日々愚案

歩く浄土273:複相的な存在の往還-幼童について5

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久々の更新です。皆さん、お元気ですか。難儀してました。ヴェイユ論の続きとしてグレゴリー・ベイトソン(以下GBとする:1904-1980)の考えたことを取り上げようと準備しているとき、4ヶ月ほど寝込んでしまいました。呼吸困難と原因不明の腰の激痛があり、起き上がることも、イスに座ることもできず、このまま寝たきりかなと思いながら、不安を抱えて寝てました。初めてのことですが、不思議な体験をしました。浄土が歩かなかった。痛みと息苦しさでいっぱいになるとこころの余白ができません。こころがなくなってわたしは身体になります。自力の及ばない苦もまた浄土ではないかと考えると気持ちが少し楽になりました。というのはかなりうそです。親鸞の正定聚もほんとうのところは幾重にも入り組んだ脆弱性をもっているように思います。理念として、浄土が必定だとしてもおそらく親鸞においても同じことが繰り返し起こったのではないか。当の本人はそのことを自覚する余裕がない。煩悩と正定聚は互いに入れ子になって複雑にからまり一筋縄ではいかない。これまでよりもいっそうだれに届くとも知れない歩く浄土論を書く。

このメモもまた一見抽象的にみえながら、状況への発言を兼ねている。新型コロナウイルスが引きおこしたパンデミックは瞬く間にコロナ真理教となり恐怖と戦慄を煽っている。新型コロナウイルスについての考察も、免疫とはなにかということについての考察も、総じて病というものについての考察をなさずに蛸壺に棲んでいる自称専門家の戯言を唯々諾々と受けいれ、世界をパニックに落とし入れるだけの、薄っぺらな世界、科学という名の宗教に世界は毀損され、コロナ後の世界という精神的な退行が横行している。世界は非線形的な複雑性で動いているのに、人間が受けいれるのは線型的なわかりやすい専門知である。拙いメモはこれらの総体に対する激烈な異議を申し立てでもある。総表現者のひとりを生きるとき「学」は相対化され押し寄せる危機を腑に落ちるまで考え尽くすしかない。

長いあいだ、わたしがあなたである対称的な世界を、ひとりでいてもふたりであるとか、ふたりでいてもひとりであるとか、言葉として粗視化できることを、思考の慣性とは異なる生の様式として、とつおいつ、切れ切れに書いてきた。悠遠の太古の核家族のつながりのはるかな手前、いかなる同一的なものにも還元できない根源の一元が存在した。根源の一元が根源の二人称を表現し、根源の二人称が縮減されて、心身一如という自己に引き取られ、わたしたちはこの人類史を積み重ねてきた。そのようなことを内包論で考えてきた。べつの人類史の可能性は内包論のなかにあり、ありえたけれどもなかった存在をげんにあらしめる歴史や生の可能性が存在の複相性を往還するなかにあると主張してきた。長い人類史の中で内包だけが適者生存とは異なる、生まれてきて丸儲けの生き方が可能となる。思想は実利で、生きていくことに役に立たないならば、そんなものは単なる口舌にすぎない。右も左も口舌の徒はそうやって善意で糊塗をしのいでいる。内包は読みにくいけどおもしろい。百人の天才が数世紀かけて解読するような、全く異質の生き方の可能性を寓意している。そしてこの不思議のなかに生きているありとあらゆるすべてのひとのだれもが総表現者のひとりを未知の生としてカザルスの奏でる音のように生きることができる。

しかし内包論におおきななぞがのこされていることに自覚的だった。ひそかにそのことをながいあいだ考えつづけた。なぜ不可分不可同非可換の存在の〔性〕の対称性は破れたのか。なぜ根源の性の一元が一人称と二人称に分かれたのか。長い長いあいだ分からなかった。おまえの書くものは分かりにくいと言われても、これまで考えてきて分からなかったことを、さらにいま自分に向けて書いている。読む人に分かりやすく書く、そんな余裕はない。そのことについて書こうと思う。

