日々愚案

歩く浄土78:情況論10-伊勢﨑賢治の『新国防論』

アビイ・ロード

    1
世界の底は無言の条理に満ちている。だれのどんな言葉もこの自然を掬いきれていない。この条理を回避する装置が文化であるが、文化という自然の皮膜はとても薄いので、なにかのきっかけがあればすぐ消滅する。いうなればいつでも人倫は決壊する。そうなるとあたりまえの日常のたがが外れて、生がむきだしに晒される。グローバルなテロリズムとグローバルな経済や軍事が電脳社会とリンクしながら戦火を交えている。この国にとっても対岸の火事ではない。
だれもいま起こっていることを名づけることはできないし、そのことに抗することもできない。伊勢﨑賢治さんは言葉では形容できない惨い出来事に国際NGOの職員として仕事をするなかで遭遇してきた。伊勢﨑賢治さんの国際感覚と日本国内の常識のずれに焦慮と苛立ちを感じ、「9条もアメリカも日本を守れない」と主張して『新国防論』を書いた。

これから惑星規模でのもうなんでもありの善悪の彼岸が出現することになるだろう。2001年9月11日の米国への同時テロと報復としてなされた米軍によるアフガン空爆で使われたデージーカッター爆弾の映像を見ながらそう思った。グローバル経済や米国の軍産複合体による中東民主化の失敗は人倫の彼岸に棲む怪物を産んでしまったのではないか。紛争解決の修羅場を渡り歩いた伊勢﨑さんもおそらくそう考えている。憲法9条を純化するために部分的に憲法の改正をやって、専守防衛に軍事を限定し、あらゆる戦争から手を引くべきであると。

護憲派の盲点を伊勢﨑賢治さんはついている。読んですっきりした。この国は安倍政権も反安倍市民運動もぼけていると挑発する。「安保法制反対/賛成論争の土俵自体がウソなのです」(2016年2月1日)「何が平和への脅威って言ったら、9条護憲派が9条下で日本が犯してきた戦争を自覚することなく日本の平和は9条のおかげって信じていること」(2016年2月25日)かれはいきなりこういうことを言う。言われてみればその通りだと思う。

いくつもの酷い紛争の現場の後始末をしてきた国際NGOの一員として八面六臂の活躍をした体験知がそう語らせている。体験のリアルがかれにそのことを語らせている。それは、「もしかしたら故意につくられたかもしれない『事件』の連鎖、そして、相手の理不尽さを目の前にした時、自分の行為が顧みられなく人間の性のようなものによって、信念は容易に変貌していくこと」(『新国防論』251p)を伊勢﨑賢治さんが体験しているからだ。わたしの体験してきたことに合致するので、躊躇なく同意する。

卓越した実務家である伊勢﨑賢治さんの『新国防論』を読んで蒙をひらかれたのは事実であるが、読みやすくはあってもわかりにくい本でもある。理解するのにけっこう時間がかかった。それほどに米国の手のひらのうえにいてわたしたちが世界の風雪から護られてきたからだ。『本当の戦争の話をしよう』も押しつけがましくなくて、そうだよなと思った。わたしは『新国防論』を読まずに9条を論ずることはまったく不毛だと思う。「あのね、護憲派も含めて人畜無害な日本人を嫌うほどヒマではないの、僕」(2016年3月2日)
日本人の常識は世界の非常識と言う。指摘されるとだれもが思いあたる。護憲を唱えれば安堵するような現実を回避する不思議な魔力が9条の不戦条項にある。立憲主義を空念仏する学者の会やシールズの反安倍市民運動の虚妄を伊勢﨑賢治さんは激しく論難する。
伊勢﨑賢治さんの主張をまともに取り上げない安倍陣営も反安倍の市民運動のすべてが空しい。虚構のうえで争われる擬制の戦いになんの意味もない。すべては虚妄だ。
明日は死ぬかもしれないという紛争解決の場に伊勢﨑賢治さんは銃の代わりにトランペットをもっていく。「トランペットを手にしたのは2003年アフガニスタン。アメリカの占領政策でアフガン軍閥の武装解除の責任を日本政府代表として負うことになり、今度こそ死ぬかも、と買って持って行ったのが始まり」。

