日々愚案

歩く浄土70:内包的な自然3-宮沢賢治の自然3

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この頃気がつくと家でも街中でもスタバでもいつもピレリの演奏するショパンのノクターンを聴いている。じぶんとは縁がないと思っていたクラシックピアノ曲を2年くらいよく聴く。音源はyoutube。日々没入。おかげでおなじ作曲家の曲であっても演奏家によって弾き方がまるでちがうことに、聴くごとに驚いている。ロバートジョンソンのクロスロードはクラプトンもカウボーイ・ジャンキーズも演るけどまるで違う。クラシックもおなじだ。リヒテルのピアノの弾き方とポリーニのそれはまったく違う。ルービンシュタインとポリーニもまるで違う。だからその日の気分でラザール・ベルマンの大見得を切る歌舞伎調のピアノを聴いたり、魔女リシッツァのラフマニノフを聴いたりする。何日かピレリのノクターンを聴かなかったりすると禁断症状がでる。ニコチン中毒と変わらない。

フライング・ロータスを聴きながらヤマザキマリの「プリニウス」を寝っ転がって読んだりすると最高。〈いま〉が欲しければ、Flying LotusのCoronusのThe Terminatorがぴったり。腰抜かしますよ。歴史のアフリカ的段階がありありとイメージできる。すごいです、この曲。ISIS のカリフ制などぶっちぎりです。フライング・ロータスの音にはふかい喪失感とふかいかなしみが響いている。来たるべき世界を予兆しているように聞こえます。諸星大二郎の「西遊妖猿伝」とフライング・ロータスがおなじものだということがよくわかる。先史時代が立ちあがってきます。フライング・ロータスの音はいまの中東情勢を軽々と超えています。先史時代の精神の気風がどんなものか感じたかったら諸星大二郎の「西遊妖猿伝」にそれがあると思う。参考文献が白川静だし。「孔子暗黒伝」もよかった。なんとなくその時代のことがわかるような気がしてくる。

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内田樹は12月19日につぎのようにツイートしている。

これから心斎橋方面に出動します。今日も僕の役は「大風呂敷敷き」ですので、国民国家の液状化とイスラム共同体の前景化と「帝国分割」の話をします(この間中田考先生がお話したようなこと)。安保法制もこういう大きな歴史の流れの中に位置づけて理解することがたいせつです。

わたしはこの見解は違うと思った。液状化する国民国家とイスラム共同体の前景化と帝国分割という図式は、現にそうなっているように見えるたんなる現実であって表現の概念ではない。すでにあるものをなぞってもあるがままの現実にしかならない。ないものをつくるのが表現なのだ。民主主義の使い回しに余念がないものたちのたんなる口舌であり解釈にすぎない。こんなに世界が見渡せてしまっていいのかしらという賢しらさが醜い。わたしたちの足下の瓦解のすごさはそんなものではない。能天気で気楽なものだ。わたしたちが迎えている事態の深刻さはこういうことのなかにあるのではない。戦慄すべきことはわたしたちの生の足元がわたしたち個々の意志とは関係のないところですでに切り崩されつつあるということなのだ。生が猛烈な速度で改変されつつある。「ぼくらの民主主義なんだぜ」と言ったり、「足元からの民主主義」と言うとき、民主主義の枠組みそのものが組み替えられつつあるということにいまわたしたちひとり一人が当面している。この生の地殻変動のなかでは劣悪な安倍晋三もまたこの舞台の上で踊るひとりのピエロにすぎない。

民主主義の使い回しを推奨する内田樹と、それへの嫌悪感をあらわにする辺見庸も世界の画像はよく似ている。辺見庸の世界のイメージを取りあげる。半分は深く共感するが、ではどうすれば「互いに相犯さない」世界を手にすることができるかということについて辺見庸にはなんの手立てもない。現実に翻弄され茫然と世界の滅びを待ち望んでいるようにみえる。わたしはこの見解に与しない。

