箚記

内田樹メモ4

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     1
 言葉で世界をつくろうとするとかならず通過するポイントがある。それは世界が意味あるものか、あるいは無意味かという地点だ。柄谷行人は『隠喩としての建築』で考えた。

 彼(ゲーデル)は「形式主義」を外から解体したのではなく、それ自身の内部に「決定不可能性」を見出すことによって、その基礎の不在を証明したのである。(原文には「外から」と「証明」に傍点あり―森崎注)

 なんてことはない、要するにニヒリズムの克服はできないと柄谷は言っているわけだ。ばっかみたい。

 「世界全体は無意味か、それとも意味を超えているか」という問いに答えて、フランクルはおもしろいことをいっている。

  大きくいって二つの可能性があると思います。どちらの可能性も反駁できないし、証明もできません。つまり、すべては結局まったく無意味だとも十分主張でき ます。同じように、すべてに大きな意味があるばかりか、そのような全体の意味、そのような意味の全体がもはや捉えきれないほど、「世界は意味をもつ」〔世 界は意味を超えている〕としかいえないほど意味があるのだとも主張できるでしょう。そう、世界はまったく無意味だというのも、世界のすべてが有意味だとい うのも、おなじく正当な主張です。ただし、おなじく正当というのは、論理的におなじく正当、不当ということです。じじつ、ここで直面するような決定は、もう論理的な決定では決してありません。論理的には、両者はおなじように支持されるでしょう。論理的には、二つの考え方の可能性は、考え方の正当な可能性な のです。
 まったくの無意味か、すべてが有意味かという決断は、論理的に考えると、根拠がない決断です。その決断には根拠はなにもありません。言い換えると、根拠がなにもないということが、決断の根拠になるのです。この決断を下すとき、私たちは、無の深淵にさしかけられて宙吊りになっています。け れども、この決断を下すと同時に、私たちは超意味の〔意味を超えた〕地平にいるのです。人間は、もう論理的な法則からこの決断を下すことができません。ただ自分自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです。
 ただ一つのことははっきりしています。窮極の意味、存在の超意味を信じようと 決断すると、その創造的な結果があらわれてくるでしょう。信じるということはいつもそうなのです。信じるというのは、ただ、「それが」真実だと信じるということではありません。それ以上、ずっとそれ以上です。信じることを、真実のことにするのです。というわけで、一方の考え方の可能性を手に入れるというこ とは、たんに一つの考え方の可能性を選ぶことではないのです。たんに考え方の可能性にすぎないものを実現することなのです。(『それでも人生にイエスと言 う』111p~113p/傍点略の箇所あり―森崎注)

 生きることにどんな意味があるかも、世界に意味があるのかも、フランクルのこの発言にとどめを刺す。まちがいなくフランクルがいうことはフランクルに根づいている。それはフランクルがくぐった体験や個性を超えて思考がたどる必然だ。

 ハイデガーの『「ヒューマニズム」について』、レヴィナスの『実存から実存者へ』、フランクルの『それでも人生にイエスと言う』、プリーモ・レー ヴィの『これが人間か』は奇しくも一九四七年に出版されている。なんの因縁か。ハイデガーの見苦しい弁明の本以外はいまでも充分読み応えがあ る。この国のばかな物書きと違って、言葉のはじまる場所がくっきりとしている。石原吉郎が〈夜と霧〉の冒頭でフランクルがさし挿んだ〈すなわち最もよき人びとは帰っては来なかった〉という言葉を「かつて疼くような思いで読んだ」そのフランクル。高校生の頃からフロイトと文通していた秀才であることとか、ケ ネディのパーティに出席したととか、滝沢さんが訪ねたこととか、ある種の演技性を感じるところはあるけど、世界をじかに生きてしまった稀な思索家であるこ とはまちがいない。