人間はセクシー・アニマル・コンピュータと譬喩することができます。アニマルは身体性として哺乳類や動物に属します。自然の一部です。聴覚が視覚に連合し同一的な自然が粗視化されたときに、書記と貨幣と国家が誕生した。とくに貨幣と国家は「と考えられると考えられる」ことを受容することによって成り立っています。ユヴァルは貨幣についてつぎのように言っている。「宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求めるからだ」(『サピエンス全史』)と言ってます。人類最強の共同幻想が貨幣であることはまちがいありません。複雑に絡まった幾重もの共同主観的現実のはざまに押し寄せてくる効率最適化競争の只中でわたしたちは生きています。それは意識の外延性の必然的な硬い生存の条理と言えます。

このしくみはコンピュータのアルゴリズムと相同です。内部にゲーデルの不完全性定理を内含していますが、外延的な人間の存在は、アルゴリズムとして記述することもできます。おなじようにセクシャルということも同一律を暗黙の公理として表現されてきました。幾重にも絡まった人間の存在のありようのなかで、性的な存在だけは、生命形態の自然にも、アルゴリズムにも還元できない、それがあることによってヒトが人となった由縁の未知としてあり、変わるだけ変わって変わらないありかたとして歴史の初源から存在しつづけて来ています。いつもそのうえに立っていることでヒトがひととなった不思議はただこの存在の驚異のなかにだけあります。この不思議を内包として表現できると考え、いまも外延的な存在から内包的な存在への過ぎ超しのしくみについて考えつづけています。理念的というより体験的な実感です。自他未分の渾然一体となった灼熱の光球を生きてしまった生きものが人ということになります。混沌として沸き立つこの激しい情動のなかには時制も善悪も倫理もありません。これも理念というより生の体験から来ています。

灼熱の光球であり、激烈な混沌としたエネルギーの塊は、喰い、寝て、念ずるひとびとの生の自己保存の知恵として、その荒々しい驚異の湧出が狂おしさのあまり我が身を焼き尽くさないように、試行錯誤の試みのなかで、あるかたちに就くほかなかったのだと思います。それが家族だと考えます。つまりこの過程を経て〈根源の性〉は、おのずからなる根源の一元から外延的な「性」や「家族」を表現したことになる。この遷移はその後の人間の歴史が示すとおり同一律を公準とするかぎり不可避であったと言えます。それにもかかわらず根源の性も還相の性もだれのどんな生のなかにもちいさなかたちで内挿されているのです。

内包と外延について思考実験を重ねてみる。根源の二人称を、心と身体がひとつきりの生命形態の自然が生きるとき、内包存在の核にある根源の性という灼熱の光球の曲率が、同一律によって、身が心をかぎり、心が身をかぎる存在のなかに引き取られゼロとなる。それが同一性の起源であるが、赫々とした精神の灼熱の光球は、曲率ゼロの同一性の意識の平面に褶曲してしわのような痕跡をのこしている。内包という光球を平面に写像することができるか。球面を平面にすることはできない。意識の全円性を灼熱の光球に比喩すれば、意識のこの光球をそのまま同一性に写像することはできない。曲面を平面に引き延ばすとしわとなり平面に貼りつくことになる。宇宙の大規模構造のように密度の粗密ができるわけだ。

密度のゆらぎのなかでちいさなしわ(アニミズムやトーテミズム)は互いに引き合い、おおきなしわとなり、そのおおきなしわはやがて西欧の神や東洋の仏へと昇華する。いわんや我が国における天皇制をや。その応力として絶海の孤島のように存在するちいさな自然に煩悩という言葉では言い尽くせない内面の窪みがかたどられる。内包の面影として同一性では語りえない意識の残余が意識のしわとして私性のなかに表象される。同一性の外延表現では語りえぬことだけが表現するに値する。内面の言葉では語りえぬ、言葉にはならないことが、逆説的に内包が存在することを寓喩する。それが同一性では語りえない意識の残余だと思う。曲率ゼロの意識の平面では内面と名づけられているちいさな自然は外界のおおきな自然と矛盾や対立や背反するものであるかのように認識される。わたしはヴェイユが言った「自我と社会的なものは二つの大きな偶像である」を内包論で理念化することを目論んでいる。なぜアニミズムやトーテミズムがやがて種族語を経て国生みの神話をつくったのか。この試みのなかに政治や国家や交換の貨幣を表現しないもう一つの人類史の可能性があると考えている。

