箚記

根づくこと

 ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行證ひさしくすたれ、浄土の眞宗は證道いまさかんなり。しかるに諸寺の釋門、教にくらくして眞假の門戸をしらず。・・・これによりて眞宗興隆の太祖、源空法師、ならびに門徒数輩、罪科をかんがへず、みだりがはしく死罪につみす。あるいは僧儀をあらため、姓名をたまふて遠流に處す。余はそのひとつなり。しかればすでに僧にあらず、俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす。(「化身土巻」『教行信証』)

 愚禿親鸞と非僧非俗の由来。興福寺より専修念仏の停止を訴えられたいわゆる承元の法難と呼ばれるもので、親鸞は僧籍を剥奪され五年の流罪に処せられる。33歳ぐらいのときではないかと思う。流罪により、享年90をもって入滅するまで生涯に渡って非僧非俗の思想を貫く。

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 春3月からHP をはじめました。この数年パソコンに書きためたメモがあるので、そろそろ2冊目のGuan を出そうかと考えましたが、諸般のことが面倒で、何年も前に友人が作ってくれたHP のフレームに書き込みをしています。URL はhttp://guan.jp/です。月間100 万ヒットの内田樹のブログを目指して内田樹メモを書いています。内田樹メモが終わったら、知り合いにURL をお知らせしようと考えていましたが、特に理由はありませんが、5 月8 日にアップしたまま止まっています。
 内包は親鸞の考えより深いなんか書いたのでばちがあたっているのではないかと思います。きっとそうです。釈迦とイエスと親鸞が弟子になりたいという思想をつくるとつねづね喋ってきました。やりたいことは人類史を革命する考えをつくることです。この無謀をやめる気は毛頭ありませんが、ことばとしてそれを実現していくことは大変です。なにか思考の限界を拡張することがわたしたちに強いられているように感じています。この困難に身を晒すことのできないものたちは文化人として去っていきました。

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 熊本の田舎少年が博多の街に出遊し生きた40年、思えばいつも原口孝博さんと共にあった気がします。ストーンズのミックとキースの間柄みたいなものといえるかもしれません(原口さん、ぜったいおれがキースだというにちがいありません)。その意味ではこの小論は終わることのない原口論の続きともいえます。
 憑かれたように生き急ぎ、なんか歳だけくって、まだなにひとつやりおおせていません。そのことにたいするあせりもあります。だから、いつもなにかにたいして怒っている、と言われたりもします。たしかにそれもあります。それでも、なお生き延びて、歩く浄土を実現したいと思っています。内包論を進めたいというモチーフに変わりはありません。

 気が遠くなるような回り道をしましたが、けっきょくそれなくしてはやってゆけないとおもうことしかやることがありませんでした。わたしは徹底して当事者性の思考にこだわってきました。いまわたしたちのまわりにある知で世界をあらためることはできません。博覧強記の知を誇り訳知り顔をして時代を批判するものたちはいくらでもいますが、そんなものではなーんも変わらんのです。地に足がついていないのでなにをやってもふらつきます。
 なぜこの世がこんなものでしかありえないのか問うと、必ず思考の限界にゆきあたります。観察する理性としてならこの限界は解釈によって容易に超えられます。そのとき解釈する「わたし」は括弧に入れられています。この「わたし」は「他者」を生存の手段に貶めています。どんな例外もありません。
 わたしは「他者」を生存の手段に貶める権能を権力と定義しています。マルクスやフーコー由来の権力論とはべつものです。わたしはついに観察する理性という権力の言説に関心をもつことはできませんでした。わたしが手にしたいものは生を俯瞰する知では、まったくないのです。かくあれぞかしという人間の善への渇望を世界や歴史に参与させることができるか否かという、意志論の領域のことだといいかえることもできます。

 ことばが根づくことについてよくかんがえています。〈同〉の戯れから派生するどんな言説もこの世のあり方を根底からあらためることはないと思っています。
 痛切な体験を通じ、いくらか書物を読みかじり、いよいよはっきりしてきたことがあります。なにかその一点をおろそかにすると世界がたちまち色あせ、役割論を旨とする業界人のさもしい権力の言説が迫りだしてくる、そのような肝心要の一点というものがあります。この一点が生を同一性に監禁しているのです。このかんがえにたどりつくのに長い年月がかかりました。このおもいはほとんどわたしの体験的確信となっています。

