日々愚案

歩く浄土140:情況論40-さまざまな共同幻想/足下にある危機1

ある時代を生きる人がその時代との相関でもつ明晰さと迷妄の度合いはいつの時代も変わらないという、わたしにとって謂わば公理のようなものがわたしの認識の根底にある。ついでに言えば、生を言祝ぐことと嘆くことの感情の総量も時代を貫通して不変であるように思う。まだある。迷妄は共同幻想に由来するが、精神の古代形象として引き継いでいる歴史的に古い共同幻想もあれば、新興の宗教である科学もある。科学は現代でもっとも成功している共同幻想としてもある。わたしたちはさまざまな共同幻想に囲繞されて生きている。明晰さに隠れた迷妄もあり、迷妄と称されることのなかに明晰さが潜んでいることもある。数学的自然の明晰さが数学の明晰さのなかに担保されないことは自明であり、そうすると数学より下位の明晰さしか持ちえぬ諸科学の明晰さはなにによって担保されることになるのか。遷移する共同幻想という自然によって担保されると仮想される。内包論をすすめていくに従ってさまざまな共同幻想の推移を外延自然の遷移だと考えるようになってきた。ここで公理のようなものをもうひとつ。さまざまな共同幻想は外延自然の認識を超えることはない。このこともわたしにとっての認識の自然として前提とされている。

世界の転形期の混乱のただなかを生きて状況の推移の速さに、市民主義的な理念はのれんに腕押しで、状況の根源に言葉がまったくとどいていない。国家が内面化するとき、自己の内面化はどこにも行き場がなく、この国の伝統的な自然生成である天皇親政に逃げ込んで共同幻想化された内面を護持するしかない。すでにそのことは広範に起こっている。

そんなことを考えながら、ブログに貼りつけたクラフトワークの動画を記事を読みながら聴いたら、なんと小学校の音楽の時間の文部省唱歌みたいに懐かしかった。それほど社会の生成変化の速さが凄まじいということだ。1980年にクラフトワークの音は時代の最先端だったが、あっというまに童謡になる。すごい。だから偶然、菅野完のツイートに、あっ、これだっ、と感じた気分はすぐすぎてしまうかもしれない。見つけたとき、切れ味が鋭いなと思った。オカルト幼稚園が小学校を開設するために格安で国有地払い下げてもらった疑惑事件のことだ。菅野完の『日本会議の研究』を読んでヘタレの日本会議と感想をブログに書いたことがある。菅野完についてはその本の著者ということしか知らず、著者本人に関心はなかった。たまたまかれのツイートを読み、教育勅語を園の基本にしているオカルトな経営者の言動の正体がぴんときた。安倍の戦前回帰のとち狂った言動がこの国を覆い、その影響で同調圧力が自由な言論を封じ込めつつあるという説明のしくみがある。それは違うと菅野完は言う。米国の王朝交代にともなう権力闘争で、トランプの言動に革新性を見る者と反動性を見る者がいて、高みの見物をしている。トランプにどんな世界構想もないことはかれの顔貌とふるまいをみているとすぐわかる。成り上がりの田舎の不動産屋が場当たりに威張り散らしているだけだ。おい、橋本、おまえのことだ。トランプ現象はこの国でもローカルな維新の橋下現象としてあり、いまもオカルトな安倍現象としてある。なにが起こっているかについて菅野完の感度はいい。

ぬるい。
あれのどこが戦前なんだろう?戦前に「うんちついたパンツを持帰らせる」とかオペレーションを組む幼稚園があったんだろうか?
なんでも戦前戦前いうてたら、ほんまの怖いことを見逃してまう。
ぬるい。

教育勅語や日の丸君が代をありがたがるから、犬を処分しろと迫ったり、おもらししたパンツをそのまま持ち帰らせたりするんじゃない。犬を処分しろと迫ったり、おもらししたパンツをそのまま持ち帰らせたりする奴だから、教育勅語や日の丸君が代をありがたがる。(2017年2月22日)

多分、サンデーモーニングあたりに出ているロートルなサヨクの人たちは、塚本幼稚園の選手宣誓とか見て、「わたしは、学徒出陣の『雨の神宮球場』を思い出します」とか言うて金儲けしはるねんやろうけど、ええ加減にしてもらいたい。アレ見て思い出すべきなのは「田舎の暴走族の初日の出集会」でっせ?(2017年2月26日)

日本会議や籠池理事長を「右傾化」と見ていたら、足元をすくわれる。ありゃ、サブカルチャーであり、文化運動であり、連中は、「日の丸君が代が大好きな新左翼」と言うた方がわかりやすい。

