日々愚案

歩く浄土128:情況論37-天皇制をめぐって1

内田樹たちの天皇への親近の情は伏線が張られていた。読み知ったとき、なんで、と不思議に思った。なんども取りあげたが再録する。国家が内面化しつつある状況で、グローリズムにたいしてあるひとつの対抗原理が復古する。天皇制だ。内田樹の天皇讃歌がいかがわしい。このブログに騙されるぐらいではこれからの厳しい世の転変を渡世することはできませぬぞ。

①天皇陛下のお仕事とお言葉
中沢 天皇陛下をこんな放射能にさらして、ほんとに申し訳ない。
内田  今回は陛下は東京から離れなかったでしょう。
周りには「東京を離れたほうがいい」っていう意見があっただろうにね。でも、とどまったね。
中沢 なさっていることがいちいちご立派です。
平川 今回、祈祷をなさっていたっていうんでしょ?
内田 お仕事ですからね。
平川 ああ、天皇が天皇の仕事をちゃんとやっているなと思いましたね。
内田 震災の後に読んだコメントで、いちばんホロッとなったのは、天皇陛下のお言葉だったね。
中沢 そうですね。自主停電というのも感動的なふるまいで、やっぱり天皇というのはそういうことをなさるお方なんですよ。
平川 そう。何をする人なのかよくわからなかったんだけど、今回でよくわかったね。
内田 まさしく日本国民統合の象徴なんだよ。総理大臣の談話と天皇陛下のお言葉では格調がちがうね。(『大津波と原発』内田×中沢新一×平川克美)

内田 「震災が起きても、なんで掠奪が起きないのか」ってよく言われるけど、海外と日本で一番事情が違うのは天皇がいるってことだよね。
高橋 うん。これは大政奉還するしかないんじゃないの。
内田 いや、ジョークじゃなくて、大きなスパンで今の日本の政治構造を改善しようとしたら、それくらいのスケールにもっていかないと話が見えてこないよ。「革命」とか「大政奉還」とか。それくらい大きな枠組をとって考えないと、どこに向かうべきか、わからないよ。
高橋 もっともリアルな革命は、そっちだよね。
内田 ほんとに「議論の結果、大政を奉還しようという結論になりました」って言っても 、おおかたの日本人は文句言わないよ。
 - 今の高橋・内田言語を、SIGHT言語に翻訳しますと
内田 (笑)いや、このまま載っけてよ。
 - 載せるけどさ、要するに天皇という存在は、人格的なありようと、国家の本来的な ありようが、統一的に実現していて。だから、統治者としての理想を実現せざるを得ないというポジションが、もうシステムとしてでき上がってるわけだよね。
内田 そうそう。
高橋 なにより、リベラルだからね。
― そうだね。だから、そういう装置によって、政治的な権力者を作っていかないと、日本というシステムそのもののOSの書き換えは不可能かもしれない。ということを、おっしゃっているわけですね。
(中略)
内田 「現実とは金のことである」っていうイデオロギーからいいかげん脱却しなきやダメだよ。そのイデオロギーがこんな事態を生み出したんだから。
高橋 だから、天皇親政だ(笑)。
内田 そう、これはある種の対抗命題としてさ、みんなで考えてほしいと思う。だって、天皇制の意義を正面から議論することって、ほんとにないじゃない? そういうシステムを持たない国と日本を比べたときの日本の優位性はどこにあるのかを考えたときに、はじめて天皇制のメリットは見えてくると思うんだ。今のこの日本で「現実主義とは金の話のことだ」というイデオロギーに「それは違います」って言えるのは天皇だけだよ。
高橋 天皇だけはね。
内田 ねえ? こうして現に、批評的に生き生きと機能してるわけだし。
高橋 そうなんだよ。でも、天皇制はそうだったんだよね、実は。この2000年間ずっと存在していて。
内田 で、500年に1回ぐらい「いざ!」って出番がある。
高橋 そう。国難のときになると、「出番ですね」ってさ。そういうシステムだったんだ。
内田 戦後66年経って、天皇制の政治的な意味を、これまでの右左の因習的な枠組みから離れて、自由な言葉づかいで考察するとしたら、今だよね。(『SIGHT』2011 VOL.49 内田樹×高橋源一郎)

