日々愚案

歩く浄土83:内包的な自然15-内包という思想の全円性について2

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見つけたアメリカ合衆国大統領予備選の民主党候補サンダースの演説動画。

かれのなにがわたしのたましいをゆさぶるのかわからない。ほんとうにわからない。
レーニンは嫌いだがレーニンの見たいと思った夢。スターリンに暗殺されたトロツキーが信じようとした夢。それらすべての虚妄をサンダースが繰り返している。かれの訴えていることが、知識としてではなく体験としてよくわかる。わずかな富裕者が人類の大半の富を所有しているということ。どこにもモラルも正義もないとサンダースは言う。たしかになにかが伝わってくる。政治的信条の凡庸さを超えて伝わってくるなにか。それはかれの夢ではないのか。この夢を大衆という形式ではなく、わたしに固有の夢として語ること。それが内包論だと思っている。
手垢のついた大衆の夢を、その政治的信念を、詩として、音楽として語りうるということに驚いた。まるでエミネムではないか。米大統領予備選の候補であるサンダースは政治を詩のように語る。演説がエミネムのラップみたいで音楽になっている。わたしにもかれの聴衆への訴えかけの真剣さがが伝わってくる。それが詩であり音楽になっているということだ。これはいったいなんだ。ドカンと頻発する余震の合間にその正体をつかもうとしてなんども動画を見た。
世界最高権力者であるオバマは広島見物にきて戦争の惨禍を内省化し、さらに一般化した。
以下はアメリカ合衆国大統領が広島見物の際のスピーチの全文である。ヨハネの黙示録を想起させる虚飾に満ちた演説を貼りつける。共同通信社の世論調査によると、オバマ米大統領の広島訪問について「よかった」との回答が98%だったとされている。

71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。
なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?
私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。
私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、12人の アメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。
彼らの魂が、私たちに語りかけています。彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、内省するように求めています。
広島だけが際立って戦争を象徴するものではありません。遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たち人類に対しても使ったのです。
どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きてしまいます。
多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そして時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたことに苦しめられました。
広島と長崎で残酷な終焉へと行き着いた第二次世界大戦は、最も裕福で、もっとも強大な国家たちの間で戦われました。そうした国の文明は、世界に大都市と優れた芸術をもたらしました。そうした国の頭脳たちは、正義、調和、真実に関する先進的な思想を持っていました。にもかかわらず、支配欲あるいは征服欲といった衝動と同じ衝動から、戦争が生まれたのです。そのような衝動が、極めて単純な部族間同士の衝突を引き起こし、新たな能力によって増幅され、新たな制限のないお決まりのパターンを生んでしまったのです。
数年の間に、およそ6000万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供、私たちと何ら違いのない人たちがです。射殺され、撲殺され、行進させられて殺され、爆撃で殺され、獄中で殺され、餓死させられ、毒ガスで殺されました。世界中に、この戦争を記録する場所が数多くあります。それは勇気や勇敢な行動を綴った記念碑、言葉では言い表せないような卑劣な行為の名残でもある墓地や空っぽの収容所といったものです。
しかし、この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは人間の中核に矛盾があることを非常にくっきりとした形で思い起こすのです。
私たちの思考、想像力、言語、道具を作る能力、そして人間の本質と切り離して自分たちを定めたり、自分たちの意志に応じてそうした本質を曲げたりする能力といったものを私たちが人類として際立たせること――まさにそうしたことも類を見ない破滅をもたらすような能力を私たちに与えられることによって、どれだけ悲劇をもたらす誘発剤となってしまうか。
物質的な進歩、あるいは社会的な革新によって、どれだけ私たちはこうした真実が見えなくなってしまうのか。
より高い信念という名の下、どれだけ安易に私たちは暴力を正当化してしまうようになるのか。
どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束します。にもかかわらず、信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられないのです。
国家は犠牲と協力で人々が団結するストーリーをこしらえ、優れた功績を認めるようになります。しかし、自分たちとは違う人々を抑圧し、人間性を奪うため、こうしたものと同様のストーリーが頻繁に利用されたのです。
科学によって、私たちは海を越えて交信したり雲の上を飛行したりできるようになり、あるいは病気を治したり宇宙を理解したりすることができるようになりました。しかし一方で、そうした発見はより効率的な殺人マシンへと変貌しうるのです。
現代の戦争が、こうした現実を教えてくれます。広島が、こうした現実を教えてくれます。
技術の進歩が、人間社会に同等の進歩をもたらさないのなら、私たち人間に破滅をもたらすこともあります。原子の分裂へとつながった科学的な変革には、道徳的な変革も求められます。
だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。
私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像します。
私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。
私たちは、声なき叫び声に耳を傾けます。
私たちは、あの悲惨な戦争が、それ以前に起きた戦争が、それ以後に起きた戦争が進展していく中で殺されたすべての罪なき人々を追悼します。
言葉だけでは、こうした苦しみに言葉に表すことはできません。しかし私たちは、歴史を直視するために共同責任を負います。そして、こうした苦しみを二度と繰り返さないためにどうやってやり方を変えなければならないのかを自らに問わなければなりません。
いつの日か、証言する被爆者の声が私たちのもとに届かなくなるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません。その記憶があれば、私たちは現状肯定と戦えるのです。その記憶があれば、私たちの道徳的な想像力をかき立てるのです。その記憶があれば、変化できるのです。
あの運命の日以来、私たちは自らに希望をもたらす選択をしてきました。
アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、はるかに多くのものを勝ち取ったのです。
ヨーロッパ各国は、戦場を交易と民主主義の結びつきを深める場に置き換える連合を構築しました。抑圧された人々と国々は解放を勝ち取りました。国際社会は戦争を防ぎ、核兵器の存在を制限し、縮小し、究極的には廃絶するために機能する組織と条約をつくりました。
それでもなお、世界中で目にするあらゆる国家間の侵略行為、あらゆるテロ、そして腐敗と残虐行為、そして抑圧は、私たちのやることに終わりがないことを示しています。
私たちは、人間が邪悪な行いをする能力を根絶することはできないかもしれません。だから、国家や私たちが構築した同盟は、自らを守る手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。
私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。
それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。
平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。
私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。
人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています
アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。
しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。
だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。
亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。
国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。
世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。
(huffingtonpost.jp/2016/05/27 投稿者:吉川慧)

