日々愚案

歩く浄土74:内包的な自然7-桜井孝身の死

イディオット
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一箇の偉大な卑小がこの地上から消えた。存命中に大恩のある絵描きの桜井孝身さんが亡くなった。九州派のことについては書かぬ。一度お会いしたいなと思いながらなかなかその機会がなくついに桜井さんは身罷った。
パラダイスへの道という変わった本を一緒に出版していたお元気な頃の桜井さんとは深い交友があった。ひとはだれも還相の関係においてその生をいきる。わたしと桜井さんもそういう関係であった。最晩年の桜井さんのことについては言葉にならぬ。享年88歳。偉大と卑小をかれもまた生きた。浮き世離れした破天荒な桜井さんにとってどうであれ大往生だったと思う。

わたしもまたかれを慕う多くの者とおなじように桜井さんとは個人的な関係だった。内包という概念が生まれかかっているころにふと桜井さんと出会った。30年前のこと。わたしはからだに焼きついた体験をなんとか言葉にしようと、ある思考の型と格闘していた。熊本から博多に出てすぐに19歳になり、過激な行動に身を投じ、自業自得だが応分以上の負債を抱え込んでいた。地獄の底板を踏み抜くようにして触った熱い自然をなんとか言葉にしたかった。わたしに固有の体験をつかみだそうともがいていた。
桜井さんの絵をみることがなかったら書くという行為は訪れなかったかもしれぬ。それほど桜井さんとの出会いはおおきかった。親密にした数年間のことが湧くように浮かびあがってくる。ほんとうに分け隔てのない人だった。そのありかたは底なしだった。あちこちとぶつかりながらちぐはぐにしか生きることのできない者にとって桜井さんは容赦なく寛容だった。お前も言葉で世界を獲れ。かれの口車に乗せられた。ついその気になったのだ。その次第を書いて、桜井さんを深く哀悼する。桜井孝身は文化を超える文化を創ろうと生涯を浪費した。それがかれの生であったように思う。

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きりなく思い出されることのうちのいくつか。記憶では1987年。仕事の昼休みに桜井さんの絵を見ようと展覧会に行った。もちろん初対面。絵を見た瞬間、ああ、いいなと思った。宮沢賢治の「風の又三郎」の挿絵なんかにいいなと思ったらその本がもう実際にあった。たくさんの観覧者がいたが素人の感想を申し述べた。一人去り、二人去り、気がついたら桜井さんとわたしの二人になっていた。激しい口調でわたしがなにかを話したからだと思う。にこにこしながら桜井さんはわたしの話を聞いていた。お前は吉本隆明かもしらんがおれは谷川雁が好きやった、と桜井さんは言った。そのことに文句を言ったように思う。やりとりに尋常でない雰囲気があった。このときのことを桜井さんは福岡市美術館で開催されたロングランの九州派回顧展で書いている。桜井さんにとってたしかに見ず知らずのヘンなおっさんだったわけだ。

九州派・展は文化たりうるか

芸術と政治の生・体系

 個人が世界像を呑み込もうとする時、それはテロルになるのか、激しいエネルギーが飛び散る。当然の帰結として現在の命題は極右翼と極左翼を肌によって縫い合せ、もう一つの世界像へと導くエネルギーとでも呼ぶような迫力を感じるのである。この極右と極左が肉体によって差異を飛乱する時、世界像はいかに変化するのであろうか。その時の偏差値をモリザキ先生から突きつけられたのである。企業が自らの命脈を守るという大義名分によって世界の生態系を崩してゆく時、個である各々にはタダタダ粉砕されるのを待つのみであろうか。現在の私にはその辺の事情がさだかではない。

 このように企業によって創出され二者択一を迫られ消滅への道を歩くのも、また個人の自由であるのか。その消滅に対して、何が有効であるのか。私が恐怖し、希望の灯りをともすのはモリザキのナンであるのか。モリザキの目が私の心を射て離さない恐怖のひとときなのである。果てしなくつづく企業の一方的専横は、鉄冷えのごとく溶鉱炉の火が消えることがあるのか。西欧文明の行末、それは何を意味するのか、ともあれ私には判明するすべもないが、ここにひとりの男、ひとりの人間が在る時、文化とは生態系への理解であるべきだと私は定義したい。生態系である以上、個の生が自然的に全面的に肯定されることを意味させたい。絵画には、生態とかいったものが有効である筈はない。

