされて生の原像を大地から直立させること。70億の表現主体が登場する。総表現者の出立はなにごとかである。すきな音のようにだれもが生を舞うことができる。たしかな人類史の転換点がここにある。(この稿つづく)

〔付記〕
共謀罪法案に「テロ」表記なしと東京新聞が報じている。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017022890070031.html

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