日々愚案

歩く浄土131:内包贈与論11-カール・マルクス考11/価値形態論について2

資本主義的な生産様式は資本家の富の占有によりその内部から自壊し歴史は転機を迎えるとマルクスは予測した。恐慌は来たがシステムは生き延びた。人間の歴史は自然史的な過程へと還元できると考えたマルクスの理念は悉く現実と離反した。マルクスの思想の神髄は失うものをもたない窮乏した労働者が世界のしくみを変えうるという倫理だった。幾重にも絡まった理念の錯誤がマルクスの思想にあった。「自然の人間的本質は、社会的人間にとってはじめて現存する」という思想はマルクスの主観的な信の襞のなかにだけ存在するのであって現実的ではなかった。同一性的な生を私性として生きることを自然とする世界の無言の条理を突き崩すほどの深度をマルクスの思想が持ち得なかったということに帰せられる。「社会」主義が落とした長い影のなかをわたしたちはまだ生きている。グローバリズムによって富の分配はより富む者と窮乏を極める者の分解をさらに昂進し、大半の人びとの生活は疲弊している。反グローバリズムを唱えることで競争から共生へと舵が切り替わるだろうか。そんなことはありえない。未知の世界を構想することで「社会」主義を超える思想をつくることができる。グローバリズムか反グローバリズム、自由貿易か保護貿易かという二項図式は擬制である。

歴史の謎も貨幣の謎もなにひとつ解明されていない。存在が意識を決定するのでも、意識が存在を決定するのでもない。存在と意識をめぐる理念のすべてが自己意識が外延的に表現された外延的な自然に閉じていることのなかに私性や精神の古代形象の謎がある。国家権力という外延権力も内面という権力も心身の粗視化された貨幣も、同一性的な自然に封印されているということだ。言うまでもなくマルクスの素朴な自然思想は環界を人工自然であるビットマシンで置き換えられつつある。マルクスの自然哲学は全面的な改変をうける。人工自然による人格のさらなる外延化とそのことによる感性の変容。人間を記号そのものと置換し、記号と記号の二項値にすればいいという理念だ。ケヴィンが熱く語るホロスはそういうものだとわたしは理解した。遺伝子は分子記号であるからかんたんに高速にビットに取り入れられる。心身もまたビットの表現としてホロスの属躰となる。ケヴィンは『〈インターネット〉の次に来るもの』でこの過程は不可避であると述べている。たしかにこの過程は不可避なのだ。人間はなぜ自由で平等であるのか、マルクスの思想が答えることはない。ではホロスの知で人間の自由や平等を定義することができるか。根源の性を分有することで〔わたしがあなたになるとき、あなたはわたしよりわたしの近くにいる〕生の知覚をホロスは表現できるか。できないと思う。この生のリアルをマルクスが思想にすることはなかった。衆を媒介とする「社会」主義的な理念が私性や貨幣をひらくことはなかった。

私性と貨幣は相互規定的に円環する。私性と貨幣は鏡像の関係にある。なぜ価値は使用価値と交換価値に二重化され貨幣から資本へと転化したのか。貨幣は延長された身体であり、精神の古代形象が生存への適応として、自然を粗視化するなかで身体が心的なものを更新し、さらに心身が観念の自動的な高度化を果たしたのだと思う。どんな私性も抽象化された一般性として共同幻想を疎外する。生存の条理とはそういうものだ。ユヴァルはこの事情を鮮やかに摘出した。かれは貨幣はどのように機能するのかと考えた。わたしの推測ではユヴァルの『サピエンス全史』はE・トッドの影響をうけている。トッドはグローバリズムの終焉についていくつもの発言をなしているが、自身の理念について「私の態度はプラグマティック、実際的です。公の場で発言することが多くても、私は依然として、何らかの倫理観や価値やイデオロギーの名において発言する伝統的なタイプのフランス知識人とは正反対なのです」(『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』)と言っている。面白い。ソ連の崩壊とテロを予言して名声を得、イギリスのEUからの離脱も的中し、トランプ現象も予見していた。なぜこれほど当たるのか。彼に主観的な心情の襞に棲まう信がないからだ。トッドにもユヴァルにも固有の表現という精神のうねりは皆無である。精神が平板であるということを代償にして得られた知見であると言える。
ユヴァルは、タカラガイもドルも私たちが共有する想像のなかでしか価値をもっていない。貨幣は物質的な現実ではなく心理的な概念だと言う。

