日々愚案

歩く浄土85:内包贈与論の予備的考察2-マルクスの価値形態論について2

ベガーズバンケット
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いまさらマルクスでもあるまい。たしかにそのとおりだ。しかし、マルクスが詰め切らずに考えのこしたあいまいさは現在にも引き継がれる。「社会主義」は滅んだが、「社会」主義だけが生き残り、ほかにないということで、人々に不昧を説き、盛んに民主主義という空念仏を勧める。好意的に言えば小さな善を積み増す自力作善の奨励である。競争から共生の時代へと建前が語られる。だれもそんなことは信じていない。むきだしの生存にさらされているというのが日々の実感だ。

大衆などというものはどこにも存在しない。存在するという仮構性の上にわたしたちの知る理念は成り立っている。一括りにすれば「私」もたくさんの人のなかの一人だが、自己意識の外延表現は大衆を媒介に建前で世界を語る。人類総アスリートの時代に、総アスリートであるひとの生存をマスとして語ればグローバル経済の属躰として生きるしかない。移行期を経て、遠からず時代はそのように再編成される。このシステムは例外社会を常態とする属躰民主主義へと装いを新たにするだろう。
 
 マスとしてひとの生をとらえると「私」も含めて大半の人は目先の利益で動く。当たり前のことで倫理の介在する余地はない。外延的な存在しかわたしたちがつくりえていないからだ。わずかな主観的信の違いをぬきにすればだれもが民主主義を信仰する「社会」主義者であるわけだ。人格を外延表現するかぎりここまでしか来ることができない。ここが歴史の到達点であり、終着点だとされる。ここより先に歴史はない。だから主観的にどんな民主主義がいいかと競い合う。そうではない。民主主義もまた過渡的な共同幻想である。
 
 わたしは大衆という概念を無化したところで世界認識をつくろうとしている。もちろん外延表現という認識の形式のどこにも抜け道はない。だから民主主義を唱え使い回すしかないとおおくの文化人が宣う。思想家マルクスの唱えた類生活への希求も超越的な信仰であり、目先の利害を優先する人々のなまなましい生存の前でかれの美しい夢は現実に屈服していった。外延権力の下で革命を維持するために統治する権力は人格の恣意性を徹底して禁止・抑圧・排除した。なぜこんな歴史しかわたしたちはもつことができないのか。なぜ人であるということはシステムの属躰でしかありえないのか。外延表現の認識の範型では自己の恣意性とその総和はつねに矛盾・対立・背反するものとしてあらわれる。そこで人間の関係のあり方から直接的な倫理を骨抜きにし、人格の表出であるルールとモラルや、公共性が問われる。それしかいうことがないのか。ここでもまた解けない主題が解けない方法で語られる。生は不可避になにかへの過程として順延され、いつまで経っても生が成就することはない。
 
 自由も平等も他者への配慮も、ひとであるということの根本のところで考えつくされていないなにかがあって、その不明が思考を外延表現に拘禁している。ネットで東京選挙区無所属三宅洋平の演説を3度みた。聴衆一人ひとりに、私があなたなんですと呼びかける。満身善意の塊になり熱く聴衆に語りかけていた。言葉に力があり、目力が強いのはつたわってきたが、かれもまた間違った一般化をやっている。かれの主観的な意識の襞にある信で人と人はつながらない。
 
 「知識人と大衆」という睥睨する権力の視線でもなく、グローバルシステム下でのアスリートという属躰でもなく、人々のすべてが表現者となる可能的な地平が遠望される。内包自然に降り立つとき、親鸞が生きた非僧非俗がわたしたち一人ひとりにあらわれることになる。世界の新しい知覚だと思う。内包自然がだれのなかにも無限小のものとして内属しているからだ。それが世界の可能性なのだと思う。
 
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心身一如であるという自己の実体化がある。マルクスの思想にも自己を実有のものとみなす錯認がある。1%が富を占有し、99%がむきだしの生存であえいでいる現実をマルクスは目の当たりにした。富の分配のしくみを公平に変えれば人も社会も変わりうるはずだとマルクスは考えた。これがマルクスの思想を貫く暗黙の表現の公理だった。マルクスの資本論はこの公理の上に築かれている。マルクスの美しい夢はその後の歴史によって反故にされた。世界はマルクスの時代もいまも強者が社会の富に預かり勝ち誇っている。なにも変わらない。それはなぜか。マルクスが問わずにすんだ無意識を、外延表現の形式ではなく内包表現すればマルクスの思想を拡張できる。
じぶんのなかに深く潜らないとマルクスの無意識に触れることができない。すでに自己は久しく所与の制度であり、時代の変化を変数として自己に代入するぐらいで、自己を問い訪ねても新味が出てくることはない。
 