世界はいま、説明不能のもうろうとしたなにかだ。つぎからつぎへと生起するできごとの原因と動機がよくわからない。「イスラム国」のなりたちと行方がわからない。闇よりももっと深い闇を想像する。ざわざわする。ぞくぞくする。加害と被害の境界がみえない。加害と被害、犠牲者と実行犯が、究極的にはどうも等価のようにもおもわれる。いつのまにか、ひとは落とすべき濃い影をなくしているようだ。わたしは狂いはじめているのだろうか。世界が狂っているのか。なべて現象ばかりがみえて原因と本質がちっともみえてこないのはなぜか。動機も犯人もまったく不明なのに、犯罪はりっぱにある。犯罪はまるで善行のように、毫も犯罪ではないかのように、システマティックにまんえんしている。
 痴れ者のたわごととしてよんでもらってもよい。げんざい、われわれは前代未聞の戦争状態にある。前例のない戦時。しばしばそうかんじることがある。だれかがいったことがあった。「技術の進歩は不可逆だが、政治は可逆的なものだ。つまり、政治に進歩はない」。つくづくそうおもう。テクノロジーはまえへまえへ、未来へ未来へと爆走し、政治はうしろへうしろへ、古代へ古代へとしきりに逆走する。もっと自由にイマジナティブにかんがえよう。可逆的な政治が不可逆的なテクノロジーを支配したらいったいどうなるのか。じっさい、支配したらどうなるか、どころではないのだ。逆走する政治はすでに前進するテクノロジーを掌中にしている。きわめて野蛮な世界が核を手にしているのだ。これが戦争状態でなくてなんだろう。〈米国とその有志連合=善〉〈イスラム国とその同調グループ=悪〉の図式は、ジョージ・W・ブッシュ時代と大差ない退行する政治の象徴である。仔細にみれば、善はいま悪とおなじDNAをもち、最高の明度と彩度から、言語化のあたわない、最悪の闇の汁をたらりたらりと垂らしている。そして、どこまでも退行する政治はハイテクを武器にひたすら戦争にのみ活路をさがしている。まちがいない。われわれは前代未聞の戦争状態にある。(『もう戦争ははじまっている』196p)

「歩く浄土67」では辺見庸の『1★9★3★7』の倫理を180度転換したところから批判したが、貼りつけたこの箇所にかぎればわたしと内田樹と辺見庸のあいだにたいして認識の差はない。とくに「前代未聞の戦争状態」と辺見庸がいうことはよくわかる。かれの言うとおりの実感がわたしのなかにもあるからだ。それは「前例のない戦時」なのだ。
ただ内田樹とおなじように辺見庸もまた世界の流動化をなぞっているだけでなんの処方箋も持ちあわせていない。内田樹は身の丈に合わせてしか世界を語らず、辺見庸は世界を絶望において語るという違いしかない。わたしたちは世界の壊乱を「性と精神の古代形象」として解明しようとしている。テクノロジーはそれ自体の自然過程としてとどめようもなく爆走し、政治は精神の古代形象へと退行しつつある。まさに辺見庸の言うとおりだ。だれにもいまなにが生起しているのか見えない。辺見庸のいう「善はいま悪とおなじDNAをもち」ということは精確には善と悪が同一性の派生物にすぎないということである。空虚な容器である同一性にはなんでも入ってしまうということなのだ。善と悪は主観的な意識の襞の内にある信とその強度の違いに帰せられる。それだけのことなのだ。

ほんとうのことを言ってしまえば、内田樹や辺見庸の世界の画像と、わたしのそれはわずかな違いしかない。危機を認識するということにおいてはおなじだ。内田樹や辺見庸よりわたしの方がいくらか生きることに貪欲である。おなじことだがわたしの方がすこし生きることにハングリーなのかもしれない。もし違いがあるとしたらそれだけのような気がする。内田樹は「ま、やめましょう。暗い話は」と言いながら「邪悪なものには近づかない」と『絶歌』の取材をスルーする。かれは早々と考えることを諦めて現実に就いている。辺見庸は世界の絶望を語りながらいつまでも煮え切らない。

