日々愚案

歩く浄土121:内包贈与論4-カール・マルクス考4(『サピエンス全史』を読んで)

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心身一如の生命形態を生きる人間という自然がアニミズムという共同幻想から国家という共同幻想を発見するまで万余の歳月があった。国家と書記の体系と貨幣(交換)の発見は同期であり、それは人間の生命系形態という自然が私性を起源としてもつということを意味する。あるいはこう言ってもよいかもしれない。ユーラシア大陸の片隅でアニミズムが仏教という自然に昇華し、大陸のもう一方の片隅で一神教という共同幻想が発明されるのにおなじように万余の歳月があったというように。そのようにわたしたちの歴史を俯瞰することができる。人間の文明史ともいえるこの歴史のありようをわたしは同一性に閉じられた自己意識の外延史と名づけてきた。人間という自然は同一性の意識うちに生涯を生き、荒れ狂う歴史を連綿として重畳することになった。このモダンな外延史が諸国家の外部にもうひとつの自然を発明しようとしている。国家はこの外部の力に煽られて内面化することで環界に対抗する。ここで国家を内面化させる強大な自然の力の自然をビットマシンと比喩してみる。コンピュータの言語には国境がない。民族語を超えたビットマシンの二進法の言語が世界を席巻しているということだ。電脳社会は国家を超えて同一性を高速に駆動させる。ビットマシンは内面化する国家を尻目にすでにひとつの環界をつくった。人間という天然自然由来の自然は生も歴史もふくめて大きな転機を迎えつつある。その現在をわたしたちは生きている。

もう少し煩悩にまみれたわたしたちの人類史を俯瞰してみる。東洋に発祥したアニミズムが精製されて凝集した仏教は、人間の自然なあり方を陶冶する卓越した自然生成の技法としてある。仏教の精髄である自然な生成は、意志を消し去ることに生の技法が集約され、自然への融即の術として無意識のものとしてわたしたちに受け継がれている。この自然への融即も自力であるとして親鸞は生のこの技法を切断した。それが親鸞の他力の思想だとわたしは理解している。親鸞はなにをなしたのか。他力の思想によって逆説的に、生の奇妙さに意志論を導いたのだ。親鸞の悪人正機説は生の不可解さの転倒された意志論であり、禅仏教と違い自然への融即ではない。融即ではなく意志論であると理解することに他力思想の妙味がある。おなじようなことは西欧でも起こった。人間の頑迷な私性を陶冶する技法として生をさまよう人々が一神教の神を渇望し、神を招来した。それよりほかに生を統御することができなかったからだ。

いまわたしは精神の古代形象を未来を追憶するように想起している。自然から離陸しもはや自然に回帰することもできない古代の精神はアニミズムという共同幻想を発明することで混沌とした意識をなだめようとした。アニミズムもまたひとつの生の技法だった。観念の遠隔対象性は共同幻想をさらに抽象された一般性として観念の階梯を馳せ昇り、やがて神という共同幻想を発明することになる。いずれもすでに同一性の拘束下にあるから不可避な精神の挙動だった。神という観念によって生に秩序がもたらされ、禁止を侵犯する者には共同体の掟が課せられる。モーゼの十戒も、苛烈で不可解なヨブ記もまたそのようなものとしてあった。この思考にひとつの革命をエックハルトはもたらした。思考の大きな転換の可能性がそこにあった。エックハルトは〔私が神である〕と言明し無意識に同一性を拡張しようと試みた。所与の自然である神を領域化しようとはだれも思わなかった。わたしはエックハルトは神という共同幻想に意志論を導きたかったのだと思う。それは仏の慈悲を他力によって領域化しようとした親鸞の精神と同期している。かれらはそこに人間という自然の個としての自立をつくろうとした。

