日々愚案

歩く浄土60:内包親族論4-天皇の赤子と喩としての内包的な関係

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ヴェイユの「人格の表出にすぎない」という言葉をもう一度考えてみる。あらためて驚倒したからだ。ヴェイユはけっして思いつきでこの語を使っているのではない。ヴェイユの人格と無人格的なものは、おおまかにはわたしの外延と内包に対応しているとみていい。この気づきにあらためて驚いている。

人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない」(『ロンドン論集と最後の手紙』「人格と聖なるもの」杉山毅訳)

何度も何度も引用し、感想を記してきたが、うかつだった。読んでいて字面だけを追い、読めていないことがあった。たしかに読んではいた。それはヴェイユが科学、芸術、文学、哲学を人格の表出の形式にすぎないと言い切っているところだ。それが人間のおおいなる事績であることは認めても、人格の表出にすぎないというわけだ。すごいことが言われている。そして「この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない」という。
内包論からここを読み解く。
ヴェイユが人格の表出にすぎないある領域というとき、わたしの言葉で言えば、それは自己意識の外延表現と対応していている。ヴェイユは人格の底にある無人格的なものを聖なるものと名づけ、それは匿名の領域にひらかれているという。わたしはこの領域のことを内包自然と名づけてきた。その内包自然のありようを内包論であきらかにしつつあるところだ。この匿名の領域を内包的に表現するとヴェイユの先まで行くことができる。

数学の本質は情緒であるとし、その情緒を数学の形式で表現しようと苦闘した岡潔はシモーヌ・ヴェイユより少し年長であるが、時代の人であるということでは同世代と考えてよい。岡潔とヴェイユの兄のアンドレとの交友はよく知られている。
岡潔は人間には心がふたつあると考えた。それがかれの情緒である。この直覚を数学で表現することは途方もなく困難だった。かれはこの未知の世界を解明しようと果敢に挑戦した。それはヘーゲルが晩年ギリシャ以前の文献を渉猟してはじまりの不明を解明しようとしたことに似ている。自己意識の無限性は内包のきりのなさの同一性への表現であると考えればよかったのだが、ヘーゲルもまた自己意識の外延表現を手放すことはなかった。存在しないことの不可能性として存在する内包存在を外延表現で表現することは原理的にできないのだ。それは「この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域」として存在するからだ。私はこの領域を表現するには数学の形式は枠組みが狭すぎると思う。
ヘーゲルはナポレオンを見て世界精神が体現されたと見た。それがヘーゲルの世界を意識の劇とする世界認識の方法だった。しかしこの精神現象学はかならず「はじまりの不明」を遺してしまう。知るところによるとかれはこの「はじまりの不明」を関係が表現であることで解こうとしたらしい。表現を「倫理的活動の核」にあるものに結びつけて見るべきかもしれぬという謎のような言葉を遺して斃れたフーコーもおそらくここにいた。あと一歩だった。

岡潔は人格の表出にすぎぬ数学の形式を超えようと意欲した。かれの愛好する東洋的な知や自然への融即をなんとか表現したかった。知性や理性でここを解き明かすことはできないという直覚が岡潔を襲ったのだ。人には心がふたつあることを直感し、そのことを数学でつかもうとした。

岡潔は言った。

人には心が二つある。大脳生理学とか、それから心理学とかが対象としている心を第1の心と呼ぶことにします。この心は大脳前頭葉に宿っている。この心は私と云うものを入れなければ動かない。その有様は、私は愛する、私は憎む、私はうれしい、私は悲しい、私は意欲する、それともう一つ私は理性する。この理性と云う知力は自から輝いている知力ではなくて、私は理性する、つまり人がボタンを押さなければその人に向って輝かない知力です。だから私は理性するとなる。これ非常に大事なことです。それからこの心のわかり方は必ず意識を通す。

ところが人には第2の心があります。この心は大脳頭頂葉に宿っている。さっきも宿っていると云いましたが、宿っていると云うと中心がそこにあると云う意味です。この心は無私です。無私とはどう云う意味かと云いますと、私と云うものを入れなくても働く。又私と云うものを押し込もうと思っても入らない。それが無私。それからこの心のわかり方は意識を通さない。直下にわかる。東洋人はほのかにではあるが、この第2の心のあることを知っています。(「一滴の涙」1970年5月1日 於:市民大学仙台校)

「私は私である」という理性や知性の形式をかれは包越したかった。それがかれにとっての日中-太平戦争だっとわたしは理解している。かれにとって数学はそういうものとしてあったとわたしは理解している。

心の最も基本的な働きは、2つの心が融合することが出来ることである。人の中心は心だから、心が合一すると、その度合いに応じて人の心がわかる。また、自然の中心も心だから、それと合一すると、その程度に応じて、自然というものがわかる。総て本当にわかるのは、腑に落ちるというふうなはっきりしたわかり方は、心が合一することによって達せられる。心の中心には時間も空間も無い。時間、空間を超越している。(「2つの心」)
われわれの自然科学ですが、人は、素朴な心に自然はほんとうにあると思っていますが、ほんとうは自然があるかどうかはわからない。自然があるということを証明するのは、現在理性の世界といわれている範疇ではできないのです。

 自然があるということだけでなく、数というものがあるということを、知性の世界だけでは証明できないのです。数学は知性の世界だけに存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ごく近ごろわかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。

 数学は知性の世界だけに存在しえないということが、4千年以上も数学をしてきて、人ははじめてわかったのです。数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。ところが感情を入れたら、学問の独立はありえませんから、少くとも数学だけは成立するといえたらと思いますが、それも言えないのです。(「新潮」1965年10月号)

