日々愚案

歩く浄土89:情況論13

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うつむいてポケモンGOをやりながら歩く若者の群れをネットの記事で見ていると、ゆくりなく強いAIに同期した属躰がそこまできているのを感じる。伊藤計劃のハーモニーの世界はもうかたわらにある。ポケモンGOで世界とつながるきみは、だれとも、自分自身ともつながっていない。かぎりなくビッグデータやIOTという科学知に生が掬い取られ生はそこに収斂していいく。シュミラークルな生は自然な生である。それが生きていることだと錯覚する。そうするとわたしたちは科学知の属躰として生きていくしかない。人間というものは事物の秩序の影にすぎなくなる。人々はみずから科学の属躰のなかに飛び込んでいく。悪くはないかもしれない。世界から奥行きが急速に失われていく。人々はただ世界の関数にすぎなくなる。

はるかな悠遠の太古、日暮れとともに闇があたりを覆うという日常に、当時のハイテクノロジーである火の発明が明るさと暖をもたらし、ヴァーチャルな現実がやがてリアルになった。それは小さなバンドの関係の表現としてあった。おそらくマルクスはポケモンGOの到来を想定していなかった。しかしマルクスの夢みた世界からポケモンGOまでは一直線だったと思う。マルクスの思想を拡張することは世界を拡張することと同義である。とここまで書いてマルクスの価値形態論についての記事を次回以降に回すことにした。情況論をもう少し書きたい。参議院選挙の直後から沖縄の高江のヘリパッド建設が強行されている。ひとえに日米地位協定が日本国憲法の上位にあるからである。安倍晋三が国家権力の名代として米国の国家意志に追従している。

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伊勢崎賢治さんの本を読んで面白いと思い、かれのツイートを覗くようになった。国連の活動や現場のことはしらないので、とても参考になることが多く、重宝していた。ところが、「ま、個人の投票行動ですから、聞き流して。後は、上杉さんを応援。鳥越さんとその他自公系を支持するぐらいだったら、投票棄権します。何故か? ウルセーよ」(2016年7月13日ツイート)を読んで、なんのことかわからず、おれUさんには関心ないし、???だった。7月15日に、「このコラム、秀悦!」とあったので、クリックした。斎藤美奈子はしらないけど、読んでみた。あ、このコラム、いいです。
伊勢崎さんがなぜ「秀逸」と取り上げたのかはわかった。ウィキでググると、なんだ、物書き文化人だった。いったいどんな暮らしをしてきたのだ、という気持ちを抑え込んで読むと、論旨は明確で、大事なことを主張している。民主主義はとっくに死んでいるので、ことさら怒ることもなかろうにと思うけど、斎藤美奈子という人にとってはそうだったと言うこと。些細なことに目くじらを立ててどうすると言いつづけていると政治屋になる。政治の本質はただひとつ。目的が手段を正当化すること。体制の維持も反体制も政治を使う。そんなことを言っている。傍観者としてならかんたんに言えるけど、集団の運動にかかわるとかならずこの罠にかかる。沖縄の高江で、他県の機動隊が抗議をする市民を排除するために権力を振るうのも命令を実行するだけの凡庸な悪に染まってしまう。かつての皇軍の赤子もそうだった。悪はかぎりなく凡庸である。自分はただ仕事をしているだけだといくらでも言い訳は立つ。

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もうひとつもやもやすることがあった。東京選挙区無所属で参議院選挙に立候補し落選した三宅洋一が安倍晋三の奥さんの誘いをうけ会って酒を飲み、携帯で安倍晋三と話をし、互いの健闘を讃え合ったという顛末。選挙中にかれの選挙フェスを支援した人の落胆のつぶやきを読んで胸が痛んだ。ここには集団の運動にかかわるものの錯認がある。個人であることと、集団の一員であることの超えがたい虚偽と倒錯がある。三宅洋平はこのことに自覚的ではないとわたしは思った。個人の主観的な善意をどれだけ外延しても共同性の善とはならない。以下時系列にしたがってツイートを並べる。

三宅洋平さんと会いました。・・・/ みんな繋がってて、本当はみんな仲良くなれるはず。/話せば意見が違うところも勿論ある。/でも、夫婦でも、恋人でも、家族の中でも、学校の中でも、会社の中でも、地域の中でも、全ての人が同じ考え方の社会はあり得ない。/みんなちがって、みんないい。/なんで多くの人が、三宅洋平を熱烈に支持するのか、わかったような気がします。/ここから何かが始まるかも/(安倍昭恵自身の7月18日、Facebookでの発言 )

昭恵さんは、その場で総理と俺を繋いでくれた。「立場は各々ながら、国を思い世界を憂う国士として同じ気持ちだと思っています。選挙では多少口を荒らしましたが、失礼します。」と伝え「大丈夫です、それが選挙ですから」と。(三宅洋平 7月18日ツイート)

高江の住民の気持ちを込めて「okinawa noproblem」capを昭恵さんに預けました。とてもチャーミングな方でした。かつ、こちらの率直な言い分を、胆で受け止める人でした。だから最後は、泣いてました。ココカラ…♪ (三宅洋平同日ツイート)

いくらでも幻滅すればいい。俺は俺だから、何も減らない。I am what I am.(三宅洋平同日ツイート)

総理、何なら一緒に高江に行きませんか、とは云えませんでした。三宅はまだそんなもんです。昭恵さんはチャーミングな方でした。幾ら批判の声があろうが、そう思います。しかし私は間違っても自民党改憲草案にほだされるような事はありません。(三宅洋平同日ツイート)

ここで取り上げた発言はそれぞれ本人の弁だからそのまま受けとることにする。安倍晋三の奥さんと酒を飲み、心のこもった話をしたかどうかどうでもいい。そんなことは面々の計らいに属する。安倍晋三も参議院選挙で共産党と結んだ野党を批判するとき、かれの主観的な心情において皇国が赤化することから護る信にあふれていたと思う。イエスが最後の晩餐であなた方は明け方までに私を裏切るだろうと言った。そしてユダだけではなくみなそうなった。わたしは敵対する者らと一切同席せず、四十数年の絶対的な孤絶を貫いた。わたしが三宅ならどうしたか。安倍晋三に、いまから沖縄の高江に行こうとねじ込んだ。まちがいなくそうしたと思う。「総理、何なら一緒に高江に行きませんか、とは云えませんでした。三宅はまだそんなもんです」とわたしがいうことはありえない。三宅洋平に裏切られてもう立ち上がれない、なにを信じたらいいのかわからないというかれのファンの甘ったれ。「いくらでも幻滅すればいい。俺は俺だから、何も減らない」という三宅の居直り。私人としてふるまうことと、集団の指導者としてふるまうことはまったく次元がちがうことなのだ。選挙フェスに集まった観衆に、私はあなたです、と呼びかけた理念の倒錯。それにもたれかかり支持してボランティアをやった匿名の者たちのつまらぬ非難。善意のかたまりのつもりになった三宅洋平の権力のまなざしにやられただけではないか。冗談じゃない、なにをじゃれ合ってるんだ。

集団の動きに参集するとき目的が手段を正当化することは不可避である。どういう政治的な見解の持ち主であっても例外なくこの罠に落ちる。外延表現の形式でこのねじれを解くことはできない。外延表現の意識のあらわれを内包というリアルに包み込み国家や資本や政治の彼方に跨ぎ超すこと。いまここをどこかにすること。それはポケモンGOの仮想現実よりはるかにリアルで善きもののように思う。そこへGO!

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