★クロイツァー あなたは、ご両親をナチスのせいで亡くされましたね。
☆フランクル 父も母も、それに弟やたくさんの親類も、強制収容所で殺されました。
(略)
☆ フランクル ええ、忘れもしません。母がアウシュビッツのガス室に入れられたと一九四五年の八月に聞いたその翌日か翌々日のことです。私は、ミュンヘンの 映画館のニュース映画で、ガス室と火葬場を見ました。このこともよくおぼえているのですが、私はその映像を見てもまったく衝撃を受けませんでした。その ニュース映画を見る前に私は、母が―生涯で出会ったなかでもっとも優しい人だった母が―ガス室で窒息死するのに十三分もかかったことを聞いていたのです。 そのような話を聞いたならば、誰でも、その場を離れて外に出て縄を手にして首をくくる―そういう気持ちにかられても不思議ではありません。しかし、あえて 冷静かつ心理学的に言いますが、そんな瞬間に呼び出すことができるなんらかの能力が人間にはあります。その能力を呼び出せば、ガス室と火葬場が写っている ニュース映画を見てもどうということはありません。もうびくともしないのです。そんなひどいことが起こりうる世界に直面して即座に自殺することを防ぎとめるなんらかの能力が人間にはあるはずです。そうでなければ耐えられないでしょう。けれども、そういう能力があるかぎり、衝撃は跳ね返されます。もうなんの 感傷もありません。(『宿命を超えて、自己を超えて』山田・松田訳)

☆人間は、答える存在、答えなければならない存在です。(略)それは、人間が問われている存在だということです。(略)たとえばこんなことを想像してみてください。あなたは、一人の病人がかわいそうだとおもいます。あなたはかれに同情します。かれの身に なり、かれを助けたいとおもいます。そのとき、あなたがかれを助けるなら、それは、無意味を振り払うためでしょうか。それとも、ただ、そうせずにはいられないからでしょうか。(略)これこそ、価値の実存的根源です。(同書)

  「人間が問われている存在」だということは、滝沢克己やレヴィナスによく似ている。一様に彼らはまったく同じことをいっている。何事も天変地異のようにすぎていく曖昧なこの国の精神の地勢のなかで、痛くも痒くもないことをさも大事のようにこねくりまわす馬鹿者どもがあいもかわらず闊歩している。引用の箇所 でフランクルがいうことは、読んだとおりのことでなんの注釈もいらない。彼が「これこそ、価値の実存的根源」とすることに、民族や文化、宗教やイデオロ ギーの違いなどあるものか。ここをとらえそこねてきっちり貧血したアホどもの空言(そらごと)。
 ほら、ちょっとそこの君、あんたのことだよ(私 のこと)。わたし、愚禿親鸞が言うた僧に非ず俗に非ずということを知らんのかね。そういういらだちは無用のことなのだよ。怒ってばかりいると交感神経が緊張してガンになるよ。安保免疫学をしっかり勉強しなさい。わかってはいるけど、つい言いたくなって、またフライングしました。

    2
 さて、レヴィナス。ハイデガーと異なる存在論をつくろうと生涯を賭けたレヴィナス。 レヴィナスを読んだのはおそらく内田樹と同じ時期ではないかと思う。若い頃、滝沢さんや吉本さんとの出会いがあり、言葉にはならない大きな影響を受けた。 滝沢さんの考えはむしろよく馴染んだものですでにじぶんのなかに内在するものだった。滝沢さんの言うことをじぶんの言葉におきかえることはできなかった が、言われていることはとてもよくわかった。
 1968年。世界は熱く、一瞬深い夢を見た。その渦中に私もあった。三白眼をしたちんぴらのように 乱暴狼藉のかぎりを尽くした。青臭いアドレナリンの意味のない放出。感じることや考えることとやってしまうことのの極端なアンバランス。それが若いという ことだが、じぶんがやっていることに溺れることはなかった。俺はつまらぬことをやっているということには自覚的だった。つまり新左翼政治党派の革命ごっこ にかぶれるほど幼くはなかった。とことん彼らを嫌悪し侮蔑した。内田樹も同じことを感じていた。彼の当時を回顧した発言は斜交いにかまえたものではない。 まっとうなものだ。