オバマの広島での演説の翻訳をなんども読んだ。かれはチェンジと言って権力者としてデビューした。なにが変革されたか。この国の市民主義者たちがこのうえなく愛好する美辞麗句で塗り固められた欺瞞と虚偽。オバマの言葉(あらかたスピーチライターが書いたもの)は内省の意識を一般化し、現実をなぞり追認しているだけで、現実を変える力をもっていない。だからかれが語ることのなかに固有の生も固有の死もない。現実を俯瞰する権力の言説である。文化人がオバマの言説にたいし好意をもって迎えるのはかれらもその気圏を生きているからである。なにを言われているかわからないだろうなあ。
2011年5月2日、米海軍特殊部隊SEALs(シールズ)の精鋭隊員たちが2機のステルスヘリでアフガンの前線基地からパキスタン領空に侵入し、隠れ家を急襲。ビンラディンを射殺。オバマは頬杖をつきながら実況中継をヒラリーらと鑑賞し、正義は実現されたと演説した。なにが、どこが正義なのだと思った。ベトナム、ハイチ、リベリア、ソマリア、アフガニスタン、イラク、シリアでの米軍のなした殺戮。夥しい死者。そのどこにも固有の死はない。広島見学のスピーチもおなじだ。原爆の投下はアメリカの正義であり、ベトコンの惨殺はかの国の変わらぬ正義なのだ。観察する理性の権力性は主観的心情の襞のうちに信をもつだけで安倍晋三の愚劣と変わらない。
極めつけのならず者国家がアメリカということはだれにだって言えるからつまらない。
オバマの広島訪問のスピーチが好感をもたれたということについて考えてみる。なぜこのスピーチに接した者が惹きつけられるのか。オバマの語りが内省と遡行という典型的な思考の型として人格の表出において述べられているからだと思う。この語りは聴く者に訴える力がある。破滅的なアホである安倍晋三より人格として誠実である。それは明らかなことだ。おなじことがサンダースの演説にも言える。オバマは戦争を悪だと認識している。それはたしかだ。人はみな自由で平等であり、それがアメリカ合衆国であるとオバマは言う。それがオバマの主観的な心情であり、アメリカ合衆国の理念である。
問いを重ねる。ではなぜその悪である戦争が絶えないのか。国家の意志はなぜ戦争を招きよせるのか。なぜ戦争という共同幻想は主観的な心情を超えてあらわれるのか。サンダースやオバマがすきな正義が共同幻想にすぎないことはいうまでもない。個人として戦争に反対しても個々人の理念の総和が戦争のない世界をつくりえないのはどうしてか。戦争を担うそれぞれの人びとは主観的な心情として民主主義を唱える。それにもかかわらずなぜ戦争は消滅しないのか。オバマは戦争を哀悼して、私たちは互いに「一つの家族の一部である」であると語る。この語りのなかで西欧近代由来の理念である自由や平等という理念と友愛という理念のあいだに深淵があることが無意識に表明されている。どんな民主主義の理念もこの深淵を埋めることができず、ふたつの理念が引き裂かれる。それが数千年前と変わらず今もなおわたしたちが当面していることだ。サンダースの社会主義の理念はすでに古典として歴史の遺物になり、マルクス主義をソフトにした民主主義が「社会」主義を代理している。
わたしたちは行き暮れ、だから、人格の表出にすぎない民主主義を保守するわけだ。それがオバマのスピーチに好感をもつ98%の世論の支持となる。
わたしはオバマのスピーチを支持しない。もちろんオバマのスピーチはPR業のスピーチライターによって練られた高額商品であり、オバマが戦争について誠実な内省を聴衆に訴えているように見せることが演出されている。ここにはオバマという人格の表現はかけらもない。あるように見せるのがスピーチという高額商品の狙いなのだ。ヒット商品だった。