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メビウスの輪になった性についてあらためて考えてみる。それは内包の未然についてじぶんに向かって書くことを意味する。考えていることが対他性をもつかどうか、そのことを問う余裕は、いまはない。わたしは、ひとつながりになったメビウスの輪を〔性〕と考えてきた。この性を内面化、あるいは社会化することができるか。原理的にできない。なぜならば性は同一性という人類史に等しい思考の慣性とはまったくちがう世界に属するからだ。ここまではいい。そこでさらに問う。では、わたしがあなたであるという不可分・不可同・非可換であるひとつながりの始原の性がなぜ、わたしの性とあなたという性に分岐したのか。このことを内包論を書きながらひそかに長く考えてきた。歴史の初源にひとの本然としてあった、わたしがあなたである対称性の性をわたしたちは生きていない。それはどうしてなのか。どういう機微がそこに作用したのか。あるときからわたしたちは心身一如を自己の実在の根拠をおき、この公準を世界に外延してきた。わたしの考えでは氏族制という親族のシステムがつくられるはるか手前で、メビウスの輪という精神の古代形象はモダンなありかたに粗視化され、巨大な思考の慣性が駆動した。人類史のなぞ、もうひとつの人類史の可能性は氏族制以前に隠れている。メビウスの輪からひろがっていくべつの精神の可能性が途絶え、外延的な自然史が急峻な大転換を遂げ、コロナ禍が茫漠とした世界の先触れとしてあらわれている。なぜ世界はこのようなものでしかないのだろうか。長年、考えに考えてきた。ひとつながりになったメビウスの輪という性とそこからひろがる世界が世界認識の公準となることはないのか。ありえたけれどもなかったものを現にあらしめる観念の可能性があるから内包論を書いてきた。それはいまも変わらない。

吉本隆明のように、個々の家族のつながりが上位共同体から乖離し、氏族制と近親相姦がセットになって共同体を拡大したという考えは原因と結果が逆さまになっている。この思考の流れでは、性は氏族制から部族制への高度化と部族制の連合が国家へ至る媒介にすぎなくなる。レヴィ=ストロースが女性を共同体間の交換の財貨とみなす考えも外延的な歴史観から眺望されている。観念のまなざしのなかにすでに権力が外挿され、それを前提に世界を鳥瞰することになる。そうではないとわたしは考えた。生の固有の体験は、手を伸ばしてもつかむことのできない、けっして内面化も共同化もできないそれ自体をしてある。そのことをメビウス輪になった〔性〕であると象徴してきた。そこで可視化も実体化もできない人間の本然であるメビウスの輪を寓意的に表現してみる。

fig1:メビウスの輪

メビウスの輪

自己幻想と対幻想と共同幻想を位相の違いを同一律が統覚している。3つの観念が次元を異にするとしてもそれらの観念は自己同一性によって担保され統覚されている。同一性が統覚する意識の平面の曲率はゼロである。ヴェイユは気づき、ベイトソンやベルグソンは至近まではきているが、それがなにを意味するか、どういうことであるか、かれらが理念としても実感としてもつかむことはついになかった。いくらかそのあたりのことを素描し、存在の複相性を往還することがどういうことなのか、ある可視化を行ってみる。

メビウスの輪ではわたしをたぐりよせていくとあなたになる。あなたをたどっていくとわたしになる。この不思議を根源の一人称と呼んできた。もし灼熱の光球に寓意される根源の一人称をそのまま生きてしまうと生のあまりの豊饒さに身を焼かれ身を滅ぼすことになる。それほど〔性〕は苛烈だ。あまりに激しいので〔性〕を家族に相転移することで生の恒常性を保つほかなかった。倫理も禁止も時制も存在しない灼熱の根源の一人称から身を護ろうとして同一性という公準に身を寄せることになった。メビウスの輪になった対の内包性の対称性が破れたのではない。わたしがあなたであるというずっしりかるい性がそれ自体の苛烈によって自壊して一人称と二人称に離接したのだと思う。この観念の粗視化によって巨大な思考の慣性がモダンな人類史的をつくってきたと言える。人間の本然をなすメビウスの輪になった根源の性それ自体のなかに還相の性がひそんでいるが、同一律に縮減されることで逆説的に根源の性から還相の性が躍りでることになる。メビウスの輪になった性は相転移し圧縮されて環界のなかに曲率ゼロの平面として貼りつけられる。それがつぎのfigだ。