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このようなことを考えながらユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(上・下)を読了していくつかの疑問が氷解した。こういうことだ。国境を越えたグローバル経済と結合したハイテクノロジーはハイパーリアルなむきだしの生存競争を生むことになるだろうとかつてこの国の総中流化のなかで考えた。吉本隆明さんからあなたの世界認識はまちがっていると言われたけど、そのことは1990年の吉本隆明さんとの対談でも申し述べた。消費社会の興隆を基盤とした吉本さんの消費社会の分析は的を外れすぐに格差社会が到来した。吉本隆明さんの思想家としての命運はこのとき尽きたと思う。わたしは1980年代の中頃からグローバル経済はビットマシンと結合して国家の外部に新しい環界をつくりつつあると認識していた。つまり国家が最上位の共同幻想ではなく、グローバリゼーションにおいてはハイテクノロジーと結合した経済活動が国家という共同幻想よりさらに上位の共同幻想として君臨することになるだろうと予測した。共同幻想という概念はもっと大きな広がりのなかで思考されてしかるべきだと考えてきた。TPPの理念にとって非関税障壁の最たるものが諸国家であることは明白であり、グローバルな潜勢力はこの障壁を易々と均していく。この猛烈な圧力に晒されて国家は内面化しつつあるというのがわたしの現状判断だ。1%が99%を収奪するとか、これからは競争から共生の時代の到来だという建前だけの主観的な願望などはるかに超えてグローバリゼーションは進撃する。主観的願望がすでに共同幻想にからめとれているのだ。民主主義を信奉するもの書きたちはビットマシンの威力を過小に考えている。かれらが依拠する民主主義もまた転形期の共同幻想の過渡的なあらわれにすぎない、というようなことを片山恭一さんと3年のあいだ討議してきた。ユヴァルの問題意識と半ば重なり、わたしたちの構想する世界とは相反する結論をユヴァルは導く。

ユヴァルは『サピエンス全史』で人類の認知革命以降7万年の歴史を、さまざまな共同幻想の推移や変遷として、共同幻想の転位をあたかも一枚の大きな織物のように描いている。大胆な仮説を豊富な歴史学の知識によって縦横に論じている。読むものの神経が逆なでするされるが、冷静に考えると盲点を衝かれている。ユヴァルにとっては帝国も貨幣も資本主義も「共同主観的」な現実に過ぎない。もちろんその代償として限られた生涯を天を仰ぎながら生きる者たちの固有の生は捨象される。表現論を欠いた人類史の概略としては優れた著作だということができる。ユヴァルの歴史の叙述には表現論がないので、平板な世界像は外延史としては行き詰まり、サピエンスはビットマシンに融合することでシンギュラリティを超えることができると結論されている。それでもポリティカル・コネクトネスを主観的な願望として教宣する者たちよりも格段に鋭い指摘を随所でなしている。ケヴィンの『〈インターネットの次に来るもの〉』のホロスという概念とユヴァルの超人類という概念はリンクし円環している。ホロスも超人類も同一性の写し絵にしか成らないことは先験的なことであるとわたしには思える。問題は1%か99%でもなく、グローバリズムか反グローバリズムでもない。外延的な自然ではなく内包的な自然が可能であること。富を資本論として論じるのではなく喩としての親族という理念から贈与として構想すること。ここに生きられる世界の未知がある。

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世界はさまざまな共同幻想の織物として存在してきたしこれからも存在しつづけるだろう。ユヴァルの叙述では共同主観的な現実として世界は動いてきたということになる。かれは神話の変遷が人類史であると断言する。『サピエンス全史』からユヴァルの特徴的な主張をいくつか貼りつける。

①私が超人的努力をして自分の個人的欲望を想像上の秩序から解放することに成功したとしても、それは私ただ一人のことでしかない。想像上の秩序を変えるためには、何百万という見ず知らずの人を説得し、彼らに協力してもらわなければならない。なぜなら、想像上の秩序は、私自身の想像の中に存在する主観的秩序ではなく、厖大な数の人々が共有する想像の中に存在する、共同主観的秩序だからだ。・・・「共同主観的」なものは、多くの個人の主観的意識を結ぶコミュニケーション・ネットワークの中に存在する。たとえ一個人が信念を変えても、あるいは、死にさえしても、ほとんど影響はない。だが、もしそのネットワークに含まれる人の大半が死んだり、信念を変えたりしたら、共同主観的現象は変化したり消えたりする。共同主観的現象は、悪意のある詐欺でも、取るに足りない見せかけでもない。放射能のような物理的現象とは違った形で存在するが、それでも世の中には非常に大きい影響を与えうる。歴史を動かす重大な要因の多くは、法律、貨幣、神々、国民といった、共同主観的なものなのだ。(『サピエンス全史・上』151~152p)

