日々愚案

歩く浄土117:情況論36-グローバリズムと国家の内面化

    1
グローバリゼーションの猛威に晒されて一斉に国家が内面化をし始めた。ここに情況の本質が露呈している。米国の大統領選を観覧していてそういうことを強く感じた。意識の外延史を俯瞰するとそういうことが言えると思う。ビットマシンの電脳に追いまくられて国家という古い自然が窒息しそうになり、身をかがめ防御の姿勢に入ったということだ。グローバリゼーションに大半の人びとが疲弊し、日々の生活が逼迫し、世界の無言の条理を露出させた。イスラム国も安倍晋三もトランプも国家を内面化することで、ビットマシンのグローバルな圧力にたいして精神を退行させ抗しようとしている。既得権益層を代弁したクリントンのポリティカル・コレクトネスもトランプの人びとの墜落感から来る劣情を煽る戦略も、いま起こっている生存競争の熾烈さの根源には触れていない。もちろんこの国の文化人においてをや。

国家がグローバリズムに煽られて内面化しつつあるということが世界の現在をもっともよく象徴している。環界が国家であるとき、心とからだがひとつきりのわたしたちは自己を内面化し外延権力に抗する。それが人類史だというほどになじみ深いわたしたちの精神の古代形象という自然がそこにある。ビットマシンにとって国家という自然は非関税障壁の最たるものであるから、ビットマシンはこの障壁を取り払い平準化しようとする。それが自由貿易の外延的な本質をなしている。ポリティカルコレクトネスは世界史のこの転形期にたいしてまったく無効である。多国籍企業の営利活動の根にあるものは、もっとはるかに人間という自然の私利と私欲に深く根ざしている。多国籍企業の経営者たちがより多くの富を手にしようと人知を尽くして動いているようにみえる。資本の動きを実体化すればたしかにそうかも知れぬ。ほんとうはかれらもまた新しいシステムの属躰にすぎない。そうではない。ハイテクノロジーと結合した電脳=ビットマシーンがグローバリズムというシステムを駆動させているのだ。

いまわたしたちの足下で起こっている観念の地殻変動はどうなっているのか。そのことを抜きにして情況を論じてもなんの意味もない。米国の大統領選をネットで観戦するなかでさまざまなことを考えた。ヒラリーもトランプもイスラム国も安倍晋三もいま起こっている事態の深刻さをまったく感じ取っていないとわたしは思った。グローバリゼーションによる労働者の総アスリート化は99パーセントの負け組を不可避に産みだす。ヒラリーのうわべの人権主義の狡さに業を煮やした者たちがトランプに煽られ世界の生地を露出させた。居場所のある人が居場所のない人を追放する。米国の大統領選の構図をこうみている。支配者が交代しただけでむき出しの生存競争はなにも変わらない。この事態の根源には私性が世界の無言の条理として深々と鎮座している。「社会」主義的などんな理念も歯が立たない。それがわたしちが生きている日々の現実であり、だれもが転形期の歴史の渦中にある。ついに世界の生地がむきだしになった。ポリティカル・コレクトネスでもなく排外主義でもない、未来を追憶し過去を想起することを可能とする内包論の場所からなにが事態の根源にあるのか少し考えてみる。

世界の転形期の混乱は、グローバリズムと反グローバリズムが、あるいは新自由主義と脱自由主義の相克としてあらわれているようにみえる。ポリティカル・コレクトネスと排外主義の争闘であるようにもみえる。いずれの立場も擬制である。ありていにいえば支配者が入れ替わっただけで意識の外延史としてはまったく既知の光景だといってよい。クリントンは文化の多様性を唄ったにもかかわらず既得権益層の象徴として嫌われ、トランプはグローバリズムによって負け組になった人びとの劣情を煽って次期大統領のポストを得た。わたしは世界の無言の条理がむきだしになってきたと現状を理解している。つまり世界の生地が露出してきたということだ。建前のポリティカル・コレクトネスによって日々の生活の劣化を覆い隠すことはできない。