理性や知性や感情のことを岡潔は第一の心といい、それを包越する心を第二の心と言っている。実体化すると東洋的無とでも言いたくなるところだが凡庸すぎる。かれはよく日本民族の心性であるとか東洋の優位を言葉として語っているが、そこに岡潔の本意があるわけではない。岡潔がやろうとしたことを愛国主義の壮士きどりだとくさして済むことではない。それらはわかりやすさにある岡潔の虚偽意識にすぎぬ。
ふたつの心は不一不二(不可分・不可同)だと岡潔はいうのだが、この思念の不備についてはここでは触れない。この直覚だけでは覚者の他に仏なしという禅仏教までしか行けないのだ。同一性の彼方を数学の形式で表現しようとした岡潔の心意気はあっぱれだったと思う。わたしは親鸞の悪人正機を数学の形式で表現することはできないし、言葉による思想としてしか同一性の彼方は表現できないと考えている。
それはともかく寝ても覚めても夢の中でも、明けても暮れても、毎日毎日、何年も何年も情緒を数学で表現しようと悪戦苦闘した。もちろんわたしは三人称のない世界を模索してどうどうめぐりをやったじぶんの悪戦を岡潔の悶絶に重ねている。だれがどうやろうと途方もなく困難である。
1を知ったつもりにすると数学は成り立つが、なぜ1は1であるかに数学は応えるすべをもたない。理性や知性を超えた情緒を岡潔は数学として表現しようとした。それは「問題F」、つまり「内分岐領域」という境界問題の困難としてあらわれた。欧米人が理性や知性を呼ぶ形式をかれはなんとしてでも超えたかったのだ。かれにとっては数学は情緒という芸術の分野だったからだ。詩人岡潔はその解明をめざした。その思索の軌跡を『岡潔』(高瀬正仁)から少しだけ拾ってみる。

 境界問題はきっと解ける(確信のような気持)。(昭和23年12月24日)
 境界問題は可能性があると云うにすぎぬ。……色々問題があるが途もあるだろう。要は境界問題は可能性をもつ。(12月25日)

 問題Fは矢張り大変な問題である。(12月31日)
 問題F あまりはっきりしない。矢張りよく分らない。……矢張りこれでよいであろう。(昭和24年15日。この日は大雪になった。)

 問題F-これではまだ芽生えたと云い切れないだろう。
 駄目だと思って居た方法から矛盾がとれて、それが蘇った。そしてそれが唯一の方法である、と云うのが現状である。まだまだ幾多の問題がある。《方法が芽生えた》と云うのがあたる。問題Fが芽生えたと云えないとするとこれは何をしたことになるか。
 問題Fが心情的に芽生えたのである。慥(たしか)めてはいないのである。之は一九四六年の夏一度。之で二度。問題Fはまだまだいくども取り扱わなければならないだろう。すべてあとに になってみなければはっきりは云えない。
 つまり一 間題Fはまだ数学的識域までは芽生えていないのである。二 然し識域下で
は芽生えているようにも思えるのである。(昭和24年4月27日)

 問題Fを問題のまま残してかいても相当面白い。つまり、そうして(今はそれよりないのだが)書いて見ようと云う気拝が大分動きかけている。問題Fは、こうして行けば出来そうな気がする(他に方法が、絶対にないように思われること)。(6月18日)
 ひと月余り問題F(と天候)とでくさってしまった。今日はまだ曇ってはいるが大分爽やかな天気になっている。大阪へ行って、これも一月ぶりにコーヒーを買って来る。……帰ってからコーヒーを入れる。
 問題F これはあとまわしにすべきである。私は今まで十中八、九は出来ないが、一、二可能性があると云うようなものでなければ真の問題と看倣さないやり方でやって来たが、そればかりではいけない。(7月8日)

 問題Fは矢張り解けそうもない。
 問題F-これは私にとって何か。研究自身には、全体として左程ではないかも知れない。然しこんなむつかしい問題を知らない-手も足も出ないのである。(7月14日)
 問題Fはとうとう解けなかった。約八ケ月である。他のものに力を入れよう。しかも得
た所は殆んどない。
 問題Fはとけない。できないものにあまりこだわっていることは決して感心しない。既
に思想は枯渇している。問題Fは徹底的に出来ない。研究方針が間違っているのだろうか。何か見落してるのだろうか。
 かようにして私は遂に一つの問題を得たのである。問題F。其の本質的な部分は私には
永遠の問題かも知れない。(7月15日)

高瀬正仁は『岡潔』で書いている。

戦後もまだ間もないころの出来事だが、遺された記録に沿ってこの時期の岡潔の数学研究の様相を観察すると、目につくのは「境界問題」ばかりというありさまであった。岡潔は多変数函数論の未解決の難問を相次いで解決したことで知られるが、近代数学史に刻まれた偉大な発見の物語の魅力とは別に、岡潔が心に措いた研究構想の大きな部分が、具体的な衣裳をまとうことなく消失したこともまた事実である。

「函数の融合法」を発見したのは昭和一五年の蛍のころであった。その翌年の昭和一六年を内分岐領域の理論に向かう一連の思索の第一年と見ると、昭和三六年は二〇年目にあたるが、この年、岡潔は満六〇歳。・・・実らなかった思索もまた深々とした魅力をたたえている。優劣はつけがたいが、未完成に終った思索は底が見えないだけにかえって深遠で、印象はいっそう神秘的である。昭和二六年の秋口からしばらくの間、境界問題から離れ、「展開の問題」の研究に打ち込んだものの、翌昭和二七年の夏あたりから、岡潔の心はまたも境界問題へと引き寄せられていった。

 岡潔の連作「多変数解析函数について」は昭和三七年の第一〇番目の論文を最後に途絶えたが、数学研究はなお継続し、昭和四一年の年末に及んだ。数学の理想を迫って心情の世界で繰り広げられた思索の数々は、結実して大掛かりな数学的発見の衣裳をまとって現れることもあれば、境界問題、内分岐領域の理論、代数函数論のように、ついに日の目を見ることなく立ち消えてしまうこともあった。

第一〇論文(一九六二年)の冒頭ではこの心情を数学の世界全般に広げ、今日の数学を冬景色になぞらえて慨嘆したが、この間題が数学者と数学史家の間で論じられたことはない。

ヴェイユは人格の表出を匿名の領域で拡張しようとし、その途上で斃れ、岡潔は生涯かれが直覚した情緒を数学で表現しようとした。
わたしが岡潔に愛着を感じるのは、かれが解けない主題を解けない方法によって解こうとした持続力の真情であったような気がする。ふたつの心は数学では解けぬし、また解く必要もないものであるように思う。〔わたし〕という現象は内包のきりのなさのひとつのあらわれであり、岡潔の言うようにそれが芸術のひとつの表現である情緒だとして、ことさら数学の形式でいうことはないからだ。前提となる数学そのものの表現形式を拡張することなくそれが可能となることはない。内面化することも共同化することもできないこの領域は、存在しないことの不可能性として存在する。

    2
喩としての人間の新しい関係、内包親族論をすすめるにあたって避けて通れない状況的な課題がある。それはこの国に特有の同調圧力の特異さというものだ。謂わば自然となった日本人の心性を象徴天皇制と呼んでみたい。