 しかし見る観客も人間であり描くモノも人間である以上、どう見ても人と人との間柄である。死に瀕している者に鑑賞が強要できるであろうか。現在、瀕死の者に対して文明国では医者が干渉出来る。発展途上国では宗教がある。それに間違いはないのか。いや、当然、間違うことによって存在を証明し牢嶽とか病棟が拡大して行くのであろうか。もう一度も二度も、生に対して、死に対して個の企業の両刀の存在を問われる。その間いこそは、政治であり、芸術家であろうとも、問うことによって政治から逃れることはできない。その屈折したエネルギーは何によってもたらされるのであろうか。

美術が文化であり得るのか。

 首相が外国に行くと、文化交流という。かかる意味あいにおいて、美術も文化であるのであろう。それも重要なことの一つである。しかし、文化とは生態系への理解の一つだとするならば、政治的意味あいにおいて強力に政治であらねばならぬ。美がこのような存在である筈は決してないことを承知している。だが、美とは関係なく絵画は人間を問うことが出来るのである。その証明はタントラである。人間が伽藍を夢見るとき、絵が図面であってならないワケはない。絵は人間を救うことのできるマンダラである。絵を見て「ガン」がなおるということを意味している。

 つづくということは生が異形なもので死が普遍なのである。不思議なことに″人″は、死を異変とみる。私は生を異変とみる。異変である生が、異変のはかなさを自覚して「文化」という、ヨケイなものを身につけてゆく。文化というヨケイな、ものは生に対して何の役にも立たない。それ故、無限に無用に近づく。それ故文化とは誤信させる何ものかなのである。その誤信するもの、その生物が何故に美術なるものをやるのであろうか。
 不幸にも私は、その自己表現の絵を売って生活している。その不幸を幸福と呼ぶべく悪戦苦闘しているのである。

 脳髄の物質の発見によればモルヒネ的物質もあり、生物が他の生物に食われる時、そのモルヒネが働き安楽死?をやるらしい。だとすればキリストは一種の愉悦で十字架に安楽死したことを意味する。なんという逆転劇であることか。死者は安楽死してパラダイスへの道を急ぐ。生者は首くくられたキリストに涙して地嶽をさまよう。果てしない灰色の悲惨さが、輝く太陽の、ゼウスの、アテノの、ギリシャの神々を扼殺して西欧文明はアメリカインデアン、インカの人々をころして輝くのである。正義の神々とは悪神があっての正義であって、正義だけであれば正義は成功しない。人間とは、男と女から成り立っている。されど何処の、いつの時代であれ文化を持たない人間はいなかった。その不出来な形ゆえに肉体的にも神々の恵みにおいて秀でた動物たちを背負って地球破滅の責任をとらざるを得なくなったのである。ここで一転して、政治的であるが故に脱落することによってのみはじめて天国への招待券となる不思議な絵は薬たり得るのであろうか。

 私は長い間、頭山満の玄洋社は九州の恥辱であると若い頃から考えていた。山本厳先生の説によると明治維新に乗り遅れた福岡藩士が土地の利権すなわち当時、新しいエネルギー源である鉱区権を明治政府のバックを笠にきた三井、三菱、住友といった、今でいうところの財閥が炭鉱の鉱区権利をつぎつぎに獲得していった。没落藩士の道は自分自身の細腕で戦うしかほかに手段はなかった。それが一見、ヤクザと見誤る玄洋杜であったというようなことを読んだ時、目からウロコが落ちたということは、このことである。何故か、私は右翼に、左翼に、私ふうの勝手な思い込みがあって、人間、そのものを見ていなかった思いがするのである。なんというウカツさであったことか。その玄洋杜と関係のあった夢野久作こそは福岡にはじめて、いや、近代、いや現代のエスプリとしてのロマンであり、まざれもない文化なのである。その上、不思議と深さによって、いまだに十分理解されていないのである。その不理解こそ、夢野久作の先進性であり、光栄ある地方性なのかもしれない。それにしても、九州派は早く理解されすぎたのであろうか。まだまだ夢野久作以後を語る必要がある。

