箚記

中沢新一ノート1

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1 カイエ・ソバージュの方法

中沢新一の『カイエ・ソバージュ』を中心にかれの対称性人類学について考えてみます。かれの書いたことを内包論から眺めるとどうみえるか。中沢新一について書きたいことはそのことに尽きます。これからさまざまな著作家の考えを俎上にのせていきますが、そのことを通して内包論の骨格と輪郭を明瞭なものにしたいからです。簡単ではないですが、縦横無尽にやります。

モダンな立ち位置から対称的思考という人間の可能性を語ろうとする矛盾した思想として中沢新一の思想はわたしの前にあらわれた。対称性人類学とモダンな観察する理性は相容れないことを内包論から述べてみます。

10年以上前に読んだ『カイエ・ソバージュ』の折りを入れたところをざっと読み返して、饒舌だなあとか無駄な知識が多すぎるといった印象があります。なぜこれほどに能弁なのか。それは簡単なことだと思います。対称的思考の可能性について記述するとき、かれ自身の在り方はなにも変わっていません。人間にとっての観念の可能性を観察する理性として語ることは対称的な思考にとって矛盾です。この矛盾を埋めるためにさまざまな知識をかれの視野のなかにレイアウトすることになっています。「世界と対座する私」、それがかれの語り口の特徴だと思います。同一性を前提としながら流動的知性という第三期の形而上革命について物語るのです。

意識の第三層について語ろうとすれば、語るじぶんのあり方が変わることでしかそのことをあらわすことはできないのです。流動的知性の可能性を語るとき、じぶんもまた拡張されるのです。その思考の襞がどこにも見えません。

対称性人類学の企てについて中沢新一は対称性とかれが名づける知性の働きを据えることによって、人間の全幻想領域を一貫した視点から再編成し、新しい生の様式を創りたいと言っています。わたしの考えとよく似ているように思います。同一性と対称的思考は共存できるでしょうか。同一性によってあたらしい観念の世界をつくることができるでしょうか。中沢新一は可能だと思い彼の思想を提唱しています。
わたしはできないと思います。同一性の彼方の出来事を同一性で指し示すことはできません。わたしは根源の性が同一性の起源だと考えています。この驚異は自己へも共同性へも還元できず、それ自体としての領域としてあります。内包論では分有者であり、外延論では奥行きのある自己、あるいは領域としての自己となります。

中沢新一によれば対称性の思考は人間にとってのもっとも基体となる豊穣なものだとされているが、それならばなぜその善き野生の思考がスピリッツから一神教へと抑圧されていったのだろうか。『カイエ・ソバージュ』を読んでもこの疑問が解消したことはない。むしろはぐらかされた気がします。アニミズムから一神教へという理解は通俗の追認ではないのか。それは世界の可能性を物語るかれの語り口からきているように思います。つまり外延論の語り口で野生の思考である対称性を論じているのです。

2 こころの素過程と自由

かれの思想はいくつかの中心的な概念から成り立っています。

中心的な概念を、
こころの素過程と自由
有情と他者
一と多、部分と全体
として抽出してみます。

このいくつかの概念に交換や交易、贈与を織り込んでかれの世界はできています。

中沢新一の流動的知性はスティーヴン・ミズンの『心の先史時代』にアイデアを負っています。わたしもむかし読んだときおもしろいと思いました。デネットの『解明される意識』もインパクトがあります。また両者は連動しています。ミズンは知性の流動化についてつぎのように言っています。

