日々愚案

歩く浄土90:情況論14-「ダッカ~アベ~相模原」の狂気の根源にあるもの

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同一性の必然として世界の無言の条理がなまなましくあらわれる。海外でも国内でもむきだしの事件が吹き荒れる。だれもが胸裏でなんでこんなことがと声にならない声でつぶやく。相模原19人刺殺事件があり、容疑者は障害者を大量に殺戮する明確な意志をもっており後悔していないと報道されている。神戸の少年の事件のときもそうだった。なぜ人を殺すことは許されないのかを明確に語った文化人はわたしのしるかぎりいなかった。
世界が邪念で煽られている。それだけ現実がむきだしになっているからだ。無言の条理を人間という自然がなぞっていく。世界に音色のいい風を吹かせたくてブログをつづけている。わたしの内包論が生活と思弁を分離することはない。あらかじめ付言すればこの事件をめぐって市民主義的理念や機能主義的な理念が空念仏としてくり返されるだろう。すべて無効である。

同一性を実有の根拠とするかぎり、どんな奇怪な観念も人に憑依することができる。永井均はかつて人を殺して「なぜ悪いんですか」と池田晶子に畳みかけた。池田晶子は人を殺すことは魂に悪いからだと答え、その答を永井均がせせら笑う。「人殺しをしているかどうかということと、人殺しが悪であるということの根拠は何かということの間に、まったく関係はないと思います。何かをしたということは、何も付け加えないと思いますね。善悪について、ある人がどう感じるかは、社会の構成原理がその人の心にどう影響を与えるかということで、犯罪をおかした人は、それによって良心の呵責を感じたり、感じなかったりする。しかし、そもそも呵責を感じるか感じないかということは、もともとの善悪とは何ら関係がないというか、むしろ順序が逆であって、悪とされているからこそ良心の呵責を感じたりするわけですね。その悪の根拠というのは、良心がそう感じるということが根拠になるのではない。当人がどう感じるかということは、この問題とは本質的に独立しているんです」(『2001年哲学の旅』230~232p)人を殺してはいけないことになんの根拠もないが、それでは社会が混乱して困るので、人を殺してはいけないという道徳をつくったと永井均は言う。これを口先の思弁という。今回の事件をネットで知ったとき吉本隆明のある言葉をすぐに思い出した。わたしは今回の事件にたいして思想家吉本隆明の言葉だけが唯一事態の核心に届いていると思う。そのことは断言として言える。とても深い言葉が語られる。

 そこで典型的に原点になる生活者を想定しますと、その想定のなかに何があるのかといえば、ほんとうは生活という概念よりも、〈生存〉という概念のほうがいいように思います。つまり、ある人間が死んでなくて生きて生活しているばあいの最小条件といいますか、その中からいろんなものを全部排除してしまって、ともかく〈生存〉だけはしていて、それはまさに〈生存〉しないことと対応しているとかんがえられるものです。そういう原点の生活者を想定しているばあい、極端にいえば、今日食べて明日食べて、そして今日欲望し明日煩悩し、という次元で理解するよりも、むしろ〈生存〉の最小条件を保持しているもの、というところでかんがえられると思います。だからそれは、まさに生活しないことと対応するよりも、〈生存〉しないことと対応していると云ったほうがいいでしょう。厳密にそれをじぶんで定義づけたのではありませんが、最小限度、〈生存〉しているばあいに、それはだれにでも普遍的にある状態ということになります。〈生存〉しているかぎりはだれにでもある状態という意味合いまでいけば、その重さはすごく重いという考え方が、ぼくにはあると思います。それは、自力以外に世界はないんだ、というようにつきつめて行く概念の崩壊点で、再び自力へ引き戻しうる重さの根拠みたいな原点になると思います。
 それは生と死という概念とはちがいます。あるいは、全き生命をうるということにおいては万人平等であるという、わりあい宗教的な考え方にたいしても、〈生存〉ということと〈生存〉しないという概念は、すこしちがうような気がします。ぼくは、〈生存〉という概念を、人間は、ひじょうに即物的、具体的、活動的、自然物それ自体であるというところでかんがえていて、それにたいして、〈生存〉そのものを再び概念に、反省的に取り出してきて、そこに生命という概念を与えるという考え方は、ぼくにはないように思います。まったく物質的になくなっちゃうというところが行き止まりのような気がします。(『最後の親鸞』ノート所収「歎異鈔の現代的意味」より)

