日々愚案

歩く浄土270:複相的な存在の往還-幼童について2

    1

内包論では書き手と読者という関係をまったく想定していない。この関係だとこの世のしくみを変えることができない。ましてコロナ禍を前触れとするだれも傍観者でいることができずいやおうなく巻き込まれる惑星規模の災禍に対抗しようがない。時代の趨勢として内面は削除され外界と同期する。書き手も読者も滅び行くものでしかない。それは明白だと思う。「感染パンデミック」が特集された雑誌で、アガンベンやジジェクの気骨のかけらもないコロナに怯えた文章を読んで、科学という名の宗教の迷妄性を疑うこともなく、免疫学や感染症がどういうものであるか、自前で考えたことがなにもない文化人の末路が哀れだった。素朴な内面信仰の崩壊。ただ絶望が縷縷述べられている。これがユヴァルも含めた人文科学知の惨憺たる現状だ。コロナ禍によって資本主義のフェーズが変わることは間違いないと思う。そのことによってなにか新しいことが始まるかというとそれはない。泥縄式に生活の再建をはかるしかないというのが実相で、じぶんも含め大多数の人にとって生活は実感としてより困難になってくる。

コロナパンデミックで科学知の迷妄に感作され、個人の内面はこの3ヶ月で消滅した。圧倒的にシュールな光景だった。みな、それぞれ呆然としていると思う。何があってももういいの、戻れなくてももういいの、天城越えの歌詞の一部だが、一瞬で、あっという間にこのように世界が変容することはだれにとってもなにがなんだかわからないままに、この例外状態が日常になる日々をわたしたちは生きている。おなじことを片山さんも考えた。

<これまで「内面」と呼ばれてきたものは、ほぼ地上から姿を消したように見える。たとえば「コロナ死」という誇張された情報によって、70億の内面が一夜にして恐怖や不安に染め上げられる。いまぼくたちは「コロナ」という共同幻想が、「人類共通の敵」としてほとんど瞬時に世界中の人々に共有された数カ月を生きている。

 歴史上、未曽有のことである。今回の「コロナ」を皮切りに、「死」や「貨幣」に匹敵する人類規模の共同幻想が、これからつぎつぎに捏造されてくるだろう。その都度、人々の内面は恐怖や不安や憎悪や歓喜を発色する。つまり内面は完全に共同幻想に侵食される。アマゾンで買い物をしているうちに、グーグルで検索をしているうちに、フェイスブックやツイッターで多くの人とつながっているうちに、いつのまにかそういう世界が出来上がってしまった。

 人は共同幻想によってはつながらない。恐怖や不安が、ときには善意や希望が共有されているように見えても、すべて擬制である。状況がひっ迫してくれば、ただちに医薬品や人工呼吸器やマスクや食料やトイレットペーパーの奪い合いが起こる。これまでは騒乱を治めるために貨幣だけが有効だった。これからは貨幣は必要ない。ネット上で拡散する一つの「コロナ情報」があればいい。各分野の専門家によって権威付けされた一つの情報によって、人々はいとも簡単に怯えたり、憎んだり、何かを敵視したり、自粛したり、閉じこもって移動や接触を控えたりするようになるだろう。>(片山恭一「今日のさけび」2020.6.18)

アガンベンやジジェクやナンシーのコロナ禍の緊急発言を読んだが、哀れとしか言いようがない。感染防御のためにウイルスを殲滅の対象とすることを自明の前提としている。発言にはなにも書かれていない。悄然と佇むコロナ風邪に戦慄とおびえと不安と恐怖で途惑っている文化人の無惨な姿があった。科学知の思考の慣性によってかれらの身体は貫かれている。そこにあるのは思考の慣性としての俗知でしかない。コロナ禍をただ受容しながらなんの意味もない屁理屈をこねくり回していて、醜悪というほかない。なにも今回の新型ウイルスにかぎらずわたしたちのまわりには無数のウイルスや細菌がいる。古い免疫系のマクロファージやT細胞やB細胞は抗原抗体反応なしにウイルスを駆除している。COVID-19にたいしてもMHC(主要組織適合遺伝子複合体)が感染防御する。また古い免疫系とともに生物が陸棲化してつくられた新しい免疫系との絶妙な免疫の相互作用が感染防御として作動する。因果関係はまだわからないが、東アジアでの頻回のコロナかぜ感染の交差免疫やBCGが古い免疫系を賦活して、日本では死者数も感染者数も比較的低く推移していると推測される。根本的な問題は科学という名の宗教に諸文化人が感作され、戦慄と恐怖と不安に煽られて、がん同様、COVID-19を殲滅と撲滅の対象である敵と認識し、そこで思考停止している無様さだ。不安や恐怖というストレスによる急激な免疫力低下や、そのストレスによる視床下部-下垂体-副腎皮質系の過剰適応による複層的な持続ストレス反応がCOVID-19が引きおこしているコロナ禍の核心だと書いてきた。科学知の共同的迷妄に骨の髄まで脅迫されたかれらの言葉を少しだけ抜き書きする。

<この国を麻痺させたパニックの波がはっきり示している第一のことは、私たちの社会はもはや剥き出しの生以外の何も信じていないということである。・・・剥き出しの生-剥き出しの生を失うことへの恐怖-は人間たちを結びつけるものではない。人間たちの目を見えなくさせ、彼らを互いに分離するものである。・・・生き延び以外の価値をもたない社会とはどのようなものか?・・・諸政府がしばらく前から私たちを慣れさせてきた例外状態が、ほんとうに通常のありかたになったということである。・・・自分の生が純然たる生物学的なありかたへと縮減され、社会的・政治的な次元のみならず、人間的・情愛的な次元のすべてを失った、ということに彼らは気づいていないのではないかと思えるほどである。>(ジョルジュ・アガンベン「説明」2020年3月17日『現代思想』2020年5月号)