なにか不思議な魅力が伊勢崎さんの言葉にある。集団安全保障と集団的自衛権と個別的自衛権について、激変する国際情勢の中で的確な指針を明確に提示している。なるほどと舌を巻いた。国や経済について想像妊娠している安倍が隣国の脅威を煽る外交政策がいかに見当違いかということが明快にわかる。それにしてもこのような紛争の現場をよく生き抜いてきたものだと感心する。おそらく独特の人心掌握術がなければ険しい紛争の現場で敵の武装解除はできなかった。
閉じられた共同体の内部にいると自然にみえることが外の目で眺めると奇妙にねじれているとかれはくり返し強調する。「自衛隊の派遣は、『武力の行使』と『交戦権』を禁じる9条に、20年以上前に自衛隊がカンボジアPKOに送られてた時から、ずぅーと、違反しているのだ」(『現代ビジネス』「自衛隊『海外派遣』、私たちが刷り込まれてきた二つのウソ~ゼロからわかるPKOの真実」2016年2月13日)

伊勢﨑賢治さんは「「憲法9条は日本人にはもったいない」(『新国防論』8p)と言う。わたしもずっとそう思ってきた。日本国憲法の成立に関しては無条件降伏と米国の統治を受容したねじれが戦後70年のあいだなにも解決せずになし崩しにされてきたという事実がある。鬼畜米英に抗戦する一億総玉砕から敗戦を節目に一夜にして民主主義の国へと転換したこの国のありようの奇妙さ。若い頃から冷淡なくらいに平和憲法に関心がなかった。米国に護られた平和にすぎないことが直感されていたからだ。いつも日本国憲法は日本人に分不相応だと思ってきた。閣議決定で解釈改憲し戦争法をつくることのできる国なのだ。日中-太平洋戦争の統帥権をもった昭和天皇裕仁の戦争責任を問うことになかったこの国において、オカルトな安倍晋三を容認することなど容易ではないか。我が島嶼の国では昔も今も政治は天意にすぎない。

考えてみたいことはそこに止まらない。世界とグローバル・テロリズムの相互の殲滅戦はなにを意味するか。米国を中心とする国家の圧倒的な軍事力を投入してもテロを根絶することができないということ。ひとつのテロ組織を国連に加盟する諸国が殲滅しても潰すごとに新手のテロ組織が派生する。なにかに似ていないか。がんの早期発見と早期治療をなすごとにがん組織は生き延びようとして拡がっていく。精神の古代形象と先端科学の迷妄性はなにかひとつの淵源へと収斂するのではないか。終わりのない戦いをわたしたちはすでに日常として受け容れているのではないか。精神の古代形象に憑かれたグローバル・テロリズムにたいする非対称的な戦いを遂行する一方で、ハイテクノロジーや人工知能という自然をどう受容するのかという差し迫った問いもある。いまわたしたちはふたつの未知に挟撃されている。

やがてこの世界の無言の自然からあたらしい自然が生まれ、わたしたちの生はその自然に身の丈を合わせていくことになるだろう。人類史と共に出現した世界の無言の条理とこれから産みだされる新しい条理に挟撃されてわたしたちは生きていくことになる。
世界の無言の自然はまたわたしたちの知る善悪の彼岸でもある。モーゼの、汝殺すなかれ、犯すなかれ、盗むなかれ、・・・という十戒は人間の業を神の預言でかたどったものだが、この精神の古代形象の自然はもうひとつ新しい自然を重畳することになる。その過渡期をわたしたちは生きている。

こう言ってもいい。ブリュッセルの自爆テロもまた心的外傷の内面化の為せる業なので、文学という外延的表現でテロを批判するのはまったく無効だとわたしは思う。文学も思想もただ事態を追認するだけだ。かつてこの国にペン部隊があったように。内面と内面の戦いでどちらに義があるのか判定不能ではないか。あるのは主観的な意識の襞にあるわずかな意見の相違だ。文学や思想のぜんたいを拡張すること。そこにしか世界の可能性はない。

    2
わたしの理解では伊勢﨑賢治の『新国防論』はいくつかの公理を前提として書かれている。ひとつは戦争が熄むことはないというかれにとっての認識の自然がある。「好むと好まざるにかかわらず、いつか起きるのが戦争だとおもっています」(5p)
もうひとつある。かれの文章のなかでとても好きな箇所だ。これはむしろかれの体験知としてあるように思う。

