日々愚案

歩く浄土81:内包的な自然13-自然科学の自然3

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4月15日は片山さんとの対談日なので、話の接ぎ穂のために書いたペンローズについての文章を「歩く浄土81」としてアップしようとしていたちょうどそのとき地震が襲った。2016年4月14日21時26分。時計がそこで止まっている。パソコンをシャットダウンするまもなく液晶が落下して破損。スマホで緊急地震速報が鳴り響くときすでに大揺れに揺れている。ライフラインの途絶。真っ暗な部屋の中で手元にあったスマホのライトが頼もしい。まず水だ。5年前に娘が災害用リュックと保存できるミネラルウォーターを送ってくれていたので、当座の水は確保できている。鯖缶もいくつかある。さしあたりの食料も問題ない。まだ序章だった。余震が頻発する。

そして4月16日深夜激震。前震のあとに散乱した本を一度本棚に戻していたのだが、その本が本棚から落ちるのではない、宙を飛ぶのだ。幸いケガはしなかったが、宙を飛んだ本がアンプやスピーカーに激突。紙の本が鉄のアンプに傷をつける。階段から階下に降りることはできない。近所のお年寄りが二階から敷地に飛び降り、大腿骨と骨盤を骨折。家屋倒壊の危険を察知して飛び降りたということだ。よくわかる。余震が酷いので家屋に戻る気はせず、空き地の駐車場で夜が明けるのを待つばかり。本は本棚に収納するのではなくできるだけ床に積んでおくことにした。一時は老人ホームに入居している母を連れて博多に待避することも真剣に考えた。こうやってメモを書きつけているときにも余震がある。すっかり慣れてしまった。余震の感覚が間遠くなるといつも考えていることを考える。いまは内包贈与論でおおきな弓を引きたいので自然科学の自然ということについて考えている。

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ペンローズはチューリングとゲーデルを傑出した思想家だと随所で書いている。わたしはチューリングやゲーデルを数学者だと思ってきた。だからペンローズの考えが斬新だった。そうか、かれらが思想家だとしたら、かれらを論じるペンローズという思想家にたいしても人間の精神現象の総体からなにかが言えるはずだ。もちろんわたしは内包論という人間の精神現象を念頭においている。ペンローズにとっては物理的な実在が自然である。だから人間の意識を波動関数の脳神経内部の収縮に結びつけて考えるわけだ。では、その意識とはなにかという問題意識はペンローズにはない。かりにペンローズの主張に妥当性があるとして、ではなぜ神経鞘の波動関数的収縮として意識は生じたのかとペンローズが問うことはない。

いったいゲーデルは何を考えていたのか。いったいテューリングは何を考えていたのか。驚くべきことに、同じ数学的証拠を手にした二人は、根本的に正反対の結論にたどりついたのである。しかし,この二人の傑出した思想家がいずれも結論Gに合致する見解を表明したことは明らかにしておかなければならない。心は計算的な実体でなければならないことに制約されておらず、脳の有限性にさえ制約されてはいない、というのがゲーデルの見解であるように思われる。事実、ゲーデルはテューリングがこの可能性を受け入れなかったことで彼を非難したのだった。ハオ・ワンによれば,ゲーデルは「脳の機能は基本的にはデジタル・コンピュータに似ている」、また「物理法則は観測できる帰結の点では有限の精度をもつ」というテューリングの二つの暗黙の主張をいずれも認める一方で、「物質から切り離された心は存在しない」というテューリングのもう一つの主張を「われわれの時代の偏見」と呼んで退けたのだった。このように,ゲーデルは物理的な脳それ自体は計算的に振る舞うことは明らかだと認めながらも、心は脳を越えたものであり、心の活動は物理的脳の振る舞いを制御しているはずの計算的な法則にしたがって振る舞うように制約されてはいない、と考えていたらしい。
(『心の影』149p)

チューリングの思想を受け継いだミンスキーと、ゲーデルの思想を敷衍しようとしているペンローズの思想を軸にして強いAIの主張を見ていけばいいのではないか。吉本隆明の「眼の知覚論」が書かれたのは1970年。驚くべき卓見だと思う。ほぼおなじことに大森荘藏も気がついている。そうするとペンローズの主張を吉本隆明や大森荘藏の思想で読み直すとおおよそのことは言えるとわたしは考えた。大枠のことをいうことができれば細部はあとで詰めていけばよい。

人間という深さがあるのになぜそれを人工的なものに置きかえる必要があるのだろうか。人間であるということで充分ではないのか。まだ人間という概念はいちども実現されたことがないのに。なぜエベレストを征服したかったのか(Why did you want to climb Mount Everest?)と問われて、マロリーは、Because it’s thereと答えた。未知を探ろうとする自然科学もおなじだと思う。そこに課題があるからだ。自然科学のどこにも倫理はない。