<私は人びとのあいだの理想化された連帯へ訴えかけるつもりはない。逆に現在の危機は、グローバルな連帯と連携がわれわれそれぞれの、そしてわれわれ全員の生存にとってどれほど〔必要で〕あり、為されるべき唯一の理性的且つ利己的なことであるのかを、明白に示している。・・・たとえ生活がようやく正常へ戻ったところで、それは大きな出来事の後では、われわれに馴染み深かったのと同じ正常ではないということである。われわれが日常生活の一部として慣れ親しんでいたものは、もはや自明のものではなくなっている。・・・われわれは深刻な脅威を扱っており、生活様式を全面的に変えるしかない。>(スラヴォイ・ジジェク「監視と処罰ですか?いいですねー、お願いしまーす!」『現代思想』2020年5月号)

気骨のかけらもない科学知から脅迫されているだけのうなだれた言葉を聞いても仕方ない。コメントをつける気にもならない。

疫病・飢餓・戦乱・天変地異のさなかにいた浄土教の教義を解体した親鸞は最期にどこにいたのか。絶望することのできないずっしりかるい世界を揺蕩っていた。私見を書いてみる。解体された信はどうなるのか。幼童を生きることになるのではないか。仮に文明化された人類史を1万年と考えると、先史時代を通じてなにも変わっていないと考えてよい。内包は足元の直下に変わらぬ事としてあり続けている。親鸞の言葉を借用すると、存在の複相性の往還は横超と同じことになる。内包は人類史の激変を、その前触れであるコロナ禍を、軽々と超えて行く。

世界システムの属躰としてのタグ付けられたデータの端末がかつての個人の識別となる。そういう時代がすぐやってくる。いやもうすでにその圏域に入っている。書き手と読者や、内面と外界の図式では対抗できない文明史の大転換がもうそこまで来ている。アフターコロナを予兆する行動の変容も、AIとブロックチェーンのビットコインと生物工学の融合は、言語と貨幣と生命のあり方を根こそぎ転換することになる。そんなことにはなるまいと思っている、そこのあなた。少年の頃にスマホが身体の一部になると考えたことがあるか。世界のどことでも双方向に意見の交換ができると想像したことがあるか。なにより自身がSNSの発信者となることをイメージできたか。テクノロジーが人間のありかたを一変しようとしている。この変化は観念の自然的な変化だから止めようがない。その流れのなかで人間という概念が一度も成就することなく終焉してしまう。深刻なことだと思う。嘆いてこの事態を回避できるか。同一的なものを実有の根拠とするかぎり、分子記号的データの端末になるしかない。そのことに是非はない。

ひとはもともとふたりでしかないから、個人は国家とおなじように同一的な思考の慣性が粗視化した虚構だと思う。未知の新型ウイルスCOVID-19で煽られた不安や恐怖が感染防御を一義的とする真理を捏造し、べつの真理があることはあらかじめ排除され、捏造された真理をどう解釈するかが世界を覆っていった。うそにうそが塗り重ねられていき、宗教となった科学知の真理が世界を蹂躙する。こんなちゃちな真理で統御されるのがわたしたちの世界だ。

    2

コロナ禍のさなかで、コロナ後に残る現存する作家の一書をあげよと言われたら、大橋力の『音と文明』だとためらいなく言う。かれの考えたことはコロナ禍によってなんの撹乱も受けない。なんと、西欧の偉大な音楽といえども空気の振動にすぎないと喝破した。言われてみればたしかにそうだ。さらに世界にはさまざまな音楽がある。かれの察知したこととわたしのそれはとてもよく似ている。同一律の支配する世界の論理を言語脳と言い、言語脳を強化した奇怪なデジタル脳の情報量は、前言語脳の持ち主であるマカク猿にはるかに劣ると、デジタル音楽を熟知した音楽家大橋力が言う。憑かれたように大橋力の音と文明についての感想を息を詰め書き継いでいたら心の不穏が起こり運良く生還した。2年数ヶ月ぶりに大橋力の考えを追尋する。この数ヶ月、世界は科学という名の宗教によって引きずり回され、コロナ禍という厄災のなかで、科学知のもつ迷妄性に世界が一瞬で呑み込まれた。わたしの知るかぎり若い神経内科医田頭秀悟さんだけが突出した達見を提示し続けた。それは目を剥くような優れた見識だった。事件の渦中で世界の思考の慣性を向こうに回し、退路を断ち自分の見解を示すことはきわめて困難である。田頭さんの立ち振る舞いは胸のすくような光景だった。かまびすしく自明のことのようにして語られる規範的なコロナ対策がある。だれもかれもおなじことしか語らない。生府の専門家会議を批判するものも新型コロナウイルスを悪とし殲滅することがなんの疑いもなく感染防御の真理となる。