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 この小さな集まりの場はわたしにとっての最後の場所だと思っています。若い頃から文化人が嫌いでした。けっしてじぶんを生きようとしない役割人間を唾棄してきました。どこがかれらと違うのだろうかとかんがえにかんがえ抜いてきました。なにか現実というものにたいする立ち位置が決定的にずれるのです。こういう言い方は世界を閉じてしまうと映るかもしれません。そうではないのです。世界を窮屈にしているのはこの世界を予定調和の制度として支えている旧い知なのです。
 わたしが生きた40 年には、すでに知っていたのに、あらためてことばで気づくことの驚きがありました。最近のことです。ジグソーパズルの最後のピースがパチンと収まった感じです。親鸞の非僧非俗につながる思想の系譜だということにおもいあたったのです。うかつといえばうかつですが、親鸞によって800 年前に生きられていました。ああそういうことだったのだなあと深く深く得心しました。当事者性とは非僧非俗の思想だったのです。僧にあらず俗にあらずというそのあわいに、じぶんを生きるということがあるのです。この世の慣わしからすると無限小の出来事です。それが大衆や社会を語ることなくつながれる各自的な生の原像にほかなりません。ここにだけ猛烈な、未知の世界への可能性があるとわたしはおもっています。

 宗教(イデオロギー)が個人の信念であるにもかかわらず、世俗化されると、なぜ共同の迷妄としてあらわれるのでしょうか。究尽されていない宗教(イデオロギー)がとまどいながら佇んでいるようにおもえます(ヴェイユの神は〈同〉の戯れをまぬがれた稀な達成だとおもいます)。優れた文学の作者がつまらぬ政治信条の持ち主だったりすることがよくあります。政治と文学は異なる観念の領域だといったところで、なにも言ったことにはなりません。
 戦中に天皇を担いだ苦い経験から私性を擁護する思想家がいます。昔も今もひとびとの生が私事中心でなかったことがあるでしょうか。おそらくこれからも変わらないとおもいます。わが身かわいさからひとびとが天皇制を帽子としてかぶっただけであるのは明々白々なことです。「公」と「私」が対立しているのではないのです。わが身が大事だから大義を担ぐのです。大義を頭に戴くことで、ようやっとわが身をしのいだのです。「公」と「私」は対立しません。大義はいつもかぶりものです。公共性と私性を対立させる図式がまるごと擬制なのです。生き延びるための私性は熾烈で容赦ないものだとおもいます。こういうことをいった人はだれもいません。

 衣食足りて礼節を知るとは中国の古代思想家の言ですが、満ち足りて礼節を知らず、懲りずにあこぎなのが「わたし」という私性の本質です。わたしは二十歳の頃から、衣食足りて、それでも足りないものが、いつもその時代のもっとも本質的なことであるとかんがえてきました。それは私性ががらんどうであることを直観していたからです。私性はまた余儀なさの謂いであり、欲のかたまりとしてあらわれますが、中心はうろなのです。うろを覆いかくすのが私性の欲です。がらんどうが大きくなるにつれて私性は亢進します。わたしのかんがえではうろと私性は同期しています。

 時代をさかのぼれば、東洋の専制にとって衆生は草木虫魚にすぎませんが、専制の絶えざる権力の源泉はこのうろから吸いあげられたものだとおもいます。皇帝の絶対権力は私性の変形されたもので、東洋的専制と衆生の私性はまったく同型なのです。わたしはそうかんがえています。
このかんがえからすると、歴史が、野蛮、未開、原始、古代へと漸次進化していくという史観は方便にすぎないことになります。

 効率と収益性を至上のものとするグローバリゼーションにいま世の中は席巻され蹂躙されています。グローバリズムに人格があるとすれば、さしずめ秦の始皇帝といったところですが、焚書坑儒によって日本の戦後に芽生えたよきものも滅びました。人生は勝ち組と負け組です。国民総中流は一部のより富裕な層と大半の生活苦の層に分解しました。「わたし」にものごとの根拠が置かれるかぎりこの流れは必然であるとおもいます。躍りでた私性の本音を擬制のイデオロギーやさかしらな言説でねじふせようとしても無理な話です。私性は遥かに苛烈です。
 わたしはこれからハイパーリアルな時代になるとずいぶんまえから指摘してきました。まさにその通りになりました。世の中やひとびとが変節したのではないとおもいます。資本の流動性を加速する「規制緩和」によって私性の本性があらわになっただけのことです。儲かることなら、良かろうが悪かろうがなんでもやるというのが当世風の時代精神です。時代が移ろうにつれてニヒリズムがよりいっそう亢進しているといってまちがいないとおもいます。秋葉原の無差別殺傷事件などその典型です。この種の事件は続発するとおもいます。
 グローバリゼーションも消費資本主義も本質においてニヒリズムなのです。民主主義という西欧近代に起源をもつ理念などが太刀打ちできるものではありません。民主主義によって強者の予定調和の世界が担保されるのです。まさに逆説というほかありません。何度もいってきたことですが、民主主義と全体主義はなんら矛盾するものではありません。この世界では、分に応じ、らしく生きることこそが健全性の証であり、また健全な社会であるとみなされます。どうであれ民主主義によって強いもの勝ちは道理を得るのです。

