箚記

内田樹メモ6

51hTsJ+TrFL
    1
 何かについて根源的なことを思考するとき、思考する主体に性はない。〈わたし〉が〈わたし〉であるとき、その〈わたし〉に性が埋め込まれていることはない。〈わたし〉がまぎれもなく〈わたし〉であるという自己の根源(あくまでも外延的思考としての根源)の事後的なものとして性は訪れる。〈わたし〉が〈わたし〉であるという自己同一性に性はない。常に性は自己同一性に遅れてやってくる。そのようにして私たちは世界を巻きとってきた(人類の文明史のこと)。

 それは違うのではないかとある時期から考えるようになった。世界を、〈わたし〉があり、〈あなた〉があり、そして一人称や二人称の総和である三人称の世界があると考えるかぎり、安定的な予定調和の世界が今よりも熱くて深くなることはないな、というのが私の結論だった。どんなに思考を凝らしてもこの世界認識の枠組みの制約をまぬがれることはないように思えた。もうずいぶんと前のことだが、表現というものになにか決定的な態度の変更というものが迫られているように感じた。

 何年か前に友人の漫画家から坂口尚の作品を教えてもらい、一気読みしたことがある。すごい!と思った。幼少の頃よりマンガを愛好していたのに、坂口尚は知らなかった。ボスニアの惨劇を予見した『石の花』や、自己同一性のどうどうめぐりを描いた『VERSION』や、短編集②『紀元ギルシア』のなかの「ゼファ」は、鮮烈な記憶として今も残っている。俺は手塚治虫を超えたといってたらしい。文句なく超えていると思う。漫画の始めと終わりにナレーター風の文章がさりげなく挿入されていて、それがたまらなくいい。わたしの内包の知覚とほんとによく似ている。

 たとえば、「ゼファ」。
 『風の谷のナウシカ』や『北斗の拳』と同じで、破滅後の世界をテーマにしている(フィクションは邪魔なものはリセットできるからこの点とても便利)。絵と言葉がミックスされてこその漫画のおもしろさを、版権があるからといって言葉だけ引用してもしかたないが、やってみる。

偶然か必然だったのか
今となってはわからない
すべての生き残った生物に
突然変異が起こった―

として物語は始まる。見開きに巨大なきのこ雲があって、タッチが大友克洋の『アキラ』風。ロボットのシャドーとすべての生き物が同化した変異体ゼファと遥か昔ジーン・バンクに保存された冷凍受精卵から生まれた一対のサブジェクトの物語。

 シャドーはゼファに同化しているサブジェクトを探し出すためにゼファ狩りをする。ロボコップみたいなシャドーはゼファを見つけると片端から手裏剣や光線で仕留めていく。破壊したゼファを前に、シャドーがいう。

サブジェクト(主体)は・・・・。

 もう一体のシャドーがいう。

分離しない・・・・
サブジェクトは持っていない。

 シャドーたちの目的はゼファと同化した一個のサブジェクトを人類の文明を復活するために救い出すことだった。絶滅に瀕したゼファたちは身を守るためにシャドーの要塞を攻めるが、犠牲者をだすだけだった。長老みたいなゼファが、セブンと名づけられる同化から分離する力の大きい、小さなゼファにいう。

新しい紀元になったのだ
でも忘れるな
おまえはゼファの希望だ。

おまえの心はやがて満ちるだろう。

満ちるとは何がですか。

それは誰にもつたえることはできない。

大きいゼファよ、おれはなぜ名を持っているんです?

名などにたいした意味はない・・・。
〔7〕(セブン)よ、おまえにはおまえのように名を持つ仲間がいる、

とうちあけたゼファは、シャドーに追いつめられて消されるとき、

おまえはゼファの希望だ、子孫となる者だ、逃げ延びろ

と叫ぶ。セブンはシャドーを破壊し、

死ぬなゼファ!

という。

いっそ死ねればいいのだが・・・
セブン、もうお別れだ。
これから苦痛のウネリの中に行く・・・でも同化したウネリはゼファ達であり、すべての生きものなのだ・・・

と言い残す。
 要塞を探しあてたセブンは、地下深くに空のカプセルを発見し、その一つから胸が締めつけられるような不思議な香りを嗅ぎ、胸騒ぎがする。そのとき人面をした人間脳を移植されたロボットがあらわれ、

私の目的は人間復活だ
おまえは人間の未来を担う
再び支配者の歴史を紡ぐのだ

といい、セブンは、

おれはゼファの祖先となるのだ

という。 

 セブンはゼファ達のところには戻らないが、またあの香りが漂ってくる。逃避行を続けるうちに、シャドーに襲われたと思って何者かを捕獲する。それが〔3〕との出会いだった。それは熱くとても柔らかだった。