<この国では数学者の岡潔や解剖学者の三木成夫や音楽学者の小泉文夫やスーパーソニックの大橋力たちが、西欧的な知性とは異なる知の系譜を連綿とつくってきた。岡潔は考えた。「人には心が二つある。大脳生理学とか、それから心理学とかが対象としている心を第1の心と呼ぶことにします。(略)ところが人には第2の心があります。(略)この心は無私です。無私とはどう云う意味かと云いますと、私と云うものを入れなくても働く。又私と云うものを押し込もうと思っても入らない。それが無私。それからこの心のわかり方は意識を通さない。直下にわかる。(略)芭蕉は、秋風はもの云わぬ児も涙にて、と云ってますが、秋風が吹くともの悲しいですね。このもの悲しいと云うのは私がもの悲しいんじゃないでしょう。つまり喜怒哀楽じゃないでしょう。自からもの悲しいんでしょう。又、もの悲しいと意識しないでしょう。直下にもの悲しいんでしょう。だからもの悲しさも第2の心がわかるんですね」(「一滴の涙」1970年5月1日 於:市民大学仙台校)岡潔は人には心がふたつあることを数学で表現しようと生涯格闘し果たせぬまま逝った。岡潔の言う第二の心は東洋的な共同幻想の情緒だとしてもみごとな心意気だったと思う。岡潔や三木成夫や小泉文夫はなにをいいたかったのだろうか。どこに行きたかったのだろうか。いずれにしてもかれらの試みがビットマシンの外延革命に呑み込まれることはないように思う。フーコーの、主体は実体ではなく、真理は他性によってもたらされるという発見もまた。>(「歩く浄土222」一部改稿)

<語りえぬことについては沈黙せよと言ったヴィトゲンシュタインの格言がどんどん可視化されてくる。脳の機能とコンピュータのそれと代わり映えがしないということもできる。分量の多い本だが、おもしろい。偉大な書物であると思う。意識の視野にあがらない非言語的思考は三木成夫や小泉文夫が得意としていて高橋力もこの意識の系列に属しているようにみえる。大橋力は音を媒介に意識の幅を拡げようとしている。読み進めるにつれて『音と文明』のすごさがわかってくる。興奮しながら頁をめくっていく。もしわたしがマルクスで現在を生きていたら、資本論ではなくビット論もしくは分子記号論を論じるだろう。言語脳はデジタルで前言語脳はアナログだという生のリアルから、音楽制作の現場で音のデジタル編集をやりながら、デジタルをはるかに超える始祖鳥のつばさの音を大橋力はつかんでいる。ビットマシンを駆使しながら、やわらかい生存の条理を表現する途方もない音楽家であり思索家である。>(「歩く浄土245」一部改稿)

大橋力の『音と文明』を内包に引きよせながら咀嚼する。聴覚が視覚と連合し聴覚言語を文字言語にした。文字言語がアルゴリズムで記述されることはいうまでもない。脳は感覚・知覚・認知機能の錯綜した機能の総体として存在している。脳の最上位のOSへ言語脳モジュール側のローカルなOSとしての〈意識〉から送るメッセージは同一性を意識の源泉として疎外した。大橋力によると、脳全体のOSは基本的には多次元で働かなければならないが、下位にある制御対象のワン・オブ・ゼムとして従属する言語脳モジュールとの高度な同期が要請された場合、内臓感覚の激痛と似た意識の専制という脳機能の狭窄が起こる。

旧世界ザルに属するマカク類は哺乳類ではあっても真猿類なので言語脳をもってはいないが純粋な非言語脳を所有している。ローカルな言語脳モジュールのうえに前言語脳がもっとも基本的な脳としてかぶさっているというのが大橋力の主意だ。脳本体のOSは多次元的なものであるが、下位のOSのひとつにすぎない言語脳モジュールが脳本体に同期を強いたばあい意識の専制が支配することになると警告する。大橋力は前言語脳が言語脳の理性に先行すると考える。

肝心なところなので長くなるが引用する。

①<・・・現生人類では、視覚の存在が前提になる筆記描写の能力が飛躍的に発達し、脳内の情報を外部にとり出すとともにそれらを固定し記録することが可能になった。さらに、他の感覚現象が視覚系へ可逆的に変換可能になる場合がある。これらによって、私たち人類では、それまでの地球生命には見ることのなかったきわめて高度な知能活性が出現している。そのもっともめざましい例が「文字の使用」、つまり言語音声という聴覚系の担当する空気振動現象を視覚系に変換する仕組であることに異存はすくないだろう。一方、あまたの古代文明に源を発する絵画のような具象的描写、そして、特にルネッサンスから近現代にかけて爆発的に発達して科学技術文明を開花させる不可欠のツールとなった設計図やブロック・ダイアグラム、そして五線譜のような抽象的なグラフィック表現のすさまじい威力についても、指摘しなければならない。これらは、高等哺乳類の中でも特に人類において極度に発達してきた大脳新皮質、とりわけ理性の座といわれる〈前頭前野〉の活動のコピーを躰の外に取り出すことを実現し、その機能の著しい増幅と安定化をもたらした。それとともに、人間の個人差や主観を超越した客観的・普遍的な情報処理を大きく助けている。
 このように、視覚の働きによって「記録」「伝達」「比較」「論理」「演算」「推論」「計量」「モデル化(構造、連関、因果関係等の可視化)とその組換え」などにかかわる脳の働きが、とりわけ現生人類において桁外れに、というよりはむしろ際限なく、増幅され加速されてきた。
 このような視覚系の情報処理機能は、特に、聴覚系の情報を二次元平面上の記号配列として精密に描写する機能をあわせもつことによって、飛躍的に拡張されている。それは、元来は聴覚系に依存する音声現象として人類史に登場した言語が視覚媒体である文字によって置き換えられ、また音楽が同じく楽譜によって置き換えられてしばしば主客が転倒する状況に導かれている現実によって充分理解できることだろう。>(『音と文明』9~10p)