 長崎のピカドンと幾多の、苦痛とさざめきが波打つ博多で九州派は生れ育ったのである。日本いたる所に公害はある。薬害もある。鉱害もある。いい悪いが問題ではない。誤解のないよう、勝てばいいというのではない。負ける戦いが、それでも戦い、負けながら成長してゆく不思議な生き物、その本質はさだかではないが、確かにあった。それ故、あれだけの苦しみと、いや私には語る資格も勇気もない。いま、私が語らねばならぬのは我が九州派についてだ。

 言葉たくみに語ろうとも「画面は決して作家を裏切ることが出来ない物質である」という神話は、何故、いまだに私の中にコットウ的古さには違いないが生きのびている。まずは生きのびること、逃げのびること。なんだか変な話になってしまったが、ありていに言えば簡単なことだ。画家は画面によって支えられ画面によって苦しまされるのだ。私は多くの誤解を歓迎する。そして強度のワイ曲中傷も私は好きだ。それは結局は自分自身で絵を描くしかないにもかかわらず、一つの幻想、複眼の位置をあたえてくれるから。それ故、画面はむなしく、その生の空白を埋めつくしてゆく。その時、紙を神と呼ぶもよし、神を紙とハズカシメルもよし、されど私は知らぬことを愛するといった、まだプラトンにワイ曲されないであったろうところのソクラテスの理性の愛が私には気にいっている。それが一番、生態系に無理なく適合しそうに私には思えるからだ。

その反合的事実によって九州派展なるものは、まさしく頭山満先生いらいの夢野久作のトボケた難解をかねそなえた九州生えぬきの諸々の事に影響され、また影響をあたえた無名作家のエネルギー集団であったのかもしれない。それ故にこの九州の生態系にそれぞれの作家の今後にかかっているのだ。文化とは荒廃した都会にケモノの道を作ることだ。いま都会の砂漠は文化と呼ぶケモノを必要とはしないか。いまこそ博多は、福岡は夢野久作、上野英信、新開一愛の逝った人々の祭りを起し、、再び文化の森を繁茂させたいと願うのは我田引水すぎることであるか? 森崎茂先生みたいな野獣を多く引き寄せ生存させる緑の森が必要なのである。いま、それが、九州派展なのである。お忙しいでしょうが、是非御覧になってコキオロして下さい。(1988年 九州派展を成功させる会 代表 桜井孝身)

いまこうして読み返してみるとあらためて桜井さんの先見性は鋭いと思う。桜井さんが問うたことはすこしも古びずいまもなお現在のこととしてある。

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偶然の出会いから『パラダイスへの道』というだれも読まない、ぶ厚くてダサい本が出版されることになった。時代の趨勢にたいする皮肉もあった。軽くて薄いことが価値だとネアカは主張した。一瞬で泡沫として消え去ったが、当時はバブル文芸が幅を効かせていた。電話帳より厚くて踏み台ほどには役に立たない本を出したかった。桜井さんの東京での展覧会に来てくれた鮎川誠さんに本をあげたら恥ずかしくて持って歩けないと言ってた。わたしにとって若い頃以来のやりたい放題ができた時期でもあった。
限定一部のワープロで書いた文章のプリントを桜井さんに渡したら、翌年いま福岡空港に着いたが感想を言いたいと電話があり、お会いして半年かけたかれの感想を13時間お聞きした。開口一番、ナチズムは解決していない、この文章はハイデガーの批判ですね、と言われた。なるほどそういう読み方もあるのかと感心した。その年だったと思うが、『パラダイスへの道』創刊の原稿をドゥルーズからもらってきて欲しいと桜井さんがフランスに戻るときお願いした。
余勢をかってこのときの文章を土台に吉本さんと対談したり、未遂だったがドゥルーズと対談しようとしたりした。1992年にパリの公営施設で桜井さんの展覧会があって、友人たちとフランスを訪れた。中二の娘も着いてきた。田舎者の珍道中でほんとうにたのしかった。