ビットという二進法の自然と人間的な自然の熾烈な闘いが世界の深部で進行しており、二進法の自然に人間的な自然を組み込むことで人間的な自然は再定義され、人びとはそれを受容し、ビットと不可分の集合的な知性の属躰を新たな自然とするだろう。この過程は意識の外延史としては不可避であるとわたしは考えている。この過程を受容しない者は意識の外延を古い自然に沿うように精神を退行させるほかない。過渡期の混乱はそのようなものとしてこれから相克の強度を増していく。

もっとも堅固な同一性の信をほどき、領域の自己からモナドの自己と多くのモナドの模倣子である共同性を包み込んでしまう。わたしがあなたであるときあなたはわたしよりわたしの近くにいる。そのことを内面化することはできない。内面化してこの信を表白するとわたしたちの知る神や仏となる。精霊はながい歳月をかけ神や仏となり、のちに国家としてあらわれ、やがてマシンと一体化した集合的な知性に呑み込まれることになるだろう。心と身体がひとつきりで存在する生命の形態はビットと分子記号によってさらなる外延化を負荷される。意識の外延性で自己を語るかぎりこの過程は不可避だとわたしは思う。

米国の大統領選でトランプが勝利したとき、いくつかのツイートを読んだ。印象的なものをいくつかあげる。だれのどの発言を眺めても情況に垂鉛をおろすこともなく、当事者性も構想力のかけらもない、傍観者のなんとでも言えるつまらぬ見解だった。

①トランプの自国第一主義はアメリカの伝統的な世界戦略です。アメリカ外交は建国以来「外向きと内向き」を交互に繰り返してきました。外向き戦略を駆動していたのは富や軍事力だけではありません。「アメリカは他の国よりも世界に対して多くの責任を負っている」という有責感です。

これは世界史上最初の成功した立憲民主主義国家であるという「自負」と、二度の世界大戦で戦場にならず、ヨーロッパの荒廃によってかえって世界で最も豊かな国になったという「うしろめたさ」がもたらしたものでしょう。トランプの勝利はアメリカがその有責感を手放したことを意味していると思います。

イギリスが世界帝国であることを止めて「ただの島国」になったように、ソ連が国際共産主義運動の指導者であることを止めて「ただのロシア」にになったように、中国が人民革命の旗を下ろして「ただの中国」になったように、アメリカも「ただのアメリカ」になる。世界中が「ただの国」になる。

でも、僕は世界中が「ただの国」になるなかで、「うちは違うよ。うちは世界がかくあるべきだということについての理念があり、語るべき言葉がある」という政治指導者がきっとでてくると思います。ほんとうに新しいものは必ず思いがけないところから出てくる。それは歴史が教えています。

そして、「ほんとうに新しいもの」は残念ながら、この先もうアメリカからは出て来ないということがわかりました。それがこの大統領選挙から僕が引き出した教訓です。(内田樹ツイート2016年11月11日)

②いよいよ、次のフランス大統領になってしまうのか。「素晴らしい新世界」だ……。

「地獄の釜の蓋が開きました」感が……。次に「祝辞」(フランス極右・国民戦線マリーヌ・ル・ペン党首が「ドナルド・トランプ新大統領おめでとう」(とツイートしたこと-森崎注)を寄せるのは誰でしょう。(高橋源一郎ツイート2016年11月9日)

民主主義は、生まれたときから、愚かしさを内包していました。その素晴らしさと愚かしさは分離することができないものだと思います。わたしたち自身がそうであるように、です。民主主義は、それに参加するわたしたち自身を鏡のように映し出す。そのことを書きました。読んでいただけると嬉しいです。(同2016年13日)

①や②の発言のどこにも当事者性がなくじつに薄っぺらな手垢にまみれたもので批判するにも値しない。

韓国の大統領に退陣を迫るデモにたいして佐々木俊尚はツイートした。

③1)韓国のデモと民主主義の関係について、少し頭の中を整理しておきたいのでメモ代わりに連投します。

2)デモのような街頭行動を私は決して否定するものではありません。むしろ議会制民主主義との相互補完的な役割があるということを積極的に支持しています。特にマイノリティ問題など、議会やマスに届きにくい問題を可視化するための手段としてデモは重要です。

