日々愚案

歩く浄土52:情況論3

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真木悠介の『自我の起源』所収「補論2 性現象と宗教現象」にハッとした。わたしの考えてきたところとある部分が共鳴する。そこを抜き出してみる。

①1980年代後半のヴェトナムからの難民船のいくつかが日本にも漂着している.偶然そのうちの一つを見たことがあるが,小さな木の船に,考えられないくらい大勢の人が乗っている.漂流の月日の中で,いちばんはじめに死んでいったのは,小さい子供をもつ若い母親たちだったという話を聞いた.一人の個体としては,生命の力のおそらく最も充実した時期にある彼女たちがまっさきに飢えて死んでゆくまでに至る,船内の食物分配の流れや力関係は,どうしても,想像することができる.人間の個が,じぶんに固有の衝動に動かされながら,じぶんじしんを亡ぼしてゆき,類を再生産してしまう.

 反自然主義的な思考に固執したいなら,彼女たちを死に追いやったのは〈自然〉ではなく,自分に割り当てられた食物さえ幼児に与えてしまうことを強要する〈文化〉の「規範」なのだと想像してみることもできるが,〈自然〉の力は,このような幾重もの手のこんだ〈文化〉の装置を媒介としてさえも貫徹してしまうのだということもできる.
 わたしたちの欲望の中心に性の欲望があるということは,個としてのわたしたちの欲望の中心部分が,あらかじめ個をこえたものの力によって先取りされてしまっているということだ.

 性とは,個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬である.個体は個体の固有の〈欲望〉の導火線にみちびかれながら自分を否定する.(173~174p)

②吉本はまた同じ本の中で,賢治の日蓮を介した法華経の信仰について,〈狂者の拘束衣〉という言い方をしている.

「日蓮を介した法華経の信仰は,かれの生涯をねじ伏せるほどのつよい影響をあたえた.また狂者の拘束衣みたいに行動とこころをしめつけた.そしてにっちもさっちもいかないところまで追いつめたが,そのつよい拘束を賢治はかならずLも,ぜんぶ否定しなかった.」(『宮沢賢治』)

「拘束衣」が日蓮経由の法華経の信仰だとして,そこで拘束されているものの本体は何だろう.つまり異和とは,つきつめていくと,何と何との,どのような異和なのだろうか.そしてこの異和をめぐる思考は,最初の問い,つまり賢治が最後にゆきついた場所はどのような場所かという問いと,どこかで交差することになるのだろうか.(176~177p)

③〈宗教〉という願望の実質として賢治がとらえていたものは何か?「じぶんとひとと万象と」共に至福にいたろうとする願いのようなものだ.「神」という観念はこの定義にない.「仏」という観念さえこの定義にはない.その他特定の神秘なもの,「超自然」なものの観念は何もこの定義にない.人はこういう,自分と他者と万象と共に至福にいたろうとする願いのようなものを,神や仏の観念によって形態化することもあるが,それは賢治のいう原的な願望のようなものが,じぶんを意識化し,つまり言語化するときにとるさまざまな形にすぎない.

 賢治のいくつもの作品の中で,宗教的な理念の言語が,作品の文学としての成立をぶちこわしにしてしまうくらいの強い力で粗野に闖入てきてしまうのも,このような賢治の内の宗教性と宗教性との,ごつごつとした非調和のためだ.この非調和は,たとえば噴火口を見出すことができないでうつぼつとしている〈性〉のエネルギーを,〈宗教〉の力によって必死に制御しようとしているといった,ふつうに理解されやすい図式からくるのではない.
 観念の拘束衣が拘束しようとする狂暴な力自体が,はじめから〈性〉の水路をはみだしてしまう欲望である.そしてこの「自分を劃る」ことのないものに向かう烈しい欲望もまた,〈性〉の欲望がそうであることと同じに,賢治の身体の内部に原的に仕掛けられている否定の装置だ.