土台から崩壊した民主主義をコールすることは鵺のような全体主義(辺見庸)であり、ぼうふらの群体(辺見庸)である。民主主義と全体主義がなんら矛盾しない新しい戦後をわたしたちは生きている。わたしの日々の実感はそこにある。それはなにに由来するのか。安倍政権を打倒して連合政府をつくることでいくらかでも日々がよいものになるか。なにも変わらない。
どの政党が政権を担おうと流動化する国際情勢の中で戦争法案が廃止されることはない。テロリストは悪であり、それを駆逐する勢力が善であるこの世界では、プーチンも習近平もオバマもわが安倍晋三もともに悪を撲滅する戦友である。
TPPによってこの国の金融資産は米国を中心とするグローバル企業に収奪され、経営効率をよくするために大半のサラリーマンは非正規雇用され、残業代はゼロとなる。戦前は現人神が国体であり、いまは米国の国家意志が国体である。なぜこうなったのか。
わたしは外延表現が頭打ちしていることに由来していると思う。なんの未知もない民主主義のコールは、日本的な自然生成に身を委ね、そこに回帰するしか術がない。それがいま起きていることだ。

イデオロギーとして天皇制をあつかうことは不毛であるが、なし崩しにいつのまにかこうなってしまうという奇妙さの中心に自然生成を旨とする天皇制的心性があると思う。日中-太平洋戦争を回想して小林秀雄がいったことは的の中心を射貫いている。「この大戦争は一部の人たちの無智と野心から起ったか。それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観はもてないよ。僕は歴史の必然というものをもっと恐しいものと考えている」。天皇制を論じた書物は多くあるが、だれの、どんな本を読んでも腑に落ちることがなかった。なぜそうなったのかということが後知恵としてしか言われていない気がしたのである。安倍晋三らによって日本が戦前回帰し天皇制絶対ファシズムがくり返されると言いたいのではない。そういった求心力を天皇制が持ちえないことは自明である。ただ外延表現としては歴史の必然であったと、いま、思う。どうであれ日本人は戦争を選んだのだ。
自然へ融即することを是とする日本的な自然生成の象徴として天皇制があるのであって、その自然感性はいまもわたしたちに深く根づいている。それはけっしてイデオロギーではない。もちろん共同幻想の遺制でありローカルなものにすぎぬが、この島嶼の国の自然な感性がグローバリゼーションの後押しをしているのではないかとわたしは思っている。喩としていえば民主主義的天皇制と読んでいいのかもしれない。

いま世界で最も強力な浸透力を持っているのは電脳社会を中核としたグローバル経済である。民主主義という自力作善をいかに行使してもがまったく歯が立たない。そんなものは刺身のつまにしかならぬ。そのことはよくよく承知しているが、ローカルなこの国特有の心性がグローバリゼーションの猛威を受け入れやすくしているのではないか。もういまさらなにを言っても、成るように成るしかないのだ、と。この変容は極めて自然な過程のように思える。それがこの国に根づいた自然性なのだ。戦前も戦中も戦後も、いまもこれからも変わらない。自己意識の主観的な襞のうちに生の根拠をおくかぎり、それは変わりようがないのだ。

この国はなぜここまでなし崩しにグローバリズムに呑み込まれてしまうのか。電脳社会がハイテクノロジーに、その中心にITという、イデオロギーとは違う善でもなく悪でもない技術が位置しているからなのだが、それだけではないという気がする。ローカルなものであってもこの国特有の観念の慣性というものがあると思う。それが天皇制という自然だ。ここを内包論から〔喩〕として語る。

わたしはいまこの国にはふたつの力が作用しているとみている。ひとつはグローバリゼーションによる社会革命の圧力であり、それは抗しがたい不可避のものとしてわたしたちの日々に現前している。もうひとつはわが国に固有の自壊をうながす同調圧力である。この根は深い。この国の自然生成がグローバリズムによる社会の変成を天変地異のようなものとして受容し後押ししている。わたしはそう判断している。このふたつの力は民主主義のコールと安倍による悪政の軋轢として現象しているが、わたしはどちらも擬制であると思っている。わたしの言いたいことは簡単である。対立しているように見えて、底流ではふたつの理念は底では同期している。そこに自然に回帰するこの国の恐ろしさと無分別がある。対立そのものが擬制なのだ。

天皇制については戦後さまざまに論究されてきた。それでも天皇制の謎が解けたとは思えない。なぜか。自己意識の外延的な表現の範型では謎に触れることも解くこともできないからだ。鴨長明の方丈記にある「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし」というようなものとして天皇制的な心性はあったし、いまもありつづけている。この心性が島嶼に棲まう人びとはけっこう好きなのだ。 ここには一切の人為を無に帰す情感が生きている。この心性が地上に於いて顕現するものが無条件降伏以前のこの国の国体であり、天皇だった。
船戸与一や宮沢賢治を読み進めていて気持ちが重いこともある。世界恐慌から満州事変を経て、日中-太平洋戦争へと時代は雪崩をうって突き進んだ。この破局の謎は解けていない。そしてその中心にいつも天皇が位置していた。天皇制に収斂するファシズムが到来するとたわけたことを言いたいのではない。それはすでに滅び、」過ぎたことだ。それが再帰することはない。それでもそれでも天皇制の心性が民主主義のコールのなかに、この国の紐帯として引き継がれたとわたしは感じている。新しい戦後はそういうものとしてわたしたちに到来した。