〔3〕(スリー)かい

と〔7〕が訊くと、

片われ

だという。〔3〕はシャドーが、いつか私と同じような形をしたものに出会うことや、その生きものは同じ熱さを持ち、触れるととても熱くなるもので・・・、そしてそれは人間復活の最後のチャンスで、支配者の歴史を紡ぐことなんだといったことを告げる。
 〔3〕はいう。

シャドーの合い言葉ね。
私にはわからないわ・・・。

おれにもわからない。

 〔3〕と〔7〕は丘の高みから風景を眺めおろす。

その風景はいつもと変わらない
一対の生きものは春の風も
夏の光も知らない
片われはゼファ達の言葉を思い出していた
そして感じたような気がした・・・
夏の光を
あれ以後何を失ったのか、
文明か・・・自然か
それとも何かを失いかけたのか・・・

誰が喜びを感じるのか
誰がきらめきに涙するのか
その風景はいつもと変わらない
でもすべてが変わっていた

 そしてクライマックス。

 ふと気がついたように

〔7〕が「サブジェクト・・・

とつぶやく。

なんのこと?と〔3〕。
おれ達のことらしい・・・。

 滅びた文明の復活をはかるシャドーや人面脳のアンドロイドにとって、「サブジェクト」(主体)は自己同一性の象徴であり、それを拒んでゼファ達の先祖たらんとする一対の生きものは、「おれ達」を一人称とする根源の性の分有者を象徴しているように思えた。
 そこまで深く坂口尚が考えたかどうか、ほんとうのところはわからない。微妙なところだが、何度読み返してもそのように読める。根源の一人称を大文字のSとすれば、〔3〕や〔7〕は小文字のsであるように描かれている。もしそうだとするならば、Sとsは不可分な関係であり、不可分な関係であるにもかかわらず、Sとsは不可同でもあり、「おれ達」というSが結ぼれて〔3〕や〔7〕としてあらわれるということにおいて、Sとsは不可逆な関係を示している。
 おっと、これは滝沢さんのインマヌエルの思想ではないか。いや、インマヌエルをモダンな心性とする遥かな淵源とさえいえる。いつもすでにその上に立っているシンプルな情動。根源の性。それがあることによって、はじめてヒトがひとになった由縁。私は「ゼファ」をこのように読んだ。

 坂口尚の「ゼファ」にはまだ興味深いことが描かれている。それは大きなゼファがシャドーに襲撃されて消されるときにいう言葉だ。「いっそ死ねればいいのだが・・・」「これから苦痛のウネリの中に行く・・・でも同化したウネリはゼファ達であり、すべての生きものなのだ・・・」というところなんか、レヴィナスの〈あるのざわめき〉そのものではないか。同化したウネリの芽生えがゼファであり、苦痛のウネリは、死んでいるのでもなく、かといって生きているのでもない、非人称のまったくの空虚な〈あるのざわめき〉それ自体。びっくりした。まさかレヴィナスと坂口尚が知り合いだということはなかろう。

    2
 レヴィナスの哲学は容赦ない。原始キリスト教団の信仰者、あるいは浄土真宗の修行僧ならレヴィナスの言をこなしていけるかもしれぬ。でも衆生にあっては空念仏ではないか。もっともおまえの考えも似たりよったりだといわれたら、返す言葉がない。
ツェランの「私が私であるとき、私はきみである」をレヴィナスが引用するとき、「私はきみである」とみなす「私」と、「私が私である」「私」とはべつのものではなかろうか。だからこそ、エロスのうちに避けがたく自己へと回帰していく自我からの脱出が可能なものとして開示されたのではないか。それなのにレヴィナスが手にしたおおらかさがしぼんでいく。なにがそこにあったのか、翻訳書を読むだけではつまびらかではない。

 「自我は起源に先立って他者へと結びつけられている」、その結びつきがあるからこそ、だれかをかけがえのない者として思う可能性があるというとき、ここにはなにか混乱がある。この結びつきは、レヴィナスの哲学では存在の彼方という倫理として語られることになるが、転倒した考えではないだろうか。思考の往相の過程は明らかなのだが、還相の過程が、言いたいことはわかるけれど、往相の言葉で語られている。これがレヴィナスの思想の狂おしさであり、読む者をして、じゃどうすればいいの、と迷子にしてしまっているところだと思う(内田樹は謎だという)。できっこないことばかりが書いてあって、苛烈さは新約聖書を上回るのではないかと途方にくれてしまう。

 レヴィナス自身がいっている。

『存在するとは別の仕方で』は『なにものか』ではありません。それは他者との関係、倫理的関係です」(『われわれのあいだで』合田正人・谷口博史訳)