fig2:メビウスの輪の圧縮

メビウスの輪の圧縮もとより暗黙の公理として同一律を陰伏した対象的世界は奥行きがなく平板な思弁にすぎないが、『神の発明』(カイエ・ソバージュⅣ)のなかで熊が人であるスピリットたちが逍遙する対称的な世界が自発的に破られたのはなぜかと中沢新一が問うている。非対称的であることを旨とする高神がスピリットたちが飛び交う対象的な世界を破壊し、王権が対称的な世界を挫滅させて支配することになったと俗知を披瀝している。典型的な唯物論であり実体的に対称性を語っている。吉本隆明も中沢新一も生の全円性の収縮の原因を外部に求めた。わたしたちの知るあらゆる思想家がそうであるように。そうではない。存在の複相性を往還すると種族語から神話をもつ王権へ至らないまったくべつの人類史が可能となる。環界のなかに収縮したメビウスの輪は曲率ゼロの平面となり、一人称、二人称、三人称が自己同一性によって措定される。しかし完全に平坦になることはなく、内包の痕跡がかすかな皺としてのこり、一人称と二人称の隙間に、心が身をかぎり、身が心をかぎる対幻想とは異なる、熱くて清冽ななにかが流れている。意識の同一性でそのなにかを取りだすことも可視化することもできない。そこでメビウスの輪に刻み目を入れことにする。思いがけないことがそこに出現する。

fig3:メビウスの輪に刻み目を入れる

メビウスの輪に刻み目を入れる

ここでは任意にテープの右端を一人称、真ん中を二人称、左端を三人称とした。幾通りもの組み合わせがあるので関心があれば組み合わせの数だけつくって験してみればいい。3つに分画された平面をはさみで切りひらいていく。そうすると始めのメビウスの輪はつぎのようになる。

fig4:メビウスの輪に刻み目を入れてできあがる2つの輪

2つのメビウスの輪

その線に沿って切り開くと、人間の本然を模式化したメビウスの輪はもう一捻りされ二捻りになった輪となり、はじめのメビウスの輪が二捻りになった輪っかとなって絡まっている。この全体を喩としての内包的な親族と呼んでみる。実際につくってみて、この絡まりの箇所を親鸞がなにより有縁と度すべしと言っていることに気づいた。この気づきは一瞬だった。この機縁によりはじめのメビウスの輪に比喩された根源の性は還相の性として表現されることになる。2回捻りが加わり、内包論では一人称は三人称になる。そして喩としての親族の全体を還相の性が統覚することになる。ふたつの輪が絡んでいるところが還相の性と寓喩される。けっして内面化も共同化もできない内包自然をこのように寓意的に表現することができる。あるいはこの全体を内包的な幼童と名づけてもいい。還相の性と還相の性が統覚する喩としての内包的な親族は意識の外延性を包越するおおきな未知の世界となってあらわれる。ここではじめてありえたけれどもなかったものを現にあらしめることができるようになる。人の本然をメビウスの輪となったひとつながりの〔性〕と考えると、そのメビウスの輪になった対称的な性のなかに喩としての〔わたしがあなたである〕ことを突きぬけて、ノンA=ノンBが表現されてしまう。内包自然の世界では喩としての内包的な親族は思弁ではなく、還相の性によって統覚される存在の全円性ということができる。存在の複相性を往還すると喩としての内包的な親族という幼童が出現する。このひとつながりの全体をどういうふうに駆動しても国家や交換の貨幣に至ることはない。意識の外延性が疎外した世界のなかに意識の内包性は、気づかれぬまま、むかしから、いまも、これからも、ありつづける。ここまで来るのに18年かかった。