紛争後にできた政府、そして「紛争屋」たちが描いたシナリオがどんなに無為無策でも、いや、たとえ完全な無政府状態でも、人間は必ず復興します。ダイヤモンドの利権をめぐる紛争地だったシエラレオネ。インドネシア政府から独立した東ティモール。アメリカの占領政策下のアフガニスタン。時に国連から任命され、時に日本政府代表として30代から戦地に赴きながら、僕は、人間の底力を幾度となく見せつけられてきました。(27p)

伊勢﨑賢治さんはつぎのように世界の画像をつくっている。

(1)集団安全保障
(2)集団的自衛権
(3)個別的自衛権

わたしの考えでは、(1)の集団安全保障は例外社会(市民社会の外部)に、(2)の集団的自衛権は従来の覇権主義に、(3)の個別的自衛権は従来の国家間戦争に対応している。(1)と(2)の境目が融解してきたということが『新国防論』の要だと思う。ここを理解しないと安倍の退行思想にリベラルな理念を対置することになる。それはそうとう現場とずれているとかれは言っている。端的にはPKOは停戦監視団体ではなくすでに「交戦主体」となっているということだ。フツ族によるツチ族の虐殺を坐視した経緯が語られる。

 しかし、1994年、大変なことが起こるのです。
 映画「ホテル・ルワンダ」の題材にもなった、ルワンダの悲劇です。
 フツ族とツチ族の歴史的な対立がジェノサイドの背景です。当時政権を握っていたのが、多数派のフツ族です。少数派のツチ族は、植民地時代には宗主国ベルギーから優遇されて分割統治の道具にされていました。けれど、独立後に民主主義が導入されて多数派のフツ族が政権につくようになると、積年の恨みがツチ族の排除という形で表面化します。当然、ツチ族は反政府勢力としてゲリラ化し、フツ族と対立します。
 もともと小さな国ですから、内戦が疲弊化したところで入ったPKOは、すぐ「敵のいない軍隊」として和平に持ち込めると考えていました。少なくとも、僕の友人でありルワンダPKO部隊の最高司令官だったカナダ陸軍のロメオ・ダレール将軍は、そう考えていました。
 しかし、フツ族出身の大統領が乗った飛行機が何者かに撃墜される事件が起こる。地元のFMラジオはツチ族が落としたのだと刷り込み、「ツチはゴキブリである」「ツチのおかげでフツは歴史的に迫害されてきた」「ゴキブリは蝶にはならない。ゴキブリのまま……」と繰り返し、扇動された民衆は、手に手に棍棒やナタを持ってツチ族を殺しに行きました。母親でさえ、ツチの子どもを殺しに行く夫の肩を押したのです。
 現場にいたPKO、そしてダレール将軍は何をしたのか。
 あちこちでリンチや略奪が行なわれている。職にあぶれた若者たちが集められ、棍棒やナタなどが集積されている。兆候を察知した将軍は、少なくとも、武器が集積されている場所を急襲し、現場確保する「武力の行使」が許可されるよう、国連本部に求めます。
 ところが、国連本部は、安保理がこのPKOに与えたマンデート(任務と権限)は、中立な立場としての停戦監視だから、それを超えているとして、ダレール将軍の要請を却下。これによって、PKOは武装をしていても撃てない、と悟られてしまったため、暴力事件がどんどんエスカレートし、PKO要員まで巻き込まれるようになります。
 ダラダラ和平仲介をするためにやって来たのにとんでもない事態になっていると、PKO派遣各国は部隊に撤退を指示します。国際社会の目が届かなくなったところで、殺戮は最高潮に達しました。
 結果、100日間で100万人が殺されてしまいました。犠牲者はツチ族、そしてツチ虐殺の洗脳に乗らなかった一部のフツ族です。1日に1万人という殺傷能力です。こんなことは、大量破壊兵器をもってしてもできないでしょう。扇動された民衆は、大量破壊兵器より強力な殺傷能力を持つことが証明されたのです。本当に怖いのは武器そのものではなく、刷り込まれた「脅威」におののく「聴衆」でしょう。
 PKOがいながら、危機に瀕した住民を見捨てた。ダレール将軍は、帰国後PTSDにかかり、自殺未遂をします。「武力の行使」をしていれば、救えたのにと。この事件は、国連関係者にとって歴史的なトラウマとなりました。
 ここから、ダレール将軍の出身国カナダ政府を中心に、「保護する責任」という考え方が生まれます。国連を中心とする国際社会は「集団安全保障」の概念にのっとって、危機に瀕した住民を保護しなければならない。本来、国民を守るのは政府だけれども、ルワンダのケースでは、政府側であった多数派フツ族が虐殺した。だから代わりに国連が「武力の行使」をして住民を保護しなければならない。けれど、それをすると、必然的に戦闘になってしまいます。(『新国防論』174~176p)