    2
真心という心情を商品にする高度な技術がある。
一昔前にバルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナで紛争があった。サラエボの悲劇として知られている。当時はインターネットが普及していなかったので、セルビア勢力によって殺戮されるムスリム人が、世界に向けて、私たちは殺されている、助けてくれとファクスを送信した。その一枚を人づてに読んだことがある。全土で戦闘が繰り広げられ死者20万人。ムスリム人に対するレイプと強制出産。難民は200万人に達した。NATOもセルビアを空爆。しかしヨーロッパの若者はNATOの空爆に反対のデモをしたことをロッキンオンという雑誌で読んで、そのときはよく理解できなかった。高木徹の『戦争広告代理店』を丹念に読んで空爆に反対した若者の意志が正しかったことがわかった。
セルビアのミロシェヴィッチ大統領はのちに人道にたいする罪を犯したとしてハーグの国際裁判所に起訴される。ミロシェヴィッチによる民族浄化が起こり、ミロシェヴィッチが強制収容所をつくったと報道された。セルビアが悪でサラエボの悲劇が起こったと一般には記憶されていると思う。(バルカン半島北部の紛争については坂口尚の名作『石の花』に詳しい。サラエボの悲劇の10年前にすでに事件を予見していた。)
記憶もメディアによって作られる。高木徹の『戦争広告代理店』を読んでそう思った。
ある国の政権担当者が広告代理店に敵対する国が悪をなしていると触れ回ってほしいと依頼すると対価に見合ってその広告代理店が、この本に書かれているように、ミロシェヴィッチを戦争犯罪人としてアメリカの政府やメディアや国民や国連を動かして追い詰めていくノンフィクションである。そのキーワードが民族浄化と強制収容所である。このふたつを徹底して売り込んでいくのである。ミロシェヴィッチがヒットラーのように極悪であると言うことが報道に接するものに知らないうちに刷り込まれて、見てきたかのように悪が作られていく。クライアントはその対価を支払うわけだ。もちろんPR企業は営利活動としてそれをなす。
ルーダー・フィン社のハーフは言う。「紛争は常に世界のどこかでおきています。これからもそうでしょう。チェチェン、キプロス、スペインのバスク独立派、そして朝鮮半島。紛争の種は世界中に散らばっているのです。ボスニア紛争の時に比べ、社会の情報化がはるかに進んだ現在、私たちのようなPRのプロの存在はなおさら欠かせないものになっています。紛争を戦う双方のサイドに言い分はあるはずです。私たちは、そのどちらの側にも立って、世界に向けてその主張を発信するお手伝いができるのです」(『戦争広告代理店』384p)
わたしは4半世紀前からグローバル経済はやがて真心を商品にするようになるだろうと機会があるごとに意見を述べてきた。その見事な見本を高木徹の『戦争広告代理店』にみることができる。
大東亜戦争の時、国民は現人神の臣民であった。いまはハイテクノロジーと結びついたグローバル経済の属躰にすぎない。それが人類総アスリートということの実像だ。さらに強いAIが追い打ちをかける。人々から雇用を奪うのだ。それは不可避である。雇用を奪うだけではない、最後に残されたわたしたちの心身も最後のひとかけらに至るまで商品となり真理への属躰として切り売りされることになる。それがわたしたちの当面している現実だ。民主主義というむなしい空念仏を唱えることでこの事態を迎え撃つことはできない。この信念は揺らがない。この前提に立ちわたしは世界や人類史を構想している。