 一途に〈わたし〉を有責、身代わり、人質とすることに自我を相対化する以上のどんな意味があるのだろうか。他者から反照されて自我の変容が起こらないなら何も変わらない。出口と思ってでてみたら、そこが入り口だったりして。自我の圏域をまるごとつかむ思想の方法はレヴィナスも含めヨーロッパにはないのかもしれぬ。なにか精神の地勢の違いのようなものがぼんやりと浮かんでくる。

 自我とは、自己に帰還するものだけをいうのではありません。他なるものとかかわりを持つものもまた自我と呼ばれるのです。伝統的な哲学は私たちに、自我というのはつねに自己とぴったり一致しているもの、つねに自分自身に再帰するもののことである、というふうな考え方を教え込んできました。ですから、この伝統においては、主語と同一物を表わす再帰代名詞「se」(「~自身を」、「~自身に」)は本質的内在性とみなされてきました。私が考えたのは、内在性というのは精神性の究極的な構造なのだろうか、という問いです。
(『暴力と聖性』レヴィナス/フランソワ・ポワリエ 内田樹訳p133~p134)

 内在性が精神性の究極ではないというレヴィナスの考えには留保の余地なく賛同する。内在性を精神性の究極的な構造とする考えは、自己同一性の派生態であり、どうであれ共同性と同期するものでしかない。いよいよ追いつめられると、一緒に旗振って行進する共同存在。知ってか知らずか、社会性と密通した精神の内在性を文学的な表現だと錯覚したものが巷間にあふれている。うんざりだ、もうそれはいい。その先に行きたいのだから。

 この引用からわかるのは、レヴィナスは、自我を、我執の自我から存在の彼方を指さす自我までのある領域とみなしているということだ(おそらくレヴィナスは自我はまだ目指す高みに到達していないと思っている。そしてここから国家による正義の裁きという彼の考えがでてくる。私の理解では、倫理としての存在の彼方は、出口が入り口へと回帰する。私は存在の彼方を倫理としてではなく存在を包越する内包存在として構想してきた)。他者は自我と同じ度量衡をもって計量することはできぬとレヴィナスははっきりいっている。

 絶対的に他なるもの、それが「他者」である。それは自我と同じ度量衡をもっては計量することのできぬものである。私が「あなたは」あるいは「私たちは」と言うときの集団性は、「私」の複数形ではない。私、あなた、それはある共通概念の個体化したものではない。所有も、度量衡の一致も、概念の一致も、私を他者に結びつけることはない。共通の祖国の不在、それが「他なるもの」を「異邦人」たらしめている。
(内田樹『他者と死者』のなかにあるレヴィナス発言の引用 TI,p.9)

 内田樹は「他者」のことを「死者」と読みかえ、そのように理解しているけれど、それでは余り簡単すぎるので、レヴィナスの度量衡と私のそれとをつきあわせながら考えてみる。自我の外延にあなたがあるのでも、私の複数形が私たちであるのでもない、絶対的に他なるもの、それが「他者」だという。これがレヴィナスの度量衡なのだ。だから、存在するとは別の仕方は、なにものか、ではない。しかし、こう語るかぎり、往き道はたどれても、帰り道は誰にも、見えない。存在の彼方は倫理の関係であるとレヴィナスがいう由縁である。たしかにそれは存在ではなく、倫理というベクトルである。存在とは別の仕方で、として指さされる志向性そのもの。大きさと方向をもった存在の彼方。依然として外延的な思考だと思う。

 私はレヴィナスとおなじようなどん詰まりのなかで、存在というものを別様に考えた。自己意識の外延表現には際限がなく、その中心には空虚があんぐりと口を開けている。この認識においてレヴィナスと私の考えに違いはない。自己を見知らぬ他者として生き、ここではない、どこかを探してランボーは疾走した。エチオピアまで行ったらしい。

 自分を他なるものとみなす私の他性が詩人の想像力を鼓舞することもありうる。が、それはほかでもないこの他性が〈同〉の戯れでしかないからだ。自己による自我の否定はまさしく自我の自己同定の一態様なのである。
(『全体性と無限』合田正人訳)

こんなに軽々と砂漠で野垂れ死んだランボーをあしらうレヴィナス。かっこいい。強靱なレヴィナス。要するに、自己意識の外延表現なんてたかがしれてるとレヴィナスはいっている。この思考の徹底性と気合いは尋常ではない。深く共感する。