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天と地のことが好きな空想少年だった。北極とか南極とか中近東の緑のない岩山とかタクラマカン砂漠とかパタゴニアとかそういうとこにおれは行くぞと考えたりするともうそこにじぶんが行ったような気がしてワクワクし、アンモナイトや三葉虫の化石掘りに行ったり、雷魚の卵を孵化することに夢中になったり、霜柱がニョキニョキ生えてくる真冬の夜更けにベンジンの匂いのする白金カイロを胸に、オリオン星雲やプレアデス星団をネオパン3Sを使って撮影したりするのが好きな内気な子供だった。小学校6年生のときに『生命の起源と生化学』を読み、なぜ物質に意識が宿るのかとそれはもう不思議で仕方なかった。爾来この好奇心は持続している。いまはそのことを内包論として考えている。
数学の根本がわからなかった。二乗してマイナス1になるとはどういうことなのか。極限の「限りなく」とはどういうことか。ジョージ・ガモフ全集を買うお金はなかったので中学生のとき書店でぜんぶを立ち読みした。虚数を使った宝探しなど面白かった。数学の極限や無限については数学基礎論学者だった倉田令仁郎さんに若い頃手ほどきをうけた。空想癖の強い田舎の少年が後年、天でも地でもない内包のことについて考えることの不思議。
わたしが小さい頃も遺伝子の本態がDNAであることは分かっていた。DNAは化学物質であるが、その化学物質になぜ意識が宿るのか。脳もまた物質であるが脳を原因とする意識のふるまいはどう説明できるのか。脳生理学がどれほど緻密な研究を積みあげても意識の起源についてはまだまったくなにもわかっていない。それはどうしてなのか。ペンローズは新しい数学を遠望し量子脳理論を提起した。意識は神経鞘の波動関数的収縮によって生起するとペンローズは考えた。この理論的到達点から強いAIの錯誤を批判している。

わたしは意識の起源は同一性の科学では解けないと実感している。際限なく意識を外延し、緻密な知によって意識の起源を説明しても、前提となる知の厳密さがとても平板である。物質と意識が予定調和的なのだ。わずかな思索家が脳生理学の錯認に気づいている。そのひとりが大森荘藏だ。

大森荘蔵は脳信仰について次のように言う。知覚や思考や記憶や感情を司るのが脳であることを疑う者はいない。この根本教理をかれは脳産教理と呼ぶ。この信は西欧中世のカトリック信仰に匹敵するもので、この篤信者の群れの中で異を唱えることは狂気扱いされることになるだろう。つまり世界もまた脳の働きによって産出されるという世界脳産の教義が導かれると大森荘藏は言う。その圧倒的な信の体系を前提にして、世の常識に反して、かれは「心の働きに脳は全く関与していない」という「無脳仮説」を提起する。ギョッとする。それほどにわたしたちの迷妄は根深いと言える。それは人類史の規模での迷妄ではないか。依然としてわたしたちはこの意識のとらわれのなかに閉じられている。

大森荘蔵とは何者かと問うと、これが難しい。一通りの言い方では分析哲学者ということになろう。わたしにも何者かよくわからない。ヴィトゲンシュタインやフッサールらの、近代由来の哲学を独力で組み替え、自然ということを考え抜いた碩学である。ゼノンの矛盾を解くことに生涯を費やした学究だった。なにがユニークかというと自前の哲学を観察する理性から解釈するのではなく、じぶんのつくった概念に自らの日々の理念と感性を合わせようとした。とても大変だったに違いない。概念と日常の感覚のズレに押しつぶされそうになったこともあるだろう。内包と外延を往還することにわたしも悶絶したのでよくわかる。大森荘藏は世の常識に根本から叛旗を翻した。学問は学問、生活は生活と分離するのではなく、「時は流れぬ」ことを日常の感覚として生き切ったことがかれの哲学を独特のものにしている。免疫学者安保徹の根本には体は間違わないという思想があるが、大森荘蔵の根本には、時は流れぬという思想がある。

 時間が流れる、時の流れ、という観念は古今東西にわたって人間を呪縛してきた巨大な比喩であることは間違いない。今日でもなおこの観念はわれわれのなかに棲みついていささかの衰えもみせていない。私自身も人生の大半をこの観念の支配下に過ごしてきた。そしてこの時の流れの観念が実はとんでもない過誤ではないかと疑い始めてからも長年の間その呪縛から逃れることができなかった。しかしその長年の動揺と困惑の後に、いまではそれが誤りであるという確信を得るに至った。
 その誤りの原因は、前節で述べたように、元来は運動と無縁である時間軸に現在経験に充満している運動を無理に持ち込もうとすることにある、というのが私の考えである。(『時は流れず』89p)