②<・・・私たちのモデルにおいて「主」となる非言語脳本体にとっては、意識というモニター回路を通じて言語脳モジュールの状況を悉(つぶさ)に知ることが有意義であり、それを実現しているけれども、「従」として付随する言語脳モジュールには脳本体の全貌をモニターする意義がなく、そのための回路が高度に整備されている可能性もほとんど考えられないからである。仮に非言語脳機能の高忠実度モニター回路を整備しようとすると、その複雑大容量高速性によって、現在の何倍に達するかわからない脳の巨大化が必要になるだろう。つまり、デカルト的概念としての意識は、言語脳モジュール自身についてしか悉に知ることも語ることもできない。それにもかかわらずこの意識に脳機能の中枢を担わせるという倒錯に陥ると何が起こるだろうか。
 まず、意識の専制が脳本体のOS本来の多元的・包括的動作を占拠して一次元の逐次的言語処理に閉じこめてしまうことは、体験の承知するところである。これによって、元来、言語機能が非言語脳を通じて具象世界そして物質世界へとつながり客観的な実在と連結していた回路が断ち切られ、実在による拘束が外れて「思考の自己運動」すなわち情報のひとり歩きが可能になる。いわゆる「形而上学」は、このパターンの思考に対する強く肯定的あるいは否定的に美化された呼称かもしれない。
 このとき発生する次の深刻な問題は、意識の実体をなす言語脳モジュールでの論理的思考の真偽や正否が、閉じられた孤立系内での記号配列フォーマットへの忠実性あるいは無矛盾性だけで、つまり〈語〉や〈記号〉を列(なら)べる手続きの自己規則遵守性だけで決定されるという「心」の状態が出現することである。こうなると、言語脳モジュールが意識を通じて告げるメッセージは、真偽や正邪のいかんにかかわらずすべて「真理」としてふるまい始め、理由のない確信がとめどなく増殖を重ねるようになる。それは、奇怪で不幸な事態をほとんど恒常的に招きよせる。すなわち、非言語脳本体のもつ進化史上の実績に支えられたきわめて確実性の高い現実認識や信頼性の高い多次元思考というものが、それに較べてはるかに次元が低く誤りの度合が高いに違いない言語脳機能によって確信的に蹂躙されるのである。>(同前 223~224P)

大橋力の「記録」「伝達」「比較」「論理」「演算」「推論」「計量」「モデル化」は同一性のアルゴリズムとして一括できる。下位の言語脳による意識の専制を批判する。大橋力の非言語脳や前言語脳の概念はおおまかには内包の幼童に、言語脳の作用は意識の外延性に対応すると考えられる。

かつて書いたことを再掲する。

<ここでも大橋力の言語脳と非言語脳を比喩として読み、むしろ言語脳と前言語脳を横断する親鸞の横超に近いことをわたしは考えている。旧脳に新脳が積層してホモサピエンスが誕生し、あるとき流動的知性が因果を超えて発生したと認知考古学は主張するが、この考えも比喩として読んでいる。言語脳と前言語脳という対位が言語脳的だということもできるからだ。存在に観念の裂け目をいれることは言語脳なのか、前言語脳なのか、わたしは決定不能だと思う。複相的な存在の往還は言語脳か前言語脳であるかに依存しない。ただ人間の観念にとって三度目の裂け目があたらしくつくられようとしていることはたしかで、音から文明史を巻き直そうとする壮大な試みを大橋力は意識の外延性に身をまかすのではなく、意識の外延性を包もうとしている。

言葉が言葉自身を生き始めるとき言葉は性になる。この言葉は同一性の手前に、ある領域としてあり、わたしはこの領域のことを意識の第三層と名づけてきた。意識の第三層の奥まった場所にマカクザルの脳本体の知覚よりふかい意識があると内包論で考えている。サルであってサルをはみだした出来事によぎられてヒトは人となった。そのことは偶然の必然であって、言語脳モジュールにも脳本体にも依存しない。いずれにしても言語脳モジュールであれ、前言語脳であれ、非言語脳であれ、意識の外延性は、生というちいさな自然の躰と集団の掟を実装する。それだけはたしかだと思う。なぜ大半の人は目先の実利に溺れるのか。共同性と同期する内面を自己と観念しているからだ。内面のなかにも、内面を粗視化した共同性のなかにも固有のものはない。迷妄というほかない思考の慣性のなかに生も歴史も閉じられている。>(「歩く浄土245」一部改稿)