朕は国家であることを体現した昭和天皇が、玉音放送で、朕は腹を切ってもう死んでおるが、汝ら臣民よ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、よく祖国を復興せよ、と呼びかけていたら、何かが違っていたかもしれない。日本社会のこの劣化の凄まじさは根っこに戦争責任が不問に付されたということからきているのではないか。事態を、唯々諾々、従容として天変地異のように受容する心性は生き延びているとわたしは思う。太平洋戦争の開戦と無条件降伏受諾の最高責任者は天皇である。天皇を補弼した臣民は首吊りになり、頭目は無罪赦免だ。お母さん、お父さん、お国のために死んで参ります、と兵隊は死に、国体である昭和天皇は、人間となり国民(臣民)に車中から手を振り、あっ、そう、と言いながら戦後をのうのうと生き、おめおめと生き恥をさらした、だれもこのことを言わない。わたしは日本的な自然生成(成るように成る)のなかにタブーがあると思う。そうでないと内田樹らの奇怪な言説の説明がつかぬ。読者よ、わたしのもの言いが喩として語られていることに留意せられよ。
こう書きながら書くことが矛盾していることに気がつく。国家である朕が自決することは理念としてありえないのだ。朕が国家であると言うとき朕と国家は同期しているのだから。国家が自裁するこということは国家の死である。われら一億が総玉砕しても陛下一人をお守りするというのはその時代の心性としていえばなんら矛盾なく一貫した論理である。頭もなければ身体もないのっぺらぼうになった共同幻想の極致である。朕という親がなければ民草もない。親がいれば臣民である子は再生される。それが天皇の赤子万民平等という空虚である。どれだけ空無であるとしても理念としては成り立つ。もちろんイデオロギーでは歯が立たぬ。
ストレスが過剰に負荷されると生命体は生命の恒常性を維持しようと原核細胞に先祖返りする。それがガンとして現象する。おなじようにグローバリゼーションという謂わば天変地異のような猛威に晒されて人びとは身をかがめて事態をやりすごそうとする。精神の古代形象への先祖返り。それが民主主義的天皇制だ。
天皇制のメリットや政治的意味を推奨する内田樹らの発言は極めて巧妙で政治的である。民主主義をコールする内田樹や高橋源一郎は言う。

内田 「現実とは金のことである」っていうイデオロギーからいいかげん脱却しなきやダメだよ。そのイデオロギーがこんな事態を生み出したんだから。
高橋 だから、天皇親政だ(笑)。
内田 そう、これはある種の対抗命題としてさ、みんなで考えてほしいと思う。だって、天皇制の意義を正面から議論することって、ほんとにないじゃない? そういうシステムを持たない国と日本を比べたときの日本の優位性はどこにあるのかを考えたときに、はじめて天皇制のメリットは見えてくると思うんだ。今のこの日本で「現実主義とは金の話のことだ」というイデオロギーに「それは違います」って言えるのは天皇だけだよ。
高橋 天皇だけはね。
内田 ねえ? こうして現に、批評的に生き生きと機能してるわけだし。
高橋 そうなんだよ。でも、天皇制はそうだったんだよね、実は。この2000年間ずっと存在していて。
内田 で、500年に1回ぐらい「いざ!」って出番がある。
高橋 そう。国難のときになると、「出番ですね」ってさ。そういうシステムだったんだ。
内田 戦後66年経って、天皇制の政治的な意味を、これまでの右左の因習的な枠組みから離れて、自由な言葉づかいで考察するとしたら、今だよね。(『SIGHT』「総論対談」内田樹vs高橋源一郎 2011 AUTUMN)

グロテスクで緊張感のない文章だが、内田樹の「天皇制のメリット」について語ったところは統帥権を干犯しまくった関東軍の高級参謀みたいで怖気を振るう。朕は国家なりと錯覚しやりたい放題やりまくった安倍晋三の憲法の干犯とよく似ている。内田樹のこの発言は不遜な発言で、これほどひとは傲慢なれるのかと、とても嫌な気分になったことを憶えている。内田樹は金まみれの現実を俯瞰し、天皇制にもメリットがあると主張することで天皇よりみずからを上位においている。天皇制を逆手にとって使いまわせばいいのだとかれは主張する。民主主義のコールも天皇制のメリットも、所与のものを使いまわすというかれのおぞましい機能主義がここにある。
内田樹はこのとき天皇制を俯瞰できる、より上位にみずからが位置している。かれのちゃらちゃらしたしゃべりのなかにある政治性と権力性。6月13日のツイートで言う。「僕はかつて法学部出て検察官か警察官になることを考えていましたが、ほんとうに向いているんですよね、そういう仕事が。反政府的な人間を説得してころんと転向させる方法なんか無数に思いつきますから」。すごいなあ。「天皇制のメリット」についての語り口と「反政府的な人間を説得してころんと転向させる方法なんか無数に思い」つくという発言は権力の言説である。
不思議なことに内田樹の手にかかると、レヴィナスの苦悩は人生訓と処世術となる。なぜかというとかれが機能主義的な人だからだ。わたしは今週秋の内閣改造人事で安倍晋三が内田樹を民間大臣として入閣させればよかったのにと思った。あんがい喜んで、要は民主主義の使い回しなんですからと、応じていたのではないかと思う。

天皇制のすごさは、朕は国家なりという天皇に、赤子として、個人や家族が同期するしくみを自然な生成としてつくりえていることだと思う。世界恐慌から追い詰められて建前の五族共和を唱和しながら満州国を建国し、日中戦争に突入した経緯は、小林秀雄の「必然というものにたいする人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人たちの無智と野心から起ったか。それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観はもてないよ」という発言に生々しさがあると思う。いったん暴れ始めた共同幻想は行きつくところまで、無条件降伏という敗残まで行きついて始めて熄む。それが共同幻想の怖さだ。内部の自己の心性と共同幻想の大義は絶対の矛盾を起こしているのに、その矛盾をなめらかなものに転化させ、私性の苦悩を救抜する統治のしくみが天皇制なのだと思う。世界の無言の条理に末端がひらかれたひとびとの生を哀悼するもっともすぐれた統治のしくみだと思う。だからこそ歴史の必然は怖いのである。

国家は共同の幻想であると吉本隆明は言い、国家と秩序の間の和解は永遠に夢であるとフーコーは語った。どこに抜け道があるのか。わたしたちは思考の限界にぶちあたっているのだろうか。わたしは天皇制を遙かなる東洋の叡智とすることも、民主主義をコールすることも共に擬制であると思う。ただ自己意識の外延表現の途につくかぎり、だれがどのような理念を担いでも、思考の臨界を突き破ることはない。それだけはたしかなことだと思う。思想はここを貫通し、やわらかい未知を手にすることができるのか。できると思うからこそ内包論をつづけている。

もう少し天皇制の謎をつづける。考えを詰めていくとわたしたちのつくってきた文明や歴史は心身一如の存在了解から派生したというところにたどりつく。そこから内分岐した精神の古代形象のひとつとして天皇制があるのだとわたしは考えるようになった。天皇制的心性もまた存在了解の初期不全が巻き取った悠遠の時間が重畳された遺制として残存している。フーコーにしても吉本隆明にしてもここまで考えることはなかった。それがどういうことであるのか喩として語る。
水中を潜水していて呼吸が苦しくなり、これ以上我慢すると窒息死するという事態を想定してみる。あえぎながら空気を求めて水上に出ようともがき、ぐあっと空気を胸一杯吸い込み生き返る。息がつまって窒息寸前であるとき、空気を求めることに是非はない。そのときただ空気だけが生存を維持できるからだ。生存が切迫したとき、外延表現が名づけるさまざまなイデオロギーがあえぎながら吸い込んだ空気に比喩される。そうするしかひとは生き延びることができない。だれのどんな生も、世界の無言の条理という無底と日々を穏やかにすごすという幅として日々はある。だれもこの生のありようからまぬがれることはない。