3)時の政権を打倒するよう呼びかける反政府的なデモも、その必要があるときにはもちろん起こさなければなりません。しかしそれは民主主義の危機です。人口5千万人の韓国で朴槿恵妥当デモに100万人以上もの人が集まるというのは、韓国の議会制民主主義が機能していないということなのです。

4)逆に言えば、日本で反政府デモを組織してもそれほどの動員にならないというのは、議会制民主主義が健全であることを証明しているのです。もし日本でそうしたデモに200万人以上が集まる事態になれば、それは民主主義の成熟ではなく危機。

5)念のため付け加えると、かといって今の日本の健全さや政治の安定を「国民は騙されている」「ジャパンハンドラーの謀略」とか言い出すと、それで議論は終わってしまいます。以上。

①と②の発言者は民主主義の使い回しを教宣してきて、かれらは民主主義が機能不全に陥ると日本的な自然生成を体現した徒然草や方丈記に退散した。佐々木俊尚はリベラルを批判することに情熱を傾けいつのまにか権力の言説へと転位し、発言のすべてが確信的な権力の匂いがする体制言語となっている。それらの是非については面倒なので述べない。かれらはいまわたしたちの足下で蠢動している事態にあまりにも鈍感すぎる。この国の民主主義はすでに壊れている。それがわたしの内包論の前提だ。わたしはこの国の伝統的な技芸である自然生成にも、建前の民主主義にもよらず押し寄せてくる転形期の圧力を押しのけようと思う。世界の生地が露出するほどグローバリゼーションが人びとの生活を窮迫させたということであり、翻っていえば反グローバリズムと反自由主義経済が世界の生地をむきだしにしたということである。そこには心と体がひとつきりの人間という自然の根深い私性が深々と横たわっている。この私性をほどかないかぎり歴史は支配者が交代するだけでわたしたちの生はなにも変わらずいつまでも堂々めぐりをくり返す。いま世界を駆動しているのはAがAであるかぎにおいてAはAであるという原理であり、Aであるかぎりを限定するものが二進法のビットマシンだと言える。ケヴィンのマシンと人との知の集合体は世界がそこに収斂していくことを暗喩している。ケヴィンのいう惑星規模のホロスは大きな生命体としてこれから機能していく。そのときわたしたちの生の固有の手触りや温もりや厚みは削ぎ落とされ記号そのものへと漸近していくことになる。世界の無言の条理がこうして改変されていく。そこに危機を感じる国家は国家を内面化してそれに抗しようとしている。それがいま世界で現象していることのほんとうの正体だ。いずれの立場で意識を外延してもわたしたちの生が固有のものとして匂い立つことはない。「Aであるかぎにおいて」を〔わたしよりわたしの近くにいる〕に置き換えてみよう。わたしはまぎれもなくわたしであるが、根源の性を分有するときわたしはあなたであり、そのときあなたはわたしよりわたしの近くにいる。存在のこの原理を表現の根拠として生きるとき世界は一変し、まったく未知のものとしてわたしたち一人ひとりに立ちあらわれる。

    2
人類が創作した虚構によって文明が成立したと唱えるユヴァルの『サピエンス全史』(上下)は異見に充ちている。7万年前の認知革命によって知の爆発が起こったことが自然人類学の達成してきた知見を交えて述べられている。著者にはホモサピエンスはなぜここまで繁栄したのかという疑問がある。その疑問を解こうとして本を書いたと。叙述の仕方は皮肉な混ぜっ返しにすぎないといえば言えるが、民主主義やポリティカルコレクトネスの欺瞞をよく衝いている。ユヴァルによると国家、貨幣、企業、法律、人権はすべて虚構に属する。ユヴァルの主張する虚構という神話は共同幻想だと理解すると腑に落ちる。わたしの理解では人類が手にした自然は幾重にも共同幻想が巻きついているということになる。共同幻想という虚構が幾層にも重畳し扇状地のように広がっている。世界のどん詰まりの盲点をユヴァルは逆向きに指摘しているとわたしは読んだ。
メソポタミアの神がハンムラビを指名して、紀元前1776年にあの目には目を、歯には歯をで知られるハンムラビの法典ができる。1776年にはアメリカ合衆国の独立宣言が宣布される。ユヴァルによればどちらも共同体の安定的な秩序を維持するための虚構だということになる。人びとは長い歴史のなかでさまざまな自然を手にしてきたことがこの引用からわかる。