生存していないことと対応する生存という考えの「その重さはすごく重い」と吉本隆明は言う。記憶にあるかぎり最深の、今回の事件に抗しうる唯一の思想だと思う。ただ生きていることになんの価値があるということにたいして、生存していることはそれだけで価値であると、吉本隆明は明確に答えている。市民主義の理念として建前を言っているのではない。かれの思想の底の底にあるリアルがかれにそう言わしめている。そのことはわたしに充分につたわる。わたしは吉本隆明の思想のもう少し先までいくことができると考えている。吉本隆明は生存の最小与件とは生と死という概念とは違うし、生きていることにおいて万人平等であるという宗教的なものとも違うし、生存という概念を即物的、具体的、自然それ自体であると考えていて、生存そのものを反省的にとらえ概念を与えるということはない、と書いている。マルクスの自然哲学にも吉本隆明と似たところがある。1973年の秋、吉本さんのお宅に伺い話を聞いてもらったとき、唯物的、科学的、現実的という印象が鮮やかに残っている。生存の最小与件を語るときの吉本さん自身の言葉とぴったり重なる。

意識の外延的な呼吸法からいえば吉本さんの思想は深い。しかしまだ思考としては突き詰める余地が残されている。生存の最小与件を述べるときしらずに吉本さんのなかをすきま風が吹いていたはずなのだ。その後の吉本隆明の獅子奮迅の思想の苦闘をみていてそう思う。
吉本隆明の生存の最小与件の自然と親鸞の自然法爾の自然とはどう違うか。吉本隆明の自然は往相の自然過程のそれとして言われているようにみえる。親鸞の自然は還相の自然として言われている。まるで違うのではないか。生命を慈悲でとらえる反省的な意識はなく、生存の最小与件は生きていることの即物性それ自体だというときそこにニヒリズムが不可避に呼び寄せられる。このことに吉本隆明は自覚的ではなかった。真贋はわからぬが、相模原19人刺殺事件の容疑者の「重複障害者を救ってあげたかった」というグロテスクな供述を根柢から批判しうる唯一の吉本隆明の自然が概念それ自体として現実に直立することはないようにわたしには思える。生存の最小与件を還相の知で生きるとき、生きていることの往相性は消える。このリアルをわたしは内包自然と呼ぶ。

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なぜ内包ということを考えるようになったのか。一言でいうのはむつかしい。1980年頃から考えてきた。ありとあらゆる試行錯誤や紆余曲折を経てここまできた。バブル経済の勢いのなかで軽いことが価値とされ、なにかを真剣に考えることは重くてダサいという時期もあった。考えることが時代性を帯びるということはたしかにある。そして時代はそのひとがなににこだわっているかということに無関係にあっさり過ぎていく。それでも過ぎる時代にあっても過ぎて行かないことがある。このとき自力はたんてきに尽きている。遺棄されるということだ。言葉にならぬことを内面化しようにもその言葉の背骨が折れている。自力が果てるとき出来事を内面化することはできない。それを遺棄されている、イリヤ、と呼んでみる。それはいつもけっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないようなものとして名づけられることを待っている。共同化もできなければ、内面化もできない。この世のどこにも身を置く場がない。そのただなかを生きてきて、内面化も共同化もできないことのなかに生の可能性があると思うようになった。