わたしはいまじぶんのことを、わたしを貫通した生存感覚を語っている。重いぞ、ここは。ずっしり軽いぞ、ここは。わたしの修羅と、地獄の底板を踏み抜いた体験のすべてが、ここにある。世界の無言の条理が深々と口を開けている。わけもわからずわたしはわたしの主観的な意識の襞に訪れたなにかにうながされてわたしの生存を賭けて苛烈な行動を敢行した。親鸞はそのときどうするかは面々の計らいだと言った。留保なく諒解する。そのとおりのことだ。生存が危急存亡にさらされたとき、ヒットラーの独裁も、スターリンの専制も、毛沢東の専制も、天皇制という専制も、ひとはやすやすと受容する。外延的な生存からするそれは不可避である。ヒットラーやスターリンや毛沢東や天皇制というイデオロギーを詮索してもうるものはない。そんなものはすぐに忘れられすぎていく。身が心を、心が身をかぎるそのありようを拡張しないかぎり、厄災も倒錯に満ちた奇怪さもくり返されることになる。なぜならば、もともと自己は空っぽだからだ。迷妄であれ錯誤であれ自己幻想は共同幻想に同期するようにしかできていないのだ。だからそこにはどんなものでも入りこむ。かろうじて根源とのつながりにおいて自己が自己でありうる。

自然への融即を可能とするこの国特有の紐帯である天皇制的なものを縁(よすが)としながら、他国を侵略して無道と非道のかぎりを尽くすことができたのだ。ひずんだものであれ主観的な意識の襞にあってはやむをえない善の遂行として生は感受される。それがいままでのところわたしたちがつくりえた歴史であり思想である。自己意識の外延表現の途に就くかぎりだれもこのくびきから逃れることはできない。わたしたちの生存は身が心をかぎり、心が身をかぎるその生存のありようによってみずから自己を閉じている。だから人格の表出にすぎない自力作善を唱和し、小さな善を積み増すことでこの世のしくみをかえることはできない。民主主義は擬制である。やがてグローバルな権力によって良心的な人びとが愛好する民主主義は再編成されることになるだろう。わたしたちの民主主義的天皇制は心身の一片に至るまで商品として収奪され、さらに生を貧血させて、そこに身の丈を合わせて行くに違いない。それは自己意識の外延表現として不可避である。

ふと目にした片山恭一さんのツイートがロックンロールする。「ダニー・ボイル好きの息子に付き合って、久しぶりに『トレインスポッティング』を観る。エジンバラのチンピラたち。酒とドラッグにまみれ、平気で友だちを裏切る。彼らの唯一の美質は甘えがないところだ。社会や政治には何も期待していない。民主主義など失業保険をせしめる口実としか思っていない」(10月8日)「老いも若きも、多くの日本人が政治にまだ何かを期待している。政治が変われば社会も良くなると思っている。政治は何百年経っても政治だし、社会の仕組みは永久不変に強い者によってつくられる。エジンバラのチンピラよりも甘ちゃんなのだ、ぼくたちは。この甘さが、安倍みたいなのをのさばらせている」(10月8日)読んですっきりいい気持ち。

    3
ひょんなことからひょんな記事を見つけた。いいんだなこれが。吉本ばななさんの「いつのまにか-1」を貼りつける。

 その日、私は那須に行って、夫の実家で過ごしていた。
 お母さんは亡くなっていて、お父さんがワイルドこの上ない一人暮らしをしている。

 実を言うと私は入籍していない。
 うちの両親はかけおち婚だった。母の前のだんなさんがなかなか籍を抜いてくれず、そのことで母方のおばあちゃんが長い間結婚に反対していたりして、小さい頃から「入籍」にものすごいネガティブな気持ちがあるのが理由のひとつ。私が昔、結婚したいと言いだしたとき、両親が口をそろえて「いいけど、入籍だけはやめておきなさい」と言ったので「いったいなんなんだ? この親たち」と思った。
 もうひとつは、父の仕事のことでいつもうちには恐ろしい人たちが押し寄せてきたり、ドスのきいた声での電話が常にかかってきていたので、私の中には「ものを書く人は親戚を増やさない方がいい」という強迫観念がある。自分の子どもとパートナーくらいは巻き込んでもしかたないが、籍を入れた先の親戚までいやな思いをしかねない。それを思うと自由に書けなくなるから負担だ。小説家とはとても孤独な職業なのだ。

 夫のお父さんはもちろん入籍しないことをあまり心良く思っていなかったと思うが、私たちに子どもが生まれたり、いっしょに温泉に行っているうちに慣れたみたいで、今は「まあいいか」という雰囲気になっている。
 初めは私も気を遣って掃除を手伝ったりしていたのだが、そのやもめ天国のすばらしさに飲み込まれてしまって、最近では行くといきなり床に寝転んでほんとうに寝たりしている。お父さんはしかたなく私に毛布をかけてくれる。その毛布が喘息レベルにほこりっぼくても、なんだかすごく幸せなのだ。
 やもめライフはものすごくクリエイティブで、目からうろこが落ちるような発見に満ち満ちている。
 その日は、庭に通じる増設された書庫が新たに全部ごみ捨て場になっていた。そこをごみ箱だと思うと楽だ、というのがお父さんの意見だった。
 神棚には火事で焼け残った真っ黒いウルトラマンがすっくと立っている。
 冷蔵庫はいっぱいになると増設される決まりらしく、五台くらいある。
 ごきぶりをおびきよせてはバーナーで焼く巨大なシステムがあったが、あまりにも見た目が不評だったことからさすがに撤去されていた。
 昔はそのやもめの城から繰り出される賞味期限が謎な食べ物を拒んでいたが、最近は慣れて喜んで食べさせてもらっている。お母さんが生きていた頃からのすき焼き鍋に庭でできた野菜をどんどん入れて、みんなですき焼きを食べた。ピーマンとなすとキャベツとにんじんがたっぷりで、これはほとんど野菜の煮込みだね、と笑い合いながら。
 お母さんのお仏壇には、ジャムのついたトーストとヨーグルトがちんまり乗っていたので、ちょっと泣けた。いっしょに朝ごはんを食べているんだね。
 そんな私たちは入籍よりもずっと強い気持ちで結ばれていると思う。(『毎日新聞』「毎日っていいな」吉本ばなな 2015年10月4日)