 「わたし」という自己同一性は歴史の起源から〈ある〉の初期不良を抱えこんだまま、ひた走りにここまできてしまいました。わたしは、野蛮、未開、原始、古代、中世、近代、現代という時代区分の全体をモダンと定義したいとおもいます。他者を生存の手段に貶める私性の行使によって歴史は更新されつづけました。時代の相貌は大きく変化しましたが、なにひとつ根底的な変化というものはなかったのです。心配ないです。「わたし」をめくり返すことができれば未知の生の様式というものが可能となります。わたしはそうかんがえています。

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 なんと書こうと、どう話をしようとつたわりにくいわたしのかんがえをもう少し敷衍してみます。若い頃読んだ滝沢克己さんの文章が浮かんできます。滝沢さんには当時公私ふくめてたいへんお世話になりました。数十年ぶりに埃をかぶっていたかれの本を折に触れて読み返しています。かれのいっていることがよくわかります。インマヌエルを説きつづけたかれのモチーフが語られているとても好きな箇所がありました。

それは私がまだ幼なくて、十一歳を少し過ぎた頃でした。私の町から遠く離れた田舎にあった学校からの帰り道、ある日私は、じやが芋(いも)を洗うために裸足(はだし)で小さな水車を踏んでいる年老いたお百姓を見かけました。日本の夏の終りがいつもそうであるように、暑い午後でした。そうしてあたりはすべて見馴れた風景でした。それにもかかわらず、突然、ある奇妙な思いが、―「あの老人は結局のところ何のために、あんなふうにかれの仕事を続けているのだろうか」という奇妙な疑いが、私の胸に浮んだのです。太陽は明るく輝き、家路はいつもの道でした。それにもかかわらず、私はまるで、(どうしてかは分りませんでしたが)見知らぬ、深い森の中へ移しおかれ、濃い霧に包まれて、たった独りでそこにいるかのように、感じたのです。しばらくして私は、また家路を辿り始めました。そのとき私は、その奇妙な瞬間を、それと意識して長く心にとめようと思ったわけではありませんでした。しかし、その出来事の余韻は、その後私から消え去るどころか、時とともにますます大きくなって、とうとう私は次のような問いから、もはやどうしても逃れることができなくなったのです、―「この私はそもそもどこにいるのか。私はいったいどこから来たのか。私は結局のところどこへ行くのであろうか。」
 その時から私にとって生活は、いわばその実在性と意味を喪失しました。目的のない努力というひそかな感じを懐(いだ)くことなしには、私は勉強することができなくなりました。友達と話をする時には、まるて眼に見えない厚いガラスで隔てられてでもいるかのような感じがしました。どうしてこうなったのか、どうしたらこの窒息しそうな状態から脱け出ることができるのか、それが判然となることを私は心底から願いました。(滝沢克己『現代の事としての宗教』一九六五年七月一五日、ベルリン自由大学における講演の一節p 220 ~ 223)