世界各地で頻発する紛争と殺戮のなかで国連PKOに武装組織を完全に無力化し殲滅するマンデートという任務と権限が付与されることになる。PKOが住民を先制攻撃をしても保護するという時代になったと伊勢﨑賢治は言う。これがPKOが「交戦主体「であり、敵の居住する「非対称戦」の実態であると。PKOの攻撃により殲滅される敵のなかに現地の住民が含まれることは言うまでもない。こうやって復讐と憎悪の連鎖がつづくことになる。

国連NGOスタッフとしてシエラレオネや東チモールの殺戮の現場の後始末や米国を中核とする有志国連合がタリバンを壊走させたあとの軍閥の武装解除に当たった生々しい体験がそこにある。かれは自らを紛争屋と呼びそれで飯を食ってきたと自嘲する。虐殺の現場で武装解除という険しい任務を潜り抜けてきた伊勢﨑賢治さんには激変する世界が念頭にある。紛争屋の仕事を通したかれの体験知だ。人類は軍事力では制圧できないまともじゃない怪物を生み出してしまったと考えている。この世界史の転機は2001年9.11の米国に対する同時テロだったという。復讐と憎悪の連鎖は世界史におおきな転換をもたらしている。伊勢﨑賢治は言う。

 2001年9月11日の同時多発テロを契機に、アメリカは個別的自衛権を発動してアフガニスタンを侵攻、NATOは集団的自衛権として参戦、同時に全世界の問題として集団安全保障(グローバル・コモンズ)への移行が始まりました。
 アメリカの空爆で勢いを得てタリバン政権を倒したのが、反タリバン勢力つまり、アフガニスタン人の軍閥です。東西が対立した冷戦期に軍事侵攻したソ連軍と戦うために、アメリカが支援したのがアフガンの軍閥です。敗れたソ連はアフガンから撤退。平和になると思いきや、誰が覇権を握るかで、複数の軍閥たちが争って内戦に。その内戦に終止符を打ち、荒れに荒れた国土を立て直す「世直し運動」として発生したのがタリバンでした。そして、急速に民衆の支持を得て政権が樹立しました。
 9・11の首謀者アルカイダを囲ったかどでアメリカが報復した空爆はタリバン政権をターゲットにしましたが、アメリカに支援を受けてその地上戦を戦ったのが、同じ軍閥たちです。タリバンが去った後、この勝者たちは、案の定、また、内戦状態に陥りました。アメリカはタリバン戦の戦後占領を可能にすべく、この軍閥たちの停戦と武装解除の責任を同盟国日本に負わせました。そこに、日本政府代表として赴いたのが僕です。
 タリバン政権を倒した当初は、僕も、アメリカNATOの首脳部も、みんな信じて疑わなかったのです。タリバンとアルカイダに勝った、戦争は終わった、と。
 難関の連続でしたが武装解除は完了し、軍閥たちが武力ではなく、政治家として覇権争いをする民主国家の形は整いました。しかし、タリバン残党は武力をパキスタンで温存させて戦闘を再開。民衆を敵に回してしまったことで戦況は泥沼に陥り、米軍は軍事的に敗走しました。グローバル・テロリズムという敵が、「通常戦力」で戦滅できる相手じゃないということを、アメリカNATOという地球上最強の軍事力が証明させられてしまったのです。ピーク時には20万人を超す歩兵と圧倒的な空軍力を誇っていたのに。
 当時の米政権は、「テロに屈しない」と吼えたジョージ・W・ブッシュ政権です。どんな大統領も、有権者の票を得るために、「この戦争は長引くよ」などとは言わないものです。おそらくブッシュ政権は自分の任期の間にすべて片付くと思っていたはずです。当然、アメリカは、予想外の戦況の悪化と戦争の継続に当たって「戦略」の変更を迫られます。2006年、最高司令官ぺトレイアス将軍は、通称COINこと、アメリカ陸戦ドクトリンを20年ぶりに書き換えます。
 ドクトリンは戦略マニュアルとでも言いましょうか。社会の不満が鬱積し、過激思想が民衆を取り込んでゆく。ここにむやみに「通常戦力」を投入すると、非対称戦の常として民衆を傷つけてしまう。すると、われわれ多国籍軍への不信や憎悪がさらに増大し、民衆はいっそう「敵」に取り込まれてゆく。(同前 201~203p)