つまり塚本幼稚園、そして日本会議的なものとは、「極右ごっこ」でしかないと言うこと。彼らは単に「サヨクが嫌い」な人々なのだ。彼らのメンタリティは「サヨクが嫌いと言う範囲に収まるならば、それが嘘でもデマでもなんでもいいと」言う類。昔の新左翼そっくり。

だから正しい認識としては、「アベ首相頑張れと運動会で言わせる」のを見て、「軍靴の響きが」と憂慮することではないのです。ああ言うのを見たら、「ヤンキーが幼稚園経営しとるんやなぁ」「そりゃそうやわな、大阪の知事とか大阪の維新とか、ヤンキーでしかないもんな」と憂慮することなんです

あなた暴走族が特攻服に八紘一宇って刺繍してるのみて、「戦前回帰だ!」とか言います?言わんでしよ(2017年2月26日)

わたしは昔、オウム真理教事件について書いたことがある。一部を抜粋して貼りつける。「私は生の全てが表現だと考えるから、麻原彰晃の声や表情やものごしから冷酷とかキワモノという言葉ではとうてい形容しがたい、彼が内に秘めているおぞましさをじかに体感する。彼の強烈な禍々しさを浴びて周囲はひとたまりもなかった。そして知識の行為がここに爪を立てたことはまだ一度もないのだ。
 私はかつてひとりでここをかい潜った。宗教とか神秘体験より遥かにふかくどうしようもないものが日本の底の底でとぐろを巻いている。つまり私は吉本隆明ほど脳天気ではない。それは理念からくるというより繋けた日のちがいに因るとしかいいようがない」(「誰も書かなかったオウム-その愚劣を超えるもの」『読売新聞』夕刊1995年7 月12日)

オウムから20年経ったらもっとすごいことになっていた。安倍晋三のやっていることをみると、オウムにこの国が乗っ取られたようだ。すでに国家が内面化するとき社会の底にあるおぞましいものがうごめきはじめている。麻原彰晃が権力を掌握したらどうなるか。国家も世界も内面化し安倍晋三やそのもどきが蠢動する。安倍晋三は麻原彰晃の双生児だとこれまで主張してきた。菅野完はそのことに気づいている。もの書き文化人はこのおぞましさがあることに気づかない。気づいてもそのことをないことにして言論する。わたしにとっては既知のとても嫌な光景だ。直感的にこの気配を察知した者らは早々に天皇親政へと待避する。機を見るに敏な風見鶏だ。逃げ遅れた上野千鶴子は奇矯なことを宣う。「日本人は多文化共生に耐えられないから移民を入れるのは無理。平等に貧しくなろう」ということを書いていた。菅野完の流れでは、キングオブクズということになる。この女性は昔から嫌いだったし、いまも嫌いだから、そう言いたい気持ちはよくわかる。内田樹がめいっぱい嫌いだと熱く語った上野千鶴子と安保法制に反対する署名を国会に届けたとき、上野千鶴子とのツーショットをツイートを載せていて、これは政治ではないかと感じ、嫌な気分になった。安倍がオカルトだといって安倍を批判する者らが皆、群れて政治する。若い世代の発言者が上野千鶴子をあげつらう。よくわかるが、でもね、と言うじぶんもいる。べつに年寄り世代を擁護したいからではない。少年が青年に、青年がおっさんに、おっさんが年寄りになるのは、生きているかぎり避けられない。ドアーズのジム・モリスンは若くして死んだから伝説になるけど、生きていたら立派な年寄りだ。フーコーも私の父の世代だけど、余儀なき生を精一杯生きようとしてギリシャの時代を生きた、考えることのすきな人びとの考えたことに遡り、生の根拠をみつけようとした。社会をコーディングする言葉の鮮度はいまはめちゃくちゃ短い。なにが変化し、なにが普遍かということを判別することはとても難しい。流されながら不動の一点をつかむということはとても困難だ。長くて100年の生はあっというまにすぎる。若者とわたしの歳の差はわずかにすぎない。若者も生きていればあっというまに年寄りになる。1970年代の終わりに新人類が先行する世代の悪口を言っていたとき、嫌な気分になったけど、新人類はいまは立派に旧世代だ。

遷ろい行く世代と、先行する世代を受け継ぐ世代とのあいだになにが潜んでいるか。権力の始原があいまいに継承されている。わたしたちの外延的な思考の慣性では、権力は禁止・抑圧・排除という力線に沿って流れているとされる。先に書いたブログの記事から拾ってみる。

此の度は徳之島より二度出申さずとあきらめ候処、何の苦もこれなく安心なものに御座候。骨肉同様の人々をさえ、只事の真意も問わずして罪に落とし、また朋友も悉く殺され、何を頼みに致すべきや。馬鹿らしき忠義立ては取り止め申し候。お見限り下さるべく候。

