箚記

渡辺京二の引く大きな弓

     1
 以前渡辺京二の言説について少し触れたことがあって、舌足らずの批評にどこか据わりの悪さを覚えていた。この居心地の悪さが何気なく目にした一文で氷解した。山本巌のブックレット003 にある「石牟礼道子の世界」を読んでふるえのようなものが体を走った。わたしは見知らぬ著者の石牟礼論をむさぼり読んだ。そしてジグソーパズルの幾片かがぴたりとおさまり何かが腑に落ちるように感得された。
 世評の石牟礼道子像と実像の隔たりにわたしもまたいくぶん幻惑されていたことに気づかされた。迂闊だった。わたしの言説やふるまいもながく曲解と誤読に晒されてきたわけだからひとごとならず身につまされた。なにより深く恥じた。山本巌の「石牟礼道子の世界」からわたしはふたつのものを貰ったという気がする。この文章は1974 年4 月から6月にかけて西日本新聞夕刊の文化欄に連載された記事に加筆したものだと記してあった。

 あん子はおかしな子でなあ。教員しよる時分じゃったが、学校から帰って来て「かあちゃん、明日はおにぎりば五つ六つにぎってくれんな。おっどんな食わんでよかけん」ちゅうとですよ。戦争中じゃったろ。そん時分にゃ、駅あたりにゃビワどんじゃゴゼどんがムシロかぶって寝とらしたですもん。そん人たちにやるちゅうておにぎりば持って行ったとですよ。ばってん、人が見るでやれんで、とうとう学校さね持って行って、弁当持たん生徒にやろうと思うたばってん、それも恥ずかしゅうしてやりきらん。ほかの人に頼んでやってもらいよったそうです。そげんことばっかいしよったで、道子は。

 これは山本巌が石牟礼道子の母から聞き取ったところである。ここに見られるやさしさの感受性のありようは石牟礼道子の作品や言動を理解するうえでとても肝心なところだと思う。石牟礼道子はこのようなタチに生まれついているということがよくわかった。彼女は難儀な人に接するとじっとしていられずにおのずから身が動いてしまうし、それはそうせずにはおれぬからそうするのであり、手をさしのべるなどということとはまるで違うことなのだ。それなのに、「ばってん、人が見るでやれんで」「それも恥ずかしゅうしてやりきらん」というふるまいになってあらわれる。このありようはおそらく石牟礼道子の生のかたちを象徴しているし、このような生の原質を核として彼女は言葉を紡ぎだしている。この引用に接してわたしはふわっと気持ちがふくらみ、一気に身近な感じがして、なんだかうれしくなった。
 もうひとつブックレット003 から貰ったものがある。石牟礼道子の言葉の生まれる場所がたしかな感触で伝わってくるところだ。

 〈狂人たちの世界は、いつもわたしに隣りあっていた。(略)わたしは知っている。祖母と弟が、どのようにいたましい日常を送り、どのような最期をとげたか。(略)生木が音を立てて毎日裂けてゆくように、彼らの心は一日一日とひき裂けていた〉(初期散文集『潮の日録』)
 〈彼らの存在は終始、反社会というものであり、社会の中の一番深いわれ目だった。彼らの意思は、おそらくずたずたなので、それは無意思ともいえるけれど(社会への伝達の道が、永久に片道通行になってしまったので)無意思をみせかけているので、なおさらに凝縮された切ない意思だった。(略)自殺者たちといつもわたしは、いっしょにいる〉(同)