 性現象と宗教現象は,フロイトが考えたような仕方でも,賢治自身が考えていたような仕方でも,一方を他方に還元することのできないものだ.つまり一方が本来の欲望であり,他方がその挫折や変態や昇華や代償の形態だというふうにぜんぶをとらえきってしまうことのできないものだ.
 もちろん別個のものでもない.自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと,その極限のところで必ず,自己を裂開してしまうという背理を内包しているという,おなじひとつの形式の,異なった位相をとった反復であるとわたしは仮設しておきたいと思う.(179~182p)

このあたりを読んだとき、なんだ、なんだこれは、おおっと思った。真木悠介(見田宗介)の『自我の起源』は、人間という現象を環界の自然に融即するこの国の伝統的な思考様式(たとえば内田樹や養老孟司の自然)を超えて、生物の生命現象に人間という不可解な現象を接合しようとして書かれたものです。ドーキンスの利己的な遺伝子をリン・マーグリスの二つの生命体の共生説を手がかりに読み解いた試みです。真木悠介さんは自己の中の絶対の他を生物の生命現象として解明しようとしました。わたしはドーキンスより利他行動の起源を問うたジョージ・プライスの進化論を参照すればよかったのにと思いながら『自我の起源』を読んだ。天才進化論学者のジョージ・プライスは利他行動を偏愛するあまりじぶん自身がホームレスとなった狂おしい人です。

内包論をすすめるにあたって宮沢賢治の作品はヴェイユとおなじようにいまわたしにとっておおきな手がかりとなっています。宮沢賢治はヴェイユとよく似た感覚の持ち主のように思います。レヴィナスもここに入れてもいいかもしれません。宮沢賢治もヴェイユもレヴィナスも神や仏の彼方の超越を志向した人です。かれらは神や仏という形態ではなくその彼方があることを感得していました。それがわたしの彼らにたいする理解です。
吉本隆明の「狂者の拘束衣」という言い方はとても面白いです。ともかく真木悠介の、自己よりも深い自己という場所に、宗教にも性にも還元できない領域があるのだという直覚は鋭利です。これからアマゾンから配送された見田宗介さんの『宮沢賢治』を読みます。
こういうことを念頭におきながら内田樹さんの最近のブログの感想を記します。

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前回のブログで佐々木俊尚さんの『21世紀の自由論』の感想を少し書きましたが、たくさん書き残したことや、言い足りないことがあるので、そのいくつかを内田樹さんのブログを読んだ感想にふくめて言ってみます。
最近読んだ内田樹さんのブログをリンクします。お読み下さい。
ツイートの軽さとは違い真剣に書いていると思いました。部分的な引用はできない完成度です。

http://blog.tatsuru.com/
言論の自由について再論
対米従属を通じて「戦争ができる国」へ

お読みいただけましたか。「言論の自由について再論」は、かれがそのことを意識しているかどうかに関わりなく、まるごとレヴィナスの思想です。だからここで内田樹さんの「言論の自由について再論」へのわたしの意見はレヴィナスの思想にたいしてわたしの内包論を語ることと正確に同義です。超越についての理解がわたしとレヴィナスに相違がある。内田樹の正義について書いたことがあります。

  内田樹の正義はどこで実現されるのか。内田樹の方法意識では実現されないと私は結論する。世の中の万事が金ではないということは反省意識としてならありえ ても、彼の悲願はお金の魅力の前ではかすんでしまう。彼の愛好する正義や民主主義が金より良いもの、金より魅力のあるものだったら、こーゆー現実にはなっ てないでしょ。而して私たちの生の現場は、天空をゆきかう電子ノイズに攪乱され生成する現実を追認し内省することしかできない。ようするに総敗北であり、 敗残の徒なのだ。民主主義が現実と拮抗しえているとはまったく思わない。自己を一個の実有とみなすかぎり、お金と民主主義は極めて相性がいいのだ。これが 正解。
 レヴィナスの他者の身代わりや人質という有責性の概念は、こういう生ぬるいことを言っているわけではない。レヴィナスの悲痛な叫び。「なぜ神を放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不在であった以上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたからだ」(『われわれのあいだで』合田・谷口 訳)。言説の本質は祈りであると彼はいう。「主観的な意識の襞のうちにしか基準を見いださない」ようなこととは隔絶した存在の彼方そのもの。語られているのは存在の超越なのだ。この場所に彼は直接に人間としてうずくまり、「おわかりだろうか」と呟いている。(「内田樹メモ2」)