『もう戦争ははじまっている』を読んで得心したこともいくつかある。『1★9★3★7』で堀田善衛や竹田泰淳の作品を詳しく取りあげていたが、辺見庸は竹田泰淳や堀田善衛の作品を赦免していない。かれはかれらの「お気楽」を突きぬけようとしている。この姿勢を知ったのはよい気分だった。「ケツメドAは一三歳かそこらの、たぶん、あどけないお坊ちゃまで、ケツメドなどという理不尽なことをいわれなかったころである。もちろん、秘密保護法なんてとんでもないシロモノもなかった。そのころ、武田泰淳も堀田善衛も梅崎春生も中野重治も埴谷雄高も大江健三郎も、読んだ。安心して耽読した。感心した。いま、あどけないお坊ちゃまが手のつけられないケツメドになり、また『時間』や「審判」を繰りなおし、初読のようにおどろきはしたが、なんていえばよいのだろうか、えっ、こんなもんだろうか、こんな書き方で済むのか、お気楽じゃないのか、というきもちが抜けないのだ。比較は不可能だが、フランクルやレーヴィの深度と重さが、期待するほうがおかしいのだろうけれど、ない。(『もう戦争ははじまっている』 40p)

貼りつけた箇所は印象に残ったからで、おおむね深く共感する。そのうえで辺見庸の世界の画像はどこかひずんでいると思えた。まるで全身が倫理のかたまりになっている。聞こえてくるのは辺見庸の呻き声ばかりだ。なぜこのようなことになるのだろうか。それはかれがこの同一性の強いる世界のおぞましさと残虐が消滅する世界を構想しえていないからだ。書かれた本をていねいにたどってもそこを考えた痕跡は見あたらない。

内田樹も辺見庸も世界がやがて破局を迎えるという時代感覚をもっている。内田樹は民主主義の外延によって世界の延命を図り、辺見庸は世界の滅びは避けがたいと予感している。気持ちはわかるんだけどぉ、民主主義は文化人の暇つぶしやアリバイ作りにしかならないし、これまた全身倫理のかたまりになって世界の滅亡を呪詛するのもなんだし、魅力ないよね、と感じているじぶんがいる。それよりはゲスの極み乙女の「私以外私じゃないの」のほうがはるかにリアルだと思う。ここに世界の現在がある。

『もう戦争ははじまっている』をコーヒー店を三軒はしごして読み切った。読み疲れてふと座っている客をみると8人の客がいて全員スマホをいじっている。えっと思い、脇の列をみると10人全員がスマホをいじっている。そういうわたしは本を読みながら、スマホでピレリを聴いている。なんだ、なんだ、みな「私」に没我。これが世界なんだとぎょっとした。

ここからわたしの妄想が暴走する。戦争法案が可決して以降をわたしは新戦後と呼んでいる。戦後70年は終わり、いま新しい戦後をわたしたちは生きているという実感がある。新戦後を特徴づける兆候についてつい最近気づいた。それはスマホやPCが日々のなかに参入することによるわたしたちの生の変化だ。わたしはテレビを所有せず新聞は不購読だが、時代から取り残されているという気はしていない。テレビは賑やかすぎるし新聞も記事の鮮度がよくないし、テレビに魅力を感じないから、それらをつうじて情報を入手していないというだけのこと。わたしのなかではこれらのメディアの役割はとうに終わっている。頂き物を包んでいた新聞紙をていねいに引き伸ばしたら、あらら、吉本ばななさんのおもしろいエッセイが載ってて得したなと思うこともたまにある。

もう少し新戦後の特徴について考えてみる。それはこの国の状況を一国的につかむことができなくて国際社会のなかに強制的に位置付けられているということである。そういう意味では是非をぬきにすれば戦争法制は時期にかなっているということができるかもしれない。そういう流動化する国際社会のなかにこの国も投げ出されているということである。この事態のもっともおおきな要因はグローバル経済の浸潤だと思う。この猛烈な圧力に晒されてひとびとの生が強制的に表現の過程へと参入させられたということだ。だれもがアスリートにならされたのだ。生を可視的なものに改変し生を序列化し価値化し計測すること。この変化のなかにわたしたちの生がいやおうなく巻き込まれているということ。それが現在のもっともおおきな特徴ではないか。迂闊だったのかもしれないが最近までこのことを考えたことはなかった。かなり深刻な変化ではないかと思う。