9・11の同時多発テロは、自分の命を全く気にせず、むしろ、犠牲を至福として自爆する厄介な敵をわれわれ人類が生んでしまったことを証明しました。このグローバル・テロリズムの時代において、廃炉、廃炉作業中の原子炉が潜在的に持つ脅威は、核兵器と同じなのです。

 グローバル・テロリズムの時代の到来で、われわれ人類は、敵を二つのカテゴリーで捉えなければならなくなりました。一つは「まともな敵」。どんな独裁国家であっても、少なくともそのレジティマシーを国民と国連に提示しょうとする意思がいくばくかでもある限り、「まとも」なのです。イラン、北朝鮮でもです。
 もう一つは、今の「イスラム国」に代表される新興勢力や、アルカイダなどの過激派です。国際法のような共通言語がありません。アフガニスタンのタリバン政権も、かつては「まともじゃない敵」でした。(同前 158~159p)

ネットで自爆テロの記事を見ない日はない。シャルリーエブト事件から、2015年11月のパリの無差別銃撃による殺傷、2016年3月のベルギーの空港と地下鉄での自爆テロへと事態は悪化する。制圧するほどにテロは広がりを増す。
世界各国からISISの戦闘員に志願する。オウム事件の世界化。まともじゃない敵を先制攻撃して殲滅すること。世界の秩序を維持するためにまともじゃない無法者を駆逐する。集団安全保障ではそうなる。激変する世界にたいして卓越した実務家である伊勢﨑賢治も処方箋を持ちあわせていないようにみえる。だれもが断固としてテロと戦うとしか言えなくなりつつある。テロによる爆殺があれば復讐があり、その連鎖はとどめようがない。ある意識の流れに入るかぎりだれがどのようにやろうと非対称戦による憎悪の連鎖の袋小路をひらくことはできないとわたしは思う。

伊勢﨑賢治さんから貰うものは貰った。かれの言わんとすることを理解するのにけっこう手間取った。じぶんのモチーフと伊勢﨑さんの主張の接点をなんとかつくろうとした。
ここからはわたしの見解を述べる。伊勢﨑賢治さんもこの国で立憲主義の空念仏を唱えている学者の会やシールズの若者もみなモダニストだと思う。そういう意味では「まともじゃない敵」もすでに近代のモダンな理念の洗礼を受けている。生は強いられれば一瞬で精神の古代形象に憑依できるということがいまわたしたちが遭遇している出来事の核心だと思う。

ここでわたしはモダンという概念を人類史にひとしい規模で言っている。どうであれ世界史の未知に既知の理念では対応できないと思う。わたしはそのことをリアルに感じている。米国の大統領にクリントンがなろうとサンダースがなろうとトランプがなろうと、この国の政体は米国の支配の様式を追従するだろうし、わたしたちの日々はなにひとつ変わらない。
パリ、ベルギー、アフガニスタン、イラク、パキスタンの各地で住民を無差別に殺傷するテロはなにに由来するか。
わたしは人類史にひとしい自己を実有の根拠とする存在論の未遂に、テロの淵源があると考えている。人びとが自明のこととして生きている自由や平等や博愛の起源そのものを問う構想力が要請されているとわたしは思う。身体と心がひとつ切りのわたしたちの自然がほんとうはとても制約されたものだとなぜ考えようとしないのだろうか。

    3
わたしは世界史の未知はふたつの自然の激烈な相克にあるとみている。天然自然と人工自然のせめぎ合いである。テロのない世界を構想することはどうじにAIの彼方を構想することとおなじではないかと考えている。あるいは古い自然と新しい自然のつばぜり合いと言ってもいいかも知れない。この戦いの趨勢は明瞭で理念でさえない。過渡期の混乱を経てやがて新しい自然が古い自然を併呑していくことになるに違いない。なんとならば天然自然と人工的自然の争闘は外延自然の範疇にあるにすぎないからだ。この範疇に認識の自然があるとき高度な人工自然の認識が天然自然を馴致するのは自明のことと言える。