ジル・ドゥルーズへの道

 思えば昨年、いわゆる一九八八年十月末までは、この高名なるジル・ドゥルーズ先生の名前すら知らなかった。別掲1にある出版企画書にあるよう私たちは本を出すことになった。私の役割は外地在住の方に対する『連絡及び問い合わせ先』となっている。当然、知識人なら驚く、著者予定者にジル・ドゥルーズがはいっているのである。もう少し昨年の私を説明させていただければ、この本にも掲載されている九州派展のため四月六日に私は帰国し、資料の整理と九ヵ所での個展、アトリエの新築、それについての移転、友人たちの酒盛り、それにもまして、いかにして絵を売り、一年分の金を得るか二日酔いの頭から離れない半年の日本滞在(十一月四日にパリへ出発)であった。その出発前の最後、久留米市で個展をやっているとき、福岡からワザワザ友納、森崎両先生が会場にきて下さった。またまた来年出版する予定の本の話になった。その時、森崎先生が『ドゥルーズの原稿が欲しいですね』といった。私は知らないので『私は知りませんが、どんな人ですか』の問いに、ただ一言『ドゥルーズは詩人』であった。

 私は酒のイキオイもあったが、『その人は知りませんが、美術評論家だったら運賃、すなわち往復の飛行機切符で大体、来てくれますよ』といった。正規だったら六十~八十万ぐらいするだろうが、私たちが買っているのは夏で十六万(東京なら十四万円)冬なら十三万ぐらいで買える。二十万もあれば、パリから福岡へ呼べることになる。なんなら原稿はともかく、そのドゥルーズ先生を我らが出版記念会へ招待しましょうや』と、現在考えれば大変な話になってしまった。翌日、福岡の紀ノ国産書店に行ってドゥルーズの邦訳在庫本を買ってドゴール空港へと福岡空港から出発したのでした。

 帰ってさっそく、私より知恵のある若い友人を中心にわが家でパーティーを開いて『本』の話をした。その時『ドゥルーズって、どんな先生?』と聞くと、イイヤマ先生が『桜井さん、ドゥルーズが日本へ行くとなればすぐ国際交流基金が金を出しますヨ』といった。とてもじゃない、我々では歯がたつ相手でないことが、すぐに判明したわけである。これは困ったなー、どうしよう、と考えても策が出てこない。策がないということは前年経験済みである。といっても一九八七年に滞在許可書の強化の時、私は逮捕され三日間本物の牢屋にぶち込まれ、そのあとの裁判途中、私はサロン・ドメという展覧会に『私はキリストが女性であることを発見した。即ちアイ・ディスカバー・ジーザス・クライスト・イズ・ア・・ウーマン』として、事実ではないのでディスカバーという単語を逆さにした。絵は幅五メートル二十センチ、縦一メートル九十五センチ、両側に監獄記録、友人からの便りなどを入れる箱をとりつけ、観客にこれを見て『国外追放にしないで下さい』『いい画家です』等の便りを下さいと訴えた。このことで多くのパリ在住日本人の友人に迷惑をかけ、相当の反感をかったが、一応裁判にも勝ち、私は追放にもならず、なにもなかったことになった。それを機会に正式に宗像市に籍をおき、アトリエも建て、フランス、アメリカを単なる旅行者として三カ月間の切り替えで過ごすことに決めたが、ベルギー等の画廊がとれ、そうもゆかず、あいかわらず腰が定まらないで困っている。話がそれてしまったが、策がない場合、策がない、しかし、要求が明らかであれば、その方向に向かって手を打ってゆけば、どうにかなるということを『逮捕され、裁判された中で私は知った』

 それと同様、ジル・ドゥルーズへの手がかりが全くない。その全く無い状態、にもかかわらずドゥルーズへの接触を求める心は衰えない。この衰えない原因をまず説明しなければならないだろう。その前にというと非常にしつこいが、普通の人に〈九州派〉といっても何のことかお分かりにならないでしょうけど、この本の中に出てくるので大体のことほご判断できると思います。要するに田舎の若者たちの画家が東京で何日も展覧会をして過剰なまでのエネルギーが注目され、一応現代美術史の一ページを飾ったということだが、そのエネルギー噴出のきっかけとなったのはオチ・オサムという男と逢ったということであり、早い話が一人の女性と出逢うことから家庭が、いや子供ができ、村が町が、だんだんできてくるよう、出逢いの感動が運動のエネルギー源だと私には思える一つの九州派出現の体験があるのです。そして三十年の年月が過ぎ、かつては若かった九州派のメンバーも大方、会社、学校も退職し、はやばやと黄泉の国へ旅立つものもすでに二人いる。本人達がエネルギーをなくした頃、福岡市立美術館が〈九州派展〉をやってくれたワケである。