②貨幣は多くの場所で何度も生み出された。その発達には、技術の飛躍的発展は必要ない。それは純粋に精神的な革命だったのだ。それには、人々が共有する想像の中にだけ存在する新しい共同主観的現実があればよかった。・・・貨幣というのは硬貨や紙幣とはかぎらない。品物やサービスを交換する目的で、他のものの価値を体系的に表すために人々が進んで使うものであれば、それは何であれ貨幣だ。貨幣のおかげで人々はさまざまな品物やサービス(たとえばリンゴ、靴、離婚)の価値を素早く簡単に比較し、交換し、手軽に富を蓄えることができる。これまで貨幣にはさまざまな種類があった。最も馴染み深いのは硬貨で、規格化し、刻印した金属片だ。

実際、今日でさえ、硬貨と紙幣は貨幣の形態としては少数派だ。二〇〇六年に全世界の貨幣は合計約四七三兆ドルだったが、硬貨と紙幣の総額は四七兆ドルに満たない。貨幣の合計の九割以上(私たちの会計簿に記載されている四〇〇兆ドル以上)は、コンピューターのサーバー上にだけ存在する。(同前220~221p)

タカラガイの貝殻もドルも私たちが共有する想像の中でしか価値を持っていない。その価値は、貝殻や紙の化学構造や色、形には本来備わっていない。つまり、貨幣は物質的現実ではなく、心理的概念なのだ。貨幣は物質を心に転換することで機能する。だが、なぜうまくいくのか? なぜ肥沃な田んぼを役立たずのタカラガイの貝殻一つかみと喜んで交換する人がいるのか? 骨折りに対して、色付きの紙を数枚もらえるだけなのに、なぜ進んでファストフード店でハンバーガーを焼いたり、医療保険のセールスをしたり、三人の生意気な子供たちのお守りをしたりするのか? 人々が進んでそういうことをするのは、自分たちの集合的想像の産物を、彼らが信頼しているときだ。信頼こそ、あらゆる種類の貨幣を生み出す際の原材料にはかならない。裕福な農民が自分の財産を売ってタカラガイの貝殻一袋にし、別の地方に移ったのは、彼は目的地に着いたとき、他の人が米や家や田畑をその貝殻と引き換えに売ってくれると確信していたからだ。したがって、貨幣は相互信頼の制度であり、しかも、ただの相互信頼の制度ではない。これまで考案されたもののうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ。この信頼を生み出したのは、非常に複雑で、非常に長期的な、政治的、社会的、経済的関係のネットワークだった。なぜ私はタカラガイの貝殻や金貨やドル紙幣を信頼するのか? なぜなら、隣人たちがみな、それを信頼しているから。そして、隣人たちが信頼しているのは、私がそれを信頼しているからだ。(同前223~224p)

・・・誰かがタカラガイの貝殻やドル、あるいは電子データを信頼していれば、たとえ私たちがその人を憎んでいようと、軽蔑していようと、馬鹿にしていようと、それらに対する私たちの信頼も強まる。宗教的信仰に関して同意できないキリスト教徒とイスラム教徒も、貨幣に対する信頼に関しては同意できる。なぜなら、宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求めるからだ。
 哲学者や思想家や預言者たちは何千年にもわたって、貨幣に汚名を着せ、お金のことを諸悪の根源と呼んできた。それは当たっているのかもしれないが、貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の規準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の問の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる。(同前230p)

①はユヴァルの書記の特徴を著している。帝国も貨幣も国民も人権も資本主義もユヴァルによれば共同主観の産物であり、世界は共同幻想の織物であるであるということになる。ユヴァルの主張を受けいれると、世界は苦難にあえぎながら、それでも善に向かって漸進しているという信が瓦解する。ある時代に生まれある状況を生きるしかないたくさんの人々の吐息は共同主観的現象に過ぎないことになる。ある意識の呼吸法のもとではそういう記述が成り立つことは理解できる。そうだろうか。サピエンスという種の虚妄の歴史を冷徹な眼差しで淡々と書くユヴァルは、人類最大の発明は貨幣という共同主観の産物であり、貨幣を盛る器が資本主義という新しい宗教であることになる。明快な言明だと思う。信用を供与する貨幣の発明は人間の想像の産物であると。ある意識の制約の下でユヴァル的な言説が可能となることはわかる。そうだろうか。①の方法がユヴァルの描く世界を限界づけているのではないか。通読しながらしきりにそういうことを考えた。