ハイパーリアルな電脳社会の特徴はかんたんにひとことで定義できる。電脳社会を生きるということはいやおうなく生が表現に巻き込まれるということなのだ。知識人-大衆論による世界解釈のまったき無効性。もしわたしが若かったらシールズのデモに参加しただろうか。断言としていう。ああいううさんくさい集まりには行かないと思う。みながスマホで没我、ゲスの極み乙女の「私以外私じゃない」のほうがリアルでうそがない。いま私性は没我として「私以外私じゃない」として表現されている。むかし街角で、あなたの幸せを祈らせて下さいという者どもがいた。あほか、寄るな、触るな、だったことを覚えている。僕らの民主主義とか、足下からの民主主義などうざくてたまらない。政治を投票によって語る形式にたいする嫌悪。その間違った一般化。政治で変わることなどなにもない。非正規雇用も貧困も没我にとって関係のないことなのだ。剥きだしということはそういうことだ。この剥きだしを間違った一般化による民主主義で語るな。安倍とおなじように政治の退行にすぎぬ。没我という無関心は社会化や共同化を拒否する明確な意志表示、ひとはそんなことではつながらないという素朴で正直なはっきりした態度表明なのだ。そしてこの没我を生みだしているものはひとびとのなかにある圧倒的な絶望であるとわたしは思っている。なぜ絶望なのか。電脳社会がひとびとの生をいやおうなく貨幣でしか計量できない表現に巻き込んだからだ。それがどういうものであるかひとびとは知り尽くしている。

「自分以外は自分じゃない」という没我は、賢治の「何をやっても間に合わない」とは違う。賢治の「世界ぜんたい何をやっても間に合わない」はほんとうのほんとうを希求する反語としてあるのだが、ゲスの極み乙女の没我はそれ自体であってそこにはどんな含みも深さもない。他者への完璧な無関心なのだ。ひとはばらばらに生き、ばらばらな快楽に閉じている。それ以外になにかあるの、みな「自分以外は自分じゃない」でしょ。同一性的な生の必然だと思う。また同一性の必然としては、シールズの政治もゲスの極み乙女も社会化と没我という見かけ上の違いはあるにしても意識の息づかいはまったく同型だと思う。
もしわたしたちの生に可能性があるとしたら、内面化できぬ没我を、共同化できぬ没我をそのままに民主主義とはべつのかたちでひらくことにある。

    3
片山恭一さんとの連続討議『歩く浄土』第2回「性と精神の古代形象」の「少しながいあとがき」の最後でつぎのように書いた。

「根源の性の分有者が還相の性として可能となるとき、外延的な表現意識の三人称は、内包的な表現意識では、主観的な意識の襞にある信ではなく、信の共同性でもなく、還相の性との関係において、喩として、あたかも親族のようなものとして内包的に表現されることになる。存在がそれ自体に重なるここで親鸞の他力も消える。そしてここにヴェイユが渇望した世界がある。」

このわずか数行にわたしの10数年の思考の格闘が凝縮されている。たったこの数行を手にするのにわたしは七転八倒した。百戦挫敗の日々。ついにある観念の未知に到達したと思えた。しだいにそこに、ある自然が見えてきた。それは同一性がかたどる外延自然とは異なる内包自然がたしかに存在するということであり、その内包自然を還相の性が統覚しているということだった。〔わたし〕のなかにある同一性の彼方を言葉として取りだすのに長い歳月を要した。内包は〈無い〉のではなく〈在る〉のだが、わたしたちの思考の慣性では通常は〈無い〉とされている。解けてしまうとかんたんなことだった。内包を〈無い〉と縛りをかけているのが同一性で、わたしたちの生はいまもなおこの同一性に監禁されている。

このブログを書きながら、親鸞も賢治も内包自然や還相の性や内包と外延の意識の往還については知らなかったのだと思った。それはユーラシア大陸の辺縁に位置する島嶼の国に固有の心性であるということではなくヨーロッパの理性においても変わらなかった。その仔細はいまは脇におく。そうしないといつまでも賢治の物語の世界に入れない。親鸞も宮沢賢治も意識の外延的な表現を極限まで身をもって生きてみせた。そのことについてもこれまでのブログですこし触れてきた。それもいまは横におく。