    3
 そのうえで私の度量衡。
 私はじぶんの書く文章のなかで、外延とか内包という言葉を多用するが、この概念は、数学者遠山啓の外延量、内包量から借用している。外延量とは、たとえば、長さや重さであり、加算可能で、その性質は一様に保たれる。10センチ+20センチは30 センチであり、60キロ+40キロは100キロであるとか。

 この考えはいかようにも外延できる。〈わたし〉と〈あなた〉がいて、いい関係になったり、ならなかったり、それはそれはいろいろあるとしても、〈わたし〉が一人称で、〈あなた〉が二人称だとしたら、そのほかは三人称で括られる。国家や共同体や集団は三人称のまとまりである。

 〈わたし〉が国家や共同体に反感をもち、謀反を企てたとする。〈わたし〉は反国家や反政府を標榜し、徒党を組むかもしれないし、無関心を決めこむかもしれない。どんなに〈わたし〉が一途に国家や政府を変えようと思ったとしても、意識のありようとしては、自己意識の外延的な思考のうちにとどまる。〈わたし〉は敗残の心境を小説として語るかも知れないし、自己を見知らぬ他者のように斜交いにかまえて生きるかも知れない。

 何をしようと、どう足掻こうと、レヴィナスの言葉を借りれば、そんなものは〈同〉の戯れにすぎない。1、2、3を自己幻想、対幻想、共同幻想と名づけ、次元が違うと類別しても、1、2、3を大元で統覚している同一性はみじんもゆるがない。そんなことはどうでもよくて、この同一性によってこそ、1、2、3が担保されている。国家をいくらなくそうとムキになっても国家は解消しない。それは反国家の意識が国家の意識とまったく同型だからだ。先のメモで、邪悪な存在の外延に民主主義が位置するといったことにはこういう含意がある。もちろん、民主主義の外延に邪悪な存在が位置するといっても同じこと。ここまでのところで、私とレヴィナスの考えにさしたる違いはない。むしろ似ているとさえいえる。

 私はどん詰まりの生存のさなか、レヴィナスが挑戦し果たしえなかった場所へとひとりでに抜けていった。計らいはなかったと思う。とても不思議な体験だった。気がつくと、そこには熱い自然があった。

 そこで内包。

 外延量では演算を通じて量の加法性は変化しない。内容量は外延量とは異質だ。たとえば、外気温20℃+室内の気温10℃は気温30℃とはならない。もうひとつ。速さ(V)と時間(T)を乗じると距離(S)がでる。このとき、VとTとSはそれぞれが連続した量ではあるが、性状はまったく異なる。数学の定義がどうのこうのいいたいわけではない。内包量を内包表現の比喩として言いたいだけのこと。

レオ=レオニの絵本の「『あおくん』が、とおりのむこうにいる『きいろちゃん』と遊びたくなって、あちこちさがしまわり、まちかどでばったりであい、ふたりともうれしくてうれしくて、交じり合ってしまい、とうとう『みどり』になりましたというお話、あれですよ、あれ。この『みどり』に成ることを私は〔内包〕と呼んでいる。(『内包表現論序説』より)

というようなこと。
 私は、たとえれば、「みどり」になることを根源の一人称(S)や根源の性だと知覚している。「あおくん」や「きいろちゃん」の側から「みどり」をいうこともできるし、「みどり」から「あおくん」や「きいろちゃん」を指さすこともできる。肝心なことは、〈わたし〉が〈あなた〉と関係すると、〈わたし〉でも〈あなた〉でもないものに〈存在〉が変容(拡張)するということなのだ。この微妙なあわいをレヴィナスは言葉として取りだすことができなかったように思う。だから〈同〉の戯れを脱出しようとして、存在の彼方を語る、その刹那、苦しく倫理を語ることになってしまう。どうしても超越への媒介として他者を指さすしかなくなる。いやレヴィナスにあっては他者そのものが超越といってもよいのだが。存在の彼方を指さす倫理としての他者。そうかなあ。「ゼファ」を思い出そう。胸が締めつけられ、触れるととても熱くなるから他者じゃないのか。そうじゃなかったらつまらない。

 「自我と同じ度量衡をもっては計量することのできぬ」絶対的な他者と遭遇しながら、「自我とは、自己に帰還するものだけをいうので」はなく、「他なるものとかかわりを持つものもまた自我と呼ばれる」のであるとするなら、どうどうめぐりで元の木阿弥ではないか。たとえ、自我が入り口だとしても、自我が「起源に先立って他者へと結びつけられ」たその刹那、自我はもはや自我ではありえない。出口の自我が入り口の自我を包越しないとしたら、それはニヒリズムへと回帰するだけではないか。どうしてそのことに気づかない。

(内田樹メモ7へと続く。なんだか終わらない気がしてきた。でもでも、次で決めます。)

( 2008/05/08 )

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