貨幣は物質を心に転換することで機能する。だが、なぜうまくいくのか? なぜ肥沃な田んぼを役立たずのタカラガイの貝殻一つかみと喜んで交換する人がいるのか? 骨折りに対して、色付きの紙を数枚もらえるだけなのに、なぜ進んでファストフード店でハンバーガーを焼いたり、医療保険のセールスをしたり、三人の生意気な子供たちのお守りをしたりするのか?
 人々が進んでそういうことをするのは、自分たちの集合的想像の産物を、彼らが信頼しているときだ。信頼こそ、あらゆる種類の貨幣を生み出す際の原材料にほかならない。裕福な農民が自分の財産を売ってタカラガイの貝殻一袋にし、別の地方に移ったのは、彼は目的地に着いたとき、他の人が米や家や田畑をその貝殻と引き換えに売ってくれると確信していたからだ。したがって、貨幣は相互信頼の制度であり、しかも、ただの相互信頼の制度ではない。これまで考案されたもののうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ。 この信頼を生み出したのは、非常に複雑で、非常に長期的な、政治的、社会的、経済的関係のネットワークだった。なぜ私はタカラガイの貝殻や金貨やドル紙幣を信頼するのか? なぜなら、隣人たちがみな、それを信頼しているから。そして、隣人たちが信頼しているのは、私がそれを信頼しているからだ。(『サピエンス全史・上』223~224p)

じつにそのとおりだと感心した。ユヴァルがネットワークが貨幣への信用を供与するというとき、ネットワークは共同幻想を意味している。もう少しかれの言い分を聞いてみる。かれは想像上の秩序は共同主観的であると言う。

 私が超人的努力をして自分の個人的欲望を想像上の秩序から解放することに成功したとしても、それは私ただ一人のことでしかない。想像上の秩序を変えるためには、何百万という見ず知らずの人を説得し、彼らに協力してもらわなければならない。なぜなら、想像上の秩序は、私自身の想像の中に存在する主観的秩序ではなく、厖大な数の人々が共有する想像の中に存在する、共同主観的秩序だからだ。(同前151p)

ユヴァルは商品が貨幣に、貨幣が資本に転化する謎についておおきな示唆を与えている。なぜこれほど貨幣は姿形を変えながら生き延びたのか。ユヴァルは貨幣は「相互信頼の制度」であり、ただの相互信頼ではなく、「これまで考案されたもののうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ」と言う。そして相互信頼の制度は「共同主観的秩序」として「厖大な数の人々が共有する想像の中に存在する」のだと。貨幣は人類最大の発明のひとつだとも言っていてうなずける。隣人は貨幣の信用を信用し、それを「私」が信頼していることをさらに隣人が信頼し、信頼は冪乗される。このしくみは想像の共同主観としてある。ユヴァルは言うことは共同幻想は遠隔対象性をもつということだ。商品が交易によって交換され、やがて貨幣を生み、貨幣が資本に転化するのはこの作用なのだ。貨幣という共同幻想は観念として自動的に高度化する。それは自然科学という共同幻想が観念の遠隔対象性によって高度化することとパラレルである。主観的な心情や倫理を介在させてもなんの意味もない。それが同一性的な世界の条理だ。マルクスがここを勘考することはなかった。興隆する資本主義社会のなかで困窮する労働者の生活ぶりに心を熱くしたことはまちがいないが、神の代替物として鉄鎖以外失うものをもたない大衆を基軸としてこの世のしくみを変えようとした。大衆も資本家も貨幣の物神性からのがれることはない。私性と貨幣は双生児であり、そこに生存の基底があるからだ。世界の条理はそれほどに強固なのだ。
マルクスの『経済学・哲学草稿』のなかに垣間見られたただひとつの可能性は途絶え、その可能性を括弧に入れたままマルクスは資本の運動を精確に記述したが、人びとの根深い私性をひらくことはなかった。マルクスの思想以降に世界を熱く構想した者も思想もない。世界はさまざまに解釈され世界という現実の供え物として供された。
幾重にも折りたたまれた共同幻想をおおまかに、さまざまな人権の理念と対比しつつ掴みだしたユヴァルの手並みは鮮やかだった。かれの知の考古学は意志論を放棄した代償としてえられたものである。共同幻想の遷移として貨幣の呪力を解説しても貨幣の謎が解けたわけでも歴史の謎が解明されたわけではない。世界の条理をなぞり、世界が自然に生成変化していく様を眺めているだけだと言える。

だれにとっての使用価であり、使用価値が交換価値と二重化され、商品が貨幣から資本へと転化するしくみを共同幻想の遷移によって記述してもあるがままの世界はなにも変わらない。私性と貨幣が鏡像の関係にあり、またそれが世界条理として存在しているのであれば、その自然はどうやれば拡張しうるのだろうか。おそらく表現の概念を根柢から拡張するしかない。外界に対抗する自然としてわたしたちは内面というものをつくってきたが、内面化も共同化もできない、他者をうちに含みもつ表現を主体とする表現だけがマルクスの思想や「社会」的な理念を超えていくことができる。人間の固有性は社会的な存在ではなく根源の性を分有するということのなかにある。表現の新しい、未知の意識がありうる。〔と共に〕が意識の始まりであり、〔と共に〕を生命形態の自然として同一性が引きうけ心身一如をひとつのかたまりとする意識を象ってきた。それがわたしたちの知る人類史であり、個の生涯としてもある。けっして内面化できない意識が存在し、その意識は共同化することもできない。ここでわたしたちは自己を実有の根拠として自己から世界を観測するのではない未知の表現をつくろうとしている。(この稿つづく)

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