わたしは自己というものはそれ自体としては空虚な形式にすぎないと思っている。自己を実体あるものとして考えるとその内部にさまざまなひずみが生まれるので、無意識のエスや元型を想定して修復を図ろうとしてきた。しかしなにをどうやろうとヨーロッパ的な知の偏りではこのひずみは埋まらない。では自己はさまざまな縁起の結節に起きる現象であってそこになんの実体もないとするわが東洋的な知はどうなるか。容易にその現象は自然へと回収される。いまわたしたちの国で起こっていることだ。一目散に東洋的自然生成にひた走ることによって思考することを空無にする。ヨーロッパ的知性は危機に際しラ・マルセイエーズに同期し、そこから疎外される心性は精神の古代形象へと憑依する。そして電脳社会の資本と結びついたハイテクノロジーがそれらのすべてを収奪していく。おおまかにはこの見取り図のなかに世界は囲繞されている。内包は狂信ではないから、にんげんとはもともとそういうものではないのかという囁きにかすかによぎられそうになることもたまにある。もしそうだとしたらわたしたちに考えることはなにもない。そうかもしれない、しかしわたしはそうは思わない。

わたしは同一性とはちがう、同一性の彼方の自然をつかんだと思っている。個人という概念は分割不能のモナドではなかった。この単子は究極のものではなく、歴史の自然がかたどったひとつの歴史的な概念にすぎないもので、根源の性の分有者へと拡張できる。この思考の拡張は天動説から地動説への観念の転換に比喩される。外延と内包の意識の往還もおなじことだ。わたしたちの生命形態の自然をもっとおおきな概念のなかにひらくこと。それは同一性の自然が消えてなくなるということではない。地動説が自然であっても太陽は東から昇って西に沈む。〔わたし〕という現象もおなじなのだ。外延論の世界は強固な自然的な規定としていまなおわたしたちの生をかたどっている。内包論では、個人や、国家や市民社会や貨幣も、同一性を実有の概念として生きてきたわたしたちの思考の慣性のあらわれにすぎないと考える。この内包論の場所から宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読み解いていく。賢治が焦がれたほんとうのほんとうの神や、ほんとうのさいわいや、いつもどこまでもいっしょということがどういうことであるか腑に落ちるように考えたい。
銀河鉄道の夜から関心に引きよせていくつかを貼りつけながらそのことを考えてみる。

①鳥を捕る人とジョバンニ

ジョバンニとカムパネルラは銀河鉄道で鶴や鷺を捕人に会う。もらった雁の足を食べると菓子のように旨い。そのうちに車掌が切符を見せてくださいとやってくる。ジョバンニが切符を車掌に渡すと、「これは三次元空間からおもちになったのですか。」と尋ねられる。鳥捕りが横からちらっとみて、「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつ一をお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」と言う。

鳥捕りはちらちらジョバンニたちを見る。ジョバンニはその鳥捕りが気の毒でたまらなくなり、見ず知らずの鳥捕りになんでもやってしまいたくなり、その人の幸いになるならその人のために百年鳥を捕りつづけてもいいような気がする。どうしても黙っていられなくなり、ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですかと訊きたくなる。すると鳥鳥はいなくなっている。「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大変つらい。」ジョバンニはこんな気もちははじめてだと思う。

②そのうちに男の子と青年と女の子が銀河鉄道に乗ってくる。

わたしたちは神さまに召されこれから天に行くと言う。「・・・・もうなんにもこはいことありません。わたくしたちは神さまに召されてゐるのです。」
もうすぐサザンクロスで姉弟と付き添いの青年は降りる。もっとさきまで行こうよとジョバンニは言う。天上へなんか行かなくていいじゃないか。そんなものはうその神さまぢゃないか。それはどんな神さまと訊かれ、「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんではなしにほんたうのたった一人の神さまです。」「あゝ、そんなんではなしにたったひとりのほんたうの神さまです。」

③乗り合わせた姉弟とカンパネルラの会話の最中にジョバンニに訪れる感情

(どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこゝろもちをしづめるんだ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押へるやうにしてそっちの方を見ました。(あーほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに談してゐるし僕はほんたうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまた渦でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったやうにぼんやり白く見えるだけでした。