 若いころから渡辺京二や石牟礼道子が文章家であることは知っていたが、なぜか一冊も著作を読んだことがなかった。いや、むしろ忌避してきたといった方がよい。わけなしとはしない。当時みずからの口舌やふるまいが招いたつけとして自業自得のやっかいな揉め事を抱えこみ三白眼をした手負いの狂犬みたいだったからだ。なにか似た領域についてやっている人だなということはわかっても日を繋ぐのに精一杯で受容するだけの余裕がこちらにはなかった。じぶんの経験からして告発や市民運動がへつらいと甘えの凭れあった関係を断ち切れていないことが手に取るようにわかっていた。知人や友人から水俣の烽火は伝え聞いていたが関心をもつことはなかった。マスコミ・ジャーナリズムで「怨」の筵旗がおどろおどろしく取り沙汰されるにしたがいわたしの心と身体はしんしんと冷えていった。
 はるかのちに『チッソは私であった』を読んで、あの水俣が一人の緒方正人を生んだことになんともいえない感慨があった。当事者をして事件を語らしめよというのがわたしの譲れぬ原則だった。わたしは水俣の闘いから地べたに立つ一人の表現者があらわれたことに言いしれぬ共感を持った。命のふるさとにたどりつくまでの曲がりくねった彼のたましいの遍歴はすがすがしくて好感の持てるものだった。そして大地に直立する一人の表現者に少なからぬ影響を与えた渡辺京二や石牟礼道子に感嘆の念を持った。
 食わず嫌いですませてきたことにはもうひとつ背景がある。なによりまず谷川雁という男の気取った啓蒙臭さがしんから嫌いだった。「工作者」という概念の欺瞞性と詭弁をわたしは憎悪した。彼に象徴されるサークル村の運動や大正行動隊の半端なヤクザ性と文化の臭いをわたしは唾棄してきた。サークル村に連なる系譜が知識人―大衆という役割論をふっきれているとは思えなかった。役割論こそが20 世紀の人類史的な厄災を招来したというのがわたしの世界認識だった。わたしはこの認識の型を超えるのに生の大半を費やした。
 20 歳かそこらのとき森崎和江の『闘いとエロス』という本を読んで、彼女のおんなとしての科のつくりかたは終生わたしと相容れないことがすぐわかった。もう手元に本がないのでうろ覚えだが、この本の最後のほうで、大正行動隊のメンバーが東京へ出奔するという谷川雁に貴様のような奴は殺してやるといって包丁を突きつけた場面があったと思う。森崎和江が隊員を諫めたようにわたしは記憶している。なんでたかが包丁ごときをたたき落とさなかった。この隊員と差し違えなかった谷川雁をわたしは軽蔑した。あれらは人心を惑わせる有害無益な言説だった。
 なにより大正行動隊には決して書かれざる事件がある。わたしはこの事件についての落とし前を聞いたことも読んだこともない。わたしは収まらぬ気持ちで熱い塊となって上野英信に文句を言いに行った。素振りのあとの汗を拭き拭き、彼はサントリーの角瓶の封を切ってくれた。わたしは彼を罵倒した。なんでおまえたちは綺麗事しか書かないのか。彼はそれは書けないといった。それなら書くなとわたしは言った。あきらかに彼は気圧されていた。たらふく酒を飲んでわたしは帰ったが、なにかが決定的に違うと感じたことだけは鮮烈な印象としていまでものこっている。
 彼らの為したことは当時の基層民のありようを偲ぶよすがとはなりえても、引き裂かれた生の根底を貫いてこの世にこの世ならざるものを現出させる言葉の力を持ち得ていなかった。それは地を這いずる民により添った言葉でしかないからだ。そんなものは曲がりくねった不意打ちの生を生きていくうえでなんの役にも立たない。なくてもかまわぬ包装紙のようなものだ。そういうふうに彼らがわたしに映ったのは、世界が引き攣れてしか見えなかった当時のわたしの狭隘さに帰すことはできないと思う。彼らの言説は擬い物である。昔も今も変わりなくそうであるとわたしは断言する。
 そういう意味ではいくらかわたしの方に予断があった。出会うには時節というものがある。わたしは今回はじめて石牟礼道子の言葉に得心するものを感じた。30 年かかったわけだ。石牟礼道子の言説には際立った特徴がある。一言で言うと、権力の臭いがしない。これはほとんどありえない稀なことだと思う。引用のふたつの文章を知ったことでわたしは充分だった。わたしに身近なものとして渡辺京二や石牟礼道子の言説を論じることができると思う。
 山本巌は書いている。

 〈いつもの、あの昔話ば、せろちゅうかえ。よし、よし。いつものあの、ふゆじどんの、話ばして、くりゅうかい〉
 胎児性水俣病患者、杢太郎少年を、あぐらをかいた膝に入れて舟のようにゆすりながら、爺さまは、現実には催促することもない孫に向かって話し始める(「苦海浄土・第二部」「辺境」連載)。
 「ふゆじどん」とは、無精者あるいは無為者のことである。
 〈むかし、むかし、爺やんが家の村に、ふゆじの、天下さまの、おらいたちゅう。なして、ふゆじどんにならいたか、ちゅうと、三千世界に、わが身ひとつを置くところが無か。辛かわい、辛かわいちゅうて、息をするのも、世の中に遠慮遠慮して、ひとのことも、わが身のことも、なんにもでけんおひとになつてしまわいて、ふゆじの天下さまにならいた〉
 〈なして、それほど、遠慮遠慮したおひとに、ならいたかちゅうと、あんまり魂の深すぎて、その深か魂のために、われとわが身を助けることが、できられんけんじゃ。のう杢よい〉

 世界のいちばん深いところを流れている石牟礼道子の言葉の根っこについて渡辺京二は『あやとりの記』を彼女の最高の作品と評しながら語る。

 みっちんは水蓮の葉や草の葉先で、今にもこぼれ落ちそうな露の玉を見ると、「生まれない前のわたしかもしれん」と思って、息が止まりそうになることがあります。そして「なんとその自分に逢いたいことか」と考えてしまいます。それはどうしてなのでしょうか。
 みっちんは「迫(せこ)んたぁま」についておもかさまに聞いたことがあります。婆さませこの答は「この世に居りきらん魂じゃ」というのでした。恥かしいのでこの世に居れずに、形を持たぬ魂だけになっているというのです。「迫(せこ)んたぁま」は水俣の民話の世せこ界の一員に違いありませんが、この解釈はおもかさまの独創、つまり作者の独創です。つまり、この世に居るというのは、作者によればそれほど羞かしいことなのです。(「石牟礼道子の時空」『隠れた小径』)