古い自然を天然自然と呼んでみよう。このなかには宗教や国家やナショナリズムが含まれる。新しい自然を人工自然と呼んでみる。先端医療や生殖産業やAIがある。わたしたちはテロを先験的に悪とみなす。一方でがんの早期発見と早期治療は善だとされる。この流れのなかでテロリストを早期に殲滅することは善だとされる。毎年間違ったがん治療で数百万の人が死に至っても閉じた信の内部ではそのことは善とされる。この領域は工学技術の進歩によってさらに外延される。そうすると生誕とともにがんが確定される。いやおうなく生誕とともに医療が介入する。そして健康であることを遂行するのは善だとされる。受精卵を遺伝子操作することも善だとされる。それは間違いなく認識にとっての自然となる。そしてこの認識の自然を土台として生が組み立てられる。その帰趨は明らかではないか。理念の介在する余地はない。

こんな話がある。米グーグル傘下企業の人工知能(AI)ソフト「アルファ碁」と、トップ囲碁棋士が5戦戦い、AIが4勝した。棋譜をみたプロの棋士が皆、「どちらが人間でソフト」か分からないと言ったという。アルファ碁は最先端技術のディープラーニングを活用している。チューリングマシンの原理が現実のものとなったわけだ。ホーキングはAIが人類を滅ぼすと警告している。 新しい自然が古い自然を併呑するということだ。このなりゆきのなかで人間や生は再定義されることになる。古い自然が新しい自然に呑み込まれていくのは自然である。また天然自然の生も人工自然の生も自己を実有の根拠とする同一性的な生としては同型である。むしろ古い自然は新しい自然へと外延的に拡張されるといったほうがいいかも知れない。そして古い自然と新しい自然も、ともに自己の私利や私欲の追求と相性がよく、信の共同性によって結ばれるということにおいても同型である。つまり外延表現の認識の枠内でなにをどうやろうとさして変わりばえがしないということだ。
昔、神の下に人は平等であるという観念があり、地上に引き下ろされて法の下に平等であると観念がつくられた。王侯貴族も庶民も法の下に平等であると云うのは観念の大革命だったと思う。そこでつくられた観念の長い影の先端をわたしたちが生き、過渡期の混乱に見舞われている。外延的な表現を拡張しないかぎり生にとっての未知はないとわたしは思う。

当事者性というのはわたしの考えの基盤だから体験の固有性というところから伊勢﨑賢治さんとすこし違うことを考える。伊勢﨑さんがシエラレオネや東ティモールやアフガニスタンで武装解除の仕事に携わっていた頃よりテロとの戦争はより凶悪化しているのではないか。シャルリーエブト以降のテロはホームグロウンだと報道されている。市民社会の外部が常態化しているからだと思う。中東やアフリカの過酷な現実を国連の人道主義で改善できるとは思わない。わたしはむきだしの生存競争に晒されるなかで市民社会の外部の例外状態が自然になるのではないかという気がしている。世界は行き詰まり、世界への構想は涸渇しているのだろうか。そうではないと内包論では考える。

これまでブログで書いていないことを今回は書く。人権の理念を転倒させる。
なんども自由や平等と友愛は次元を異にすると言ってきた。自由・平等・博愛という西欧近代由来の理念をここで逆倒する。他者への配慮という理性に先立つ驚異があるからはじめて事後的に自由や平等という理念が成り立つということ。偉大な近代と、近代がはらむ逆理を超えるということはそういうことなのだ。おわかりだろうか、内包という観念の飛躍がありうる。他者への配慮という同一性からみた非合理があるからこそ、自己であるそのことに自由と平等がもたらされるということに。自由と平等をどれだけ外延しても他者への配慮に到達することはない。