周知のように、このアキレスの逆理に挑んだ哲学者や数学者の数はおびただしいが、ついぞ今日までそれの解明に公認の成功を得た人はいない。私もこの逆理を解明したなどというのではもちろんない。私の得たのは、いわばこの逆理が持つ意義の新しい見方とでもいうべきものである。簡単に言うと、ゼノンはこの逆理で相手方を困らせようとしたのではなく、ある基本的な考えにひそむ危険を警告しようとしていたのだ、というのが私の新しい見方である。現在のところ、この私の見方に賛同してくれたギリシャ哲学史家は一人もいないし、おそらくこれからも無視されたままであろう。しかし、私は、ゼノンの警告がもし適中したならば、自然科学の全体が崩壊するのではあるまいかとすら思う。なぜならば、ゼノンが矛盾を含むと警告したのは、現代科学の最基底にある最も基本的な表現に対してであると思われるからである。

しかし私に興味があるのは、「時間の流れ」という人類に普遍的とまで思わせる根本的な比喩が生まれてくる場所が、ゼノンが警告したその同じ場所であるという認識である。このことの持つ意味の深さをいまの私は測りかねており、残されたわずかな時間をそれにあててもおそらくは発見できないだろう。(『時は流れず』10~12p)

「自然科学の全体系が崩壊する」とはだれも考えない。未知の自然現象を認識にとっての自然として繰りこみ、その自然を前提にさらなる未知に挑むというのが、自然科学の自動性と言うことができるが、時は流れぬにもかかわらず、時が流れるように知覚されたのが、ゼノンの逆理が生まれた場所であるというのはすごく面白い。大森荘藏は奇矯なことを言っているのではない。だれも関心を払わないが、きわめてまっとうなことを指摘している。だれもかれの考えたことを理解しなかったのではないか。世の常識とかけ離れた独創的な考えは受け入れられない。
かれ自身が書いている。「これまでも度々経験したことだが、自分で出した奇怪な考えに馴れるのにかなりの年月が必要だろう。しかし今度は馴れるに必要な時間が私にあるかどうか心もとない」(『時間と存在』13p)大森荘蔵の胸中が推測されるのはわたしの内包が呪文のように扱われるからである。かれはじぶんの理念をリアルに生きたのだと思う。わたしが内包というリアルを生きているように。わたしも外延的な意識と内包的な意識を往還することができるようになるのに長い時間がかかった。

飛ぶ矢は飛ばないというゼノンの逆理が生まれた時期に、身が心を、心が身をかぎる同一性による存在論の未遂はすでに起こっていたのではないか。おおまかにそういうことが想定される。同一性によって象られた生命形態の自然とリニアな線状的時間は相性がいいからだ。そうすると意識の明晰さは順路を説明できても復路をたどることができない矛盾に突き当たる。脳生理学はぜんたいとしては迷妄であるにも関わらず、逆理がないことを認識の自然としてやり過ごしている。徹底した明晰の持ち主である大森荘藏はそのことに気づいた。

 脳産教理が一番具体的に展開され素人にも見透しがきく領域は知覚であろうから、私も知覚の場面から始めよう。そして知覚の中でも視覚を考えよう。現代の生理学公認の視覚の説明方式は、外部の事物からの反射光線が私の眼球で屈折して網膜の神経細胞に達し、その神経細胞からの活動電位パルスが視神経、外側膝状体を経て後頭葉の視覚領野のニューロンに達する。後頭葉以後や側枝の回路を簡単のために省略すれば、この一連の因果連鎖の伝達には議論の余地はない。この、外界事物に始まって後頭葉ニューロンに終る因果系列を「順路」の因果と呼ぼう。しかし、問題はこの順路の逆をたどる「逆路」にある。この逆路に進む因果系列は見出されたことはないし、見出されることはありえないだろう。仮にこの逆路をたどる因果系列―例えば神経軸索とシナプスを逆行するプロセス―を神経網の中に考えうるとしても、網膜から発して外界事物に到る因果系列を今日の公認の科学の中で考えることはできない。(『時間と存在』所収「無脳論の可能性」213p)

わたしも若い頃にここにある矛盾に気づいた。なぜ視覚中枢に到達した情報のぜんたいが像を形成するのか。脳生理学はなんの説明もしていない。だれもがこぞってこの難所を無視している。刺激の情報が集積して、それを桜の花と了解することのどこが不思議なのかと通り過ぎてしまう。明晰であるふりをしながら肝心要のところをやり過ごしてしまう迷妄がある。脳の視覚中枢に到達した情報の総和はなぜ像を結ぶのか。