 たまらなく良い文章だと思う。神経を病んで「生木が音を立てて毎日裂けてゆくように、彼らの心は一日一日とひき裂けていた」その「社会の中の一番深いわれ目」を、こういうやわらかい言葉でくるんでしまえる石牟礼道子とはいったいなにものなのか。「あんまり魂の深すぎて、その深か魂のために、われとわが身を助けることが、できられんけんじゃ」という珠玉の言葉は『あやとりの記』でさらに深くなる。おもかさまは葉先で今にもこぼれ落ちそうな露の玉を「この世に居りきらん魂じゃ」といい、「恥かしいのでこの世に居れずに、形を持たぬ魂だけになっているというのです」。なんという魂の深さか。ここを感得することができれば石牟礼文学の核心だけは手に取ったことになるといってよい。

     2
 おそろしく射程が長く、おそろしく困難な思想を渡辺京二は引きうけている。渡辺京二評論集成四巻と『なぜいま人類史か』を再読した重量感はそうしたものとしてある。『日本近代の逆説』といい、『なぜいま人類史か』といい、問いのあまりの愚直さにおいて彼は思想家でしかありえない。いいかえればほかのどんなものにも彼はなりようがない。もちろんいきなり日本近代の逆説を人類史的な視点から巻き直してみようと考えたわけではない。彼が終生のテーマにゆきつくにはひとつの出会いがひつようだった。この迂回路を経て渡辺京二に思想的な転機が訪れる。その間の事情について彼は言う。

 一九六九(昭和四四)年に水俣と関わったのは、あとから考えれば生涯の思想的転機だった気がします。石牟礼道子さんと知り合うなかで、水俣との関わりも生まれたのですが、彼女の『苦海浄土』の初稿は、私が出した「熊本風土記」という雑誌に一年間連載されたものです。六九年、水俣病患者が提訴しましたから、「水俣病を告発する会」をつくって活動を始めたんです。当時私はそれまでの左翼運動と完全に訣別したつもりでいたし、「告発する会」の活動も従来の型や論理を超えたものにしようとしたんだけれど、結局これは私の一七歳以来の、自分の深部から生じる夢を、社会的な運動の形にしてゆきたいという志向の最終局面だったんですね。その中で自分の本当のテーマが浮上して来た。
 共産党を離党した後、私の最大のテーマは、世界史的な展開と、一人の何でもない存在との間にひらける亀裂という問題でした。共産主義運動は世界史の論理ですが、そうした世界史的な運動と、小さい一人の人間の絶対矛盾のようなものですね。つまり、世界史的な運動が展開される過程では、非常に不合理な、どうにも説明できないような無名の人間の死が累積されてゆく。それは絶対どうにもならないことなのかもしれないけれども、共産主義連動や革命において、一人の無名の人間の生を全うするような、一人の人間の生を無条件に肯定し成り立たしめるような世界史的な運動がどうしてありえないのか、なぜ世界史的な運動は、無名の一人の人間を圧殺せざるをえないのか、ということなんです。
 そういう私の前半の思想テーマが、水俣を通じることによって、日本近代が建設されるなかで、近代から疎外されたところにいる民の問題と結びついてきた。そのことが、具体的に実感をもってわかってきたわけです。水俣の患者である漁民とつき合い、石牟礼さんが書かれるものを通じて、日本近代というものは、こういう民の位相を疎外するかたちで建設されてきたんだと気づいて、新しいテーマが浮上してきた。それ
が私の前半のテーマと結びついて、近代の意味を根底から問いたいという、私の物書きとしてのテーマになったのだと思います。(「現代という荒野で」『図書新聞』2001年9 月1 日)

 一九七〇(昭和四五)年前後から、日本の基層的な生活のなかにいる民の世界観の様態を、近代は取り残していると感じ始めたのです。要するにマルクス主義も含めて、近代的な構築物とは対極に民の位相がある。これはイヴァン・イリイチ的なテーマにもなってくるんですね。たとえば中南米のインディオに残っている生活には、近代文明の位相に取り込まれない、大地と密着している位相があって、それが人間という生命体のいとなみの原基的なありかたを示唆しているとともに、近代の不気味な実体を照らし出しているのですね。
 私はそのことに、水俣の運動のなかで気づいていったと思うんです。気づいたというよりも、そういうことに気づいたことの表現が、水俣の運動だったと思うんですね。
 ですから、反政府、反権力、左翼エコロジズムといった運動の論理とはまったく違っていた。そうではなくて、要するに水俣病の患者が言っていることは、日本の築いた近代社会の論理が私にはわかりません、私は人間の声が聞きたい、私たちの生活から出てくる人間の声が通じないんですか、ということだったんじゃないかと思うんですよ。そういう水俣病問題についての私の理解は運動の中でも孤立していたわけで、結局この運動から離れるとともに、十代以来の革命へのパトスみたいなものも完全にふっきることになりました。(同前)

 くどくなるがもう少し渡辺京二が語る水俣と石牟礼道子のことを聞いてみる。

 私のように近代的な知の中で育てられた人間が、石牟礼さんの世界、例えば「苦海浄土」をガイドにして、水俣の漁民たちに接してみると、それまで見えなかった世界が見えてくる。自分の世界を拡張し、転倒してくれたという点で、石牟礼さんには感謝しています。石牟礼さんや水俣とかかわらなければ、自分のそれまでの知識としての世界認識がいかに極限されたものであったかを知らないままでいただろうと思います。(「渡辺京二さんと語る―近代をどう超えるか」「夕刊読売」2002 年4 月16 日号)日本の近代を論じた一九七〇年代の私の仕事は石牟礼さんの描く、ああいう民の世界があるんだという発見を根底にしたものです(同前)