どこにも出口はないように日々は切迫し、グローバルな経済が一人勝ち誇り、民主主義のコールにたいして勇ましい声があがる。そういう日々にあってこの記事にすこしハッとした。入籍をすすめないなんて面白い親御さんだなと思う。それがあの吉本隆明さん。そういうことが言っていたとは知らなかった。
老夫婦が食べるものがなくてともに餓死したと昔新聞記事で読んだことがある。この出来事にたいして吉本さんは理想的な死に方でうらやましいと書いていた。新聞では記事を読んだ人の慰みになるように近親や福祉の問題として取りあげられた。公的には言いにくい、税金は払わないのが正しいのです、ともかつて吉本さんは書いていた。とてもすっきりしている。「入籍だけはやめておきなさい」とは親はふつうは言わないなあ。市民主義を嫌悪する人だった。小さな善の積み増しを推奨することなどかれにとっては死ぬほど恥ずかしいことだったと思う。ばななさんの記事を〔喩〕として読んでみる。根源の性の分有者という内包自然がいつのまにか同一性にからみとられ、自己と一人の他者が対の世界をつくり、家族と親族の連綿とした歴史が外延的に象られてきた。外延表現としての歴史とはそういうものである。「入籍よりもずっと強い気持ちで結ばれている」というのは内包的だなあ、と思った。

わたしは対幻想という観念の枠組みが狭くて窮屈だったので、自己に先立つ根源のつながりを根源の性と名づけ、この根源の性を分有すると、〔わたし〕は〔わたし〕でありながら〔わたし〕は〔あなた〕である分有者としてあらわれることに気づいた。このとき〔わたし〕は外延論の一人称と二人称をあわせもつ領域として自己は現象する。内包論の根源の性の分有者は外延論の世界では自己という領域として生きられることになる。この性の知覚の場所に未知の見果てぬ豊穣な夢が解読をまっている。それは目には見えぬが、存在しないことの不可能性として存在する。けっして内面化することも共同化することもできない、それ自体として内包自然というものとして。

もうすぐルーリードが死んで2年になる。ユチュブでむかしよく聴いたルーリードの動画をみていたらふいにローリー・アンダーソンの追悼文を思いだした。ネットの記事で探し出したので貼りつける。他界してすぐ読み印象深かったが、読み返してやっぱりよかった。ローリー・アンダーソンもよく聴いていたので、二人が仲良くなるのは意外だった。

ローリーがルーに初めて会ったのは1992年にドイツのミュンヘンで開催された音楽フェスティヴァルで共演した時で、このフェスの企画で出演者同士での共演を行うように要請された際、ローリーはルーに声をかけられ、自分のバンド演奏に合わせてなにか朗読してほしいとリクエストを受け、これがきっかけとなってまずは知り合いになったと語っている。

もともと前衛パフォーマンス・アーティストとして知られていて、ロックには疎かったローリーは、ずっとヴェルヴェット・アンダーグラウンドはイギリスのバンドだと思い込んでいたので、ルーの言葉にイギリス訛りがないのが変だなと最初は思っていたという。ローリーもルーのことは最初からとても気に入っていたので話を続けていくうちにニューヨークでも近所に住んでいることがわかり、その後の初めてのデートについて次のように回想している。

「そして、ついにルーの方から、一緒にオーディオ・エンジニアリング協会見本市に行かないかという誘いがあったのだ。わたしはどっちみちいくつもりだったからと答え、マイクロフォンのブースで落ち合うことにした。この見本市は最新の機材をチェックするには最高で最大規模のもので、わたしたちはアンプやシールドを物色しては、エレクトロニクス・ブースのスタッフといろいろ話し込んで、楽しい午後を過ごすことになった。この時点でわたしはこれが実はデートだったとは思いもよらなかったが、見本市の後でコーヒーを飲みに行くと、ルーは『これから映画でも観に行かない?』と誘ってきた。もちろん、とわたしは答えた。するとルーは『それから一緒に夜ご飯でもどう?』と訊いてきた。いいわよ。さらにルーは『食後はさ、散歩でもしようか』と続ける。うーん……そして、その先、ルーとわたしが離れることはもうなくなってしまったのだ」

その後二人は親友、あるいはソウルメイトとして21年間一緒に生活することになったが、結婚することになった経緯を次のように語っている。
「あれは2008年の春のこと、わたしはカリフォルニアの道端を歩いていて、自分のことが嫌になってきてルーに携帯で話をしていたのだった。『やりたいと思ってたのにやれなかったことがたくさんあるの』とわたしはルーに話した。

『やりたかったことって?』とルーは訊いてきた。

『だから、結局、ドイツ語も習えなかったし、物理も学べなかったし、結婚もできなかったし』

『それだったら俺たち結婚しない?』とルーは訊いてきた。『俺そっちに向かって半分まで行くから。コロラドまで行くよ。明日とかどう?』

『うーん、ねえ、明日ってちょっといきなり過ぎだとは思わない?』

『ううん、思わない』

そういうわけで、その翌日わたしたちはコロラド州ボールダーで落ち合って、土曜日に友達の家の裏庭で結婚して、わたしたちはいつもの土曜日の普段着のままで、おまけに挙式の直後にわたしはライヴに直行しなければならなかったのに、ルーはそのことを少しも気にしないでくれた(ミュージシャン同士で結婚するのはどこか弁護士同士で結婚するのと似ていて、『今日は朝の3時までスタジオで仕事なんだ』と言ってみたり、仕事を仕上げるためにそれまでの予定を全部中止にするようなことになっても、お互いどういうことかよくわかっているし、必ずしもそれで頭に来たりはしないのだ)」

ルーの病気についてもローリーはC型肝炎の治療で受けていたインターフェロンの副作用にずいぶん苦しんでいたと明らかにしていて、その後肝臓がんを発症し、さらにルーは糖尿病にもかかっていたと説明している。その後、ルーは治療に努めながら精力的に自身の活動も続けていたというが、容態が悪くなって土壇場で肝臓移植手術を受けたとローリーは説明している。一時的にルーは体力と元気も回復させたが、また容態が悪化した時、もう打つ手がないという医師の判断に二人はニューヨーク州の自宅に戻ったという。臨終は病院から帰宅して数日後のことで、ルーの希望で朝の光を戸外で浴びながらのことだったとローリーは綴っている。