内面化することによって出来事の本質を手にすることはできない。内面化の過程をふり返ると、内面のつぶやきはあらかじめ社会性として通分されている。その意識の流れに沿って自己意識が内面化されるということだ。ふつうこのことは意識されない。よく考えるとわかるが、内面化は共同性へとなにかをゆずり渡す行為でもある。内面化は出来事を通分することによって共同性へと共約されることになる。ここでは内面を微細にたどることは、内面を粗視化することと同義であり、また粗視化することなくして内面が共同化されることもない。
たとえば内面化された表現である小説作品があるとする。作品が読者を得るということは、その文学的な行為のなかに粗視化された自己が共同性として暗黙のうちに約定されており、出来事を通分した自己が共同性へと共約されて引き受けられるからだ。作者と読者。メディアの報道と報道を受け取る側。この一連の行為は通分した自己と、共約された共同性という前提ぬきには成り立たない。人と人がつながるということはまるで違う出来事であるのに、まだわたしたちはこういう理念しか発明できていない。この相互のもたれ合いのことを市民主義という。人格の表出を媒介にした民主主義と呼んでもいい。情況的であることの核心がここにじかに関係している。ポケモンGOの流行と相模原の狂気はどこか似ていないか。

おまえのいうことはわかりにくいと言われることを百も承知でこれを書いている。もっといえば、内面化が内面の粗視化によって可能であり、粗視化によって抽象化された内面の一般性のことを共同性と呼ぶとき、内面化による出来事の粗視化は余儀なさとしての権力なのだ。言説の本質は権力であるとはこのことにほかならない。個人はなにも唯々諾々と外延権力を受け容れるわけではない。内面化によって外界の権力に抗命しているのだ。それはひとであることの自然的な基底であると思う。この自然的な基底を人びとは錯覚してきた。わたしは痛切な体験を経て、通じないことしか人にはつたわらないと考えてきた。それは内面ということでは言いえない出来事だった。鮮烈な体験だった。わたしになんの挨拶もなく、いきなりわたしのど真ん中をまっすぐに貫通し、わたしのなかのなにか硬いものを破壊して、わたしという存在を根こそぎさらっていき、理不尽にわたしを簒奪するもの、それが〔性〕だ。この〔性〕によぎられることなくしてわたしがわたしであることの自己性はけっしてあらわれない。この自己に先立つ背後の一閃を内面化も共同化もできないそれ自体の領域として考えつづけた。内包という際限のなさが同一性にあふれたときその驚きを、人びとはあらためて意識することもなく自己意識の無限性と呼び慣わした。ほんとうの驚異は自己意識に痕跡としてのこされた内包の面影にある。内包が本然であり、同一性はその派生態にすぎないのに、いつも意識の先後の関係が逆になっている。アベシンゾウと相模原の狂気はここに震源をもつ。

自己の内面化は社会に向けて暗黙に自己を通分しているものであり、その共約された心性を引き受けるとき、抽象化された共同性という一般性が成り立つ。このような思考の慣性が行き詰まっているということが現在ということであり、それは民族、宗教、イデオロギーを超えた普遍として現前している。ある思考の型をうけいれるかぎりだれもこの意識の範型からまぬがれることはない。さまざまな差異を超えてわたしたちはある暗黙の意識の約束事を前提として世界を表現している。この表現の公理が自己意識の外延的な表現だと思う。ある約束事を括弧に入れると、文学的な表現と政治的な表現はあたかも次元が違う領域のように立ちあらわれる。文学的な表現も政治的な表現も意識の底では密通している。それこそが思考の慣性である。なくてはならぬ作品なんかありはしない。表現にあたいする作品もまたない。自己意識の外延表現という予定調和の世界があるだけではないか。ここを抜けでようとしたひとつの達成を片山恭一さんの『なにもないことが多すぎる』という作品にみることができる。この作品は世界の趨勢にじかに立ち向かおうとしている野蛮で果敢な小説だと思う。

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