大森荘蔵に「無脳仮説」を主張する意図はまったく、かれはただ「無脳仮説」が可能であることの道筋を示してみたいと言う。脳産教理が篤く信じられている状況の中で無脳仮説も可能である、それがかれが言いたいことだ。脳産教理を否定するのではなく、全く新しい生理学が模索される機縁になることを願っている大森荘蔵は控え目な言い方をしている。人工知能が人間の知性を超えることは原理的にないと言うペンローズの理路に響くものがある。

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アマゾンで買った吉本隆明の『心的現象論・本論』をパラパラ眺めていて、目次にある「原了解以前」という稿が内包論に相当することに気づいた。吉本隆明の『心的現象論・本論』はまったく孤独な営為だった。きちんと読んだ人はほとんどいないのではないか。「俺の考えの底の方まで理解した人はひとりもいない」とかつて語っていた。吉本隆明は言葉にならぬことをなんとか言葉にしようと奮闘した。原了解以前に胎児の無意識があり、それは置きかえれば歴史のアフリカ的段階という理念として言いうると、しきりに言っていた。そういうことだったのかとすこし、しんみりした。

人工知能が人間を超えるかどうかという問いの立て方が滑稽なのは、人間の概念や知性とはなにかを不問に付したまま論じられていることである。世俗知が好きな凡庸なAIの研究者は脳の思考回路は電気回路をおなじであると仮説した。またコンピュータが関係の型を再帰的にとらえることができることを意識になぞらえている。これもまた仮説にすぎない。噴飯物ではないか。
知性は計算可能であるから人工的にその知性をつくることができるというのは自然科学的な信の迷妄性にすぎぬことは明白であるが、閉じた信の共同体のなかでは真なるものと信じられる。いつも彼らにとって人間という概念は世俗知としてとらえられている。自然淘汰や適者生存もそのひとつだ。いまわたしたちが目の当たりにしていることは天然自然由来の信の共同性が人工自然由来の信の共同性に呑み込まれようとしている光景だ。それはあまりに自然だから意識されることもない。かつての戦争期の天皇制にまつわる狂気が自然科学の認識の猛威によっていま置き換わろうとしている。この迷妄はさらに根深い。

ペンローズは強いAI信奉者にたいする苛立ちをゲーデル文を盾にして撥ねつけたが、もっと厳密にいうことも可能だ。同一性そのものがゲーデルの不完全性定理だといってよい。同一性は人間の自然感性に根ざしているようみえるがそうではない。同一性によって生を根拠づけようとすると自己に空隙を生んでしまう。あるものがそのものに等しいということはほんとうは同一性は説明できない。じつは生の不全感の数学的な表明がゲーデルの不完全性定理なのだ。形式的な系が完備であることを系を支える公理によっては説明できない。それだけのこと。世界の無言の条理を同一性を盾にして迎え撃つようなものだ。徹底的にそれだけで、自己を基準とする同一性もまた移りゆく認識や歴史の過渡的な概念にすぎない。古い革袋のなかでさまざまに知の意匠を変えるのではなく新しい革袋(OS)をつくろうと内包は主張している。

フーコーは人間の終焉を宣言し、フーコーの影響をうけた吉本隆明もおなじことを言った。「もしかすると人間は無意識のうちに歴史を作成してきたが、意志をもって歴史を創出するのに適さないし、耐ええない存在ではないか、それが自己欺瞞の体系を世界大に拡大し、いま自らその深い穴に陥没しつつあるのではないか。人間という概念は事実という概念とまったく等価なものにすぎないのではないか」(「死のサルトル」)
なにが言われているかというと、フーコーや吉本隆明は意識していないが、同一性は完備ではないということだ。同一性は空虚な、がらんどうの形式にすぎないことが言われている。この感受が現代の現在性の核心をなしている。先端医療の錯誤もテロリストの早期発見早期撲滅も、富の不公平な分配が超格差社会を生んでいることも、「自」のこわばりをほどくことができないふるい知の範型の内に閉じられている。

同一性は不可避に生の不全感を招来し、この覚知を数学的に表現するとゲーデル文ができあがるということで、人間の思考回路を模倣した人工知能が、一瞬で迷うことなく明晰にある事態を把握したとして、それはじゅうぶんに可能なことだが、人間を超えるとは思えない。人間のシュミラークルができるだけのことだ。そしてそれは完備なものではない。欠落した生を、生の不全を実現するだけだと思う。
まだある。人間の精神現象は身体を台座としてあらわれる。身が心をかぎり、その心が身をかぎるという身と心がひとつきりのなかであらゆる精神現象が起こる。人工知能に身体はあるか。親鸞のいう煩悩はあるか。そういうことを人工知能の研究者は考えたこともない。あるのは俗事としての一般化された知識だけである。そんなのもので新しい生をつくることなどできるはずもない。