 あのイメージ(「基層民」のこと―森崎注)も石牟礼さんに触発されて生まれたものです。(同前)

 各篇については特に注記すべきこともないとは思うものの、未練がましくいささかのことわりをつけておく。私と水俣病問題との関わりは、実質的には昭和四十八年の第一次訴訟判決、とくにその直後の自主交渉派と第一次訴訟派による東京交渉によって終っている。その後もぐずぐずと関係を続けて来たが、昭和五十九年をもって完全に関わりを絶った。私は一貫して社会問題としての水俣病と関わるつもりはなく、政府や自治体あいての要求闘争に何の関心もなかった。そういうことは運動家や弁護士や医者や法学者などがおやりになればよいことで、いくら何でも、旧態依然たる左翼の運動論理につき合わねばならぬ義理は私には一切なかったのである。しからば私にとって水俣病とは何であったか。それは諸論稿に明白に述べた通りであって、私は自分が〝運動〟に関わった全期間を通して、心の底では完全な孤立を味わっていた。(「あとがき」『新編小さきものの死』)

 わたしは水俣病の問題についてはなにも知らないが、えにしのあった部落との関わり合いでいえば、渡辺京二が「私は一貫して社会問題としての水俣病と関わるつもりはなく」「私は自分が〝運動〟に関わった全期間を通して、心の底では完全な孤立を味わっていた」ということはよくわかる。彼は『新編小さきものの死』のあとがきで水俣経験の総括が「ドストエフスキイの政治思想」だと述べている。彼の年来の思想が凝縮されているところを抜きだしてみる。

その(西欧型市民社会のこと―森崎注)致命的偏向とは、人間の共同社会を拮抗する利害の体系としてとらえ、その利害追求の客観的規準を法というルールに求めることによって、桔抗する個人ないし集団の利害を調整し、最大限の効率性と合理性を実現しようとする市民社会の根本原則を指す。(略)
しかし、先入主を排除し、歴史的時間軸をかなり長くとって観察するならば、利害の体系として人間の共同社会をつくりあげて来た西欧型文明はそれ自体かなり強烈な偏差を示す文明の一夕イプであって、人類史上、唯一の普遍者の地位を要求するにはほど遠いものであることがわかる。

 ここは渡辺京二の思想の核心をなす部分である。離群の衝動と、それにも関わらず群落ちせずともすむ人と人との関係への幻想的な希求のあいだの矛盾はどう止揚されるのか、それが渡辺京二が思想として考えようとしていることだ。この立場からは「西欧型の文明はそれ自体かなり強烈な偏差を示す文明の一タイプであって、人類史上、唯一の普遍者の地位を要求するにはほど遠いもの」と見える。天地生存と社会生存の裂け目を合一することは彼にとって終生のテーマである。どんな境涯であれ天地生存は可能であるし、同時に社会生存としては苦界は解除すべきであるというふたつの命題は彼にあっては分離できない強度で結合している。だから一見奇怪とも思えることを平気で彼は言う。

 一人の人間が生きて死ぬ中で、どんな悲惨な死でも、それは自分で選び取ったんだ、と。極端な話ですが、ナチスのガス室に送り込まれても、自分で選び取った生は手放してはいないんだ、というような見地をどう作り上げるか。(「渡辺さんと語る―近代をどう超えるか」「夕刊読売」2002 年10 月10 日号)