 心の先史を知れば、人間であるとはどういうことかについてより深い理解が得られる。筆者はこれを使って芸術と宗教の起源を解明した。そして本書をしめくくるにあたって、現代の心に固有の成果である第三のもの、つまり科学のことを考えなければならない。このことについては、それが認知的流動性のある我々の心に最も重要な特徴を見きわめる手がかりになるだろうということで、本書の序論にあたる章で触れておいた。
 科学の定義は、ひょっとすると芸術や宗教に劣らず難しいかもしれない。しかしそこには鍵となる特質が三つあると思う。一つは、仮説を立て、それを試す能力である。前の方の章で論じたように、これは特化した知能には欠くことのできないものだ。たとえばチンパンジーが社会的知能を使って騙すという行動をとっている時には、明らかに他の個体の行動について仮説を立て、それを試している。筆者は、初期のホモ属や初期人類には、資源の分布、とくにあきるべき屍体の場所については、博物的知能を使って仮説を立て、それを試す必要があったと論じた。
 科学の二つめの特質は、月を見るための望遠鏡、蚤を見るための顕微鏡、はては思いつきや成果を記録するための鉛筆や紙にいたるまで、特定の問題を解決するために道具を開発し、使用することである。さて、上部旧石器時代の狩猟採集民は望遠鏡や顕微鏡を作りはしなかったが、それでも博物学的なことと道具製作に関する知識を統合することができたので、ある程度は特定の目的のための道具を作ることができていた。それに、彼らは物質文化を使って、考古学者フランチェスコ・デリーコが「人工の記憶装置」と呼ぶものの中に情報を記録していた。上部旧石器時代の洞窟壁画や彫り込みのある象牙の飾り板は、今日のCD-ROMやコンピューターのさきがけというわけだ。科学技術の発展の可能性は、認知的流動性とともに出現した。
 科学の三つめの特質についても同じことが言える。それはメタファーと類推の使用であり、これらは単なる「思考の道具」以上のものである。比喩や類推は一つの領域の知識に依存して立てることも可能だが、いちばん強力なものは、生物を物理的対象と関連づけたり、概念を実体のあるものと関連づけたりというふうに領域境界をまたぐものだ。当然、これらは認知的流動性のある心にしか生まれえない。(280~281p)

 要するに、科学も芸術や宗教と同じく認知的流動性の産物である。科学は、もとは特化した認知領域群の中で進化した心理学的過程群に依存し、それらの過程がいっしょに動くようになって初めて出現した。認知的流動性はテクノロジーを発展させ、それが問題を解決したり情報を蓄積したりできるようにした。もしかするとさらに重要なこととして、認知的流動性は、それなしでは科学が成り立たないほどの強力な比喩や類推が使えるようになるという可能性を開いた。(282p)

「心と言葉、そのアルケオロジー」で中沢新一は「私たちにはまだよく知られていない人間の精神層みたいなものがあるんじゃないか」という実感があると言っています。同感します。こんどは中沢新一の発言ですが、刺激的で面白いです。

 じゃあ彼ら(ネアンデルタール人)とホモサピエンスの違いは一体どこにあったのか。現生人類の脳は縮小している。その文化がつくり出したものは多くの特徴があるけれども、ネアンデルタールにない部分がある、今のところの認知考古学の仮説だと、ネアンデルタール人の脳をコンピューターに例えると、技術用の脳と、博物学用の脳と、社会学用の脳のコンピューターが、広い部屋の中に並列にあったんじゃないか。そこを横につなぐ回路がまだできていなかったんじゃないかと考えているわけですね。
 ホモサピエンスの脳は縮小します。それは、一つのコンピューターで全部済ますようになっているからじゃないか。技術的なもの、博物学的なもの、社会学的なものを横に一つながりにして、部屋の壁を取っ払っちゃうようなことが起こっているんじゃないか。そうすると今のコンピューターと同じで、だんだん一つのコンピューターがいろんな作動を同時にこなしていくような形になっているんじゃないか。
 ネアンデルタール人がしゃべっていた言語はどういう特徴を持っているかということを考えてみると、横断的に異質な領域をつないでいく流動的な知性の流れが阻害されているとすると、言語に喩ということが発達していないんじゃないかと推論されます。ですから、ネアンデルタールの音語はホモサピエンスのと同じような構造を持っていたかも知れないけれど、今の言語の構造に近いものであっても、ここでは喩はほとんど発達していないのではないか。ネアンデルタールの言語に喩が発達するためには、横断的に異質領域をつないでいく流動的知性の流れができて、脳の中に小さい汎用コンピューターができることで、メタファーとかメトニミーとかいう喩が可能になってくる。そこから、社会学的な領域と技術的な領域と博物学的な領域、今までは別々のものがーつに統合されていくようになる。そうすると、例えば神話の中の動物は人間の兄弟であったとか、かつて動物は人間と結婚していたとか、こういう表現が可能になるんじゃないかと考えられます。それは婚姻とか結婚とか親子関係という社会学的な領域で発達していた物の考え方と、狩猟で直面する人間と動物の関係性の問題、こういうものを一つにつないでいく思考方法、象徴的思考方法ということもできるし、言語の根底に引っ張っていくと、喩の機能がここで発生しているんじゃないか。そういう方法でこの間題への肉薄が試みられています。(『群像』2004年1月号所収「心と言葉、そのアルケオロジー」233~234p)