 この文章を読んだのは二十歳そこそこの頃だったとおもいます。すごく身近な感じがしたことを覚えています。世の大人の反応は聞かずともわかります。なぜ生きているのか問うまえにひとはすでに生きている、生きるとはそういうことなんだ、といいます。意味を問い尋ねる余裕もなく生活に追われるというのが実相だというのです。もちろんわかります。しかしこの一点をおろそかにすることで、ひとびとは数千年の凄まじい歴史を刻んだのです。
 ここには、人と人はどうやったらつながるのか、人と人がつながるとはどういうことか、人と人はどうつながっているのかについての根底的な問いがあります。答えることは至難なことです。この問いさえないものとすれば、どんな言説も可能です。ヘーゲルもフロイトもハイデガーも見事にこの問いをずらしました。ついでにいえば現象学なんか目じゃないのです。あれは超越についての感度の低い人がハードルを低くしていい気になれる程度のものです。文化人が愛好するのはそのためです。
 わたしが根づくことというとき、この問いの真正面突破が目論まれています。底なしの深淵に飛び込むのです。若い頃、縁があって、部落解放運動に深く関与しましたが、熾烈な闘いの渦中にあって、この根源的な問いを忘れたことは一度もありません。
 いかなる機縁によって、自我とは他なる〈わたし〉という現象が立ちあがるのでしょうか。長い年月がかかりましたが、わたしはだれのことばも借りずにじぶんのことばで、そのことをいうことができます。

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 ここに滝沢克己さんが編集した笠原初二遺稿集『なぜ親鸞なのか』という30 年近く前に出版された本があります。浅からぬ縁のあった、わたしより四歳年長だった笠原さんの本をはじめて読みました。滝沢さん編集の本が出たことは当時も知っていましたが、あまりになまなましくて読む気にならなかったのです。34 歳で入院中の病院で自裁しました。前の日の晩にかれに明日見舞いに行くと電話しました。『全共闘記』を連作で書いていた兵藤正俊さんの自宅からです。たしか兵藤さんの家に一泊したのです。
 電話で、わたしは言いたいことや話したいことを率直に語りました。あまりにかれが空虚に元気なので、行く気も失せて見舞いには行きませんでした。生前のかれの声を最後に聞いたのはたぶんわたしだったおもいます。そのときのかれよりわたしははるかに長生きをしました。いろんなことをおもいだしながら、かれの親鸞論を読みました。親鸞の業についての研究ノートは参考になりました。
 それよりも滝沢さんの「笠原初二君を悼む」に、はっとしました。かつて滝沢さんの研究室にいたかれのことが、滝沢さんは可愛くてならなかったのです。『なぜ親鸞なのか』に追悼の長い序文が書かれています。わたしは滝沢さんの著作はぜんぶ読みましたが、序文のなかにわたしの記憶するかぎりほかの著作には見られない言葉遣いをしたところが一箇所ありました。ぎょっとしました。そこにはこう書かれていました。

逮捕も投獄もかれを屈服させはしなかった。一九七二年(昭和四七年)二月、東福岡署にかれを見舞って手わたした二三の書物と私の手紙に対する獄中からの返信のなかに、その手紙で私の使った「部落の問題」という言い方の無責任な傍観者性を指摘してくる激しさだった。運動は次第に勢いを加え、それ以前から教養部で同じ闘いを積みあげてきた友人たちの助けをも得、ついには教育学部に公認の部落問題講座を創設して、その運営を任されるまでに成長した。
 しかし、この頂点に、まったく思いもかけぬ陥穽(かんせい)が潜んでいた。現実に存在する差別に憤激し、その差別を撤廃せずんばやまないという、それ自身としては非の打ちどころのない激情を機会として、ただ単に虚しきものがかれを捕らえた。知らず識らずのうちにかれは、差別する側の一身分、「大学生」である己自身を、度を超えて恥じた。逆にいうと、差別されている人々を、事実存在する人間としての度を超えて尊んだ。あるべからざる差別を撤廃するための必死の努力が、ふつうに差別者が差別するのとは逆方向の、もっと見わけにくく恐るべき差別をもって、被差別部落の人々に立ち向かう結果となった。そればかりか、他方、二重三重のこの倒錯に乗った幻想の高みから吹きおろすまるで暴魔風のような、すさまじい差別が始まった。この深層の恐るべき倒錯に気づいたその時はすでに遅く、「教育共闘」は瞬時にして壊滅した。