「わたしたちは瞑想の実践もしていたので、力を腹から心へ引き上げ頭頂部から抜けさせていく、その準備はよくできていた。それにしても、ルーの死に際しての表情ほど驚きに満ちたものをわたしは見たことがない。ルーの手は水の流れのような、太極拳の21式の動きを辿っていた。目はしっかり開いていた。わたしは自分の腕の中にこの世で一番愛しい人間を抱えながら、死にゆくルーと言葉を交わしていた。そしてルーの心臓が止まった。ルーはそれを恐れてはいなかった。わたしはルーとこの世の最期まで文字通り一緒に歩いていくことができたのだ。人生とはあまりにも美しく、痛ましく、まばゆいものではあるが、これ以上のことはありえない。そして死とは? わたしは死とは愛を解き放つためにあるものなのだと思う。

ルーはきっとまたわたしの夢に現れては、また生きているように思わせてくれることだろう。そしてわたしは今ひとりここに残されて、呆気にとられながらも感謝の気持ちでいっぱいになりながら立ち尽くしている。わたしたちの現生の人生において、わたしたちの言葉と音楽を通して、お互いのことをこれほどまでに変え合って、これほどまでに愛し合えたことは、なんて不思議で、刺激的で、奇跡的なことだったのだろう」(「ルー・リードとの出会い、結婚、そして死を妻のローリー・アンダーソンが語る」『ローリング・ストーン』誌)

ああ、これって内包だなと思った。21年ローリーと一緒に暮らし、ルーが66歳、ローリーは61歳で入籍したわけだ。ばななさんは「私たちは入籍よりもずっと強い気持ちで結ばれている」といい、ルーとローリー歳月を経て入籍した。どっちがどっちということもないなあ。
入籍しようのない朔のおじいちゃんもいる。アキと朔は教室の後ろの方に座って朔のおじいちゃんの話をする。朔のおじいちゃんは事情があって相手とは結婚できなかった。

「こういうのって、やっぱり不倫になるのかな」ぼくは重大な疑問を提起した。
「純愛にきまってるじゃない」アキは即座に反論した。
「でもおじいちゃんにも相手の人にも、妻や夫がいたんだぜ」
 彼女はしばらく考え込んで、「奥さんや旦那さんから見ると不倫だけど、二人にとっては純愛なのよ」
「そういうふうに立場によって、不倫になったり純愛になったりするのかい」
「基準が違うんだと思うわ」
「どんなふうに?」
「不倫というのは、要するにその社会でしか通用しない概念でしょう。時代によっても違うし、一夫多妻制の社会とかだと、また違ってくるわけだから。でも五十年も一人の人を思いつづけるってことは、文化や歴史を超えたことだと思うわ」(片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』36p)

 「朔ちゃんのおじいさんが好きだった人の骨、まだ持ってる?」弁当を食べ終えて、缶入りのウーロン茶を飲んでいるときにアキがたずねた。
 「ああ、持ってるよ。遺言だからね」
 「そうね」彼女は微笑んだ。
 「それがどうかしたの?」
 アキはしばらく考えて、「朔ちゃんのおじいさんは、その人とは別の人と結婚されたのよね」
 それには答えずに、「どっちが幸福なのかしらね」と彼女は言った。
 「何が?」
 「好きな人と一緒に暮らすことと、別な人と暮らしながら好きな人のことを思いつづけることと」

 「ぼくならもっと前向きに考えるな。いま相手のことがすごく好きだとする。十年後にはもっと好きになっている。最初は嫌だったところまで好きになる。そして百年後には、髪の毛の一本一本まで好きになっている」(同前 72~74p)

朔がアキに歳を経るごとにどんどん好きになると語るところはこの作品のひとつの頂点を表現している。作中にある「葛生」は『詩経』から引かれたものである。

冬之夜
夏之日
百歳之後
歸於基室

読み下しでは、冬の夜/夏の日/百歳の後/其の室に歸せん
となる。
朔のおじいちゃんの想いは内面化されることもなく、共同化することもできないそれ自体の出来事として存在する。
自己意識の無限性は内包のきりのなさに淵源をもつというわたしの考えによく似ている。それを内包自然と呼んでもいいのだが、その内包自然の真ん中に還相の性がひっそりと息づいている。それが朔の語りとして語られる。「十年後にはもっと好きになっている。最初は嫌だったところまで好きになる。そして百年後には、髪の毛の一本一本まで好きになっている」、と。
作者は無意識に外延自然を内包自然で巻き取ろうとしていたのかもしれぬ。
わたしは、むしろ外延自然から(天然自然・人工自然)から内包自然が浮かびあがってくる過程を歴史だと考えている。親鸞の自然法爾を内側に救心すると内包自然がしだいに輪郭をあらわしてくるようにわたしには思えた。この考えに立つと親鸞の言葉が違った側面を覗かせる。
「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」(『唯信抄文意』)「われらなり」とはだれか。
「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念佛まうしたること、いまださふらはず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてて、いそぎ浄土をさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々」(『歎異抄』)
「世々生々の父母兄弟」とはだれか。
内包自然が存在することが親鸞の還相廻向から「われらなり」や「世々生々の父母兄弟」として発語されている。それは親鸞の内面の吐露か。ちがう、内面化することも共同化することもできないことがそれ自体として述べられているのだ。わたしは、喩としての内包的な親族が存在しないことの不可能性として他力として語られているのだと思う。

親鸞の「われらなり」は「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」ということであり、還相の性を通じた内包的なつながりを指しています。外延的な血縁の家族より、外延的な親族より、有情にてつながるものは仲間である、家族のようなものである、〔ことば〕の縁によって結ばれた者どうしは内包的な家族である、内包自然のつながりのほうが関係は濃ゆいのである、と親鸞は言っているようにみえる。わたしの言葉で言えば、内包家族や内包親族に比喩できると思う。ここまでこないと信の共同性は解体できないのです。

他力によって同一性を超出した親鸞は血縁ではない、もちろん信の結社でもない、内包的な家族を呼びかけていたのだと思う。言葉としてはのこされていませんが、このとき親鸞は正定聚から還相の性に転位していたと私は理解しています。この転位とどうじに、ひとりひとりの自己は、自己のなかで目覚めた根源の性のうながしにより分有者となり、拡張され、領域としての自己になっています。内包自然には信はもともとないのですから、領域化した自己はそれぞれが自己と共同性を包んでしまうのです。「われらなり」という親鸞の呼びかけはそこまで透徹していたと思います。わたしは「さまざまなものは」「われらなり」という親鸞のうながしの言葉はそのことを意味していたと解します。