認識の自然とはなにかをもっとも徹底的に考え抜いたのは、わたしの知るかぎり吉本隆明だったと思う。吉本隆明はペンローズより慎重に自然を定義した。心的現象論の本論の冒頭に「眼の知覚論」がある。比肩しうるものは大森荘藏の「無脳論の可能性」だけである。

 いま、視たいとおもった対象物が網膜にその像をむすんだ。この像のあたえる刺激は網膜背後に分布する神経節に刺激としてあたえられ、この刺激は、蛙の場合とおなじように分担されて、ある神経節は明暗を、ある神経節は輪郭を、ある神経節はコントラストを、ある神経節は対象の移動をといった具合に脳の視覚中枢に伝達される。
 ところが、問題なのは、このように機能的に分担され、また、前後する刺激のつぎつぎの伝達によって脳の視覚中枢に情報刺激の総体が到達したとき、この刺激情報の総和は、なぜ、いかにして対象物の総体を再現できるのだろうか? 常識的にかんがえてこのばあい脳の視覚中枢に到達するのは、それぞれに機能分担されて時間的に前後してやってくる刺激の総和であってそれ以外のものではない。だから、対象物の形状も明暗も輪郭や動きも伝達されるわけではなく、ただ、刺激の総和が伝達されただけである。どうかんがえても、この刺激の総和が対象物の像を網膜のように再現できるとはかんがえられない。そして再現できるとかんがえるばあいには、生理過程ではなく、それ以外のものでなければならないはずである。そしてこのそれ以外のものとは、心的な過程とみなすよりほかに術がないようにおもわれる。

もちろん、ここで重要な別の疑義がないわけではない。あるいは、別の解釈がないわけではないといってもいい。もともと生物の視覚の〈過程〉は、対象物の形態とか明暗とか運動とかを、それがまさにそう在るように〈視える〉ように出来ているので、そのことは、いわば先験的自然性にすぎない。だから、ひとたび網膜に映った対象像が、刺激分担にかえられたうえで脳の視覚中枢に達するといった過程は、どうでもよいことである。最終的には、そのように網膜に映った対象像は、そのように視えるということだけは確実なことである。なぜかといえば、生物の視覚系は先験的にそのように出来上っているのだから、途中の過程が刺激の伝達にかえられて脳中枢に達するか、あるいは下等動物の趨光性のように光反射行動に転化されるかといったことは、生物に固有な構造によるもので、対象物がそこにあるようにそのとおり視るという〈視覚〉系の機能だけはうたがいようがないのではないか?

 以上のような解釈あるいは疑義がさしあたってかんがえられるものである。わたしにはこの解釈あるいは疑義は相当に迫力があるようにみえる。
 これを否定することができる唯一の根拠は、そもそも〈視覚〉系の構造について、ここで種々に考えをめぐらしていること、そのこともまた心的な構成力によるものであり、いいかえれば、〈視覚〉系の刺激分担を像にかえる再構成力は心的な過程ではないかという解釈自体が広義な心的過程に包括されるという矛盾が存在しているということだけである。このような矛盾を演じられるという機能を、わたしたちは心的な過程とみなしうるのではないか。

 そこで、わたしたちは、身体の生理過程がそれ自体で矛盾をつくりだすときは、つねに心的な過程をうみだすという規定をもうけることにする。つまり心的な過程は生理的な過程の矛盾を補償するための吐け口であり、心的な過程ははじめてこのような矛盾の捨て場あるいは緩衝域としてうみだされたものであるとしておく。(『心的現象論・本論』5~6p)

この吉本隆明の心的過程についての記述は見事だと思う。ペンローズの数学的な自然の実在性や大森荘藏の視覚情報の復路の欠落の指摘よりも巧みで破綻がない。ペンローズはゲーデルについて書いた。「ゲーデルは物理的な脳それ自体は計算的に振る舞うことは明らかだと認めながらも、心は脳を越えたもの」だと。吉本隆明の「身体の生理過程がそれ自体で矛盾をつくりだすときは、つねに心的な過程をうみだす」と言うことがここに重なる。生理過程の矛盾の緩衝域として心的なものが産みだされたという気づきには、表現としての言語の初源が意識のさわりがたわんだ末に自己表出されるという吉本隆明の言語論につながる端緒がある。吉本隆明の言語表現論はゲーデルやペンローズのつかんだものをはるかに超えて、ある可能な心的過程の表現論の領域を主張している。自然に宿る非自然をこれほど見事に接合した表現論をほかに知らない。もちろん同一性に拠る表現論だから外延表現に閉じられ、いずれにしてもこの閉じた意識の範型をひらくことができないということはこれまでも指摘してきた。