まずはじめに食と性の分有を可能にする根源の性があり、その根源の性を分有することで身と心がひとつ切りの同一性が立ちあがり、根源の性という内包の面影は神や仏として表現されたということ。同一性を超えた信じがたい出来事のなかに人であることの根源がある。内包論ではそういうことを考えてきた。わたしの考えからすると友愛(博愛)は喩としての内包的な親族へと拡張される。根源の性が可能だから離接するふたつの心がそれぞれに分有される。また分有されるからこそ同一性という制約においても自由なのだ。
自由と平等はそれほど自明のことではない。あるものがそのものにひとしいという抽象を行うとき多くのことが捨象されている。A=Aという抽象を敢行するときそれは切断でもあるのだ。身が心をかぎり、反作用として心が身をかぎるとき、その同一なものは私利や私欲として現象する。そして自己という現象は容易に共同幻想に同期する。

自由と平等は人格を基準にすると個人にとっておおいにけっこうなことである。かつて神や仏という超越の下で人が平等であった。神の下の平等はやがて法の下の平等へと転位した。王侯貴族であれ庶民であれ法の下で平等とされた。それは人間の観念にとってのおおきな革命だった。どうじに身と心がひとつ切りで存在していると知覚される生にとっては我執を充たす大義名分ができたということでもあった。友愛などどうでもいいことで、個人にとって自由と平等はこのうえなくありがたいことだった。自由と平等であるということと友愛のあいだには深い亀裂がある。友愛はユークリッド幾何学の平行線公理のようなものだった。

自由と平等はそれ自体としては空っぽである。むろん友愛などどうでもいいことだ。自由と平等という観念と友愛という観念のあいだには千里の隔たりがある。内包はここにある亀裂をなめらかに順接する。自己の陶冶と他者への配慮がなめらかにつながりうるから同一性においても自由と平等が実現される。安倍の愚劣を批判する者たちがオカルトな安倍と意識において同型であるのは同一性の必然である。またISISの無道はテロ殲滅に躍起になる各国首脳と、おなじ理由によって意識において同型である。意識の外延表現に就くかぎり生の豊穣さはもうどこにもない。

親鸞のいう煩悩でもいい。生が煩悩のかたまりだとして、そのど真ん中に煩悩に先立つ根源があるということ。仏の慈悲が煩悩の外にありその摂取不捨に照らされて煩悩を相対化できるということではない。断じてそういうことではない。自己に先立つ根源がもともと自己に内挿されているということ。
自己に先立つ根源とはなにか。わたしは性だと思う。この性のなかにしか自己の他者性というものはない。自己が自己でありながら二人称であることの本義はそこにある。またそこにしか自己の本然はない。わたしはこの本然のことを内包自然と名づけた。

ここであらためて自由・平等・友愛について考える。外延表現でこれらの概念を定義しようとすると、ひとつひとつの概念がばらばらに離散しているので、人格を基準にして強引につなぎ合わせるしかない。自己を実有の根拠とすれば自由と平等という観念は相性がいいといえる。それぞれの自己が切り離されているかぎり、自己にとっての第三者は刺身のツマみたいなものでなくてもかまわない。個人に自由と平等が付与されるやいなやばらばらな自己は勝手に自己を肥大化する。それはとても自然なことだ。その自然を秩序として維持するために公共性という理念が呼び込まれる。これもまた不可避である。共同幻想もまた個人の抽象化された一般性であり、なにかのきっかけがあるとそれ自体が生命体のようなものとして動き始める。そして個人は共同幻想に呑み込まれ共同幻想の属躰となる。この属躰の頭が天皇である。

古い自然と新しい自然が混交しながら激しくつばぜり合いをしているというのがわたしたちが遭遇している世界の現在だ。やがて新しい自然が古い自然を併呑することになる。外延表現における戦いの趨勢は決している。なにごともなかったかのように世界は再編される。

なぜ人は自由で平等か。
根源の性を分有することにおいて人は自由でありうる。
その根源の性がだれのなかにも内挿されているということにおいて平等である。
根源の性が分有されるとき、外延表現の三人称の他者は、喩としての内包的な親族としてあらわれる。
また社会を循環する貨幣は利子ではなく贈与としてあらわれる。
そこでだけテロと戦争のない世界が可能となる。

内包を存在の原理とするとき内包のなかに倫理はない。倫理ではない善悪の彼岸が現成する。外延論では生はつねになにかへの過度としてあるが内包の生はいつもそれ自体である。内包においては圧倒的に善、悪は枝葉末節である。内包において死は生の一部であり、むろん善と悪は対等な格ではない。このような生を現実のものとして生きるとき世界の無言の条理そのものが消散する。そこにテロと戦争があるだろうか。

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