「貨幣は物質的現実ではなく、心理的概念」であるというとき、貨幣は心身一如に観念を閉じ込めたひとの生存に起源をもっている。このときすでに貨幣という発明は権力者の所有者に占有されている。「ハンムラビ法典は、バビロニアの社会秩序が神々によって定められた普遍的で永遠の正義の原理に根差していると主張する。このヒエラルキーの原理は際立って重要だ。この法典によれば、人々は二つの性と三つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)に分けられている。それぞれの性と階級の成員の価値はみな違う。女性の一般自由人の命は銀三〇シェケルに、女奴隷の命は銀二〇シェケルに相当するのに対して、男性の一般自由人の目は銀六〇シェケルの価値を持つ」(『サピエンス全史・上』138~139p)
貨幣という人類最大の発明は同一性的な規範からは寡占としてあらわれるとユヴァルは考えればよかった。ただ強固な私性の起源を外延的な表現でユヴァルが抉っていることはたしかだ。「宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求める」という貨幣の合理性や開明性についての洞察は鋭いと思う。
わたしはユヴァルとは異なった息継ぎが可能と思うから、同一性的な意識の規範から貨幣を説明するのではなく、貨幣の分有ということを考えてきた。貨幣は共同主観的な現実によって分割されるのではなく、私性と共同主観をつつむ意識の内包性によって分有されると考えればいい。このような発想法はユヴァルにはまったくない。数千年前も現在も共同主観的迷妄のうちに人の生はあるという。たしかに、ある特定の時代をおおくの制約のうちに生きるしかない太古の面々とわたしたちの感情の総量も、その時代との関係のあいだで取り持つ迷妄の度合いも変わらないと思う。その点においてわたしとユヴァルに見解の相違はない。しかし人々の生の総和が疎外した共同主観の視点からしか歴史を記述できないユヴァルの方法的な制約を内包論は解消しうる。ビットマシンのテクノロジーは生を同一性的な科学に収斂させることになる。外延的な表現は未来に向けてさらに外延される。この過程は不可避だ。
ユヴァルの行きつく先はグロテスクなものだった。ニーチェの超人を可視化した、生の豊穣さのかけらもない未来をシンギュラリティとして語っている。下巻最終章「超ホモ・サピエンスの時代へ」から貼りつける。

③だが、現在進行中のあらゆるプロジェクトのうちで最も革命的なのは、脳とコンピューターを直接結ぶ双方向型のインターフェイスを発明する試みだ。それが成功すれば、コンピューターで人間の脳の電気信号を読み取ると同時に、脳が解読できる信号を脳に送り込むことができる。そのようなインターフェイスを使って脳を直接インターネットにつないだらどうなるか? あるいは、複数の脳を結びつけ、いわば「インター・ブレイン・ネット」を生み出したらどうなるか? もし脳が集合的なメモリー・バンクに直接アクセスできたら、人間の記憶や意識やアイデンティティに何が起こるのだろう? そのような場合には、一人のサイボーグが、たとえば別のサイボーグの記憶を検索できる。記憶の内容を耳で聞くのではなく、自伝に書かれているのを読むのでもなく、想像するのでもなく、まるで自分自身の記憶であるかのように、直接思い出せるのだ。心が集合的なものになったら、自己や性別のアイデンティティなどの概念はどうなるのか? どうしたら、汝自身を知ることができるだろう? あるいは、夢が自分の頭の中ではなく、多くの人の熱望の集積の中に存在するのであれば、どのようにして自分の夢を追えばいいのか? そのようなサイボーグはもはや人間ではなく、生物でさえなくなるだろう。何か完全に異なるものなのだ。あまりに根本的に違い過ぎて、それが持つ哲学的意味合いも、心理的意味合いも、政治的意味合いも、私たちにはとうてい把握できない。(『サピエンス全史・下』253~254p)