なにが問題なのか。自己を実有の根拠とするとき生は不全感を伴ってあらわれる。その哲学的表明をニーチェがやり、数学的表明をゲーデルがなしたと言うこと。それは同一性からの必然である。それ以外のことはどんな知性がどれほど精緻なことを言おうとこの範型からまぬがれることはない。もちろん人工知能においてをや。
人間の精神現象のぜんたいが内包自然に本質をもつとすれば、A=Aの権化である人工知能がこの内包自然を表現できないのは先験的なことであると思う。外延自然を高度な再帰性によってシュミレートすることはできるかもしれない。外延表現がすべてであるとしたら、AIが外延表現のシュミラークルを実現することは可能かもしれぬ。ただそれだけのことである。わたしはAIの研究者はじつにつまらぬことを考えているようにみえる。

このブログを書くために購入した吉本隆明の『心的現象論・本論』の「関係論」のはじめによく知っていることが書いてあった。何度も書いたことを、関係の絶対性に結びつけて、改めて取りあげる。吉本隆明は言う。

 人間が心的にもつ〈関係〉は、じぶん自身との〈関係〉、じぶんと他者との〈関係〉、じぶんと世界〈環界〉との〈関係〉というように類別することができる。じぶんと世界〈環界〉との〈関係〉というばあい、世界は〈事物〉で〈象徴〉されてあらわれるといってよい。このような諸関係が、質的なちがいとしてあらわれるのは、いうまでもなく〈関係〉について自覚的になったときか、自覚を強いられたときである。すでに、人間にとって原初の共同体が成立したときに、この〈関係〉の渦中にあったから、かくべつに新しい〈関係〉ができるのではない。ただ、何にたいして、どう〈関係〉するか、について特別に自覚された〈関係〉に入りこむときに、〈関係〉は〈ちぐはぐさ〉となってあらわれるといってよい。逆に、〈ちぐはぐさ〉の体験が、それに対応する〈関係〉に自覚を強いるものだといってもよい。(同前 116p)

戦争期の天皇体験を経て吉本隆明は共同幻想という概念をつくり、この思想にかつて鼓舞された。吉本隆明にはかれの固有の体験があり、わたしにはわたしの固有の体験がある。吉本隆明は体験の固有性を普遍化したくて関係の絶対性という概念を思想に繰り込み共同幻想という思想を編み出した。体験を普遍的に抽象したかったわけだ。おなじことをわたしも考えた。

吉本隆明は同一性を括弧に入れているとわたしには思えた。吉本隆明は「私」が「私」であるとき、親密な「あなた」も部分的な「他者」であり、それ以外は三人称としてあらわれると考えた。それは違う。関係がちぐはぐなものとしてあらわれるのは同一性の制約であり必然なのだ。このことが吉本隆明にはわからなかった。共同幻想が猛威を振るうとき、朕は国家なりの現人神の天皇でさえ、共同幻想のもとではひとりの臣民にすぎないのだ。むろん昭和天皇の戦争責任は明瞭にある。昭和天皇が戦争責任をまっとうするには同一性という思考の制約を拡張するしかない。それは吉本隆明にあっても、わたしの場合も変わらない。天皇という制度は天然自然の産物だが、いま世界は自然科学の猛威と、この観念と結合した人工自然の猛烈な圧力に巻き込まれつつある。自爆テロもテロリストの早期摘発や殲滅も思想的な反動であり、ニヒリズムの相克にすぎぬ。安倍の悪政を批判する市民運動も同型である。

人工知能の長足の進展が人類を滅亡に導くという思想的な退行も同一性の錯誤である。この認識の枠組みに、強いAIを信奉する世俗主義もペンローズも囚われる。すべては外延自然という同一性の制約を前提としている。親鸞は800年前に廻向には二種ありと言った。思想を順路と復路に分けると還相廻向は他力でしか語れないと言った。然りとわたしは考えた。同一性の拡張は、外延表現では自力の果てるところに絶対の他として想定されるしかない。関係の絶対性を、同一性の彼方に内包的な自然として生きること。

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大森荘藏が指摘する脳生理学の奇怪さを意識にとっての自然としてやりすごすことができるということ。自然科学の自然とはまたそういうものでもある。「外界事物に始まって後頭葉ニューロンに終る因果系列に『順路』の因果」はあっても、「この逆路に進む因果系列は見出されたことはないし、見出されることはありえないだろう」という指摘は、吉本隆明の「刺激情報の総和は、なぜ、いかにして対象物の総体を再現できるのだろうか」という問いとおなじく根本的なものである。この奇妙さへの数学的な表明がゲーデルの不完全性定理だとわたしは考えている。もっと踏み込めば、明晰さを規範とする同一性の意識で大森荘藏が考えた知覚の「復路」や吉本隆明の「像」の奇妙さに触れることはできない。