かつて『guan02』の「まえがき」でつぎのように書いてわたしの思考は10年余完全にフリーズした。

<つまり、内包と分有の世界では人称がひとつずつずれて繰りあがり、繰りあがることで同一性が事後的に分節した三人称が、内包と分有に上書きされて消えてしまうのだ。それは分有者が直接に性であるからにほかならない。内包の世界では、分有者は二者にして一者であるから、あるいは他なるものが自らにひとしいものであるから、さらにひとりのままふたりが可能なるものとして生きられるから、三人称が存在しえないことになる。一人称が二人称をふくみもつということにおいて、世界は、〈わたしという性〉と、それ以外のものへと転位してあらわれ、同一性論理が三人称と名づけるあり方がこの世から押し出されてしまう。ほかならぬわたしであるということがそのままじかに性であるから、内包者は一人称と二人称を併せもつことになり、併せもつことにおいて内包者たちの相互の関係は、あたかも同一性論理においての二人称の関係に似たものとしてあらわれることとなる。同一性が人倫として語る善悪の彼岸ではなく、思考が権力の始源をはじめて無化する瞬間だといってよい。こうやって内包史という歴史があらたに立ち上がってくる。>

対の原像であるメビウスの輪という寓意はそれだけではまだそれ自体の構造をもたなかったと言える。長い歳月をかけ、わたしは根源の一人称をいくつかの概念で編み直し、存在の複相性を往還するとそこに国家や貨幣や政治がない世界のあることを明示することができるようになった。寓喩としてfigを眺めればこれまでサイトに書いてきた分かりにくさがいくらかでもほぐれるのではないか。手を伸ばすとすぐつかむことができような気がする。喩としての内包的な親族のイメージがとりつきやすくなっているはずだ。

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figを参照しながらこれまでサイトに書いてきた文章を読みかえしてみる。イメージしにくい、わかりにくい内包が少しだけ明快にならないか。

①<私は、あるものとそのものは、厳密には内包の関係にあって同一ではなく、あるものを往相とすれば、そのものは還相としてそれ自体に関係することを発見しました。このことを可能とする関与的な存在のことを根源の一人称とか内包存在と私は呼んでいます。根源の一人称によぎられて有即非有が現成するのです。有は非有に等しいだけではないのです。内包存在を分有する二つの存在者は存在の形式をそれとして保ちながら表現としては融即するのです。それがあるものがそのものに等しいということのほんとうの意味です。あるものが他なるものに重なるからこそはじめて「わたし」が「わたし」であるという自己性が生まれるのです。そしてこの自己性がじかに性であると内包論では考えます。>(「内包についてちょっと」)

②<あるものがそのものにひとしいというとき、あるものと、そのもののあいだに根源の一人称をおくとどうなるか。あるものとそのものは内包の関係にあるから、厳密には同一とは言えない。わたしがあなたであるということをつきぬけてしまうのだ。往相のわたしは、名づけようもなく名をもたぬこの根源的な出来事によぎられて還相のわたしとなり、あなたもまた還相のあなたになるのだ。同一性の論理からはこのことは神秘としてあらわれる。ここにおいて還相のわたしと還相のあなたは絶対矛盾的同一をなす。これはただならぬことなのだ。同一性はかろうじて形式を保存するだけで内容としてはすでに包越されているのだ。即ち同一性の彼方!>(『guan02』所収「テロと空爆のない世界」)