ユヴァルが怖れながら夢想する近未来。引用のこの箇所を読んで柴田勝家の『ニルヤの島』をすぐ思いだした。ユヴァルのオカルトな願望が実現したものが『ニルヤの島』の生体受像装置だ。柴田勝家にはビットマシンの驚速の進展にたいするぶれがあり、そこがハードSFの面白さとしてあるのに比べ、ユヴァルにはハイテクノロジーに脅迫されたおののきしかない。なんでこんなつまらぬことしか言えないのか。貨幣や人権の起源を鮮やかに摘出してみせた切れ味のよさのかけらもない。観察する理性の場所からの読むに堪えない意見の表明がなされているだけだ。ユヴァルが解析したように人権の概念は共同体の秩序を維持するための方便であり、起源未詳のいいかげんなものにすぎない。ほんとうはそこにどんな根拠もない。たんなる共同主観を一人ひとりに可視化した規範である。問うてみよ。ひとはなぜ自由で平等なのか。がらんどうがあるだけではないか。ユヴァルは人間についてのさまざまな理念が虚妄であることを鋭く衝いた。しかしユヴァルという空虚が空虚を演じているだけで、同一性の空っぽは自身に跳ね返る。おなじ超人でもユヴァルの超人類にはニーチェの裂帛の気合がない。ユヴァルの平板な思考は人工の別の生命の可能性にも言及する。

④別の可能性も想像してほしい。持ち運びのできるハードディスクにあなたの脳のバックアップを作り、ノートパソコンでそれを実行したとしよう。そのノートパソコンは、サピエンスとまったく同じように考えたり感じたりできるだろうか? できるとしたら、それはあなたなのか、それとも誰か別の人なのか? コンピュータープログラマーたちが、コンピューターコードから成る、まったく新しいデジタルの心を創り出し、それに自己感覚や意識、記憶を持たせられたら、どうなるのか? そのプログラムをコンピューターで実行したら、それは人なのか? もしそれを消去したら、あなたは殺人罪で告発されるのか? こうした疑問には、ほどなく答えが出るかもしれない。二〇〇五年に始まったヒューマン・ブレイン・プロジェクトは、コンピューター内の電子回路に脳の神経ネットワークを模倣させることで、コンピューターの中に完全な人間の脳を再現することを目指している。このプロジェクトの責任者によれば、適切な資金提供を受けたなら、一〇年か二〇年のうちに人間とほとんど同じように話したり振る舞ったりできる、人工の人間の脳をコンピューターの中に完成させられるという。もしそれに成功すれば、生命は四〇億年にわたって有機化合物の小さな世界の中で動き回ってきた後、突如、広大な非有機的領域に飛び出し、私たちには想像もつかないような形を取れることになる。(同前255~256p)

ユヴァルによって神になった動物のすがたが描かれる。現場の科学の職人は好奇心に駆られて実験を試行錯誤しているだけで人についてのなんの見識があるわけでもない。ドワンゴの若造が気持ちの悪いゾンビの映像を宮崎駿にみせて感想を聞いたら宮崎駿が大いに怒った。人という種の行く末を語ったユヴァルの文章を読んでいておなじことを感じた。ユヴァルさん。あらゆるものが共同幻想にすぎないのならば、同一性をどれだけ外延しても虚妄に過ぎないではないですか。マシンと人との融合やコーディングされた人工生命のどこに未知がある。冷徹な歴史研究者が陥った罠。ゲーデルのあらわした不完全性定理をビットマシンが覆すことができるか。ビットマシンは同一性をなぞることはできても、同一性がかたどった貨幣の謎や、わたしよりわたしの近くにいるあなたを表現することはできない。カール・バルトの『モーツァルト』と『カール・バルト=滝沢克己往復書簡 1934-1968』をこれから読む。バルトが滝沢克己に投げかけた「聖書によらずして人間が正しく神を信ずることは、原理的には可能であるが、事実的には不可能である」という問いかけに、滝沢さんは、バルト先生、ぼくは神と人との関係をインマヌエルとして直覚したとき、まだ聖書を読んだことはなかったのです、と応答している。なんとこのやりとりが34年もつづいた。同一性を暗黙の公理として人と神や仏という超越のあいだがらをどれだけ論じてももつれた糸はほどけない。エックハルトの神の領域化や親鸞の他力はその至近まで迫っていた。自己という意識に先立つなにかは存在しないことの不可能性としてたしかに存在しているのだが、ほらここにそれがあると指し示すのはたとえようもなく困難である。混ぜっ返しのユヴァルの荒唐無稽な無惨な夢はその遙か手前でうろうろしている。わたしは内包論でその絡まった問いをほどくことができると考えている。

 

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