 はじめにざーっと読んだときはなにが言われているのかわからなかったが、やがて得心した。これはまったく渡辺京二のオリジナルな考えだと思う。『モモ』を書いたエンデもおなじことを言っている。
 「ここで私は、あるロシア人の人形使いのことを想い出さずにはいられません。その方に私は一度お会いする光栄に浴しました。その方は何年もの長い間、ナチスの強制収容所に入れられておりました。ほんの僅かのじゃがいもの残りから、彼は少しずつ指人形の人形を一揃いつくりました。そして監視人が近くにいないとき、それで子どもにメルヒェンを演じて見せ、子供を笑わせました。また、子どもたちといっしょに、子どもたち自身の運命、さらにはその死さえも演じました。判決を受けた人と共に、死刑執行の前夜、その人の運命を演じたこともたびたびでした。それを演じた彼のそのやり方が、死刑を前にした人々に、再び自分たちの尊厳を思う気持をとりもどさせたのでした。彼らは死なねばなりませんでした。しかし、その死に方が変わりました。泰然と、心安らかとさえ言えるほどになったのです。それがそれらの人々に何の役に立ったのか、と問うことも確かにできるでしょう。けれども、私はそういう問いはいたしません。(『なぜ子どものために書くのか?』ミヒャエル・エンデ/上田訳)
 人は意外と思うかもしれぬが、夕刊読売での発言と有名な『小さきものの死』の巻頭にある「序詞小さきものの死」とは通底しているのだ。渡辺京二が若いころ、田舎で療養していたとき、隣の病棟に天草の農村から極度に衰弱した母娘が送り込まれて、一晩のうちに二人とも死んでしまう。
 「私は鮮やかにひとつの光景を見た。死にかけている母親の痩せた腕が機械じかけのように娘の体をさすっている光景を。そしてこの母親は娘もまたすぐに死ぬであろうことを確実に知っている。この光景が与えた衝撃―(略)この事実はまだ少年といってよかった私には震撼的だった。少年の直覚は、こんなことがあってよいはずがない、赦されてよいはずがないと叫んでいた」
 「しかし、或いは遂に終わりないかも知れぬ人類の前史にあっては、小さきものの死は常にこのように残酷を甘受せねばならぬ運命にさらされている。・・・彼らにもし救いがあるのなら、それはただ彼らの主体における自覚のうちになければならぬ」
 そして「主体における自覚」はまた、「人間社会全体の動き、仕組みの中で、どうやれば人間が自分の主体的な生を生きられるかというテーマは残っている」(「渡辺さんと語る―近代をどう超えるか」「夕刊読売」2002 年10 月10 日号)こととして歴史的な現存のなかへと回収され円還する。なんとなれば、「私は個的現存と共同的現存との統一が、人類史の本質的課題だということを承認する点で、若かったときとおなじようにマルクスの生徒だと思っている」(『日本近代の逆説』)からだ。おそらく天地生存と社会生存を掌のうえで転がすまでに気の遠くなる内的な体験を彼は経てきている。
 すでに批判的知識人の役割は終わっているという認識が彼にはある。しかしそれにもかかわらず、文章表現をする人や思索をする人はなくならないと彼は言う。「徹底的に言うなら、一人になることです。衆を頼まない、他に影響を与えるということを考えない。(略)一人の無名者として思索し、表現していく。それがまっとうな知識人なんだということになってくれればいいんじゃないか」(同前)。ここは夕刊読売の「渡辺さんと語る」シリーズでとても好きな箇所だ。わたしもそう思う。

     3
 ところでわたしがここで試みようとすることは自己表現を基点としてなされる批評ではない。そういう意味ではこれを批評ということはできない。近代の暗部を、文字以前を生きる前近代の民のコスモスの輝きで包もうとするならば、まずそのことをあらわそうとする表現の拡張が同時になされるほかないとわたしは考えている。ひとかたならず関心を持つ渡辺京二の近代の逆説についての所説を内包論から存在論的に読み解けばどんな世界が見えてくるか、それがわたしが試みたいことだ。
 わたしは内包論で、歴史や現実の考察にたいして、つねに存在論的な思索がそれらに先立つということをことあるごとに主張してきた。哲学であれ歴史であれ、現実についての批評であれ、それらの叙述は自己同一性を前提として論じられている。固有名をあげればヘーゲルでもいいし、またマルクスでもよい。あるいは反ヘーゲル的言説でもいいし、反マルクス的言説でもよい。いずれにせよ言述はほかならぬこの「私」によってなされているという確信に貫かれている。いま、人類史を考察するにあたって自己表現という枠組みは制約であり表現の可能性を閉じるものとおもえてならない。
 自己が所与のものとしてあるのではなく、根源の性によぎられることで事後的に結ぼれるものだとするなら、そのとき渡辺京二の世界はどういうものとして読み替えることができるだろうか。自己は意識の最終的な実定ではなく、内包存在を分有する結び目のひとつにすぎないとする私の内包論と一瞬火花を散らさないだろうか。それもまたひとつの読みであるはずだ。
 存在するとはべつの仕方で存在を包越する内包存在論の立場から渡辺京二の思索を読み解いてみようと思う。わたしが彼の思想に関心をもつのは彼の思想が時代から取り残されているように見えながら、逆に時代を置き去りにして先に進んでいることがはっきりと感じられるからであり、おそらく、そのことを彼は、「この巻に収めた論稿はいずれも日本近代についての私の独特の解釈を述べたもので、得心のゆく反論にも、感謝すべき同意にもまだ出会っていない気がする」(『日本近代の逆説』)ということとして表明している。彼のこの想いは著作の全巻を通じて胸奥深く地下水のように流れていると思われる。わたしがこれから為そうとする渡辺京二論が彼の腑に落ち同意を誘うものであるかどうかそれはわからぬが、一箇の読みとして成立するところまでは迫ってみたいと思う。
 内包表現という知覚の場所から渡辺京二の世界をのぞくとなにが見えてくるか。石牟礼道子が作品として描く前近代の民のコスモスを理念化しようとしている渡辺京二はもはや自己表現しているのではない。彼の仕事はわたしからはそう見える。彼は彼女を媒介として内包表現しているのだといってよい。たとえば渡辺京二は「石牟礼道子の世界」でいう。

 彼女は水俣市立病院に坂上ユキを見舞った時、半開きの個室のドアから、死にかけている老漁師釜鶴松の姿をかいま見、深い印象を受ける。「彼はいかにもいとわしく恐ろしいものをみるように、見えない目でわたくしを見た」と彼女は感じた。