②高橋源一郎は2016年8月8日にツイートした。「天皇陛下のメッセージ、良かったです。とても。メッセージというものは、こういうもののことをいうのだな、と思いました。『いきいきとして社会に内在し』とか『その地域を愛し、その共同体を支える市井の人びと』とか、言葉づかいも素敵でした。そう、それから、あの肉声も、ですね」。わかるが、わからぬ。内田樹も同日ツイートした。「『聴き手の知性を信頼して語られる言葉』を『公人』の口から聞くのは、本当に(記憶にないくらい)久しぶりのことでした。『バカだからどんな嘘をついても平気』『バカだから死ぬほどシンプルな話じゃないとわからない』というシニスムに日本の『公人』たちは骨の髄まで毒されていましたから」「誰も言わないでしょうけれど、陛下の言葉が聴き手の胸にしみいるのは、そこに『国民に対する敬意』と『国民への祝意』がはっきりと感じられるからです。政治家たちの言葉があれほど空疎なのはなぜか、その理由もそこから知れるはずです」。

『SIGHT』に掲載されたのが2011年だから、もうずいぶん前のことだ。白川静が死の二年前に「皇室は遙かなる東洋の叡智」(「文藝春秋」2000年4月号)と遺言めいた言葉を遺したことも意外だった。「人間が自然の上位に立ち、これを征服する、という西洋的な自然観の弊害が極点に達しつつあるような現代において、日本が古代より持っていた自然に対する畏れの感情は、かえって究極的な人類の叡智ではないか、と私は考えています。中国ではこれを『天人合一』と呼ぶ」「いまなお古代的な自然観、世界観が息づいているという点で、わが国は東アジア文化の原点を残す貴重な国といえるでしょう。そのひとつの象徴が皇室であり、たしかに世界に例のないものである」。アラビア文字を読んでいるような気になる。白川静がなぜこのようなことをいうのかわたしにはまったく理解できない。グローバリズムの猛威に晒されて国家が内面化するとき、同一者の内面は一気に天皇制的なものへ収斂していく。

わたしの記憶では天皇制について記述されたもので、小林秀雄(1902-1983)と高木惣吉(1893-1979)の言葉は腑に落ちる。小林秀雄は言う。

僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何も後悔もしていない。大事変が終わった時には、かならずもしかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものにたいする人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人たちの無智と野心から起ったか。それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観はもてないよ。僕は歴史の必然というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(『近代文学』昭和21年2月号)

終生、皇室と国体の分離を言いつづけた帝国海軍少将高木惣吉について『ソキチ』を書いた友人の平瀬努さんは、熊日新聞のコラムの最終回に、「反骨の魂」とされるという文章を寄せている。

 高木惣吉の資料閲覧のため、人吉市の川越重男氏(故人)を訪れるたびに、西南の役で薩軍の陣が敷かれたといわれる自宅庭に、出迎えていただきました。
 十六歳で、古里の人吉を出郷する折、高木惣吉は、板壁や襖に書きなぐるようにして歌を詠んでいます。川越さんから、その古くなった板を見せてもらった時など、「大切に保存されているんですね」と感心したものです。そこにはこう詠われていました。「期必勝、業もし成らずんば死すとも帰らず、しろたえの雪の下にとこもりけり、いでたつ今朝の紅の色」
 また、別の資料を見せてもらった日のことです。
 「こんなことを書いておられるのですよ」と、部屋の奥から回想録のある部分を指でさし示しながら、恐る恐る持ってこられました。そこに、「たとえ輪廻の教えが正しくとも、再び人間としてこの地上に生まれることだけは願い下げ」とあるのを見て、私も一瞬、躊躇ってしまいましたが、これこそが反骨心へのレクイエムなのかなと、ふと感じ、とりかかっていた伝記の中に、さっそく引用することにしました。
 「ソキチ 高木惣吉伝」出版後、取材にこられた熊日記者は、文化面の記事でこの「二度と再び⊥の封印を解かれました。六百頁近くの本からですので、記者の心も捉えずにはおれなかった事なのでしょう。
 惣吉独特の人生観を表すこの一節は、東京「高木会」の阿川弘之氏ら作家の中に目にとめた方もおられるかもしれませんが、あまりの強烈な迫力に、つい目を背けられたのかもしれません。しかし、実はこの言葉が、新時代への入口、つまりは終戦という歴史の課題解決へと向かわせた反骨魂そのものであろうというのが、きょうの発言・終章の帰結でもあります。
                  (2007年12月22日)