 ラスコー洞窟でどういう儀式がおこなわれていたかということを考えてみると、洞窟の中は真っ暗なようです。真っ暗な状態だと、人間って目の中から光が出てくるんですね。内部視覚というのが出てきます。これはチベットでも、僕はやらされたことがあるんですけども、真っ暗な中でも二日もいるとすごい光が出てくるようになります。これを観察するわけですね。チベットの先生は、目の前に出てくるのが、心の原質みたいなものの動きなので、これを観察して、よく心のあり方を観察しろと教えてくれました。そこで動いているのは、流動していく光ですが、それはどこにも所属していない自由な「心そのもの」で、それを心で観察するというやり方をするのです。精霊と言われているものも、これとよく似た体験層につながっています。この世界の中に満ちあふれていて、具体的なものにはみんなそれは宿っているけれども、どこにも所属していない自由な働きであるという考え方が、霊の考え方の基本になってくると思うのです。
 これは人間の心の基本構造だと思います。我々が、今こういう自由な言葉を使ったり、自由に思考したり、神学や物理学までできる根源にあるのは、この自由に動いていく流動的知性です。心がこれを意織でとらえようとすると、それは心なんだけれども、心の外にあるもの、超えているものと見えるでしょう。宗教とは一体何だといったら、それに対する関心に尽きると思います。宗教の制度的なことなどをみんなとってみると、「心そのもの」でありながら、心を超越していくその働きへの注目に尽きていきます。未開社会の精霊をめぐる物の考え方、これも宗教と呼んでいいし、キリスト教とかユダヤ教とか、ああいう大きな宗教の、そこでも何に関心があるかといったら、人間の心の中で動いている、どこにも所属していない、抽象的で形もない、そういう流動する光であって、それが人間の本質をつくっていることを知っていて、それをどうやって理解し、わかっているものの世界にどうやって引っ張り込んでくるかということで、宗教がつくられてくるのではないかと思います。(同前 240~241p)

形而上学は、超越的なものをどう考えるかという考え方のシステムですね。形而上学は明らかに変わってきている。僕らが生きている時代の形而上学は、ヤマタノオロチみたいなものが持っていた力の源泉を人間の世界へ持ち込んで、王とか国家権力みたいなものをつくって、ここに法の理性的な言葉を結合することをやった、それに対応している形而上学です。これはいわば第二期の形而上学で、第二期の最終の形態として、民族国家みたいなものが出てきた。ところが今、違うものが出始めている。とすると、その先には、違う構造を持った形而上学が出てこなきゃいけないだろう、必然的に出てくるだろう、今、そういう時期に来ているんじゃないか。
 宗教は、人間が自由な心を持ったその条件であり、土台としてつくられてくるものですから、その点では変わらないと思うのです。ただ、形而上学の構造は変わると思います。第一期は自然の中に神がいたし、超越的なものがいた。第二期は王を通過して、法、国家というもので、世俗的な世界の中にこいつを持ち込んだ。じゃ、第三期はどういう方向に行くか、を考えることができるんじゃないかというところです。(同前 242p)

内部視覚という概念は中沢新一の考えのなかでとてもおおきな意味を持っています。瞑想をしていると、まばゆい光が刺すように額に注ぎ込んでくるという言い方をよくします。あのチャクラが開くというやつです。どうしてもオウム真理教を連想します。
中沢新一にとってはこれが超越の源であり、自由の根源であるとされています。そしてこの根源では物質と精神は一元であるというのです。

心の素過程とスピリット
 私たちは、どうやらスピリットの素性について、ある重大な情報を手に入れることができたようです。
 現代の科学者たちは、さきほども言いましたように、「内部知覚」というものを、視神経の通路でおこるニューロンの発火と結びつけて理解しようとしています。もちろんそう理解したからと言って、そのときに体験する多様きわまりない光のパターンがどうして発生してくるのかなどということを、少しも説明することはできませんが、重要なのは、「内部視覚」が心的現象の物質的な素過程におこっていることの直接的な反映であるということです。
 コンピュータの「物質的な素過程」と言えば、ソフト面では0と1という二つの数字がずらっと並んだ表のことであり、ハード面ではON/OFFという電圧変化の連続にはかなりません。それとまったく同じで、心的過程の「物質的な素過程」でも、流動的な心的エネルギーの深部から、多様きわまりない光の形態がつぎつぎと出現している過程が、たえまなくくりかえされているだけです。この「物質的な素過程」から意味をもった世界が構成されてきます。
 その意味では、「内部視覚」は心の内部であると同時に、心の外部でもある、ということになるでしょう。そこでおこっている物質的な過程を土台にして、のちの心の活動すべてが構成されてくるのですから、「内部視覚」はたしかに心の内部でおこっている現象だと言えます。しかし、それは意味が発生する以前の空間でそれはおこっているとも言えるので、「内部視覚」を通じて人は心の外部にも触れている、と言うことができます。
 科学者はそれを外から客観的に解釈するのですが、古代人や先住民は、いろいろな手段を用いて、そういう心の素過程に潜り込んでしまおうとしたわけです。そしてあとから自分の体験をふりかえってみて、そこに「哲学」の思考を加えようとします。もちろんこの「哲学」は私たちの言う「人類最古の哲学」としての神話的思考のことですが、この思考をとおして彼らは科学がやらないこと、つまり自分のした超越的体験に哲学的な意味をあたえようとします。