おなじことに気づきながらこの根本的な疑問のひらきかたが大森荘藏と吉本隆明の思想の違いとなっている。大森荘藏は「意識という意味は自分で裁縫した自閉的拘束衣ではあるまいか」(『時は流れず』)と考え、意識という自閉をこの国の伝統的な自然に流し込み解消した。この感情のことを大森荘藏は風情と呼んでいる。岡潔ととても似ている。道元的な自然生成である。「それは普通人ならば誰もが日常使っている他我の意味をあらためて模型的に提示してみるだけのことであるが、それによって哲学的問題である他我問題は跡かたもなく雲散霧消してしまうだろうと期待している。なぜならば初めから普通人には何の問題もないところに哲学者が哲学問題として他我問題という空中楼閣(ウィトゲンシュタインはカードの家と言った)をわざわざ建設したのだからである。一言でいえば、難行苦行の哲学の道を去って、普通の人がかよいなれた亘々たる易行の道に就くこと、それが他我問題を終結させる安易きわまる方法にほかならない」(同前)ああ違う。人びとの生活の経験知に寄り添うことで徹底して考えるべきことを回避してしまっている。斯くして天皇制的な自然は成就する。生の不全感は自然へ融即する意識で解消できるか。自己を自然に同期するだけではないか。

吉本隆明は生理的な矛盾を補償する緩衝域として心的な過程を定義し、意識の特異点を含んだままに表現概念をつくり外延表現の極北を生きた。意識の「自閉的拘束衣」を哲学的に表明すれば、ニーチェの意識のがらんどうの発見になり、数学的に形式化するとゲーデルの不完全性定理になるだけのこと。人工知能の提起する問題もことごとくこの閉じられた信の体系のなかにある。

もともとひと月前にアップの予定のブログの記事が熊本地震で延び延びになった。ライフラインも復旧し余震も収まりつつある。度重なる余震で家の立て付けが緩んだのか気象庁発表の震度よりは盛大に家が揺れる。余震がしばらくないとつい次は大きいのがドカンとくるのではないかと思ってしまう。余震の合間にペンローズの書いた5冊の本を読み、かれの表現の公理を読み取ろうとした。かれの数学知の拠って立つ意識の源泉を探り当てたかったからだ。ペンローズの強いAIの批判は言葉の火先が立っていて凡俗の知の専門家とは隔絶するなにかがあった。それがなんであるのか内包論からつかみたかったのだ。私の理解ではかれの数学的自然の源泉はプラトン的世界の実在性にたいする信にあるような気がした。ペンローズにとっての科学の自然の信はここにあると私には思えた。

意識の起源や宇宙の始まりと終わりについて明晰に語ろうとする強い意志がペンローズにあるが、それはかれの夢であってわたしの夢ではない。ペンローズにあっては鞏固な自己意識が前提となっている。わたしはペンローズの外延知を内包的なものとして語ろうとしている。明晰な意識は迷妄から生を救いはするが生を熱くすることはない。これはわたしの体験知に属することであり、ここにしか生の豊穣さはないとわたしは思っている。

たまたま地震で散乱した本のてっぺんにニーチェの『権力への意志』がちょこんと乗っかってた。ベッドに横になってぱらぱら眺めると、おおっ、すらすらわかる。地震による浮遊感ではなかった。あらゆる価値の転倒を目指したと書いてある。よくわかるがニーチェもまた強固な世間知を根本から転倒することはできていない。世界を覆う支配的な思想にたいする対抗的な知を語っているだけだった。人間や宗教を終焉させようとして超人や永劫回帰という理屈を編み出し、ニヒリズムの形式の枠組みでそのことを記述している。
ペンローズが宇宙の終わりと始まりが同型であることをサイクリックな宇宙論として数学的に記述するときその明晰さは意識の永劫回帰をなぞているだけのような気がした。つまりかれはかれの意識のなかを覗きこんでいる。ホーキングもまた宇宙には始まりがないことが始まりであるという無境界仮説を語った。数学的な表現形式の異動があるだけでおなじことが語られている。

ニーチェもレヴィナスもペンローズもいいことに気づきながら、この気づきを同一性の範型で触ろうとした。この意識は未知の表現でしか言い当てられないなにかだと思う。ペンローズが量子重力理論を渇望することと、レヴィナスが意識に先立つ他者を希求することはおなじだとわたしは考えている。自己に先立つ出来事を自己意識によってつかむことはできないとずっと言ってきた。言い換えると、フロイトの無意識と宇宙が無限にあるということは根源の出来事についての同一性を公準としたべつようの言い方にすぎないということ。わたしは心は内包的な表現という観点を入れないかぎり触ることができないと考えている。