    3
憲法について、憲法9条では国を守れないと、護憲でも改憲でもない主張をしている伊勢崎賢治は「好むと好まざるにかかわらず、いつか起きるのが戦争だと思っている」(『新国防論』5p)と言う。ある前提を設ければたしかにそうだと思う。その前提とはなにか。自己を実有の根拠へと導く、認識の暗黙の公理となっている同一性である。ほんとうに「いつか起きるのが戦争」だろうか。
民主主義もそれが理念であるかぎりひとつの共同幻想にすぎないように、ある自然を前提とすれば戦争はつねに不可避なものとしてあらわれる。それがわたしたちの知っている観念の自然だ。この観念は拡張することができると内包論は考える。
親鸞やヴェイユの思想は内包論のとば口まで来ていた。内包論までもう一歩だった。ヴェイユは「自我と社会的なものは二つの大きな偶像である」(『重力と恩寵』43p)と言っている。自我と社会的という円環の内部での表現のことをヴェイユは人格の表出と呼んだ。この認識の場所でヴェイユはデモクラシーとはべつの形態の可能性を直感的につかんでいたが、それがどういうことであるのか、そこがどういう仕組みになっているかを言わなかった。あるいは「神は不在というかたちでしか創造のなかに現存することができない」(同前 197p)という不思議な言い方。この思想も、人格の表出にすぎない様々な観念の制作物のかなたにある「匿名の領域」とリンクしている。ヴェイユにとっては存在しないことの不可能性として匿名の領域は存在していた。ヴェイユの思想は、決して内面化することも、共同化することもできない、名づけようもなく名をもたぬものとしてリアルに存在した。このリアルをじっくり考えるほど長くヴェイユは生きることができなかった。

まだ磨かれていない原石のような言葉がヴェイユにはたくさんある。ヴェイユは言う。

 二つの善がある、どちらも同じ名称をもつが、根本的に相異なっている。悪の反対としての善と、絶対としての善と。絶対というものにはその反対がない。相対は絶対の反対ではない。相対は絶対から派生したものであり、両者の関係を交換することはできない。われわれが欲しているのは絶対的な善である。われわれが到達できるのは、悪と相関関係にある善である。われわれはそれをわれわれが欲している善であると思いあやまり、そこにおもむく。(『重力と恩寵』 268p)

絶対から派生したものが相対であり、そこに自我と社会的なものが棲まっている。ヴェイユの言っていることは内包の感覚とよく似ていると思う。根源の性から派生したものが分有者という存在のありようである。ここでヴェイユが言う絶対とは親鸞の思想では他力ということになる。他力の反対が自力ではない。内田樹がよく使い回す「人知れず『世界の善を少しだけ積み増しする』文化的雪かきをこつこつやり続けると世界は善なるものにいくらかでも近づく」という信念は典型的な市民主義の倫理である。親鸞は廻向に二種ありと言った。悪の反対としての善は親鸞においては自力作善ということになる。相対と絶対の関係を交換することができないという気づきも親鸞の自力と他力に精確に対応している。ヴェイユの「絶対というものにはその反対がない」という気づきの場所が匿名の領域を媒介にして内包へ開かれている。

人格の表出に過ぎない諸科学も悪の反対としての善を引き継ぎ社会に敷衍する。それが自然科学の知性と呼ばれている。知性が俗知になる所以である。ヴェイユはそのことにも気がついていた。

 記号と記号であらわされるものとの関係が失われたので、記号同士のいたちごっこが記号そのもののために記号そのものを用いておびただしく繰り返されている。そして、複雑さがますます募るにつれて、記号をまた別の記号であらわさなければならなくなり…‥

 集団的思考は思考として存在しえないので、事物(記号、機械‥…・)のなかにはいりこんでしまう。そこからつぎのような逆説が生まれる。思考するのは事物であり、事物の状態に追いこまれた人間が思考するのだ、という逆説。

 集団的思考などはまったくない。そのかわりに、われわれの科学は技術同様集団的である。専門化。われわれは結果だけではなく、よくのみこんでいない方法まで相続する。それに、結果と方法とは切りはなせない。なぜなら、代数学の結果がほかの諸科学に方法を供給するのだから。(同前 253~254p)