モノ―心? 物質?
 スピリットは私たちの心の、いちばん深い場所に住んでいて、そこでは心の働きと物質の過程とが渾然一体となっています。「内部視覚」の問題は、このことを大きくクローズアップして見せてくれます。のちほどもっと詳しく見ていくように、スピリットとともに人類ははじめて「超越」というものに触れることになったのですが、それは一神教的な理解からするとまことに奇妙な「超越」だったと言えます。なぜならスピリットは人間の通常の能力を大きく超えていく領域からやってくるだけではなく、そこはまた物質の根元があらわれる場所でもあるからです。(『神の発明』47~50p)

よく考え抜かれているようにみえてきわどいところだと思います。スピリットという心の素過程は心的な働きと物質の過程が渾然一体となっていると中沢新一は主張します。内部が外部であり、精神が物質でもあるとされます。わたしは物質も物質という観念があるだけだと思います。そうするとそこにはものそれ自体というより、スピリットいうプリミティブな観念と物質という観念があるだけです。観念に観念を重ねているだけなのです。心的過程が脳を台座とすることは間違いないと思います。自由の根源である多様きわまりない光の形態を脳という台座に発したノイズということもできます。内部視覚の光が外界に散乱してさまざまな精霊があらわれたという言い方もできます。なんとでも言えることです。
中沢新一の思想や言葉には痛みや他者がありません。わたしはそのことをモダンだと言っているのです。中沢新一が自由の根源であるとみなす内部視覚は、他者なき一人の恍惚のようにわたしには思えます。中沢新一のいう自由は、空無、即ち、ニヒリズムです。

明晰をもって知られた池田晶子もおなじことを言いました。
池田晶子の「意識」は、「創世以前からの巨大な考えの固まり」(『考える人』27p)のことですが、この絶対精神の表現点が「私」だということになります。この考えは、「私」が巨大な考えの固まりに帰属することの説明はつきますが―幹にたいする枝、枝にたいする葉っぱみたいなものとして―、ひとつずつ「私」が違うことの説明がつきません。
そこで「魂」の登場です。
『2001年哲学の旅』で言っています。

池田 科学としての医学とは、人間を物質として見ることですよね。
ドクター そうです。
池田 でも人間には精神があることもお認めになりますよね。
ドクター ありますね。
池田 脳は物質ですよね。
ドクター 物質の集合体ですね。
池田 精神は物質じゃないですよね。
ドクター うん、物質じゃありませんね。
池田 どこで一緒になってるんでしょうか。
ドクター さあ。
池田 さあ、ですよね。そうすると、ひょっとしたら精神というのは、人間のもう半面、こっちから見れば精神、こっちから見れば物質に見えるという、そういうことなのかもしれませんよね。
ドクター うん。

 本当は、私はこの時は、「魂」と言いたかったのだ。魂であるところの人間は、物質の側から見れば肉体、非物質の側から見れば精神である、したがって、魂とは、物質でもあり非物質でもあるような、それ自体は不可知な何らかの力もしくは動きであると。(「「死」は、どこにある?」98p)

これが「物質と精神は存在の二相である」の魂説です。人間というのは魂であって、そのあり方は、物質と精神の二面をもっているということらしいです。この二相の相乗効果が「私」の個別性をもたらすのでしょうか。俗説の焼き直しみたいな気がします。
うーん、やっぱり1の哲学だ。

どうです。似ているでしょう。というかおなじことを中沢新一も池田晶子も言っています。つまりなにも言っていないに等しいのです。

わたしの理解では中沢新一の思想はやはり1の思弁です。中沢新一のいう自由の根源である光には、それを魂と呼べば、魂の背骨というものがないように思えます。背骨とは根源のつながりのことです。かれの発する言葉に痛みと深さがないのはそこからきているようにみえます。それでもこれからの世界を悲観的に語るのではなく野生の豊穣な生の可能性として語っていることは諒解できるし好きです。かれの対称性人類学が、語るかれを拡張してくれたらなお良いなと思います。かれの言いたいことはもっとシンプルに言えるとわたしは考えています。

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