それはこういうことだ。片山さんは書いている。「猫が死んだ。ぼくのかわいい猫が死んでしまった。心臓の鼓動が弱くなり、ゆっくりと間遠になっていき、ひとつ大きく息をすると止まってしまった。自分で最期の場所と定めた寝室のソファの下から、猫は真っ黒い大きな目でぼくを見つめたまま、どこかへ行ってしまった」(片山恭一公式サイト「猫が死んだ」2016年5月7日)

ここに即して言ってみる。息を引き取ろうとする猫がおおききな黒い目でじっと片山さんを見つめている。ただ見つづけるということで見つづける。そのとき猫の目に片山さんが映る。片山さんの目にも猫が映っている。猫が片山さんを見るということは、ああ、わたしはここにいていいのだなと肯定されているからだ。猫は片山さんにとってなによりリアルな喩としての内包的な親族なのだと思う。このとき世界のどんな深いものより世界は深くなる。それは片山さんの猫にたいする情が深いからではない。それは同一性的な説明だ。そうではなくて猫の眼差しによぎられることで生成するなにかだと思う。けっして飼い主が所有する感情ではない。猫の目に最期に映った片山さんが片山さんの主体なのだ。この出来事を親鸞は他力と言った。この場所で死は生きることになる。この場所でだけ死は生の一部となる。

作品『世界の中心で、愛をさけぶ』の印象的な場面。いまわのきわにあるアキが朔に言う。「また見つけてね」。朔が答える。「すぐ見つけるさ」。最期のアキの目に映った朔がほんとうの朔なのだ。主体はよぎられることによってしか生まれない。アキの目に映った朔を、朔の目に映ったアキを同一性は同定できるだろうか。できないということをペンローズは数式を駆使して言いながら、同一性の罠に落ちこんでいる。ひも理論のブライアン・グリーンの『隠れた宇宙』も意識の自家中毒に罹っているというわけだ。多元宇宙論はフロイトの無意識と自己意識の関係に比喩される。

強いAIの主張に天然自然素材の人間の知性が恐怖を感じてシンギュラリティを持ちだしていることにたいしてペンローズが強く反論するのは数学的な実在を超えるリアルがかれのなかにあるからだと思う。その場所はプラトン的な世界にあるという信をペンローズはもつ。数学的な信の体系はゲーゲル文に包摂されているという信はかれにとってゆるぎないものだ。人間という概念をアルゴリズムで語りうるという平板さにたいする強い苛立ちがペンローズにある。そうではないとかれは言いたくてたまらない。

わたしは天然自然と人工自然のせめぎ合いに現代の現在性があると思っている。実体化した自己意識が、あるいは自己が所有できるものを自己意識とみなすかぎり、強いAIは奥ゆきのない人間という概念や知性を脅迫する。ホーキングらはこの潮流に浮き足立つ。しかし内包自然という絶対的な他からの経験は同一性が同定できるものではない。キリスト教的な知も、それをうけついだ後の世の資本主義も、キリスト教の変形である社会主義の愚劣も、わがアジアの東洋的なものも、すべて自と衆(多)を無造作に結びつけた。この意識の範型では衆(多)は自の写像にすぎないというのに。もともと自の写像であった衆(多)が生きものみたいにふるまいはじめると現人神の天皇でさえひとりの臣民にすぎないとことが日中-太平洋戦争の経験であったはずだ。
自も共同幻想もしくみや仕掛けが天然自然なので、自然と自然の相克ではおおきな権力をもつ方が自を圧倒することになる。金正恩礼賛を動画で見ると嫌な気になるが、一皮むけばわたしたちの国も似たようなものにすぎない。いうまでもなく、内面のつぶやきを文学とし、共同性にかかわる領域を政治とみなす考えのすべてが無効ということは前提となっている。

フィリップ・K・ディックの映画化された『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が「ブレードランナー」だったが、レプリカントがばらばらに破壊され、最期にノイズのようななにかを発する。とても印象的な場面として記憶している。もっと洗練されたアンドロイドを想像すればいい。それが2045年のシンギュラリティだ。もしその人造人間が、ありとあらゆるアルゴリズムを駆使しても、このわたしの不思議な感情を説明できない、でもたしかにそれはあるのだ、この情動はなによりリアルだ、と言ったらどうする。このレプリカントは内包を生きる人間ということにならないか。
わたしはなると思う。強いAIを主張する者たちの頭のなかはつるんとしてるので、つるんとしたアルゴリズムからはつるんとしたレプリカントしか生まれない。それともコギトのシュミラークルから内包を知覚する突然変異が生まれることもあるのか。まだその兆しはない。ドカンと余震はつづく。

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