その九州派展の期間中、私の前に彗星の如く現われたのが友納、森崎の両先生ということになる。そして彼らは、友納先生は経済学者、森崎先生はもの書きである。両者とも画家じゃない。あえていえば両者とも思想家なのである。必然的に雑誌の一つ、二つは、思想家として必要であったのであろう。私は滅びゆく世代として九州派を記録する本が欲しかった。友納、森崎両先生という世代は、いまから発言し、創り出してゆくものとして、発展としての本が必要であったのだろう。とくに森崎先生の独特な文章は、この本で証明されているから読まれれば分かることと思います。昨年、出発する前にいただいた『内包《権力/表現》論ノート』は約半年の間、枕元においてゆっくり眺めた結果、私は多くのことを教えていただいた。吉本ばななの名前も彼女が賞をとる前に森崎先生の文章に出ているので知ったのです。そして、それ以上に重要なことは私が森崎先生の文章を読む以前に、彼の語り口に、彼独特の言文一致といおうか、彼の恥ずかしげに語る言葉にもかかわらず確固たる、なんていおうか、『行く』と言葉を発すれば、実際に行動として行く行為、『叩く』と言えば、その瞬間、ぶっている。正直というのか、真剣というのか、率直な、不思議なリアリティに私は心をうたれた。

この人からは、何かが起きるぞという予感が沸いてきて『バーッ』私の体内には、かつて三十年前、オチ・オサム先生と逢った日のことがよみがえってきたのであります。あと彼の文章を読ませていただき、分かりやすい文章であるにもかかわらず、彼の詩的繊細さが、彼の恥ずかしがりやの優しさが自然に難解となっている。なんというパラドックスであろうか。いやいや、またまた横にそれてしまった。ジル・ドゥルーズの道へもどろう。その森崎先生が『ドゥルーズの原稿が欲しい』という声は、私の脳髄の中でますます、鳴り響くばかりで衰えることがない。それにしても私には対策がない。その無関係なものに、関係あるようにする方法といえば画家として裁判パフォーマンス〈私は発見したキリストは女性であった〉という方法を、また、ジル・ドゥルーズ先生にあてはめるしかない。ないというより、それしか私には思い浮かばなかったのであります。またしても。バリ在住日本人画家百名に、そのパフォーマンスの準備をしようとしていると、女房の、この人も私と同じく画家である中村順子先生が『もう日本人画家を使うのはやめなさい、次元が低いヨ』と言われた。前回の。パフォーマンスで、サンザン彼女も助力させられ、私の強引なやり方で皆様に、これもサンザン嫌みを言われているので、彼女の発言も、また当然なので、別掲その2、その3した文章を発送しょうとした段階でやめました。女房の発言によって多数者に語りかける方法を大きく転換したわけです。

知恵がなくなると私は友人達をわが家に招待して飲ませ食わせのパーティを.開く習慣があります。これにも女房は迷惑していますが費用は一切、私が出していますが、迷惑は迷惑に違いありません。そこで思いだしたというのは哲学者とよんでよいのかどうか判りませんが、友人の展覧会で偶然、面白い日本人女性がいて、その連れがフランス人で高等学校のリセの哲学の先生でフーコーのことはよく知っているというので、もしかしたら勉強会をやるかもしれないというので、わが家のパーティに招いた。と同時にある。パリの日本の新聞社に務めて哲学に強い友人と、ほぼ同時にパリにきた高島夫妻を招いた。別に若い男性二人の計八人の招待客と私と女房の十人のパーティである。肝心な哲学の話にならぬ前に大論争といえば体裁はいいが簡単にいえば喧嘩になり、泣くのワメクので、とうとう話にはならないままだったが、その高島夫妻の一人息子さんが別掲4『知りたい新聞』をだしていて十六歳にもかかわらず文学に相当興味あるのを知っていたので、この方にあたってみる必要があるのではと思った。別掲5はその時の記録であります。
 両親の協力もあって了承してやってみることになりましたが、彼は優等生であるので、私が持参したドゥルーズ先生の邦訳のニーチェ、アンチ・オイディプス、フーコー、リゾームを日本語で読もうとしたのですが、やはり難しく、フランス語のアンチ・オイディプスを古本屋で買ってきて読んだ。そこが私と違うところで勉強すればするほど時間がなくなるのである。私の帰国予定日六月八日、ドゴール空港出発には間に合いそうにないので打ち切り、大体のところ、元先生が調べたことなど、フランス語がぜんぜん判らない私が〈ジル・ドゥルーズへの道〉として来年へつなぐことにした。(1989年『パラダイスへの道』)