 〈この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。〉

 こういう文章はふつうわが国の批評界では、ヒューマニズムの表明というふうに理解される。この世界に一人でも餓えている者がいるあいだは自分は幸福にはなれない、というリゴリズムである。この文をそういうふうに読むかぎり、つまり悲惨な患者の絶望を忘れ去ることはできないという良心の発動と読むかぎり、『苦海浄土』の世界を理解する途はひらけない。そうではなくて、彼女はこの時釜鶴松に文字どおり乗り移られたのである。彼女は釜鶴松になったのである。なぜそういうことが起りうるのか。そこに彼女の属している世界と彼女自身の資質がある。
 彼女には釜鶴松の苦痛はわからない。彼の末期の眼に世界がどんなふうに映っているかということもわからない、ただ彼女は自分が釜鶴松とおなじ世界の住人であり、この世の森羅万象に対してかつてひらかれていた感覚は、彼のものも自分のものも同質だということを知っている。ここに彼女が彼から乗り移られる根拠がある。(『新編小さきものの死』)

 「釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ」と石牟礼道子が言うとき、渡辺京二も述べているように、文字通り釜鶴松は「わたくしの中に移り住んだ」のだ。渡辺京二は石牟礼文学の宇宙が奏でる最深の音を聞き取ろうとして、乗り移りという不可思議な事態の根拠を、彼女が釜鶴松とおなじ世界の住人であることや、彼らがかつて森羅万象にひらかれていたという前近代の共同的な感性の根におこうとしている。しかし、ここで起こった神秘は、自己や共同性という二元論的な道理で汲み尽くせるようなことではない。むしろ自己意識の外延性ではここでのこの世ならざる事態の豊饒な混沌に触れることはできないという気がしてならない。
 わたしの読みではこの場面で意識の二重の転換が生じている。わたしたちが無意識に表現の公理としてきた意識の同一律すなわち自己同一性はここで完全に破れている。釜鶴松の悲惨をまのあたりにした石牟礼道子と、彼から見えない目で見られることによって、彼の往生できない魂魄は、「この日から全部わたくしの中に移り住んだ」という石牟礼道子がいる。たぐいまれな彼女の感受性は見られることによって、彼、すなわち釜鶴松となる。かりに、見る視線を往相の視線と呼んでおこう。彼女は見返されることによって、彼釜鶴松の魂と同期することになる。この視線を還相の視線と呼んでみる。ここまでならばある意味、極限のヒューマニズムのありようとして説明することができるかも知れない。
 しかしここで起こっている神秘はそこにとどまらない。ぐるんと世界が反転し内と外がめくれ返っている。それは意識の外延性からは奇蹟のような出来事として見えるはずだ。この驚きのことを渡辺京二は「石牟礼道子の時空」で「日本近代文学が描いてきた世界とは異質な、あえていえばそれよりひと廻りもふた廻りも広大で、しかも深く根源的な世界を表現しようとしている」(『隠れた小径』)と評している。言い得て妙だと思う。石牟礼道子においてもそれがあることによって彼女が彼女となる、人であることに内属する根源の性によぎられて、見返され、乗り移られた瞬間に彼女は彼女であるにもかかわらず彼女ならざるものへとすでにして包越されているのだ。往相の石牟礼道子と還相の石牟礼道子は人間という形式においては同一であるにもかかわらず表現としてはまるでべつものへと転位している。それがここで生じている意識の転換のひとつめにあたるといってよい。
 石牟礼道子はじしんの心のうちに生じたことを書いているのだが、それを読む渡辺京二のなかでも変化が生じる。石牟礼道子の文学宇宙の気配を察知することによって、彼もまた乗り移られていくのだ。そこで起こる意識の転換は同型である。そしてそれは石牟礼道子が書いた文章を媒介として生成している。この意識の転換は次々と知らずに伝播していく。なぜこういうことが可能となるかといえば石牟礼道子が生きている森羅万象が森羅万象という一元を生みだす根源の性が表現した造形物にほかならないからだ。
 つまりここで森羅万象もまた二重化されている。意識の外延性がたどる実在としての森羅万象と、存在を包越する内包存在という根源の性の表現として内包自然へと拡張された森羅万象とに。ここまでくると表現の概念を変えるほかに石牟礼文学の秘密に迫ることはできないように思えてくる。そうでないかぎり彼女はいつまでも意識の外延性の外にある巫女として遇される。
 自己と共同性の始源をなす、あるいは近代と近代を包括する前近代を対比するとき、それらを包み込む森羅万象という概念がすでにしてモダンなのだとわたしは思う。自然の一部でありながら、自然にたいして異物として作用する、人であることにつきまとう生の奇妙さをすくいとるには、新しい概念がひつようなのだ。そのために人間の在り方そのものをいままでとは異なったしかたで認識すること。それ以外に石牟礼文学が正当に批評されることはない。
 問いたいことはここにとどまらない。内包存在を分有する内包者の観点から見えてくることがある。前近代の豊饒を生きる石牟礼道子はなぜこの世のどこにも身を置く場がなくかなしみで反り返るのか。この問いをわたしはじぶんじしんにむけても発している。こう問い直してもよい。人々はなぜ国家と市民社会という制度とそこを循環する貨幣経済を人間にとっての自然として選んだのか。わたしたちが快楽の活用にみずからをささげたのはなぜなのか。金と情報がもたらす快適さと利便さにわたしたちがなびいたのはなぜか、と問うてもよい。わたしは内包存在という根源の一人称を矛盾のあいだにはさみこむしかないと思う。そしてここに近代を超える根拠があるのだと思う。もう少しこの問いを続ける。おなじく「石牟礼道子の世界」で渡辺京二は言う。