<大橋力は言語脳モジュールの意識をデカルト的理性になぞらえ、脳の進化史で累層してきた脳の構造と機能が言語脳のモジュールに先行して存在すると言う。生物学的な常識でどこにも奇矯なことはない。大橋力はデジタルな言語脳の機能のことをローカルなOSと呼び、前意識という意識に昇らない意識のことをアナログ脳と比喩し、このアナログ脳に基本OSがあり、言語脳モジュールのデジタルな意識ではアナログ脳に到達できないと主張する。意識が導く反応は、脳に付帯する言語脳モジュールという一臓器から脳本体に送られたシグナルを脳本体が解読させる〈自覚される体験〉の中に含まれることになる。脳本体の働きとしては感覚・知覚・認知機能を統合するより高次脳機能の多次元的理解が想定されるべきである。このOSは多次元連続大容量の機能モジュールとして完熟しており、言語脳モジュールの意識である一次元の小容量離散的逐次言語処理はローカルなOSにすぎないと大橋力は言う。デカルト的言語脳モジュールはわたしの言い方では意識の外延表現と対応している。つまり意識の外延性とはことなる意識の内延性があると、大橋力は音を手がかりに未知の雄大な知のありかを探索している。また言語脳モジュールの意識の専制を固い生存の条理、前言語脳の意識の全体性をやわらかい生存の条理の比喩として『音と文明』を読み継いでいる。あるいはもう少しべつの言い方もできる。言語脳モジュールによるデカルト的意識の専制を前言語脳の意識の派生態とみる大橋力の方法論を意識の外延性にたいする意識の内延性と呼ぶこともできる。デカルト的意識は内面の理性をとおして共同性へと同期する。どれほど緻密な内面であってもあらかじめ共同幻想が意識に潜在して内面にコーディングされている。だから大橋力は意識の内面化ではなく、意識の内延化の可能性を、流動的知性の賜である言語脳モジュールの意識に先立つ脳本体の多次元大容量の解明のなかに求めているのだと思う。つまり大橋力の前言語脳をもつマカク猿は言語脳モジュールの線型的な意味の体系よりも豊潤な世界をもつ多次元的なものの象徴として存在している。

言語脳モジュールと意識の始原をなす前言語脳が意識の外延性と意識の内延性に対応していると考えてみると、言語脳モジュールの意識の専制主義を相対化するものとして前言語脳が位置していることが理解される。内包論では意識の外延性や意識の内延性を包む表現を存在の内包性と考えている。ていねいに読み込んでいくと、意識の専制をやわらかく解きほぐそうとして大橋力は言語脳モジュールの意識の優位をデジタルな文字という書記以前の脳本体の複雑性に還元したがっているようにみえる。かりに前言語脳の意識が意識の内延性であるとするならば、意識の内延性もまた意識の外延性が空間化されたものではないか。>(「歩く浄土247」)

わたしたちは安易に大脳新皮質を厚くした言語脳を前言語脳より優れたものだと錯認している。ところが大橋力は、旧世界ザルに属するマカク猿のアナログ脳は現生人類のデジタル言語脳より、はるかに多次元連続大容量の基本OSであると言う。偉大な音楽といえどもたんなる空気の波動ではないかという大橋力の強い直感力が遺憾なく発揮されている。採音し作曲する行為と採字し文章をつくる行為は歌い・踊る・ことばの根源のモダンな思考の表現型である。ローカルな言語脳モジュールは一次元離散情報の逐次処理のアルゴリズムとしてあらわれる。脳全体のOSの部分にすぎない言語脳の専制は、腹部の激痛という臓器感覚に比喩されている。なんとならば、脳もまた臓器のひとつにすぎない。「クレタ人はいつも嘘をつく」というエピメニデスのパラドックスをアルゴリズムで解くことはできない。大橋力のデジタル言語脳優位にたいする辛辣な批判がここにある。わたしはきわめて妥当な考えだと思う。

ここでわたしが大橋力の方法を外延の内延化と呼ぶものはデリダの差延と似ているような気がする。どれほど緻密に対象を粗視化しても、外延を逃れるようにしてその外部がある。デジタル脳を包摂する多次元連続のアナログ脳があるとき離散的な逐次処理しかできないデジタル脳は脳の全体の働きに遅れてしか到達できない。このことをデリダは差延と名づけている。

さらに立ち入れば、アナログな前言語脳は複雑性の生の条理に属し、デジタルな言語脳は線型の固い生存の条理の条理に属する。言うまでもなく線型の論理は同一性によって作動している。言語脳というアニマル・コンピュータのありように前言語脳の聴覚・視覚・意識が先行し優位にあることを詳述している。言語脳のデジタル化が意識の線状性を急峻に昇りつめて文明史の転換を予兆するコロナ後の社会にあっても大橋力の『音と文明』は変わりなく聳えている。大橋力の大きな思考のうねりにセクシーをつけ加えると内包論になる。霊長類でありながらアニマルなコンピュータである生命形態の自然生成である適者生存の条理をつきぬける性を発明したセクシー・アニマル・コンピュータな人間のなかにある意識の第三層をいまわたしは幼童と名づけようとしている。

   3

宮沢賢治の擬音を人間の真ん中にある自然から聞こえてくる韻律のようなものと考えてみる。初源の韻律を擬音と仮定する。宮沢賢治の詩に、デデッポッポという意味不明の言葉があり、吉本隆明もハイ・イメージ論の最後で、デデッポッポを取り上げ、わからないと投げ出していた。心身一如の自己を起点に擬音を解こうとするとだれがやっても解けない。ソシュールであろうと、ヤコブソンであろうと、チョムスキーであろうと、吉本隆明であろうと、言語は、韻律、選択、転換、喩の過程を踏むことになる。同一的なものでは解けない言語のなぞがここにある。

<言語の表現を、ややつきつめてみてゆくと、表現の内部にいくつかの共通の基盤が抽出できることにすぐに気づく。この共通性は言語の表現の長い歴史が体験として蓄積したものである。これを表現の体験がつみかさねられた結果としてみるならば、歴代の個々の表現者が必然的に、あるいは不可避的につくりあげた共通性である。しかし、この共通性は、いったん共通性として意識されると、自覚的に表現者によってつくりだされる。このような過程は、人間が対象的に行なうことにいつもつきまとう問題であり、言語の表現にだけ特有なものではない。この言語表現の内部で抽出される共通の基盤は、表現としての韻律・撰択・転換・喩とよぶことができる。>(『言語にとって美とはなにか』勁草書房版 吉本隆明全著作集6 104P)