貴族の風貌をしたフランスの国定美術鑑定家アラン・ナバルが桜井孝身の絵に惚れ込みプロデュースした展覧会がパリであった。わたしは桜井さんに来なくてもいいからドゥルーズに招待状を出せばいいと言い、ドゥルーズから絵が気にいったので出席すると返事があった。おおっと思った。仏語がわかる仏文学者が拝むようにしてこれがドゥルーズの直筆かと感動していた。ドゥルーズが来るなら、その場を日仏対談に切り替えようとドゥルーズに申し出るつもりで、パリ大学で日本語を勉強している仏人に通訳を願い出た。わたしはドゥルーズの邦訳はぜんぶ読んでいたので、感想をドゥルーズに言おうと思ったのだ。あなたの本をわたしは読んでいるが、あなたはわたしを知らないでしょう。あなたはなかなかいいことに気づいているが、まだ考えが足らないということを伝えたかった。当日ドゥルーズはこなかった。なぜだろうかと不審に思っていたら、すぐにドゥルーズが自殺したことを知った。

1990年に吉本隆明さんと対談するとき桜井さんは対談の場に臨席してくれた。ながい対談のあいだにお茶と紅茶とコーヒーをそっと注いで、ケーキまで添えてくれた。正座をしてじっと話を聞いていただいた。対談が終了すると、吉本さんとわたしの肩をポンと叩き、面白かったと言われた。懐かしくそのことを思いだす。打ち上げの場で桜井さんが終始吉本さんをからかい、吉本さんも苦笑いしながら応答された。打ち解けてなごやかなひとときだった。元気だったシーナ。鮎川夫婦と吉本さんの談笑も一期一会だった。

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わたしが『パラダイスへの道』の編集から離れても桜井さんとはよく会って話をした。なにか名刺代わりの本を作らないか、金は全額出す、なにを書いてもいいと、桜井さんが言われて、あっさり誘いに乗り、はじめての『内包表現論序説』という本を出した。表紙絵は桜井さんの絵を使わせてもらった。「刊行にあたって」という一文を桜井さんからいただいた。

水、海水のなかを、潜っている。もう久しく息をしていない。トーンと、底を蹴って浮上する。ヒュッーと口と鼻から奇妙な音をたてて呼吸する。やっとハイハイを始めた幼児が高いベッドからずり落ちそうになる。『危ない』と叫んでだき抱える。私はこのように『内包表現論序説-森崎茂』の本を読んでいる自分自身を発見する。一体、このことの意味はどうなっているのだろうか。説明したい。恐らくは誤読しているに違いない。私の人生に似て第一歩から道を踏み外している。深い森に迷い込んで、何処が何処だか出口が分からず気は焦るが、そんな紆余曲折の私の中の荒野に、『内包表現論序説』はいかづちであり落雷、閃光であった。されど直ぐに意味が分かったわけではなかった。

 私は長い間、期間にして三O年、「パラダイス」を求めて彷徨い、いま、パラダイスの中に埋まっている。このことの理由は簡単である。私の描く絵の題名がパラダイスシリーズだからである。故にいま、そう狭くもないアトリエだが、日本のアトリエもパリのアトリエも、「パラダイス」と題名が書かれた、何百何千というキャンバスが乱雑に積み上げられている。荒涼とした風景ではある。描いてしまったので売るには売れにくいが、耄碌した頭で一寸、材料費を計算してみると、麻布、百二十号の木製枠、ルフランの絵の具、すでに家の2、3軒分は消費している。なんたる無駄な時間、なんたるゴミの山をせっせと築いてしまったことか。そして自ら作り出したこの膨大な昼なお暗いジャングルのなかに迷い込んでしまった。