善と悪について、科学についてとても大事なことをヴェイユは言っている。ほとんどヴェイユのいうことにつきると言ってもよい。わたしは、圧倒的に善、悪は枝葉末節とこれまで言ってきた。ヴェイユもおなじことを言っている。ことばが根づくということはこういうことだと思う。このリアルを知性でいうことはできない。音によぎられる体験に知性が触れることができないように。親鸞の他力もそうである。なんら知的な操作を経ないでじかに知覚することだからだ。知性は自己意識の外延表現にすぎない。巷間にあふれる科学的な信のいかがわしさについてもヴェイユはつかみきっている。おおかたの科学とは俗知の集団的な信にほかならない。強いAIを主張する者らにたいしてはゲーデル文を使ってペンローズが完膚なきまでの根底的な批判を加えた。わたしはペンローズの意見に与する。

内面のつぶやきの内面化も、間違った一般化による共同化も、ともに権力の言説である。あらゆる批判を想定したうえで申し述べている。けっして内面化も、共同化もできないそこにしか生の固有性はない。当事者性に準拠して生きるとはそういうことだと思っている。内包的な表出の意識を通してしか青空は見えない。この無限小の、しかしだれにも内挿されている根源の性を生きるとき世界はひらかれる。

    4
内包の狂。不逞の自由。
表現の態度変更、あらゆる価値の価値転換はつぎのようになされる。
ある架空の問答。

なぜ一緒に暮らしたいの?

ひとりになれるから。。。

わたしもおなじよ。

ひとりになれることをじぶんになることができると言い換えてもいい。
この問答はわたしたちの生きてきた思考の慣性としての対幻想を根底から拡張している。ここではどんな自我も社会性も想定されていない。わたしたちの知る対の関係の真反対のことを表現の態度変更として、あらゆる価値の価値転倒として言いたい。
ある個人がべつのある個人とつくる関係のことをわたしたちは対や性の関係と呼び習わしてきた。やがてこの対の関係は家族になる。なにがここで起こっているのか。
だれもが生きてきた日々の軌跡がここにある。このときの個人は空虚と孤独に満ちている。生の不全感と言ってもいい。だからこの不全感を埋めようとしてある個人はべつの個人との縁を求めた。この関係はうまく行くだろうか。行かないと思う。このとき知らずしてすでに対幻想は同一性の罠に墜ちている。読者よ、おわかりになるだろうか。対幻想は対幻想自体に対して内包的な表現をなしてしまっているのだ。自己があってもう一人の他者とあやなす世界がもうひとつの表現を遂げたということだ。根源の性の分有者のいちばん奥にある還相の性がわたしの世界認識の根幹をなしている。還相の性が可能だから、喩としての内包的な親族もまた可能となる。この観念は天然自然由来のものでも人工自然由来のものでもない。二つの自然の拡張として存在している。わたしはこの自然を内包自然と呼んでいる。

ひるがえっていうなら、このあらゆる価値が転倒されたところではじめて根源の性の分有者という主体(他者を自己のうちに認める領域としての自己)が、わたしたちの生に、そして、歴史に登場することになる。それはとりもなおさず、わたしたち一人ひとりが、「知識人と大衆」という権力的な分割の図式でもなく、グローバル権力によるアスリート化への強制的な組み入れでもなく、表現の過程に登場するということなのだ。外延的な認識の枠組みでの人類の総アスリート化にたいして、内包自然を生きるとき一人ひとりの生は表現としてあらわれる。人類70億総表現者の時代の到来。グローバル経済やグローバル権力がなにほどのものか。外延論理を内包論理で包み込めばいいのだ。どちらに勝機があるか言うまでもない。もちろんこの理念はわたしによってはじめて言われることだ。人類の総アスリートにたいして一人ひとりの生の固有性を当事者性として表現すればいいのだ。生をまるごと表現するということが内包表現では可能となる。意識の内包的な表出においてしかもともと表現は可能ではなかった。永い倒錯の歴史を経てやっとあり得たけれどもなかったものをあらしめる表現が可能となりつつある。これからはグローバル経済やグローバル権力という同一性に準拠した外延論と内包論の相克として世界は現象するだろう。その帰趨は明らかだと思う。