母音のつぎに言語の共通性として韻律・撰択・転換・喩がある。わたしの読み方では、意識の外延性として韻律・撰択・転換・喩が言語表現の共通の基盤をなしていることになる。韻律・撰択・転換・喩は同型の理念として語られている。わたしは韻律と喩は撰択と転換とはまったくちがう意識のありかたであり、同一性を暗黙の公理とするほかに韻律と撰択・転換・喩がつながることはない。わたしの考えでは初源の擬音に比される韻律は共同化ができない。それが宮沢賢治のデデッポッポだと考えた。選択、転換、喩は共同の符丁であることが暗黙の前提とされている。せーので、歌い踊り手拍子するとき、共同の符丁、つまり共同の規範がなければ、面々が互いの顔を見ながらひとつの歌をばらばらに懸命に歌うことになる。そこで母音の次にくるもっとも初期的な韻律をデデッポッポと考えてみる。人びとがまだ共通の符丁をもっていなかった陽気な面々が暮らしていた悠遠の太古だ。この仮説を小泉文夫の『音の根源にあるもの』が誘発した。この本のなかで自然民族の音楽について書かれた文章が長年頭の片隅にひっかかっていて、それがどういうことがずっとわからなかった。ふいに解けない方程式が解けたような気がした。韻律はメビウスの輪にすると喩につながるが、共同性を疎外することはない。まだだれも気がついていない。ここをうまく取り出すと、コロナ後の酷薄な現実は、現実的に超えられることになる。

スリランカのベッダという種族に小泉さんが問う。

<「あなたたちは、どんなときにうたいますか。」「いろいろな歌があります。」でも、歌を聴いてみると、病気を直すときの歌も山の中を歩くときの歌も子守歌もみな同じメロディです。一つしか歌がないみたいなのです。これはベッダに限らず、たいていの民族がそうです。もしかすると日本人もそうかもしれないですね。たいていの民族はただ一つしか持ってない。そのほかの歌もあとから入ってきますけど、ほんとうには身につかないのですね、なかなか。ベッダも一つしか歌がない。それでおもしろいのは、「みなさん、いっしょにうたうことがありますか」、「あります」というのです。猪なんか捕ったときに、猪は一人で全部食べられませんから、大勢でいっしょに食べるわけです。そのときにいっしょにうたう。「じゃ、かりに猪をこれから食べようというつもりで三人でいっしょにうたってください」。これからその三人の合唱をお聴かせします。〔テープ〕
 何のことはない、三人で別々な歌を同時にうたったのですね。(笑)だけど、とてもうたい方は感動的だったですね。うたいながらほかの人たちの顔を見て、こちらのほうが一生懸命うたっていると自分も一生懸命うたうのです。あまり長くなってくたびれて何となく向こうが静かになると、じゃ、こっちの人も、という具合にとても気持を合わせているのです。ほんとに仲間意識というか、いっしょにうたいたいという気持がそこにあふれているのです。ただ残念ながら、いっしょにうたえない。そして同じ歌というものがないのです。メロディはよく似ているし、スタイルも同じようなのですけど、正確に同じでない。人間が違えばそれぞれ違う歌になってしまう。
 だから、先ほど私が疑問に思った、もしかすると共同社会、あるいはいっしょにごはんを食べるために、食糧を獲得するために働かなければならないという、そういう運命の中におかれなかった人たちはいっしょにうたうことができないという仮説は、ベッダの場合にも確かなのです。私たちのことを考えてみると、ぼくたちはどうして「シクラメンのかほり」だとか「しろじにあかく」だとかうたうことができるのだろうか。それは、習うからですね。必死にお勉強するから、幼稚園のとき、保育園のとき、小学校、大学なんてところで習ったり、楽譜を読んだりして、そうやって一生懸命身につけていく。自分の音楽でない、ほかの人が作った音楽を。だから、やっと拍子もとれるし、歌もほかの人と同じものがうたえるようになる。私たちが人間だからではない。私たちはいっしょに暮らさなければ、そのルールを守らなければ、規則どおりに学校に行かなければ暮らせないという、がんじがらめの社会の中に生きているから、ふだん歌がうたえるのです。
 そういうふうにして考えてみると、私たちが音楽的だと考えていることが、ほんとうは人間の不幸の始まりかもしれない。エスキモーのことを老えてみると、私はほんとうにそう思います。エスキモーは自然なところで生活していて、何にも苦労がなくて、まあ、いろいろな私たちの知らない苦労がいっぱいありますけれども、しかし階級制度というものはない。不動産っていうのがないですからね。だから、総理大臣が全部土地を買い占めちゃったとか何とかいう話は、全然エスキモーの社会にはない。したがって、その遺産を次の子どもに譲ろうなんていう、そういう財産というものがない。土地は凍っているだけですから、何の価値もない。したがって、財産がないから身分の上下がない。偉い人も、金持も、貧乏人も、何にもない。あまりにも単純といえば単純ですが、しかしそれだからこそ音楽の構造も至って簡単なのです。すばらしい音楽を持つということと人間の不幸とは、何か直接の関係があるような感じがしています。>