 ほとんど無警察状態になった キャンパスで、学生たちはふだんなら決してしないような暴力をふるいました。それがある種の政治的熱狂の帰結であるというのなら、あるいはぼくもそれを許 容したかも知れません。しかし、ぼくはそこにしばしば「匿名のマッス」に紛れ込み、「罰されない」という保証を確認した上で、はじめて器物を破壊し、他人 を傷つけ始めるという奇妙に「せこい」計算に裏づけられた「革命的暴力」を見いだしました。ぼくはそれがすごく厭だったのです。
「罰されない場」 に自分がいて、そこでならその「空語」も「空語」の帰結であるところの暴力も許容されているということに気づいたとき、つまり自分たちが隔離され、保書さ れた「コップの中にいる」と知ったときに、ほんらいなら、「恥じ入る」というのが適切な反応ではないでしょうか。それを「利用する」というのは、すすんで 自分が「オメコボシ」に与(あずか)っている「未成年者」であるという事実に居直ることです。(『東京ファイティングキッズ』書簡その⑯)

  40年前に世間を騒然とさせた、いわゆる全共闘運動というものに、今からふり返って何か肯定さるべきものが少しでもあるだろうか。ゴッコとリアルの分別もつかぬ針小棒大なじゃりどものままごとだった。私もそのひとり。よくいってたちの悪いJリーグのサポーター。ありていにいえばたんなる犯罪にすぎぬもの だった。反省はしなかったが、法治の制裁はきっちりうけた。文句なかろう。私が学生の騒動からえたものは何もない。私はしだいに部落解放運動にのめり込 み、ひきつるような事態を抱え込むことになる。これは堪えた。このとき体験したことと内省したことをレヴィナスの思想と交錯させたい。

 ある時期から滝沢さんの本をふっつり読まなくなった。記憶は捏造されるらしいからよくわからないが、荒々しい出来事との遭遇に対応せざるをえなく なったとき、滝沢さんの根本の主張と私が当面した生々しいこととに、観念の通路をつけることができなくなったからではないかと思う。ながいあいだ吉本隆明 の思想にまるごと吸引された。吉本隆明の共同幻想という考えには力があった。それぬきに凄惨な後退の局面を支えきることはできなかった。じぶんの存在の 根っこを滝沢さんに依存し、現場の対応は吉本さんの思想に拠ることでしのいだ。ほとんど同時期に私はふたつの思想を体験したことになる。そしておそらく滝 沢さんの思想にたいする不満をレヴィナスの思想で充たそうとした。私はじぶんの痛切な体験をレヴィナスの思想に重ねたのだと思う。

 ふたたび、レヴィナス。
 仏軍兵士として従軍し、捕虜となったレヴィナスは偶然に生き残る。しかし、レヴィナスは家族全員をアウシュビッ ツで失う。内田樹は『他者と死者』で書いている。戦争が終わって十年後、レヴィナスはワルシャワ・ゲットーの蜂起で死んでいったあるユダヤ人の手記を論評 したことがあり、それは「ホロコースト」に言及した数少ない文章のひとつである、と。

  語り手はあらゆる恐怖を経験してきた人のようです。彼は恐るべき状況下で幼い子どもたちを失いました。残された時間わずかな、彼の家族のただ一人の生き残 りとして、彼はその最後の思いを私たちに遺言します。たしかに、これは文学的フィクションです。しかし、それはあの時代を生き残った私たち一人一人がそこ にめまいのするような既視感を覚える種類のフィクションなのです。私たちはそのことについては今から語る気はありません。たとえ世界の人々が何も知らず、 すべてを忘れてしまったとしても。
 私たちは「受難中の受難」を見世物にしたり、この非人道的な叫び声の記録者や演出家としてささやかな虚名を得ることを自らに禁じています。その叫び声は永遠の時間を貫いて、決して消えないままに残響し続けるのです。その叫び声の中に聞き取れる思考に耳を傾けましょう。(DL,p.202 内田樹訳)

 書かれ たものがフィクションであっても、彼、レヴィナスにとってはフィクションではない。しかしこのことについて語る気はないとレヴィナスはいう。さらに「たとえ世界の人々が何も知らず、すべてを忘れてしまったとしても」と言葉を重ねる。それにもかかわらず、「その叫び声は永遠の時間を貫いて、決して消えないままに残響し続ける」と彼はいう。
 どういう言葉をもってこようと一切の解釈を拒むレヴィナスの激しい気息に迫ることはできない。また解釈を拒まないならばレヴィナスはレヴィナスでありえない。ここで験されているのは論理などというものではない。残響し続ける叫び声を聞き取ることは、レヴィナスに とって、「私は私が受けた迫害についてさえ有責」(EI,p.95内田樹訳)とみなすことにほかならなかった。身を捩るような異様な衝迫。レヴィナスは自 身が生きていることをこういう言葉でしか言い表しようがない。
 さらにレヴィナスは突き進む。「無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それが受苦である。受苦が神を打ち立てる。救援のためのいかなる顕現をも断念し、十全に有責である人間の成熟をこそ求める神を」(DL,p.203 内田樹訳)。このフレーズは、「なぜ神を放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不在であった以上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたからだ」とぴったり対応している。