 数十年にわたってわたしのなかに、あるひとつのイメージがあり、それがなんだろうという驚きと問いがあった。ながいあいだ、そのイメージを言葉でつかまえようとしてきて、それがどういうことか、すこしずつ見えてきた。わたしが書いてきたことは社会や政治、文学や思想について語っていると受け取られるかもしれないが、ほんとうに追求しようとしたのは、それらの領域では言えない領域の存在可能性だった。それは存在しないことの不可能性としてたしかに存在しているのだが、だれによってもうまく言い当てられたことがない。この謎のような存在を表現の言葉でつかむことができたら、世界はひらかれるとずっと思ってきた。
なぜ〔在る〕ということが、なぜ〔存在〕という現象が、つねに「私」の意識を伴いながらあらわれるのか。それはどういうことなのか。この驚きをつかもうとして様々なことを体験してきた。大半は過ぎたこととしても体験は苛烈だった。
しかし過ぎゆかぬこともある。〔存在〕の不思議さである。なぜ百万言をついやしてもうまく言い当てることのできない自己に先立つ驚異がうまれるのか。この驚異の源を根源の性と呼び、根源の性を分有することで各自性があらわれるとわたしは考えた。それが内包論だった。
 
 ほんとうに痛切な出来事はどうやっても内面化することができない。内面化してすっきりするならば、その出来事は内面化してすっきりするような出来事である。わたしがそのことの是非をいうことはできない。わたしの推測ではおそらく間違った一般化がなされているのではないかと思う。
気づくかどうかもその人の問題となる。わたしはそのことに関与できない。わたしの理解ではイリヤを記述するとき、人は知らずに、ある思考の慣性をなぞっていく。ふつうこの過程は意識されない。個人が主観という形で主観と向き合う関係が権力であるとはこのことにほかならない。その個人にとっては内面という形式に沿って意識の流れをたどることで生きられることがあるかもしれない。だから個人が主観として自らと関係することは、禁止・抑圧・排除としての権力ではない。なにかを生み出す力もある。自らの内面をていねいにたどることによって当人の痛切さが少しずつ緩和し、昇華していくこともあるだろう。そうやって、やっと、かれは、かのじょは、立ち、歩き、触れ、呼吸する日常に復員することができる。内面の文学はそういうものだ。しかし当人が意識するかどうかはともかくとして内面化はひそかに社会性を前提としている。ここで容易に間違った一般化が起こる。同一性の錯認の根は深い。
 
マルクスは自己を質点のようなものとしてとらえていたように思う。この質点は心身を含みもち、自然へとひらかれ自然の一部をなしていた。質点としての自己をリビドーを媒介に環界へ伸張すればフロイトのエスとなる。宇野弘蔵の経済原則もフロイトのエスに似ている。いずれも外延の思考の典型である。吉本隆明はマルクスの思想の根柢にある自然哲学を終生評価した。たしかにマルクスの思想の特質を直観していたと言える。マルクスの思想に出会い吉本隆明は戦後を生きることができた。
 
内包は構築的な思考ではない。〔存在〕の源に求心するように流れ上がり、少しずつ主題の解像度を上げて、主題を鮮明にしながら、〔存在〕の源から一気に流れ下る思考のように思う。構築的な思考は観察する理性抜きに具体の生を対象化できない。つくられた言葉には必然としてすきまがうまれる。実生活と思弁をすきまなくつなぐには思考の体力がいる。そして観察する理性によって語られることはいつも生きているそのことにたいして遅延する。つまりこの思考はいつもいくぶんか博物学的なものとなるほかないわけだ。だからこの世界で語られる理念が生として躍動することはない。生よりも理念が優先され、生きていることと理念のあいだにすきまができる。
 
 だれもがそれよりほかに生きようがないようにみずからの生を生きている。おなじようにそれよりほかに考えようのないことを理念としてつくろうとしてきた。そのときはじめて生は具体であるとともに普遍として語ることができる。
 
ここで内包贈与論を展開するにあたってわかりやすい事例をとりあげる。
お腹を空かした複数のひとがいるなかにおにぎりが一個あるとする。
さあ、どうするか。
内心の声は分けてもいいかなと囁き、ぐうぐう鳴るお腹は喰いたいという。
わたしたちの生命形態の自然は余儀なさとして、ある生存の輪郭を象った。
この生存の型のことをわたしは外延表現と名づけてきた。
マルクスはこの生存の輪郭を前提として資本論を書いた。
うまくいくわけがない。
マルクスの思想、その可能性の中心に、これから降りていく。

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