言語は韻律・選択・転換・喩という共通の指標をもつが、韻律以降は、だれのどんな言語学も、あるいは言語の表現理論も共通の符丁を暗黙の前提として成り立っている。わたしは内包論で韻律と喩を位相的に変換し、メビウスの輪のようにつなぐことはできないかと考えている。控えめに言ってわたしが世界の言語理論や表現の概念にあらたな理念を付け加えたと自負している。これまでだれも気がつかなかった。わたしたちの当面している適者生存の酷薄はここで転換する。小泉文夫の音楽の根源にトッドの初期人類は核家族であるという発見が垂直に降り立つ。人々が忘れ去って久しいもっとも裸形の〔性〕が悠遠の時代を経てなお変わらない出来事としてわたしたちの生の脚下にあるということだ。ほんとうにダイナミックな光景だと思う。

エマニュエル・トッドは『家族システムの起源』についてのインタビューで答える。

<あの本は、純粋に歴史人類学の研究書です。この本の基本的な命題は、核家族というのが原始的な家族の形だということです。あらゆる共同体的モデルの複雑な家族システム、中国タイプであれ、ロシアタイプであれ、あるいはいとこ同士の結婚を認めるもっと複雑なタイプであれ、それらは、かつて家族の形としては遅れたタイプと見られていました。しかし、私はそれに対して「ノン」と言ったわけです。そうした形こそ、歴史を経て形作られてきたものなのです。最も自然な家族の形は核家族なのです。これは、歴史を理解する上で重要な結論をもたらします。>(エマニュエル・トッド『グローバリズム以後』)

『家族システムの起源』では次のように書かれている。

<現地バンドは、核家族なり独身の個人がいったん所属したらそれっきりというような、凝固した構造物ではない。息子ならびにその配偶者と子供を自動的に成員と定義する父方居住原則によって構造化されているわけでも、娘ならびにその夫と子供を成員として指名する母方居住原則によって構造化されているわけでもない、原初的現地バンドは、加入に関しては、選択と柔軟性を特徴とする。それこそがシステムの「未分化性」もしくは「双方性」の基本的な論理的帰結に他ならない。若い夫婦は、夫の家族の集団に加わることもできれば、妻の家族の集団に加わることもできる。選択の可能性があるということは、その見直しの可能性にも道を開く。選択の当然の帰結とは、柔軟性にほかならない。これこそが未分化の〔無差別化された〕システムの主要な様相の一つであり、父系であれ母系であれ、単系のシステムというものの硬直性と対照的な点なのである。
 家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的なものとは見えない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的逆説なのである。逆に、かつてはヨーロッパの人類学から古代的なものと見なされていた形態(不可分の大家族、直系家族)の方が、歴史の中で構築されたものとして立ち現われることになるだろうし、いかなる場合にも、原初性の残滓として立ち現われることはないだろう。一夫多妻制や一妻多夫制も、起源において支配的であった一夫一婦制からずっと後の発明物として現われることになろう。>(『家族システムの起源 上』44~45p)

このことについて次のように書いた。

<「未分化性」や「双方性」という概念はとても太い。母系制や父系性、交差イトコ婚はよく知られているが、従来の人類学では知識が断片的で説明の論理が入り組み、いったいなにが言われているのか理解しがたい。婚姻のしくみや財産の相続がどうなっているかなどどうでもいいではないか。いつもそんなことを感じていた。父系性や母系制が制度化されるまえにもっとシンプルな核家族が原初に存在したとトッドは言うのだ。わたしたちの思考の慣性は、群れ状態のなかから王があらわれ、衆生が虫木草魚として地を這いずるように生きるというイメージが初めにある。三人称から一人称が長い時間をかけて立ち上がってくる過程を歴史と考えがちだ。モルガンの『古代社会』からすると観念の革命だ。起源として提示される家族の原型。人は性から来たりて性に還る。このどこにも交換や国家という共同幻想はない。人が根源において〔ふたり〕であることのあらわれが家族である。このシンプルな原理。他に欲しいものはない。>(「歩く浄土151」)

いまわたしのなかでトッドの核家族と小泉文夫の音の根源にあるものが結びついている。

なぜこのようなことを考えるようになったのか、掲載済みのサイトの記事から拾ってみる。擬音というオノマトペをわたしは広義の〔性〕の表現と考え、擬音についていくつかサイトの記事で書いてきた。不可解な擬音が宮沢賢治の言葉遣いのなかによく出てくる。この擬音をどれほど拡張しても民族語の無意識のリズムには接続しない。睦み語を共同性の媒介にすることはできない。媒介だと考えると、宮沢賢治の擬音は普遍的な喩としてこの国の古語に順接し、記紀万葉の世界と接続する。国家をつくらない根源の性がある。それは知解ではなくわたしの体験的なリアルである。宮沢賢治の擬音は国家の手前にある。なぜこうなるか。言語表現の内部の共通基盤を、韻律・撰択・転換・喩とするとき、意識のおなじ平面でなめらかにつながるように擬装されている。わたしの内包論では賢治的な韻律はひとひねりすると喩となってつながっている。なにか意識の幾何学が違うと思ってきた。

擬音について考えてきたことを経時的に貼りつける。

①<かつて古典語と古典詩歌がはじめて文字によって記述されたとき、ほとんど民族語の無意識のリズムによって、最初に普遍的な喩の固有性があらわれた。この作者が修辞の流れという概念を言葉の表記の段階という概念におきかえたとき、当初に民族語リズムが喚起したとおなじことに当面した。このことはこの作者の普遍的な喩の概念が限界まで遠く達したことを意味していたとおもえる。>(吉本隆明『ハイ・イメージ論 Ⅱ』所収「普遍喩論」)