④乗り合わせた姉弟と付き添いの青年が下車したあと

 ジョバンニはあゝと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
「けれどもはんたうのさいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」
「あーきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむってゐるばかりどうしてもカムパネルラが云ったやうに思はれませんでした。何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見てゐましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむってゐたのでした。(筑摩文庫『宮沢賢治全集7』「銀河鉄道の夜」)

第三次異稿ではすこし違った物語になっている。

 「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。
「おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとこっちをごらん。」いままでたびたび聞えたあのやさしいセロのやうな声がジョバンこのうしろから聞えました。
 ジョバンニははっと思って涙をはらってそっちをふり向きました。さっきまでカムパネルラの座ってゐた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人がやさしくわらって大きな一冊の本をもってゐました。
「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あー、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこに行くがいゝ、そこでばかりおまへははんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
「あゝぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」
「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはたれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いゝかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年、だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときには斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
 そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしいんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとはりになりました。
「さあいゝか。だからおまへの実験はこのきれざれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。けれどももちろんそのときだけのでもいゝのだ。あゝごらん、あすこにプレシオスが見える。おまへはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。」
 そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝつて光りつゞけました。
「あーマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにはんたうのはんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしていけない。」あのセロのやうな声がしたと思ふとジョバンニはあの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘に立ってゐるのを見また遠くからあのプルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。
「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとはりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとはんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。(同前)

宮沢賢治は、ご飯を食べるとき飯粒ひとつひとつを、そんなに睨まないでねと言いながら、拝んで食べるような人ではなかったかと思う。万物を相犯さないとは賢治にとってそういうことだった。それはかれが万物に博愛の気持ちをもっていたこととはすこしちがう。かれがほんとうのほんとうの神という根源の一元にさわったリアルがまずはじめにあって、事後的に他について書いているのだと思う。他は文字通り他者であることも三人称であることもそのほかの有情であることもあった。元来自他の皮膜が薄かった賢治にとって三人称がつくりにくかったという天与の資質があったのかもしれぬ。
「銀河鉄道の夜」を読むと賢治にとってわたしたちがふつう神や仏と呼んでいる超越は通過点にすぎぬことがよくわかる。世界が暗く重くおぞましく変貌していくそのただなかで賢治はなにか苛烈な自然をつかんだのではないかと思う。それはどんな超越ともちがうものだった。その自然のことを賢治はほんとうのほんとうの神と言う。なぜほんとうのほんとうの神なのか。神という言葉では言いえないなにかであったからではないか。

引用①の「鳥を捕る人」は世間の象徴として書かれている。「鳥を捕る人」から「もらった雁の足」はおいしいけど、なにか空虚な感じがする。だからジョバンニは「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大変つらい。」とそっと言う。「鳥を捕る人」を民主主義を標榜する人と置きかえるとすごくわかりやすくなる。賢治のほんとうのほんとうはそんなところにはない。
引用②にふれる。銀河鉄道で乗り合わせた青年と少女はこれから天上に召されるとジョバンニに言う。ジョバンニは「天上へなんか行かなくていいじゃないか。そんなものはうその神さまぢゃないか。」と言い返す。ジョバンニはため息をつきたい気持ちになる。「あゝ、そんなんではなしにたったひとりのほんたうの神さまです。」
このくだりは仏はただ親鸞一人がためという息づかいとよく似ている。無意識に同一性の超越が超えられているとみなすことも可能だ。

引用③について。「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんではなしにほんたうのたった一人の神さまです。」といいながらジョバンニは「どうして僕はこんなにかなしいのだらう」と思い、かたわらのカムパネルラに「あーほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか」と問わず語りに語る。
引用④のこと。物語は山場を迎える。ジョバンニは「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。」と言い、「けれどもはんたうのさいはひは一体何だらう。」と問いかける。カムパネルラ「僕わからない。」と答える。
「あすこがほんたうの天上なんだ」とジョバンニが言うとき、それを内包自然のことだと理解するととてもわかりやすくなる。「ほんたうの天上」はカムパネルラぬきにはないものだ。カムパネルラとつながるから、「ほんたうの天上」という内包自然が可能となる。そういうことが引用④で書かれている。ジョバンニにとってカムパネルラと離接してもこの根源のつながりが消えることはない。
「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」とジョバンニが語りかけると、急転直下眠りから醒め、カムパネルラは消えている。