③<同一性のはるか手前に同一性の基になる、あなたがわたしのなかにいて、わたしがあなたのなかにいるというシンプルな世界の情動が存在する。この〔なかにいる〕ということが〔と共に〕そのものをなしている。このふしぎがあるから、存在の複相性の往還が可能となり、可視化と実体化をうけた存在の外延性がただちに内包的な存在へと転換することが可能となる。つまり〔と共に〕はいかなる意味でも自我や共同性となることはできない。あなたがわたしのなかにいる。この〔なかにいる〕ということは、わたしがあなたを至上のものとして意識するということとは違う出来事である。もしそうであるとするなら、すでにそれは人々によって考えられたことに属する。たとえば人間精神の夢を対幻想や神(仏)という超越として語ることがそうだ。〔なかにいる〕がノンA=ノンBを可能にしている。〔わたしがあなたである〕は、この〔なかにいる〕知覚によって往相廻向から還相廻向へと反転するのだといってよい。〔なかにいる〕のはわたしがかんがえるあなたがわたしのなかにいるのではなく、あなたのかんがえるわたしがわたしのなかにあるということが〔なかにいる〕ということなのだ。つまり〔なかにいる〕のはあなたのなかにいるわたしのことだといってよい。わたしとあなたが交換されて入れ替わった存在が互いのなかにあるということになる。これが〔なかにいる〕の本義だといえる。そのときわたしの〔なかにいる〕あなたはくるっと反転してわたしなのだ。もし、あるものが他なるものに重なるということがなければ、なぜ、あるものがそのものにひとしいというふしぎが起こるだろうか。あるものがそのものにひとしいという不思議にはこういった意識の位相的な変換がおのずから組み込まれている。わたしは意識の第三層と言い、自己意識の外延表現からここに触るものたちは意識の展延態として第三期の形而上学を想定しつつある。わたしは外延論理の自己という信や共同性の信の根をぬく内包という信が、還相の性のあらわれの領域として自己と、喩としての内包的な親族を可能とすると考えている。>「(歩く浄土248」)

④<意識は内包という観念の母型を分有することで、みずからに内包的に表出されたのであって、自己意識として自然から分離したものではない。自覚するしないにかかわらず、はじめから自己はふたりなのだ。<内包という母型から根源の性が弾けて心身一如の同一性的な生が表現され、自己の自己についての意識が分極し、自己の意識と環界が相互に規定し合い、さまざまな自然がつくられ、外延的な生は生の終わりに脱分極し、内包という母型に回帰する。生は内包と共に始まり、ある時間を外延的な生として生き、再び内包に回帰する。個人の生涯も内包から外延を経て内包に回帰し、歴史もまた内包から生まれ、一時期、外延史の世界を描き、やがて喩としての親族から内包という母型に回帰する。誕生と終わりのふたつの内包にはさまれて自己と歴史という外延的な表現が存在している。内包はみずからなる世界のおのずからなる〔性〕への相転移のことを指している。世界の理想を叙述するのではない。内包の思想はじぶんが夢となって生きることを可能とする。夢を語るのではない。じぶんが夢になればいい。是非を超えてここに外延的自然の死はない。>(「歩く浄土260」一部改訂)

⑤<存在の複相性を往還すると、この不思議は、はからいではなくおのずと生起する。国家へ向かう三人称の関係や貨幣の交換は内包的な親族と贈与の関係として内包的に表現される。こうやって親鸞の自然法爾をもう一度折り返し他力を包み込むことが可能となる。この事態をなんと言うべきか、まだふさわしい言葉はない。同一性的な外延知は還相の性が統覚する内包自然という観念の母型から派生していると明言できる。還相の性の派生態として同一的なものが言表されるということ。この関係は不可逆である。すなわち同一的なものは内包という観念の母型に回帰する。>(「歩く浄土259」)

⑥<意識の外延性が規定する死は内包という観念の母型のなかにはない。内包という自然から生誕し、存在の複相性を往還しながら、終命するとき内包という観念の母型に回帰する。どこにも死はない。今回人々に擾乱をもたらしているコロナ禍の思考の慣性の錯認はここに極まっている。意識の外延性を前提として科学知を擬装する共同の迷妄によって、コロナパニックという心身症に罹患し、その不安、恐怖がコロナ肺炎を未知のウイルスの恐怖を煽り、世界的な悲劇を招来している。それほどわたしたちの文明は脆弱だと言うことだ。>(「歩く浄土267」)

⑦<生誕と終命が内包という観念の母型に円環していることが、存在の複相性を往還することにつながり、そのことがリアルに感じられた。死が生の一部であることはたしかだが、では、生誕と終命のあわいの生涯、つまりわたしたちの個々の生ということだが、内包という観念の母型とどう関係しているのか。そのことがすこし言えたと思う。わたしの思惑としては、生と死という二項対立をわずかに組み替えることができた。存在の複相性を往還することで内包という観念の母型となめらかにつながる。この自然な過程のどこにも死はない。ここで言われる死は意識の外延性の終局の出来事である。どこに終命があるか。意識の外延性のなかにしかない。内包自然からすると死は生の一部でしかない。だから終命とは内包という観念の母型への生まれ還りである。性を内包した人間という生命形態の自然はそういうものとしてある。>(「歩く浄土268」)