彼が島の老婆から、二度も島に流されるとは何と心掛けの改まらぬことかと叱られ、涙を流してあやまったという話がある。これは従来、彼の正直で恭謙な人柄を示す挿話と受けとられたきたと思う。しかしかほど正直だからといって、事情もわきまえぬ的外れの説教になぜ涙を流さねばならぬのか。老婆の情が嬉しかったというだけでは腑に落ちない。西郷はこの時必ずや、朋友をして死なしめて生き残っている自分のことを思ったに違いない。涙はそれだから流れたのである。しかしここで決定的に重要なのは、彼が老婆におのれを責める十全の資格を認めたことである。それは彼が老婆を民の原像といったふうに感じたということで、この民に頭を垂れることは、彼にとってそのまま死者を弔う姿勢であった。(渡辺京二『維新の夢』)

『維新の夢』もなにもあったものでない。つまらぬ維新という夢に明け暮れた日々に果てのない殺しあいがあっただけである。なぜ西郷隆盛は二度の流罪を経て島の老婆から叱られたことに深く感じ入ったのか。断言として言うが、出来事を傍観してきた書き手のつまらぬ通俗が語られているだけだと思う。外圧が高まるなかで、尊皇攘夷をめぐってふたつの共同幻想が激突し、薩長土肥の勢力が権力を掌握したという以上の意味をもたない。どちらの攘夷に義があるか。だれかそういうことを問うたか。攘夷の志士たちは余儀なき義を戦い、島の老婆は余儀なき生を、それぞれが私欲を生きた。徹底してそれだけである。島の老婆の余儀なき生が志士たちの権力をめぐる構想を相対化することはない。偶然の縁を幕府側で生きるか、反幕府で生きるか、自然な生成があっただけである。みずからの愚劣をふり返って戯けたことにすぎないとわたしは思う。もの書き文化人は革命の内面を語るようで通俗をなぞっているだけである。なぜ権力の始原は解かれることなく遷ろう自然としてしか語られないのか。革命に燃えた志士も島も老婆も権力の虜囚である。外延的な生の表現はこの囚われを解くことができない。どんな革命であれ、どちらの側であれ、共同的な理念の相克は夥しいイリヤを生むだけである。勝者は自分たちの義を信として主張する。それが外延的な世直しであるかぎり、ともに生を損なう。わたしの生存感覚を貫く断言として言うが、どんな例外もない。わたしは私性と権力の始原だけが問うに値することだと思う。

オカルトな安倍晋三の悪政を擁護するのではないが、安倍の倒錯の根を探ると、安倍の精神の退行をうながす思考の慣性がすでにあるから、安倍の常軌を逸した、強いトランプにへつらい、弱者に酷薄なふるまいができるのである。わたしは総表現者のひとりとして、わたしに掛けられた閂のひとつを開けようとして、権力者も権力から疎外される生を余儀なく生きる者たちへも、ともに不満を述べている。いうまでもなく権力から生の基底を剥落されていく者たちに、ともにわれらなりという実感の場所からわたしの意見を述べている。権力が禁止と抑圧と排除をもたらすものであるとしたら、権力のその流れを可能とする、権力をそういうものとして析出させる生が前提としてある。被圧迫者、被迫害者ということのなかに世界を未知のものとして構想するものはなにもない。もしもわたしが総表現者という理念を構想しえていないなら、思考の慣性にどこかで忖度していたように思う。もうわたしのなかにそういうものはない。人はだれもが総表現者のひとりとして生をまっとうすることができる。例外はない。上から作用する大文字の権力を無化して生きることはだれであっても可能なのだ。生をそのようなものとして構想することが可能である。根源の二人称を生きるとき権力は禁止ではなく無化される。内包自然はまったく未知の広大な思考の余白として現前している。(この稿つづく)

〔付記〕伊勢崎賢治のツイート

自衛隊は憲法上軍隊じゃない、だから海外に出しても憲法上問題ない。これはリベラルがPKOを受け入れてきたロジック。でも、憲法の及ばない現場で軍隊と見なされるリスクについては寡黙な自衛隊だけに背負わせる。最大野党が現場に検証に行きもしない。自衛隊が可哀想だなんて気安く言わないで。

安倍政権になってから新しい自衛隊の派遣はありません。すべて民主党政権からの継続です。僕はpoliticalとpartisanの違いを心得ているつもりなので安倍政権の味方はしませんが、野党の味方もしません。

自衛権を追い詰めたのは、安倍政権の問題もありますが、それ以前に、9条の問題にしたくないという護憲派リベラルの保身です:日本はずっと昔に自衛隊PKO派遣の「資格」を失っていた! (2017年2月26日)

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