異稿では違ったことが物語られる。含蓄があるがとてもきわどいところだと思う。ブルカニロ博士はジョバンニに語りかける。「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」と。それぞれがじぶんの神がほんとうの神だと言いながら、違った神を信じる人たちのすることでも涙がこぼれるじゃないかとブルカニロ博士は言う。とても含みのある言い方だ。おそらく宮沢賢治はこのびみょうなあわいについてはよく知らなかったのではないかと思う。それはつぎの言い方から推測できる。「けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。」というところだ。意識の外延的な表現がこの箇所をどう理解するかはよくわかる。科学と宗教はほんとうの考えとうその考えを弁別できれば科学も宗教もおなじものになるという理解だ。とても平板で、概念が混乱している。わたしはこの理解はあきらかな虚偽であると思う。こんなことでは世界と戦えない。

もうすこし言いたい。科学は自然を対象とした同一性をよすがとする自己意識の外延的な表現であり、宗教は自己意識の内面化による自己の昇華をめざす信で結ばれた共同幻想である。信仰と科学が同じようになることがあるわけないではないか。科学でほんとうとうそをわけるというとき、科学は、科学という外延性の必然的な手法として自然過程的に進展する。どう考えても荒唐無稽なものではないか。科学と宗教の表現の仕方はちがうとしてもいずれにしても同一性を基盤として表現されている。表現の出処がおなじなら、外延自然の科学と宗教はあるいは歩みよることで科学も宗教もおなじものになるということが可能だろうか。わたしにはうつくしい妄想であるとしか思えない。

科学は同一性から派生しそこに信憑をおいている。科学は同一性の信を語ることしかできない。同一性から生まれた観念の自然過程については説明することも追証することもできる。だからブルカニロ博士が「紀元前二千二百年」と「紀元前一千年」では真理の概念が異なってくるということはそのとおりのことで異論はない。ただ語りえぬことは科学にいつも超越している。人間の精神現象という幹があって、自然科学はよく茂ったその枝葉であるとわたしは理解している。たとえば〔好き〕という人間に固有の思考はどんな説明をもってきてもそのことを絶えず逸脱する出来事である。それは人間にとっての先験的な真理である。宮沢賢治の希求するほんとうのほんとうと自然科学の論理は画然と次元を異にしている。生の奇妙さはそういうものではない。二次元世界の住人が三次元世界のありようを説くような奇怪さが、べらぼうなことが、言われている。賢治が生きた時代の精神がそういうものであったのかも知れぬ。

生きているということはつねに同一性の分別をはみだす驚異なのだ。わたしがここにあるということはどんな外延論理で説明することもできない。同一性は外延論理の枠内でだけ識別可能というにすぎないのだ。この錯認によって人類が滅亡の過程を歩んでいるという憔悴した理念を生んでいる。おおきな錯覚なのだ。国家も社会も貨幣も個人もこの囚われのうちにある。かんたんにいうと同一性という外延論理はこの世界では袋小路に入り込んでしまっている。いまわたしたちが目の当たりにしていることなのだ。

見田宗介はジョバンニとカムパネルラの関係について大胆なことを言う。

 このようにしてこの物語は、〈幻想の回路をとおしての自己転回〉の物語である。すなわちそれは上昇し/下降する物語であるばかりでなく、ひとつの転回の物語である。上昇し/下降する運動がそれじたいとして転回であるわけはないから、それがひとつの救済でありえたとすれば、じつはこの〈幻想〉の回路の内部で、すでに移行が-否定性から肯定性への転回が-あったからである。 そして転回とはいうまでもなく、ジョバンニがカムパネルラという具体的な〈対への愛〉を、獲得し、そして喪失するということをとおして、開かれた〈存在への愛〉に向って押し出されてしまったことにある。(『宮沢賢治』52p)