ユヴァルは言う。

 ハンムラビ法典は、バビロニアの社会秩序が神々によって定められた普遍的で永遠の正義の原理に根差していると主張する。このヒエラルキーの原理は際立って重要だ。この法典によれば、人々は二つの性と三つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)に分けられている。それぞれの性と階級の成員の価値はみな違う。女性の一般自由人の命は銀三〇シェケルに、女奴隷の命は銀二〇シェケルに相当するのに対して、男性の一般自由人の目は銀六〇シェケルの価値を持つ。
 この法典は、家族の中にも厳密なヒエラルキーを定めている。それによれば、子供は独立した人間ではなく、親の財産だった。したがって、高位の男性が別の高位の男性の娘を殺したら、罰として殺害者の娘が殺される。殺人者は無傷のまま、無実の娘が殺されるというのは、私たちには奇妙に感じられるかもしれないが、ハンムラビとバビロニア人たちには、これは完壁に公正に思えた。ハンムラビ法典は、王の臣民がみなヒエラルキーの中の自分の位置を受け容れ、それに即して行動すれば、帝国の一〇〇万の住民が効果的に協力できるという前提に基づいていた。効果的に協力できれば、全員分の食糧を生産し、それを効率的に分配し、敵から帝国を守り、領土を拡大してさらなる富と安全を確保できるというわけだ。(『サピエンス全史・上』138~139p)

 ハンムラビの死の約三五〇〇年後、北アメリカにあった一三のイギリス植民地の住民が、イギリス王に不当な扱いを受けていると感じた。彼らの代表がフィラデルフィアの町に集まり、一七七六年七月四日、これらの植民地はその住民がもはやイギリス国王の臣民ではないと宣言した。彼らの独立宣言は、普遍的で永遠の正義の原理を謳った。それらの原理は、ハンムラビのものと同様、神の力が発端となっていた。ただし、アメリカの神によって定められた最も重要な原理は、バビロンの神々によって定められた原理とはいくぶん異なっていた。アメリカ合衆国の独立宣言には、こうある。

「我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる。」

 アメリカの礎となるこの文書は、ハンムラビ法典と同じで、もし人間がこの文書に定められた神聖な原理に即して行動すれば、厖大な数の人民が効果的に協力して、公正で繁栄する社会で安全かつ平和に暮らせることを約束している。ハンムラビ法典と同様、アメリカの独立宣言も書かれた時と場所だけに限られた文書ではなく、後に続く世代にも受け容れられた。アメリカの児童生徒は二〇〇年以上にわたって、この文書を書き写し、そらんじてきた。
 これら二つの文書は私たちに明らかな矛盾を突きつける。ハンムラビ法典とアメリカの独立宣言はともに、普遍的で永遠の正義の原理を略述するとしているものの、アメリカ人によれば、すべての人は平等なのに対して、バビロニア人によれば、人々は明らかに同等ではないことになる。もちろん、アメリカ人は自分が正しく、ハンムラビが間違っていると言うだろう。当然ながらハンムラビは、自分が正しくアメリカ人が間違っていると言い返すだろう。じつは、両者はともに間違っている。ハンムラビもアメリカの建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような、普遍的で永遠の正義の原理に支配されていると想像した。だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな想像や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、何ら客観的な正当性はない。
 私たちにとって、「上層自由人」と「一般自由人」という人々の分割が想像の産物であることを受け容れるのはたやすい。とはいえ、あらゆる人間が平等であるという考え方も、やはり神話だ。いったいどういう意味合いにおいて、あらゆる人間は互いに同等なのだろう? 人間の想像の中を除けば、いったいどこに、私たちが真に平等であるという客観的現実がわずかでもあるだろうか?(同前139~140p)