小林秀雄は歴史の必然をもっと恐ろしいものだということをかつての戦争期に体験した。文学青年の内面は吹っ飛んだわけで、言葉にうそがない。観察する理性のひとつの典型的な告白だ。過剰な自意識をもてあました青年は戦後に日本的な回帰を遂げ、この国の伝統的な芸である自然生成に身をまかせた。おなじ戦争を高木惣吉はまっすぐに引き受けた。戦争のただなかで皇室と国体の分離を主張することがどれほど困難なことであったか。西田幾多郎は「高木君、君しかいない、がんばってくれ」と言い、東条英機が演説する「世界新秩序の論理」を起草。高木惣吉は部下に「責任は私一人で取る」と言い、東条英機を暗殺しようと画策する。小林秀雄と高木惣吉の決定的な違いはなにに由来するのか。

平成天皇は現人神として爾臣民よとは呼びかけず、個人として考えてきたことを話したいと言い、退位について国民の理解が得られることを切に願うと訴えた。「爾臣民、それ克く朕が意を体せよ」とは違う。とても誠実で丁寧な発言の姿勢だったと思う。すると単純な疑問が湧いてくる。なぜ「皇室は遙かなる東洋の叡智」(白川静)なのか。なぜこの国の人びとはこうまで天皇や皇室を愛好するのか。天皇制のなかに内面化できぬ神秘なことがあるのだろうか。なにもない。遙かなる東洋の叡智であってほしいという空虚な願望しかない。天皇を尊崇するそこになにか壮大な空虚があるような気がしてならない。間違ったつながりの原型ともいうもの。いつのまにか気がつけばそうなっているという精神の古代形象。この精神が「時運の趨くところ」で荒れ狂うと天皇でさえ統御することができず燃えさかる共同幻想の属躰となってしまう。稚気にひとしい天子さまへの尊念に潜むすさまじい暴力。この謎が解けたとは思えない。

小林秀雄と高木惣吉の中間に神学者滝沢克己(1909-1984)が位置していると思う。若い頃に西田幾多郎に褒められ、ドイツ留学のあいさつに訪うと、師事するならハイデガーみたいな軟弱な奴よりバルトがいいと薦められ、ハーケンクロイツがはためくドイツに趨いた。ナチに荷担し、師のフッサールをユダヤ人の立ち入りを禁ずと校門に張り紙をし、大学の学長となったハイデガーに比し、ナチへの宣誓供述書を拒否し免職されたカール・バルト。薫陶を受けたバルトに若き日の滝沢克己は書簡を出す。バルトの下でキリスト教を学び、ドイツ留学から帰国し、山口高商の教師をやっていた。その手紙は「敬愛するバルト先生」と書き出される。

 ようやく最後に「日本的天皇崇拝」の問題について記します。これについては後日、詳細な論文を書きたいと思います。しかし今すでに明確に言えることですが、これは現在のドイツにおける「ヒトラー崇拝」とはおよそまったく異なるものなのです。こういうことが言えるのは、いわゆる「天皇崇拝」を文書として基礎づけたり解釈したりしたとされる日本の最も重要な古典が(天皇崇拝に対する)端的で最も鋭い批判-何人かの天皇に対してさえも-で満ちているということ、また批判的で国際的な精神が我が国で少なくとも今まで最も盛んだったのは、まさしく「天皇崇拝」が真剣に受け止められた時代であったということ、からであります。(何人かの天皇は日本における偉大な仏教徒でもあったのです。)私の考えでは、私たちの本来の伝統ほど人種的、民族的な高慢からほど遠いものは世界中で他にはないと思います。天皇の座が一人の天皇から次へと(基本的には天皇の第一男子ですが、しかし時々その弟へも)厳格な規定に従って「次つぎと譲られる」ことによって、そしてまた、相互にまったく異なる天皇と臣下との「不可逆的な」順位や、臣下たち自身の間の序列が、「親密な血族関係にもかかわらず」まったく厳しく保持されてきたことによって、両者は(すなわち、一方は自分の祖先および臣下に対する関係における天皇、他方は天皇および相互に対する関係における臣下は)、最も深く謙遜にされるのです。そしてこの謙遜さは自分の内から外へも注ぎ出され、それによって異なる血や文化が私たちの中に自由に入ってくることができるのです。私はこの謙遜な態度の中にのみ、万世一系の皇室の血の繋がりが数千年もの長い間(その始まりはもはや歴史的には規定できません)今日まで発展してきたという驚くべき事実の根拠を、見出すことができるのです。私たちが自分たちの天皇に「忠実」なのは、彼が「神聖なる日本の血」の「最も優れた代表者」だからではありません、そうではなく、まったく端的に、彼が私たちの天皇(「父」)であり、そして私たちが彼の臣下(「子供」)だからであります。ですから、天皇は自らの優越性を宣伝する必要も、また自らの誤りを隠す必要もありません。そして私たちは自らの功績を天皇の前でも国民の前でも公言することは必要ないのです。
 これらはすべて本当に興味ある事柄で、詳細に研究する価値のある、そう言ってかまわないのならヨーロッパの人にとっても研究する価値のある事柄です。前に述べましたように、後日これについて論文を書きたいと思っています。しかしながら、先生が 「日本の天皇崇拝」と「国家社会主義」とをもう単純に同一視なさらないようにと希望します。(『カール・バルト=滝沢克己 往復書簡1937-1986』1937年12月1日)