 話の流れは少し逸れるが、内田樹の考えがしっかりしているのは、「不在の神になお信を置きうるとき、そのときこそ人間はみずからの弱さを熟知した 成熟した大人となったと言いうるのである」(『「おじさん」的思考』引用のレヴィナスの出典は不明―森崎注)とここまで大人という概念を深くしているから である。ひるがえって民主主義とはそれほど深いものだろうか。内田樹の意に反してはるかに雑駁なものだと思う。

 人間のことは人間で解決してね、それぐらいできないと。レヴィナスはそういうことをいっているのだが、はたしてこの事態が観念に到来する神という ものになるのだろうか。神という超越そのものをレヴィナスは変形させたかった。神・キリスト・精霊の三位一体など私もしゃらくさい。神と衆生を媒介するも のをレヴィナスは他者と考えた。それがレヴィナスのいう「自我は起源に先立って他者へと結びついている」ということだ。レヴィナスはこう考えるよりほかに 生きようがなかったとしても、喰い寝て念ずる人間の生の原像というものはこんなにも切迫した息苦しいものだろうか。たとえば目の前にどんな手立てをしても 緩慢な死を迎えるしかないひとりの飢えた人間がいるとして、すべてをおのれの身に引きうけ有責とすることが人間的な行為なのだろうか。もしそれが避けえぬ ことであるとしたら、そのとき存在を分有する存在の根源性から、あんたの飯はおれが腹一杯喰うてやるから、安心して死んでいいよ、といいうる思想はないのだろうか。
 私はそのことを欺瞞でなくいいうる地平がありうると思う。またそれが可能でないとしたら、自己の陶冶が他者への配慮に等しいということは起こりえないのではないか。喰い寝て念ずる人の生存の基本形というものはレヴィナスが考えるように厳しいものではなく、もっと輪郭がゆるやかでぐうたらなものではないのか。気ままな愚図であるにもかかわらずその生き方がそのまま他者への配慮にひとしい、そういう存在のあり方が可能ではないのか。親鸞な ら、飢えて死ぬ、ああそれもよか往生、と即座に言い切ると思う(「死ねば死にきり、自然は水際立っている」というモダンな心性の向こう、あるいは手前に、 ほんとうの死がある。やがて内包浄土論として〈死〉を拡張する)。

 我が身を襲った理不尽。人間であることの無惨。人間を、悪の凡庸なる日常(アイヒマンは、言われた仕事を真面目にやっただけですと抗弁した)で 絶滅する所業。ワルシャワ・ゲットー蜂起で生き残った元兵士はいった。アノトキノコトハ、ニンゲンノコトバデハヒョウゲンデキナイ。ほら、そこの君。誰の ことだって? 君のことだよ。「意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」ということの空疎さを感じないか。日も暮れたことだし、 なーんも考えなくてもすむ偽りの安逸なお家にとっととお帰り、怖いお化けが出たってしらないよ。なぜ被害者に寄り添うのではなく、邪悪な麻原に挑みかから なかった。なぜ愚劣な事件が起こったのか、考えるしかないことを回避して世間に紛れ、おお、『アンダーグラウンド』だってねえ、余裕じゃないか。『アン ダーワールド』なら好きだしよく聴いたけど。親鸞さん、すみません、またやってしまいました。

 レヴィナスは引き裂かれ、世界の底の底にあって、身悶えしながら地軸が傾くほどに考えに考えた(本人に訊いたことはないが、たぶん間違いないと思 う)。私はレヴィナスと至近の距離で、レヴィナスの思想を反転することができると考えるようになってきた。(内田樹メモ5につづく。乞うご期待。次で決め ます。)

( 2008/04/30 )

 

 

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