砂漠の商人ランボーの詩を同一性の戯れであると揶揄したレヴィナスの毒は「主観的な意識の襞」のうちにある判断の基準を超えようとするところから発しています。そうせずにはかれは生きることができなかったのだ。そういうものがレヴィナスの思想を信奉する内田樹にあるだろうか。かれは民主主義という主観的な襞を判断の基準にしている。なにかそれだけだという気がします。民主主義では不可能なことを民主主義の名において語るという錯認が内田樹の言説にはある。それが自覚的なものか無自覚であるかはわからない。
かれは言う。

 民主主義はよいものだ。絶対的な正義を一義的に決定することは不可能だが、相対的な正義と「よりましな社会」の実現をめざして、話し合うことはできる。そして、「今よりましな」状態めざして、コミュニケーションの回路を立ち上げるのは「よいこと」だ。
 私がこの本で述べているのは、そのような「二昔ほど前の常識」に過ぎない。
 こつこつ働き、家庭を大事にし、正義を信じ、民主主義を守りましよう。(『「おじさん」的思考』)

またつぎのような発言もある。

  天皇陛下のお仕事とお言葉
中沢 天皇陛下をこんな放射能にさらして、ほんとに申し訳ない。
内田  今回は陛下は東京から離れなかったでしょう。
周りには「東京を離れたほうがいい」っていう意見があっただろうにね。でも、とどまったね。
中沢 なさっていることがいちいちご立派です。
平川 今回、祈祷をなさっていたっていうんでしょ?
内田 お仕事ですからね。
平川 ああ、天皇が天皇の仕事をちゃんとやっているなと思いましたね。
内田 震災の後に読んだコメントで、いちばんホロッとなったのは、天皇陛下のお言葉だったね。
中沢 そうですね。自主停電というのも感動的なふるまいで、やっぱり天皇というのはそういうことをなさるお方なんですよ。
平川 そう。何をする人なのかよくわからなかったんだけど、今回でよくわかったね。
内田 まさしく日本国民統合の象徴なんだよ。総理大臣の談話と天皇陛下のお言葉では格調がちがうね。(『大津波と原発』内田×中沢新一×平川克美)