 「教育共闘」が瞬時にして壊滅するに至る全過程をわたしは知っています。わたしは愚劣を超えようとする意志そのものとなってその場にいました。いま気になるのはそのことではありません。滝沢克己用語ではない言葉が一箇所あります。それは「暴魔風」という言葉です。凛としてインマヌエルを説いていた滝沢さんにまったくふさわしくないのです。滝沢さんはここで起こった倒錯の原因は「ただ単に虚しきものが彼を捕らえた」からだと言っています。
 滝沢さんの思想でも「暴魔風」には歯が立っていません。いまそこで起こっている愚劣を俯瞰できる視線をつくっています。この視線から虚ろなものがかれを襲って惨劇が起きたということは可能です。でもなにかが違うのです。しかしそうであるからといって滝沢さんが「深層」「倒錯」「瞬時」「壊滅」と形容する出来事に直面してかれの信を曲げることはありえません。身近に接していたのでそのことはよくわかるのです。そうではなくて、愚劣そのものと、そのことを形容する「暴魔風」という言葉とのあいだにすきまができるのです。それは俯瞰することも視ることもできない領域です。
 滝沢さんにとっての「暴魔風」は、撃ちてし止まんとひとびとが唱和したかつての聖戦ではないでしょうか。このあたりのことは東条暗殺を企て、終戦の和平工作の条件として「皇室の廃止と国体護持」を譲らなかった、帝国海軍少将高木惣吉を嚆矢とします。ソキチはかっこいいです。滝沢さんはインマヌエルが地上に顕現されたものが天皇だとかんがえました。面従腹背でしょうか。たぶん嘘に気づいていたとおもいます。そういうすきまのことです。
 このすきまは何に由来するのでしょうか。なぜこんなすきまができるのでしょうか。宗教の信が自我とは他なる〈わたし〉をじゅうぶんにつくりえていないからだとおもいます。つきつめられているように見えてなおそこに同一性の影や名残や片鱗を留めています。
 わたしは、キリスト教に拠らずして神を語ることはできないと生涯主張したカール・バルトにたいして、キリスト教を原理としなくてもそれは可能であると言い返しつづけた滝沢さんの間合いの取り方を、そのまま滝沢さんに返したいとおもっています。神仏を語らずとも超越は可能です。神仏や恋愛の彼方があるからです。それがあることによって、はじめて神仏という超越も愛も可能となるシンプルな情動があるのです。わたしはそれを根源の性と名づけています。このかんがえにはすきまがないとおもいます。だから浄土が歩くのです。もうかれは存命していないから現実にはできないことですが、終わりのない対話になるという気がしています。

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 少し場面を変えていってみます。若い哲学徒である梅原猛が大先達の親鸞学者曽我量深に「救いは現在ですか」とお伺いを立てます。曽我量深が答えて言います。「そりゃそうです。未来というのは現在の内容としてですね、深さといいますか、そういうところに未来というものがあるのでございましょう」(『曽我量深対話集』所収「信心歓喜の浄土真宗」曽我量深・梅原猛226p)。曽我量深が「すべて現在です」というと、へへっと平伏する梅原猛がいます。人を喰ったような話です。こなれているぶん鈴木大拙みたいな俗物性もどこかにあります。でも、あっ、おもしろいとおもいました。
 ところがです。笠原初二遺稿集『なぜ親鸞なのか』にこういう箇所がありました。「それから『異なるを嘆く』、ということで中道誌事件ですね。これは曽我先生の『中道』という雑誌の十月号で、『宗門人というのは非常識な人が多い』ということを『それは特殊部落みたいなもの』、といういい方で差別発言をされたという事件です」と笠原さんは書いていました。確認会で曽我量深が「私には機の深信が本当になかった」と自己批判をしているそうです。がっくりきました。そびえ立つ浄土真宗教学の巨峰にしてこの程度なんです。曽我量深が差別発言をしたかどうか、そんなことはどうでもいいのです。大事なことだからいいますが、かれははっきりと差別しているとおもいます。かれの信が地軸を貫くほどに深いならば、こういった発言はありようがないからです。ただ、ただ、わたしはかれの信の深さを問題としたいのです。かれの信はフェイクです。

 曽我量深の流れを継承して感の教学を唱えた安田理深は『真宗の教団』で「感という字をみんなよく忘れとるけどね、思想問題は知る問題だと、知るということが思想問題だと。ところが身体が入ってくると感ずるんです。思想の身体化をしないと実践は出てこない、そこを経て被差別部落をわが身と感ずるのです。身体をもってそれを感じ取るというのが名号じゃないか、そのとき名号は個体的身体でありつつ社会的身体となる」といっているらしいです。わかっていません。言うこと為すこと穴だらけです。この意識のありようは天皇制そのものです。落ち込みます。弁明の過誤はわたしにおいてすでに体験済みです。
 曽我量深や安田理深というふたりの親鸞学者の著作をノートを取りながらぽつりぽつり読んできました。なるほどとおもうことも腑に落ちることも随所にありました。とくに安田理深には身近なものを感じていました。弁明に接して、やっぱり世間知らずの学僧なんだなあとおもいました。どこかで期待するものがあったぶん落胆も大きいものでした。わが身一人ならともかく、「暴魔風」を怯ませ、打ち据えることはとてもできません。