ジョバンニがカムパネルラに対の関係を意識したというのは、おおそうだ、と思った。見事な指摘だと思う。ジョバンニがカムパネルラにずっと一緒にいよう、どこまでも一緒に行こうというのは友情ということではない。見田宗介の言う〈対への愛〉なのだ。そして〈対への愛〉を、獲得し、そして喪失するということをとおして、開かれた〈存在への愛〉に向って押し出されてしまったという理解はまったくのはずれ。なんという凡庸な解釈。賢治の物語を通して見田宗介はじぶんの頭のなかをさらけだしている。この理解は通俗なのだ。「喪失」することで「開かれた〈存在への愛〉」へ押しだされるということは、石牟礼道子の自然との共鳴りや天皇制的心性に直通する。みなじぶんの観念を物語に投影する。それは「おまへの武器やあらゆるものは/おまへにくらくおそろしく/まことはたのしくあかるいのだ/《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けっしてひとりをいのつてはいけない》」という「青森挽歌」の「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けっしてひとりをいのつてはいけない」を誤読する。むろんその一端は賢治の心理にもあった。

すぐにふたつのことを思いだした。「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念佛まうしたること、いまださふらはず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。」(『歎異抄』)賢治の「みんなむかしからのきやうだい」も「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」も、賢治の「たったひとりのほんたうの神」も、親鸞の「仏はただ親鸞一人がためにある」もおなじことが言われている。どういうことなのか。先後はどうなっているのか。
わたしの理解では、とてもきわどいところだが、賢治にとって「たったひとりのほんたうの神」が可能だから「みんなむかしからのきやうだい」ということが、親鸞の言う「仏はただ親鸞一人がためにある」から「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」となるのだ。
ユングも似たことを言う。「自己とは何か、もっと具体的に見えるもので、なになのか言って欲しい」と訊かれたユングは「ここにおられるすべての皆さんが、私の自己です」と答えた。ユングの答えは元型(集合的無意識)の簡潔な説明だが、べつにこの国に特有の心性でもないことがわかる。自己という回収不能の否定性を自然に融即することで回復するという心性のことだ。過剰な自我を飼い馴らす自然生成がここにある。
パリの同時テロで競技場から観客が待避するとき卒然とラ・マルセイエーズを唱和したというのはその典型である。あるいは南京事件で殺戮のかぎりをつくした皇軍が皇居を遙拝し鬨の声をあげたということもそうだ。静謐な自然生成もあればおぞましい自然生成もある。

たったひとりのほんたうの神や、ほんとうの幸いや、いつも、どこまでも一緒や、まことはたのしくあかるいがどういうことであるかを意識の外延が明示することはできない。なぜならば自己意識にとってそれらがつねに意識にとって超越するものとしてあるからなのだ。かろうじて自己に先立つ根源とのつながりということしかできない。
自己に先立つ根源とのつながりは、そこからきてそこへ還るものとしては、それが自己でも共同性でもないとしたら、〔性〕を想定するしかない。根源の性はそういうこととしても言い得る。だから「たったひとり」であり「いちにんがため」なのだ。この根源が可能だからはじめて〔自己〕があらわれ、しかるのちに三人称が現象するのである。〔自己〕がまったき受動性であるとあるということはそういうことだ。この受動性のことを親鸞は他力と言った。もし「たったひとり」を名づけるとしたらそれは神や仏ではなく自己に先立つ根源の性の分有者の核でひっそりと熱く息づく還相の性というほかないのではないか。もう一度わたしがたどりついた言葉をくり返す。

「根源の性の分有者が還相の性として可能となるとき、外延的な表現意識の三人称は、内包的な表現意識では、主観的な意識の襞にある信ではなく、信の共同性でもなく、還相の性との関係において、喩として、あたかも親族のようなものとして内包的に表現されることになる。存在がそれ自体に重なるここで親鸞の他力も消える。そしてここにヴェイユが渇望した世界がある。」

このとき賢治の「みんなむかしからのきやうだい」と親鸞の「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」は天然の親族ではなく内包的にあたかも喩としての親族として表現されることになる。それが宮沢賢治や親鸞が言おうとしたことなのだ。わたしの考えたことを親鸞や賢治にこそっと耳打ちしたい。きっとよろこぶと思う。内包的な表現としての〔世界〕は〔詩〕でできている。そのことを可能とする原力が還相の性だと思う。これからも未知の領野にむかって突き進んでいく。

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