内田 「震災が起きても、なんで掠奪が起きないのか」ってよく言われるけど、海外と日本で一番事情が違うのは天皇がいるってことだよね。
高橋 うん。これは大政奉還するしかないんじゃないの。
内田 いや、ジョークじゃなくて、大きなスパンで今の日本の政治構造を改善しようとしたら、それくらいのスケールにもっていかないと話が見えてこないよ。「革命」とか「大政奉還」とか。それくらい大きな枠組をとって考えないと、どこに向かうべきか、わからないよ。
高橋 もっともリアルな革命は、そっちだよね。
内田 ほんとに「議論の結果、大政を奉還しようという結論になりました」って言っても 、おおかたの日本人は文句言わないよ。
 ― 今の高橋・内田言語を、SIGHT言語に翻訳しますと
内田 (笑)いや、このまま載っけてよ。
 ― 載せるけどさ、要するに天皇という存在は、人格的なありようと、国家の本来的な ありようが、統一的に実現していて。だから、統治者としての理想を実現せざるを得ないというポジションが、もうシステムとしてでき上がってるわけだよね。
内田 そうそう。
高橋 なにより、リベラルだからね。
― そうだね。だから、そういう装置によって、政治的な権力者を作っていかないと、日本というシステムそのもののOSの書き換えは不可能かもしれない。ということを、おっしゃっているわけですね。
(中略)
内田 「現実とは金のことである」っていうイデオロギーからいいかげん脱却しなきやダメだよ。そのイデオロギーがこんな事態を生み出したんだから。
高橋 だから、天皇親政だ(笑)。
内田 そう、これはある種の対抗命題としてさ、みんなで考えてほしいと思う。だって、天皇制の意義を正面から議論することって、ほんとにないじゃない? そういうシステムを持たない国と日本を比べたときの日本の優位性はどこにあるのかを考えたときに、はじめて天皇制のメリットは見えてくると思うんだ。今のこの日本で「現実主義とは金の話のことだ」というイデオロギーに「それは違います」って言えるのは天皇だけだよ。
高橋 天皇だけはね。
内田 ねえ? こうして現に、批評的に生き生きと機能してるわけだし。
高橋 そうなんだよ。でも、天皇制はそうだったんだよね、実は。この2000年間ずっと存在していて。
内田 で、500年に1回ぐらい「いざ!」って出番がある。
高橋 そう。国難のときになると、「出番ですね」ってさ。そういうシステムだったんだ。
内田 戦後66年経って、天皇制の政治的な意味を、これまでの右左の因習的な枠組みから離れて、自由な言葉づかいで考察するとしたら、今だよね。(『SIGHT』2011 VOL.49 内田樹×高橋源一郎)

内田樹の引用の発言と「言論の自由について再論」の大事なところを取りだして比較してみます。「言論の自由について再論」は切迫する状況のなかで目にする発言ではもっともすぐれているとわたしは理解している。読んでいて粛然とした。レヴィナスを思想上の師であるとする内田樹はレヴィナスの思想に憑依しているように見えます。

言論の自由とは
私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。
その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。
ただそれだけのことである。
だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。
私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。
「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件のどこがそれほど重要なのか。
それはこの条件が「敬語で書かれていること」である。
それは擬制的に「理非の判断を下す方々」を論争の当事者よりも「上に置く」ということである。

この件を読んだときすぐ吉本隆明の党派的な観念を持つものは党派的な観念をもたず生活を生きている大衆の下位にあるといういつもの言い方を思いだしました。理念として大衆を語ることと、理念として「正義」を語ることは、主観的な意識の襞のうちに判断の基準を求めていると言うことにおいて理念としては同型です。少しは内田樹にもためらいがあるのか、「擬制的」と言葉をつけ加えています。

言論の自由さえ確保されていれば、長期的・集団的には必ずや正しく理非の判定が下る。というのは事実ではない。
「理非の判定を下しうる人たち」は今まだここにはいない。
だからこそ、その出現が懇請されているのである。
そのために「言論の自由」はある。そのため「だけ」にあると言ってもよい。

内田樹のこの発言はよくわかります。その通りです。ただそのためにはひとつの条件がある。主観的な意識の襞ではないかれ固有の判断の基準を示すべきなのです。レヴィナスは「なぜ神を放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不在であった以上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたからだ」とはっきりかれの言説の根拠を明示している。レヴィナスの思想を代理するのは卑怯です。「擬制的」という言葉でごまかすことではない。かれの言説は世間に向けて発信されていますが、じぶんに向かうことはないのです。それしか内田樹できないのでしょうが、かれはいつも上から目線で出来事を語ります。啓蒙的な言説がかれの本質を為しています。