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 それでは親鸞はどうでしょうか。ぶっちぎりで突きぬけています。かれのことばを拾ってみます。「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」(『唯信抄文意』)とあります。不可侵不可被侵という満月の思想が成就されています。あるいは、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、善悪の字しりがおは、おおそらごとのかたちなり」(『正像和讃』)ともあります。親鸞もそらごと文化人が嫌いだったことがわかります。
 親鸞のことばは、胸をうち、身を貫いて、鳴り響きます。これがことばです。のびのびとおおらかなのに微塵のあいまいさもありません。ことばのひとつひとつが粒だって、くっきりとした輪郭があり、親鸞はそのなかにいてそこを生きており、どこにもすきまがありません。親鸞にとって「暴魔風」はそよ風みたいなものだったに違いありません。
 59 歳のとき、おれのやることなすこと嘘だらけ、虚仮のかたまりだと嘆息しました。かれは巨木です。親鸞の不思議は無限小の出来事と無限大のありようを無理なくつなげることです。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」なんかもそうです。いまいちばんかれの思想に惹かれています。

 内包のかんがえを進めるにあたって、どれだけかんがえてもすっきりとは感得できないことがいくつもありますが、そのひとつが親鸞の正定聚ということばです。親鸞の著述のなかにくり返し何回もでてきます。おそらくまだだれも読み解いていません。親鸞の思想は成長する、まだ拓かれる余地があるという妄念がわたしをとらえて放しません。引用はいずれも『末燈鈔』からです。

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに、等正覚のくらゐに住す。このゆゑに臨終をまつことなし、来迎をたのむことなし。
信心をえたるひとは、かならず正定聚のくらゐに住するがゆゑに、等正覚のくらゐと申すなり。
まづ善信が身(親鸞の僧名-森崎注)には、臨終の善悪をば申さず、信心決定の人は、うたがひなければ、正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりめでたく候へ。
ただし人にすかされ給ひ候はずとも、信心のさだまらぬ人は、正定聚に住し給はずして、うかれ給ひたる人なり。

 まだたくさんありますが、これぐらいにします。同じことを少しずつ言い換えながら述べています。正定聚のくらゐとは、仏の位につく身と定まったひとびとのことであり、等正覚のくらゐとは、仏となることを約束された位のことです。「来迎をたのむことなし」は、浄土そんなものはありゃせんよ、ということを含意しています。
 800 年たったので、ちょっと違うこといってもいいんじゃないかとおもいます。わたしのなかにある熱い自然を手がかりに、親鸞の正定聚にわけいります。
 親鸞の書いたものを読み返していてあらためておもったのですが、かれはまさしく信の人です。そのなかにいてそこを生き、みずからの信をおのずと解体した人です。だから非信の立場からする論評は親鸞の言説を外側からさわるだけで、親鸞の思想とは無縁です。なるほどねぇ、でもそんなことおれには関係ないよ、で終わりです。