内包論の言葉として言えば内包家族、内包親族のようなものだと思います。もちろん外延的なつながりを自然的な規定とする同一性の彼方の出来事であるので外延的な実体化はありません。
有縁を得度すれば「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」となるのです。ここには同一性を淵源とする信の共同性はありません。同一性は包まれてしまっているのです。この世のしくみとは違う生のあり方が可能となります。ここにはどんな共同幻想もありません。自己も共同性も信が解体され、べつの生のあり方へと横超するのです。

親鸞の自然(じねん)を内包自然と解すると正定聚が一気にふくらみ、還相の性となります。根源の性は仏の慈悲の彼方にある背後の一閃です。最期の親鸞はこの彼方を指し示し、生の原像を分有者に内在する還相の性として生きよ、と言っていたようにみえます。それはけっして親鸞の言葉として遺っていることではないのですが、わたしは、幽明の最期の親鸞はそこにいたに違いないと思っています。ここまできてやっと親鸞の他力も大団円を迎えるのです。(「歩く浄土39」)

親鸞は早々と自力作善をつまらぬと言い切っていたし、宮沢賢治は「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。わたくしは、さういうきれいなたべものやきものをすきです。これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです」(『「注文の多い料理店」序』)と書いている。たわけたことを言っているのではない。「何をやっても間に合わない」という焦燥感のただなかで、もうどうしてもこんな気がしてしかたないことを、そのとおりに書いたという宮沢賢治の言葉の迫力。「何をやっても間に合わない/世界ぜんたい間に合わない/・・・・・/その兎の眼が赤くうるんで/・・・・・・・/草も食べれば小鳥みたいに啼きもする/・・・・・・・/そうしてそれも間に合わない/・・・・・・・・/世界ぜんたい何をやっても間に合わない/・・・・・・・・・/その親愛な近代文明と新たな文明の過渡期の人よ」(筑摩書房『校本宮沢賢治全集』第6巻201p~202p)

宮沢賢治の切迫感はいまにもそのまま引き継がれている。同一性のおおきなくびきのながい影のなかにいまもわたしたちは日々を生きているのだ。大事なことが言われていると思うので、なんででも引用する。
おなじようにヴェイユの言葉もそのままいまを生きている。

 集団を構成する諸単位のひとつひとつの中には、集団がおかしてはならないなにかがある、ということを集団に説明するのはむだなことである。まず、集団とは、虚構によるのでなければ、「だれか」というような人間的存在ではない。集団は、抽象的なものでないとしたら、存在しない。集団に向かって語りかけるというようなことは作りごとである。さらに、もし集団が「だれか」というようなものであるなら、集団は、自分以外のものは尊敬しようとしない「だれか」になるであろう。
 その上、最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧しようとする傾向があることではなく、人格の側に集団的なものの中へ突進し、そこに埋没しようとする傾向があることである。あるいは、集団的なもののもつ危険は、人格の側の危険の、見せかけの、見る人の眼をあざむきやすい様相に外ならないのかもしれない。
 人格は聖なるものである、ということを集団に言うことが無益であるとしたら、人格に向かって、人格そのものが聖なるものであると言うこともまた無益である。人格は、言われたことを信じることはできない。人格は自分自らを聖なるものだとは感じていない。人格が自らを聖なるものと感じないようにしむける原因はなにかといえば、それは人格が事実において聖なるものでないからである。
 ある人びとがいて、その人びとの良心が別な証言を行なっているのに、外ならぬかれらの人格はかれらに聖なるもののある確かな観念をあたえ、その確かな観念を一般化することによってあらゆる人格には聖なるものがあると結論するとしたら、かれらは二重の錯覚の中に存在していることになる。
 かれらが感じているもの、それは正真正銘の聖なるものの観念ではなく、集団的なものが作りだす、聖なるもののいつわりの模造品にすぎない。かれらが自分たち自身の人格について、聖なるものの観念を体験しているとすれば、それは、人格が社会的な重要視(人格には社会的な重要視があつまる)によって、集団の威信とかかわりをもつからである。かくして、間違ってかれらは〔自分たちの体験を〕一般化することができると信じている。
 このような間違った一般化が、ある高潔な動機から発したものであるとしても、この一般化には十分な効力がないので、匿名の人間の問題が、じつは匿名の人間の問題でなくなるのが、かれらの眼には見えないのである。しかし、かれらがこのことを理解す機会をもつのは困難なことである。なぜなら、かれらはそのような機会に接することがないからである。
 人間にあって、人格とは、寒さにふるえ、隠れ家と暖を追い求める、苦悩するあるものなのである。
 どのように待ちのぞんでいようとも、そのあるものが社会的に重要視され暖かくつつまれているような人びとには、このことはわからない。(勁草書房刊『ロンドン論集と最後の手紙』15~16p)

ここまでくると親鸞の「われらなり」も「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」もヴェイユの匿名の領域も内包自然へと拡張できることになる。親鸞の自然法爾は内包的な表出によっておのずとふくらみ、ヴェイユの言う人格で表出できない「聖なるもの」はおなじように内包的な表出によって還相の性へと転位することになる。
内包自然の真ん中で熱く息づく還相の性が可能だから、自己は領域として生きられ、共同性はあたかも喩としての内包的な親族のようなものへとわたしたち根源の性の分有者にとって立ち現れる。まったく未知の驚異の出現だ。
外延が内包をかたどり、内包が外延を巻き取っていく不思議。こうやってわたしたちは永い歳月を家族や親族として生きぬいてきた。その果てに生の奇妙さとして三人称でできた国家という共同幻想やそこを循環する貨幣をつくった。どうやったら共同性や貨幣から降りることができるのか。外延論理は外延の息づかいをさらに外延するしかないのだ。それがグローバリズムが実現している社会の革命だと言える。圧倒的な圧力で、だれが、なにをやろうと、そこに身の丈を合わせていくことしかできない。その追認が民主主義のコールだ。わたしたちの眼前にはまったくべつの可能性が広大な未知としてたしかな手触りをもってひろがっている。ささやかな勝利だよとわたしという分有者はだれにも聞こえない声でひそかにつぶやく。内包で外延を巻き取ること。そこにわたしたちの固有の意志がある。

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