〈荒けずりな山道を萩のうねりがつつみ、うねりの奥まる泉には野ぶどうのつるがたれ、野ぶどうでうすく染った唇と舌をひらいて、ひとりの童女が泉をのぞいていました。泉の中の肩の後は夕陽がひかり、ひかりの線は肩をつつみ、肩の上はやわらかく重く、心の一番奥の奥までさするように降りてくる身ぶるいでした〉(『愛情論』)

こういう文章に筆者の強烈なナルシシズムを見出すことはやさしい。しかし、ここで筆者がキャンバスに塗ろうとした色は、やはり何にもたとえようのない孤独だといってよい。そして、泉をのぞきこむ童女の孤独は、彼女が存在のある原型にふれておののいていることから生れている。この一瞬は彼女に何かを思い出させる。その何かとは、この世の生成以前の姿といってもよく、そういう一種の非存在、存在以前の存在への幻視は、いうまでもなく自分の存在がどこかで欠損しているという感覚の裏返しなのである。「生れる以前に聞いた人語を思い出そうとつとめます。のどまできているもどかしさ」「ずいぶん、わたしはつんぼかもしれぬ」「きれぎれな人語、伝わらない、つながらない…」。こういう嘆きを書きつける時、彼女の眼には、そこでは一切の分裂がありえない原初的な世界がかすかに見えているのにちがいない。

 「一切の分裂がありえない原初的な世界」を思いだそうとすることがなぜ「自分の存在がどこかで欠損しているという感覚」となってあらわれるのか。いったい彼女が存在の原型とみなすものはなになのか。文章読みの勘としていえば、石牟礼道子の最深の場所にある魂のふるえは、生きとし生けるものがさんざめき照応し合っている森羅万象という実在によっても癒されることがないことを直覚しているようにおもえてならない。
 天地生存と社会生存の矛盾を合一する森羅万象を一元とし、そこからの偏りとして近代をとらえる観念は、実在もまた実在という観念のあらわれとみなすとき動態化することができる。法を規準に個人や集団の利害を追求する西欧型市民社会を人類にとっての唯一普遍の文明とするには値しないと考える渡辺京二は、近代が達成した偉大さをそれとして認めながら、このゆがんだ近代を跨いで超える人間と人間の関係のあり方の原型を前近代の民のコスモスの感覚に求めている。斯くして問いはふりだしに戻る。

人間と人間は媒介するものがないとつながらないと思うんです。自分を取り巻いている実在世界、山や川や空、そういった森羅万象に畏敬の念を持たないなら、人間に対いけいしても畏敬の念を持てない。まず森羅万象の偉大さに畏敬(いけい)の念を持ち、それに媒介されて、人間への畏敬の念が生まれる。人間が一対一で向き合って、共同的な関係を作ろうとしても無理だと思うんです。(「渡辺京二さんと語る―近代をどう超えるか」「夕刊読売」2002 年4 月26 日号)