滝沢克己はここで「天皇」をインマヌエル(神、我と共におわす)の地上的な顕現であるとみなしている。なぜこういう錯覚を滝沢克己がすることができたのか。この謎はゆくりなく、内田樹や高橋源一郎に引き継がれる。同一者の芯は空っぽであるから、その空洞を充たすものが天皇となるわけだ。ばっか臭い。なんというおためごかし。負の遺伝性は戦前も戦中も戦後も、なにひとつ変わらない。「天人合一」も「天地生存」も同一者の空隙を襲い、同一者を収奪する。アニミズムが洗練されて東洋的な諦観と結びつき共鳴りする。天皇制は粋を凝らした精神の古代形象だと思う。心身一如を実有の根拠にするかぎり意識の外延的なこの形式からのがれるすべはない。同一者が自然に融即する見事な自然生成のしくみがここにある。それはすでにあるもので、未知をつくりだす力はどこにもない。
バルト追放について滝沢克己往復書簡がゲッペルに書いた手紙の一部も付記する。

敬愛するゲッぺル博士、ドイツの大学から追放されたカール.バルトについてこのように書くのを、どうか悪く思わないでください。確かに私は、ドイツ政府が今の政治的・経済的な理由からバルトの追放を必然的だとしたことによって、政府はドイツ民族のためにバルトに対して公正に対処した、と信じます。しかし私はバルトの神学を、彼の人格については何も言わなくても、他の神学と比べるなら、彼が今とうとうドイツの大学から追放されてしまったということは、ドイツにとっては非常に深く憂慮すべきであると言う以外に仕方がありません。私はここでもまた、政府がバルトの神学を公正な意志をもってドイツ民族のために危険であると理解した、と信じます。(同前1935年8月1日)

カール・バルトはなぜヒトラーの国家社会主義に屈服しなかったのか。バルトが神への信をヒトラーの信より上位においたからだ。おなじことが滝沢克己にも起こっている。ふたりとも神という他力にたしかに触れてはいる。他力の信を自力の信で言おうとしていることは変わらないが、バルトも滝沢克己も信を解体したことがない。親鸞は悪人正機によって自らの信を打ち砕いている。バルトや滝沢克己の信と親鸞の自然法爾は決定的に違うとわたしは思う。バルトや滝沢克己の信には痛みがない。信がゆるぎなく美しすぎる。ほんとうは修羅がそのまま信ではないのか。

天皇制についてノートを取っていると、ふとなにかが兆してくる。吉本隆明の大衆の原像は、ひそかに、内面化も共同化もできぬ心性として、「遙かなる東洋の叡智」をあらわそうとしているのではないか。天皇の赤子は万民平等という衆生への威力をすべて抜き去ると、吉本隆明の「生まれ、育ち、婚姻し、子を産み、子に背かれて、老いて死ぬ」という大衆の原像が析出されるような気がしてならない。「歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を〈持つ〉人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に帰せられます」。この思想は畏るべきものだが、どうやればそこに至ることができるかなにも語られていないといつも感じてきた。吉本隆明の比類なく強い思想は天皇制的な心性を根から断つことはできていない、わたしにはそう思われる。天皇制は共同幻想の遺制であるが、共同幻想論をつくった吉本隆明自身がどうやれば共同幻想のない世界が遠望できるのかつかむことができなかったからだと思う。遙かなる東洋の叡智のあらわれとしての天皇制よりのびやかな、野の花、空の鳥の場所を固有の生としてつくればいいだけだ。わたしはそれが可能だと思う。

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