 尊敬する賢明な貴方ならどうする。恐らくこれが六七歳という私の年齢から考えて最後の手段、最後の絵、最後の真っ白なキャンパスになるだろう。思えば、二O歳の初め、一枚の絵を見たとき、私は人生を大きく踏み外してしまった。そして、真にこの意味を読み取り理解するなら、画家は富士山の霊峰をパックリ半分削りとることはイトモ簡単なことである。表現とはそんな奇妙なただ紙の上、キャンパスに描かれた餅で誰も決して食べることは出来はしないにもかかわらず、実際の現実に食べることのできる餅よりケタはずれに値段は高価なのである。食べられない絵の餅を売るという金銭関係で、実際の餅が1年も2年も食べきれないほどに手元に積み上げられる。このことは虚が実よりはるかに強力なことを示している。この現象をたんなる錯覚と見るか、落とし穴、詐欺行為と見るか、人それぞれに異なる。しかしながら、一見、いや事実、決して信じてはいけない、虚の世界に迷い込んでしまった者にとって麻薬同様、全ての現実が夢うつつなのである。

 と、同様、実際の本当の餅、実際に絵を描く画家、実際に文字を連ねて文章をかく者、彼には力はないのだ。喜劇役者がまずあって吉本興行があるかに私たちは信じているが、事実は吉本興行が色々なデーターを集め緻密なコンセプトの上で喜劇の文章を制作する。人はその文章に笑いこけているにすぎない。その文脈を離れて個人の喜劇人はありはしない。画家もまた、全くおなじシステムにある。いま、システムが根底から崩壊し、文字にするのは憚れるが、不吉な言葉が流行し、システムを読む基盤のコンピューターが『怪しき美しさで皆殺しの旋律を奏でている』。私の友人は言う、この際、人間という人間を殺してしまえ。これこそが人間の成しうる一番いい方法である。私は少々友人の説得に傾いていることも事実である。されどここに『内包表現論序説』の森崎茂・・・ものみなエクスタシーに達することが出来る。それはまこと大いなるギリシャ以前、いまだ全てが矮小化されない、いわゆるハイデガーが望んだ形而上学が、いや、全ての矮小化に色濃く染められている私は、パラダイスにいる筈だったのにいつのまにか地獄の奈落を彷徨い、赤い日で赤い世界を描く、要するに赤く爛れた世界をなぞっていたことになるのであろうか。
 『内包表現論序説』、一瞬、いかづちが光った。落雷に覚醒した。ヘロインで深く眠っていた私の脳髄が目覚めたのだ。簡単に言ってしまえば、覚りは何回も何回も必要なのだ。そして私は真っ白になった。画家は真っ白い大きなキャンパスを、私はまた『内包表現論序説』にしたがって、この本を出版する不思議な大型コンピューターを友人の手を借りて秘密裏に入手した。空飛ぶ絨毯、どうぞ、『内包表現論序説』森崎茂の宇宙へ・・・

『内包表現論序説』の出版記念会にも挨拶の文章を書かれた。

そう多くは決して望まない本当に理解して戴ける人々によって贅沢な食事ではなく、それでいて心から論争でき、一人の信者もいない。全ての出席者がそれぞれの主宰者、或いは教祖、平たく言ってしまえば自主性、個性的であるべき出版記念会を開催します。(桜井孝身1995.9.22『内包表現論序説』出版記念会案内状より)

城野印刷のオーナーの目の前でビニール袋を取りだしこれで本を一冊つくって欲しいと桜井さんは言い、かれの全財産を、大金を、差し出されたことを覚えている。たしか10円玉もあった。書き切れないたくさんのことを桜井さん、ありがとう。
合掌はせんよ、喩としての内包的な親族として、桜井さんは、いつもどこでもわたしとともにある。桜井さんという稀有な表現者との縁(えにし)は有り難い。ニーチェを生きた桜井孝身。生のちぐはぐさをはにかんで生きた桜井孝身。死が恒常であり生は異形であると桜井孝身は言い、死は生の一部であると内包は言う。終わりのない対話はきりがない。また会おうと桜井さんが言っている。

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