 個々人が森羅万象に畏敬の念を持つことによって人間への畏敬の念が生まれ、共同的な関係も可能となると渡辺京二は言う。いいかえれば自然宗教のもつ生産性をもっと評価しようと彼は主張するのだが、渡辺京二の考えとは反対に、わたしは人間と人間が一対一で向き合う関係からしかわたしたちにとっての生きられる世界ははじまらないと思う。むろんそのためには森羅万象という概念も、人間という概念も、共同性という概念も根こそぎ転倒されるほかない。
 渡辺京二の所論の意に沿って言えば、だまし得のだまされ損を旨とする市民社会の狡知よりは、「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」(『苦海浄土』)という語りにあらわれる漁師の心映えの方が圧倒的無条件にいい。いうまでもなくどこであろうとまたどういう境遇であろうと心善き人というものはかならず存在する。そのことは昔も今もこれからも変わりなくあることだが、文字以前を生きる前近代の民、あるいは基層民はすでに社会の地殻変動の波に洗われ壊滅し消滅したといってよい。
 ここでわたしたちは、人間が意志をもって社会に働きかけることで理想の社会を創ることができるのかという途方もない課題にぶち当たっている。人間は無意識に歴史を織りなしてきたのだが、意志をもって歴史を創るのに適さないし耐ええない存在かも知れぬという根深い疑念が湧きあがってくる。太古の人類に歴史の桃源郷を遠望する思考の型がある。それは自己の陶冶と他者への配慮が分裂してあらわれるからにほかならない。この分裂や背反や逆立を解くことは可能か。この課題をめぐって理念は理想の理念の祖形を求め続けてきた。もちろんただのいちどもうまくいった試しはない。いっそのこと今西錦司の「成るべくして成る」自然思想に与したいとさえ思う。これさえ言っておけばけっして踏み外すことはない。しかしぐっとこらえて一踏ん張り。文明の型を存在論の拡張によってひらくことができるならば、意志論を手放さずに歴史をあたらしく創世することが可能なはずだ。わたしは一心にそのことを考え続けている。
 かりに人間にいちばん近い生物種を霊長類とするならば、わたしは人間と他の霊長類のあいだには超えがたく深い溝があると考えている。ともに自然の一部であり、生存の形式としていえば自然が自然と関係しているというだけのことだが、わたしは他の霊長類は生きているということを意識してはいないと思う。もちろん自然科学的な知見が積みあげられていくにしたがって、わたしたちは思いのほか霊長類に近く、彼らとわたしたちを分かつものはほとんどないことがあきらかになってくるにちがいない。ゲノムの領域においても、生態学の領域においても、あるいは文化の領域においても、ほぼ連続していると科学知は告げるような気がする。わたしが言おうとしている深淵はそういう知見のことではない。
 かつて1980 年代にポスト・モダンの馬鹿どもが、人間中心主義の解体や、主体の解体を声高に叫んでいた。そんなものはバブルだからすぐに滅んだが、そのあおりをくらって自然科学やその周辺の知はいっせいに生命ということを取りあげはじめた。それはゲノム科学でも精神医学でもそうだった。人間という固有の概念を生命という概念へと外延することで、人間という理念を救抜し延命したいという衝動が働いていたのだと思う。この観点から中村桂子は『自己創出する生命』で生命誌を唱え、木村敏は西田哲学の人間中心主義を批判した。もちろんその心的な機制はよく理解できる。
 しかし徹底して突きつめて考えられるべきことは、なにが人間に固有の現象であるかということにあるとわたしは思っている。自然の一部である人間が自然を認識するという神秘は精神現象として解かれるほかない。なんとなれば人間の現象を解明する自然科学もまた精神現象の一つの枝葉に過ぎないのだから。自然科学はいくぶんか勇み足で考えの機序を転倒している。生の奇妙さや驚異は観念の問題として究尽さるべきことである。
 初期の人類が分裂病親和的な気質によって待ち受ける困難や危険を気配として察知し、またそうすることで人類の生存に寄与してきたことは木村敏や中井久夫によってすでに書かれている。醒めた言い方をすれば正常とされる精神の型も正常という異常な精神の型にすぎないと思っている。幻想のうち皆の合意が成立する部分を現実ということにしてそのなかでわたしたちは生活してきただけだ。もちろん永い艱難辛苦の歴史をかいくぐってきた人間の叡智がそこに凝縮されていることはまちがいない。そこにはある種のバランス感覚が確実に存在する。
 たとえば自閉症という精神のふるまいがある。わたしの乏しい知見では分裂病のもうひとつ奥にある深い闇だと理解している。存在(ある)の了解の仕方から文明が派生したとわたしは考えているのだが、自閉症は存在(ある)の了解の初期不良の痕跡をもっとも色濃く遺している精神のふるまいではないかと思う。おそらく雨乞いをして自然に働きかけることや、自然を擬人化して自然への仲間入りを願ったアニミズムや自然宗教よりもふるい精神の形象が保存されているのだと思う。そこでは物たちは意志の力を持ち、人は人という名の特殊な物であったといってよい。私が読み知ったドナ・ウィリアムズは25歳のときにじぶんが自閉症であることを識り、27 歳でイアンと出会い、身も凍るような激烈な発作を通じて、「(人というものに)属する」、「わかち合う」、「いとおしさ」という人間にとっての根源的な感情を発見していく。この精神の古代形象から見ればアニミズムや自然宗教は比較的現代に近いモダンな心性だとみなしてよい。未明の混沌を生きた初期人類の意識の系統発生をドナ・ウィリアムズは個人の生涯で体験したのだと思っている。「属する」も「わかち合う」も「いとおしさ」も自己の陶冶と他者への配慮が分裂する以前の根源の性から発せられる情動であり、意識の起源をなす根源の一人称の存在可能性をあらわしている。ドナの体験は人間の由来や存在のあり方に関してふかい示唆をふくんでいるようにわたしには思える。ここまで意識のありようを巻き戻して存在(ある)をつくりなおすことをわたしは夢想している。

 言葉の散歩をしていて思わず真剣になったところでこのメモは終わるわけだが、現実(とわたしたちが思っている観念)と渡辺京二がとりもつ距離感はとても好きなものだ。どういう思考の弓を引こうと日々の暮らしぶりは変わることがない。

 つまり、こういうことだと思うんです。「もう一つのこの世」は自分の中にしかない。それへの憧(あこが)れ、衝迫、希求を持った者が自立しながらつながり合う。社会制度と言うより、社会における気風、エートスですね、それを日々接している友との関係の中で求めていく。そういう営みの中に「もう一つのこの世」も実在するということなんじゃないでしょうか。/すでに出来上がった職域的な小社会を超えた人間的な結びつきはいろんな形であり得ると思います。表面的な文化を求めて群れ集うというのではなくて、そこで近代社会のとらえ返しをやる。それを通じて、つつましく、しかし、自分に自信を持った人間としてのあり方をはぐくむ。何より他者に対して感応する能力を培ってゆく。そういうことのできるような関係です。(「渡辺さんと語る―近代をどう超えるか」「夕刊読売」2002 年4 月25 日号)

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