寓意的な表現としてメビウスの輪を使い内包の手触りをつくろうとしたが、fig1とfig4のあいだにはおおきな観念の飛躍があることをつけ加えたい。根源の性を分有するという内包論の根幹の理念がfig4が寓意する喩としての内包的な親族によって還相の性が表現されるということだ。メビウスの輪になった根源の性はそれ自体としての構造をまだもたないから、一捻りのメビウスの輪とふた捻りの輪っかが絡まることによって還相の性が生まれ、その還相の性が内包自然である喩としての内包的な親族の全体を統覚する理念となる。この理念がなければ個人と共同性は意識の外延性がたどる思考の慣性の必然として永遠に同期するほかない。fig2は同一性の世界が粗視化した自然のなかに内包の痕跡が襞や皺として曲率ゼロの平面に折り畳まれいても、それをていねいに剥がしていくとfig1の根源の一人称が復元可能であることを示唆している。fig1からfig2を経て、褶曲した皺を伸ばしていくと、あたかもfig3の過程を経てfig4の世界が出現する。あるものが他なるものにかさなるばかりでなく、ノンA=ノンBとなる驚異は還相の性のなせる技である。ヘーゲルの同一性を礎にした有即非有の神秘も、自己を環界に融即するAIを信とする聖道門の竪超も、軽々と超えられる。

fig4は、意識の外延性のように国家や貨幣や共同体を疎外することなく喩としての内包的な親族という内包自然を表現できることを寓意している。存在の複相性を往還すれば、だれのどんな生のなかにも内挿されている総表現者をだれもがいやおうなく生きることになる。意識の外延性という巨大な思考の慣性の下では、親鸞の他力を覚知したものが3人以上集まれば、各自の思惑がどうであれ、またどういうつながりかたを模索しても共同性を疎外することになる。fig4ではじめのメビウスの輪がふた捻りした輪っかに絡まっているその箇所が親鸞がなによりも有縁を度すべきであると述べたことを象徴している。他力の覚者がfig4の全体を生きるとき共同性が疎外されることはない。ここにおいて他力や自然法爾が本懐を遂げることになる。

吉本隆明はかつてつぎのように言い書いた。若い頃この考えにであって驚愕し胴震いした。まったく未知の思考に遭遇しおおきな共感を持ってかれの思想への信を携えてその時代を疾走した。内包論は吉本さんの思想の未遂を継承し、かれの為しえなかった思想を拡張する途上にある。

<共同幻想が原始宗教的な仮象であらわれようと、現在のように制度的あるいはイデオロギー的な仮象をもってあらわれようと、共同幻想の《彼岸》に描かれる共同幻想がすべて消滅しなければならぬという課題は、共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題とともに、現在でも依然として、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である。>(『共同幻想論』所収「祭儀論」)

あらゆる共同幻想は消滅すべきであると吉本隆明は宣明したが、時代は変貌しあらゆる共同幻想が生を呑み込もうとしている。吉本隆明は共同幻想から降りる道を構想することなくこの世を去った。わたしは共同幻想をつくらない人間と人間の関係のありかたを内包論としてつくる途上にある。解けない主題を解けない方法で解こうとすることの不毛さは理念というより日々の実感としてあるといったほうがいい。内包論の世界のなかに生を舞う伸びやかな内包自然がおのずから大地に降り積もっている。同一性を公準とする意識の外延性が粗視化し巨大な思考の慣性となってコロナ真理の災禍まで到達した。

内包的な親族に寓喩される幼童の世界は意識の外延性の世界に内接している。あるいは意識の外延性の世界が喩としての内包的な親族に寓意される幼童の世界に内接していると言ってもよい。(ベイトソンについての論考につづく)

 

 

 

 

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