 なぜか、一切のそらごとを削ぎ落とし、〈同〉の戯れを横超した、孤独な親鸞が浮かんできます。いまわたしの目の前にその親鸞がいるとして、わたしはわたしの信を語ります。なんならイエスと釈迦がいてもかまいません。できたらいて欲しいものです。
 あなたとわたしのあいだに目に見えないつながりがあります。このつながりの全体が内包存在です。だから、わたしは、このつながりを分有することでわたしとなり、あなたもまたあなたとなるのです。つながりとわたしのあいだには分離できないけれどおなじものではないという関係があります。どうじに根源のつながりはわたしやあなたに先立ちます。それがあるからわたしの自己性が、あなたの自己性があらわれるのであって、わたしやあなたがつながりを措定することはできません。この超越のことを、わたしは神仏や恋愛の彼方と名づけてきました。
 あるときふっと、正定聚は根源の性のことではないか、ここで親鸞の思想は拡張できる、とおもいました。生きていることを向こう側から照らすまなざしが根源の性ですが、根源のつながりを同一性にドラッグ&ドロップしたものが正定聚です。生の背後で熱く息づく驚異を〈同〉において身をかぎったものが正定聚ということもできます。むろん親鸞の与り知らぬことです。
 根源の性が「わたし」や「あなた」に降ってくると、ここがどこかになっていきます。すとんと世界が深くなります。自我とは他なる〈わたし〉です。もう対をなす正定聚と等正覚がなくともかまいません。仮仏土も真仏土もありません。浄土がいきなり歩くのです。わたしがあなたであるということの全体はいつもこのうえに立っているのです。
 正定聚の祖形は根源の性だったのです。根源のつながりを同一性に封じ込めたので、その心残りを当時の世の習いに従って浄土と呼んだのです。もちろん、浄土門を解体し尽くした親鸞がそんなことを信じていたはずがありません。それでもなお親鸞にして、極悪深重なじぶんと、じぶんを召喚する仏の慈悲という、世界と対座するあの根深いモダンな意識の範型を超えることができませんでした。いま親鸞の思想につけくわえることがあるとすれば、正定聚を根源の性に巻き戻し、信の同一性を拡張すること、その一点です。還相廻向も他力も自然法爾も、同一性の思考の根を抜こうとしてたどったすさまじい軌跡のようにおもいます。
 わたしたちは親鸞のことばをとおして、青く晴れあがった空と、音色のいい風の音を聞くことができます。あとは内包が引き取り、ゆるゆると、その信を拡張していきます。

コメント

1 件のコメント
  • 倉田昌紀 より:

    おはようございます。小生はこの「根づくこと」という文章の言葉が好きなのです。小生にとっては〈エキス〉となる言葉のような気がするからなのでしょうか?
    現在の現場への著者・森崎さんの世界認識から、始まっています。その今の現状分析とは、「わたし(森崎)はこれからハイパーリアルな時代になるとずいぶんまえから指摘してきました。まさにその通りになりました。世の中やひとびとが変節したのではないとおもいます。資本の流動性を加速する「規制緩和」によって私性の本性があらわになっただけのことです。儲かることなら、良かろうが悪かろうがなんでもやるというのが当世風の時代精神です。時代が移ろうにつれてニヒリズムがよりいっそう亢進しているといってまちがいないとおもいます。(秋葉原の無差別殺傷事件などその典型です。この種の事件は続発するとおもいます。)グローバリゼーションも消費資本主義も本質においてニヒリズムなのです。民主主義という西欧近代に起源をもつ理念などが太刀打ちできるものではありません。民主主義によって強者の予定調和の世界が担保されるのです。まさに逆説というほかありません。何度もいってきたことですが、民主主義と全体主義はなんら矛盾するものではありません。この世界では、分に応じ、らしく生きることこそが健全性の証であり、また健全な社会であるとみなされます。どうであれ民主主義によって強いもの勝ちは道理を得るのです。」。小生の棲んで生活している紀州・熊野も、この現状の流れからまぬがれることは、今はまだ不可能です。
    国内植民地でもある南紀・白浜温泉は、この象徴的な場所そのものになって久しくこの現状は、呼吸する空気のように当たり前になっています。
    子供たちから高齢者まで日々の生活に追われ時間は、バタバタと作られた忙しさのなかで、「なぜ生きているのか問うまえにひとはすでに生きている、生きるとはそういうことなんだ。意味を問い尋ねる余裕もなく生活に追われるというのが実相です。もちろんわかります。しかしこの一点をおろそかにすることで、ひとびとは数千年の凄まじい歴史を刻んだのです。ここには、人と人はどうやったらつながるのか、人と人がつながるとはどういうことか、人と人はどうつながっているのかについての根底的な問いがあります。答えることは至難なことです。この問いさえないものとすれば、どんな言説も可能です。ヘーゲルもフロイトもハイデガーも見事にこの問いをずらしました。ついでにいえば現象学なんか目じゃないのです。あれは超越についての感度の低い人がハードルを低くしていい気になれる程度のものです。文化人が愛好するのはそのためです。わたし(森崎)が根づくことというとき、この問いの真正面突破が目論まれています。底なしの深淵に飛び込むのです。(略)この根源的な問いを忘れたことは一度もありません。いかなる機縁によって、自我とは他なる〈わたし〉という現象が立ちあがるのでしょうか。長い年月がかかりましたが、わたし(森崎)はだれのことばも借りずにじぶんのことばで、そのことをいうことができます。」。小生も紀州・熊野で、この国内植民地の白浜町の白浜温泉で、自分自身の言葉で、先ずは自分自身と対話することからしか始まりません。
    そして、その対話から、「あなたとわたしのあいだに目に見えないつながりがあります。このつながりの全体が内包存在です。だから、わたしは、このつながりを分有することでわたしとなり、あなたもまたあなたとなるのです。つながりとわたしのあいだには分離できないけれどおなじものではないという関係があります。どうじに根源のつながりはわたしやあなたに先立ちます。それがあるからわたしの自己性が、あなたの自己性があらわれるのであって、わたしやあなたがつながりを措定することはできません。この超越のことを、わたしは神仏や恋愛の彼方と名づけてきました。」。このことを、小生は紀州・熊野の白浜町に棲んで、生きられていますでしょうか?、と小生自身に日々の生活のなかで、この生きて生活する現場性を、当事者として絶えず自分自身に問いかけて対話し続けていますか、と反復することが問われています。
    そこから、「根源の性が「わたし」や「あなた」に降ってくると、ここがどこかになっていきます。すとんと世界が深くなります。自我とは他なる〈わたし〉です。」、となるように・・・。
    森崎さんのその出発の始まりの一例として、恩師の児童期の体験が話されています。それは小生などにもありますし、きっと誰にでも心当たりがあることでしょう。ーー「滝沢克己『現代の事としての宗教』一九六五年七月一五日、ベルリン自由大学における講演の一節p 220 ~ 223)この文章を読んだ(森崎さんが)のは二十歳そこそこの頃だったとおもいます。すごく身近な感じがしたことを覚えています。滝沢さんの体験のとは、ーーー「それは私がまだ幼なくて、十一歳を少し過ぎた頃でした。私の町から遠く離れた田舎にあった学校からの帰り道、ある日私は、じやが芋(いも)を洗うために裸足(はだし)で小さな水車を踏んでいる年老いたお百姓を見かけました。日本の夏の終りがいつもそうであるように、暑い午後でした。そうしてあたりはすべて見馴れた風景でした。それにもかかわらず、突然、ある奇妙な思いが、―「あの老人は結局のところ何のために、あんなふうにかれの仕事を続けているのだろうか」という奇妙な疑いが、私の胸に浮んだのです。太陽は明るく輝き、家路はいつもの道でした。それにもかかわらず、私はまるで、(どうしてかは分りませんでしたが)見知らぬ、深い森の中へ移しおかれ、濃い霧に包まれて、たった独りでそこにいるかのように、感じたのです。しばらくして私は、また家路を辿り始めました。そのとき私は、その奇妙な瞬間を、それと意識して長く心にとめようと思ったわけではありませんでした。しかし、その出来事の余韻は、その後私から消え去るどころか、時とともにますます大きくなって、とうとう私は次のような問いから、もはやどうしても逃れることができなくなったのです、―「この私はそもそもどこにいるのか。私はいったいどこから来たのか。私は結局のところどこへ行くのであろうか。」その時から私にとって生活は、いわばその実在性と意味を喪失しました。目的のない努力というひそかな感じを懐(いだ)くことなしには、私は勉強することができなくなりました。友達と話をする時には、まるて眼に見えない厚いガラスで隔てられてでもいるかのような感じがしました。どうしてこうなったのか、どうしたらこの窒息しそうな状態から脱け出ることができるのか、それが判然となることを私は心底から願いました。」「(滝沢克巳さんのお話しです。「森崎さんにとっては、すごく身近な感じがしたことを覚えています。」とあります。)」
    小生は、下記のかっこ(・・・)内の言葉を繰り返し反芻することになります。小生にとっては出発の絞り滴る〈エキス〉の言葉だからなのです。
    その言葉とは、(「世の大人の反応は聞かずともわかります。なぜ生きているのか問うまえにひとはすでに生きている、生きるとはそういうことなんだ、といいます。意味を問い尋ねる余裕もなく生活に追われるというのが実相だというのです。もちろんわかります。しかしこの一点をおろそかにすることで、ひとびとは数千年の凄まじい歴史を刻んだのです。」。)
    小生には、先ずは自分自身と闘い、そして現在の状況の、〈一見、平和のような日々の生活の主戦場〉 で闘うことを励まし、元気づけてくれる根源の性からの言葉なのです。
    闘う「歩く浄土」は、小生にとっては、どこまでもつづいているのです。乱文にて、失礼いたします。

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