ユヴァルの思考法が機能主義的なのは表現という概念が欠落しているからだと思う。機能主義的に歴史を記述しようとすれば共同幻想のさまざまな層は、生物学的には平等も権利などというものはないものとされ、どこにも実在しない虚構ということになる。どうして人間という驚異の出来事が生物学ごときに還元されなければならないのか。ユヴァルはアメリカ合衆国の独立宣言を生物学的に読みかえる。

 我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる。(同前142p)

自然を対象としたときの真理と人間の営みを対象としたときの真理はまったく次元が違う。そのことを無視してユヴァルは自然科学の知に人間を馴致しようとしている。異なった形で進化した人間が、変わりやすい特徴をもって生まれても、その特徴には生命と快感の追求が含まれると読みかえるとき、「含まれる」ということは当為を意味する。この当為の正当性は自然科学的な認知のしくみのなかに場所を見いだすことはできない。そのことさえもユヴァルにはわからない。ベジャンの『流れとかたち』もドーキンスの『利己的遺伝子』も『神は妄想である』も生を可視化して機能的に論じている。浅はかであるとしかいいようがない。ケヴィンの『インターネット〉の次に来るもの』もおなじ意識の息づかいをしている。ユヴァルが人間を生物学的に還元するにしたがって、ケヴィンの、人間の集合的な知性とビットマシンの集合的な知性が融合し惑星規模の知性を生きるという考えが競り上がってくる。そうやって生がホロスの属躰となる。
わたしはかれらに問いたい。それでは明晰な自明性としてある〔1〕を取りだして手のひらの上に差し出してみよ、と。それらも自然科学的な公理のうちにある虚構にすぎないではないか。また自然科学が真理とするものと生の奇妙さはまったく次元が違うのだ。ここを取り違えるときわたしたちの生はかぎりなくA=Aという同一性に漸近していく。それがいまわたしたちの身近で起こっている。またそれが現在ということだ。どうじにユヴァルが人間の理念についての盲点を衝いていることを認める。なぜ人間は互いに平等なのか。なぜ人間は自由なのか。そのことについて考え尽くしていないことが転形期の世界の混乱を招来している。

    3
漢字学の白川静は存在という文字の起源について次のように述べている。

ものはみな時間と空間においてある。
その時間においてあるものを存といい、空間においてあるものを在という。(『白川静の絵本』)

ここに白川漢字学の無意識の精神の公理が流れている。白川静によると漢字は線によって構成される。横画は分断的であり、否定的であり、消極的な意味をもち、縦画は、異次元の世界を貫通する。それは統一であり、肯定であり、自己開示的である。縦線は肯定であり、統一であり、ここにおいて〔ある〕ことを意味する。ここにおいて〔ある〕ことを示すものが交わるところの横線である。おおよそこういうことを白川静は言っている。とてもモダンな考えだと思う。国家の発生と象形文字の起源が白川漢字学では同一になっている。そうではないはずだ。ことばはもっと豊穣なものであったはずだ。わたしがいまここにあることの無限性を身体と心がひとつきりのなかに限定することで存在という文字が生まれたと白川静は言う。際限のないかぎりなさを横画によって切り取ることで存在という書記が可能となったことは〔ある〕という驚異が存在という文字のなかに封じ込められたことを意味し、そこに国家と古代文字の起源がある。この起源のことをわたしはモダンと言ってきた。そうだとするならばわたしたちの奇妙な生はいつまでも帝国の属躰であるほかない。可視化すると皇室は遙かなる東洋の叡智となる。そうではあるまい。それは間違った一般化だ。ならばいまここをかつての彼方のなかにある遠の面影として感得した三木茂夫の食と性の舞い上がるような流れの思考はどうか。あまりにもモダンである。そうではあるまい。ケヴィンが『〈インターネット〉の次に来るもの』で書いた12の章は、becoming(成ること)で始まり、beginning(始まり)で終わる。なんだ自然生成そのものではないか。それは同一性の思考では自然生成までしか行けないということだ。そうではあるまい。自然な生成になにかひとつを加えることが表現なのだ。根源の性を分有するとき、わたしはわたしでありながらあなたになり、そのときあなたはわたしよりわたしの近くにいる。この驚異を表現すること。表現の未知を追い求めるわたしたちの困難で狂おしい旅はつづく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です