「『理非の判定を下しうる人たち』は今まだここにはいない。だからこそ、その出現が懇請されているのである」というときその深い意味をかれが当事者として生きていることはない。推測や願望を語っているだけです。レヴィナスの他者の身代わりや人質という有責性の概念を内田樹は字面で理解しているだけです。レヴィナスは出来事によってまっぷたつに引き裂かれ、世界の底の底で呻きながら、祈りとして思想をつくっていきました。そうするよりほかにレヴィナスは生きようがなかったのです。
家族を絶滅収容所で殺害されたその該当者性をレヴィナスは当事者性へと思想として普遍化しました。レヴィ=ストロースもヴェイユもレヴィナスも該当者性をそれ自体としては語っていません。マルクスにおいてもフロイトにおいてもおなじです。かれらは該当者性を普遍として出来事をその当事者性において語りました。そしてレヴィナスはついに神という観念の彼方にある超越を感得することはなかったのです。それぬきに同一性の拡張はありえないのです。そのはるか手前で内田樹は言葉の矛を収めてしまっています。

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「対米従属を通じて『戦争ができる国』へ」は、目にするなかでもっともすぐれた言説です。もうこれ以上はないというくらいのできばえです。見事なものだと思います。その上で言うのですが、「言論の自由について再論」とおなじ印象を持ちました。

「対米従属を通じて『戦争ができる国』へ」をお読みいただけましたか。

「言論の自由について再論」とおなじレトリックがこの「対米従属を通じて『戦争ができる国』へ」でも行使されています。
なぜ面従腹背(従属を通じての対米自立)が、いつのまにかよりいっそう対米従属を深化する事態に陥ったのか。オカルト安倍の妄想のなかでは戦争のできる国になることがアメリカと対等になることと錯覚されている。一人の狂気によって、一人の稚拙な妄執によって、この国がなし崩しに壊れつつあることは事実であり現実です。そういう切迫した状況下で内田樹のインタビューは秀逸です。

「言論の自由について再論」と「対米従属を通じて『戦争ができる国』へ」を対比する。内田樹の表現の自由についての考えはレヴィナスの思想の神髄でもある。判定は皆さんにお任せします、ということが言論の自由の本質であると言います。賛意を送りながら異議を申し述べる。
対米従属の深化はアメリカの国益をすばやく効率的に業務遂行するものたち、この国のエリートたちによって支えられていると内田樹は主張しています。とてもわかりやすい上昇志向や私利私欲のありようを指摘します。わたしは間違った理念だと思います。
表現の自由を唱える者よりその意見を聴いて判定する者が上位であるという理念とエリート批判は対になっています。どちらが正しいかあなた方が審判して下さい、それが表現の自由ということの本質で、それに尽きるということも、官僚たちの私利私欲批判も、ともに喉越しがよく、なんだかくすぐられるような感覚があります。わたしはこのもの言いは虚偽だと思います。とても薄っぺらな意見だと思ってしまいます。

「けれども、70年にわたって『一時的迂回としての対米従属』を続けてるうちに、『対米従属技術に長けた人間たち』だけがエリート層を形成するようになってしまった」ということや「『対米従属を通じて自己利益を増大させようとする』人たちが現代日本の統治システムを制御している」ことも事実だと思います。でもそれは、「『国民は長期的・集合的には必ずや適切な判断を下すだろう』という『国民の叡智』に対する信認の存否である」に信をおくことと同期しているのです。身が心をかぎり、その心が身をかぎるという心身一如の存在のありようを前提とすれば、グローバリゼーションの猛烈な圧力に曝されて、ひとびとが1%のエリート(富裕者)と99%の大半の者(貧困層)に分離するのは不可避です。わたしたちが作りえた人為としてそれは自然というほかありません。そしてそのことは外延的自然の必然です。事態を評定する観察者の内田樹にはそのことはわからないと思います。この世のしくみを前提とするかぎり正義や表現の自由が叡智によって審判されることはありません。わたしの体験的な事実です。
生の原像を還相の性で生きるときずっしりかるい生が,歩く浄土として現前するとわたしは思っています。途次は困難ですが、そこまで行きます。ここでは生がそのままに作品です。

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