強いAIが同一性に準拠する人間の営みを超えることもあるだろう。AIによってわたしたちの雇用の大半が奪われることになるかもしれない。それがどうした。そんなものはくれてやる。どんな精緻なAIも内包に手をかけることはできない。匿名の領域や沈黙の有意味性や内包をAIがアルゴリズムとしてつくることは原理的にできない。ハイテクノロジーと結びついたグローバル権力がわたしたちの生に猛威を振るおうが、それでもわたしたちは生きていく。世界の属躰としてではなく、一人ひとりが世界の主体として生きることが内包論では可能となるからだ。大衆としてではなく固有の生を生きる歴史の主体として。外延的な歴史はゆるりと内包史へと転位していく。ここでわたしたち一人ひとりの生が固有のものとして歴史のなかではじめて登場することになる。だから自己表現ではなく内包表現に世界の可能性があるとながく主張してきた。意識の内包的な表出という一点を通して、青く晴れあがった空と、音色のいい風の音を聞くことができる。蒼穹と音色のいい風は喩としての内包的親族に比喩される。

この気づきはさらなる価値転倒を喚起する。人類史の規模の厄災を招いた「知識人と大衆」という束縛。文学の言葉と政治の言葉という虚偽。「批評性というのは舛添を『生贄』にして喜ぶような『狂乱』のことではありません。おのれの社会的機能についての自意識の事です」(2016年6月16日の内田樹のツイート)という機能的言語が結果としてこの国のしくみを支えているという逆説。遅れた大衆を教導する前衛という権力。眼を覆うような錯誤。かつて大衆に投網を投げて絡め取ったマルクス主義があり、民主主義という共同幻想がある。食と性が限界まで追い詰められるとき、人は倒錯した理念に憑依して生き延びようとした。それは人間という生命形態の自然にとって自然なことだった。生き延びた生はその無惨を間違った一般化によって内面化し社会に提供する。空念仏にすぎない。悪の反対としての善はこの惨苦を内省と遡行という意識の形式によって内面化し敷衍する。そうやってきりなく悪は、あるいは善は順延される。いまもその渦中にある。解けない主題を解けない方法で解こうとすることの虚妄。依然として世界はここに閉じられている。

どの国の国民もグローバル経済の恩恵を感じてはいないはずだ。生活が破壊されていく実感が圧倒的だと思う。国益も国民も無定型なグローバル権力の属躰となっているということ。主観的な意識の襞のうちにある信や善をはるかに超えたところで世界が転形しつつある。追い詰められていく個々の生は精神の古代形象に憑依するか人類の滅亡を語るしかなくなる。そうではないのだ。テロの脅威と知のシンギュラリティはおなじ事態のべつようの表象にすぎない。

生の原像を還相の性として生きるとき意識の内包的な表出は知識人でもなく大衆でもなく言葉がことばを生きる表現の主体としてあらわれる。自己意識の外延的な表現(ヴェイユの言い方では人格の表出)による知識人や大衆という世界の分割ではなく、一人ひとりが固有な生を生きる表現者となるほかない。生を可視化し実体化する外延的な世界ではわたしたち一人ひとりの生はグローバル権力によってアスリートとして生々しい無言の条理にさらされている。そこではわたしたちの生はシステムの属躰となる。おっとどっこい、そうではない。内包自然がある。還相の性は喩としての親族を可能とする。そのときわたしたち一人ひとりが、だれもが表現者として固有の生を実現することになる。世界の転形期のただなかで内包的な歴史を固有の表現者として生きることができる。内包の知覚は、直感が同一性に矮小化される以前の論理である。熱い自然が息づくところに生の未知や歴史の未知がある。そこを生きるのはたのしい夢ではないか。

〔追記〕
ある意識の流れに入ると、リベラルであるか反知性主義であるかを問わず、だれもがおなじようなふるまいをやってしまう。その典型が舛添公開「処刑」だ。メディアはグロテスクな安倍晋三をやり玉に挙げる気概はとうに失せているから、舛添のどうでもいい不祥事をことさら言挙げし舛添をリンチに晒し溜飲を下げる。民意はねつ造され、そのねつ造された民意を背景にメディアが舛添をさらし者にした。洋の東西と問わずこの狂乱は繰り返される。それが人類史だといってよいくらいだ。いったい何が起こっているのか。内省しても功徳はない。ほんとうに考えるべきことは、人はなぜそのようにしかふるまえないのかということなのだ。東山彰良の『流』と『罪の終わり』はそのことを問うている。東山彰良は世界の無言の条理のなかに慈悲を見いだそうとする。果敢な挑戦だと思う。

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