吉本さんの考えについて次のように書いた。

②<吉本隆明は《かべ いいいい い/なら いいいい い》や《デデッポッポ/デデッポッポ》という擬音語を普遍的喩と呼び、民族語の無意識のリズムと解しました。文明の必然史から言えば吉本隆明の独創したアフリカ的段階とおなじことを意味しています。自己意識の外延表現としては極限的な理解と言えます。
わたしは吉本隆明さんと違うように考えることができると思います。それは吉本隆明さんが宮沢賢治の作品を文字による記述の第三の段階として論じているところです。かれは宮沢賢治の作品を普遍喩論として論じながら言います。「だが第三段階になると違う。作品の運命は遠ざかり、ただ作品の無意識のなかにしまいこまれる。それと同時に作品はじぶんじしんの運命にたいする他者の表現をうみだすのだといっていい。わたしたちが普遍的な喩とみなすものは、いずれにしてもこの他者の表現をさす」のだと。
わたしは吉本隆明さんの言葉の表現についてまわる意識の特異点の解消の仕方は「他者の表現」を視線としてくわえても、この視線もまた自己意識と同型だと思います。吉本さんの「他者」とはアフリカ的段階の理念からつくられる文明の必然の謂いのようにみえます。そうではなくて「他者の表現」を固有性として生きること。そこに生と表現の可能性があります。>(「歩く浄土45」)

③<吉本隆明はこの作品のデデッポッポをなぜ意味不明とするのだろうか。吉本隆明の明晰な意識の及ばぬことを宮沢賢治が言っていて、そのニュアンスがつかめないからだと思う。この擬音を無意識のリズムとしてヤポネシアの方言が原日本語として織り込まれたというのが吉本隆明の見解だが、謬見だと思う。この擬音を意味不明と了解する吉本隆明の思想の方法の全体が問われていると思う。どういうことかというと、意識の外延性は、「デデッポッポ」を意味以前のものとして分節されている、口から発生された空気音と理解する。もし意味に分節される以前の無意識のリズムがヤポネシアの方言を日本語の祖型とみなすならば、記紀の神話に容易に接続できる。この説明の仕方は通俗ではないのか。『共同幻想論』で国家の起源を吉本隆明は解明したが、その思想のなかに国家から折り返す視点はない。吉本隆明の思想の方法が思想の方法のなかに還相論をもたないということだ。大衆についての理解を歴史の基軸とする「社会」思想は原理的に現実と表現のなかに背馳するものをふくんでしまい、生を歴史への過渡とすることで矛盾を繰り延べる。宮沢賢治の擬音を意味不明とする理解を記紀神話の習俗に接続する理解は安易な通俗だと思う。外延的な意識では意味不明である宮沢賢治の擬音は、じつは、根源の二人称から湧き出ているのであり、この擬音を発するとき宮沢賢治の意識は外界や内面から離れてもっとふかい場所に立っている。おそらく宮沢賢治はそのことを意識してはいないが、かれは存在の複相性を生きているから、かれの意識は無意識に領域化されていて、ひとりでいてもふたりとして存在している。そのもう一人の他者に向けて宮沢賢治はとごえる(熊本弁)ようにして言葉を発出している。同一性的な意識からは意味不明の発音としてしか理解できない。宮沢賢治の擬音は内面化することも共同化することもできないということにおいて、記紀の神話に回収されないものすごくおおきな可能性を秘めている。吉本隆明の普遍喩論はそこを回避するように書かれている。>(「歩く浄土216」)

④<「文学作品が、言葉で作りだされたじぶんの運命をうけいれながら、しかも運命の磁場の影響を忘れられるのはどこからさきなのだろうか? ここで問うべきなのはそれだ。わたしたちの理解の仕方では、そこから普遍的な意味の喩のすがたがあらわれる。かりにこれを文字による記述の第三の段階と呼ぶとすれば、この段階にきてはじめて文学作品は自分の運命の、じぶんじしんへの影響を忘れさる。・・・この語りの言葉を記述することと、内語の記述の二重性は、層のように積みかさなる。そして、その度ごとに記述は複雑で高度になってゆく。(略)だが第三段階になると違う。作品の運命は遠ざかり、ただ作品の無意識のなかにしまいこまれる。それと同時に作品はじぶんじしんの運命にたいする他者の表現をうみだすのだといっていい。わたしたちが普遍的な喩とみなすものは、いずれにしてもこの他者の表現をさすし、またこの運命にたいする他者の表現から普遍的な喩の世界はできるといっていい」(吉本隆明『ハイ・イメージ論 Ⅱ』所収「普遍喩論」)

内面化も共同化も不可能な時間の垂直性が暗黙に同一性を担保とすることでみごとに空間化されている。この錯認のうちに擬制の人類史が仮構された。文学を扱うときの吉本隆明と歴史を記述するときの吉本隆明が同一のものとしてあらわれている。宮沢賢治の擬音を普遍的な喩として解説するたびに宮沢賢治の擬音の本質から遠ざかっていく。吉本隆明の理解する「記述の第三の段階」は内面をさらに外延している。記述の第三段階で作品の運命が作品の無意識のなかにしまいこまれるときうみだされる他者の表現もおなじように外延的である。宮沢賢治は擬音を発することで、内面とは違う意識のありかたを、わたしの言い方でいえば、根源のふたりを表象している。そしてこの擬音という喩は内面化も共同化もできないということにおいて意識のおおきな可能性ということができる。どうしようもなく〔性〕であるほかない言葉によって、自己が領域化し、その余熱が国家や共同体を喩として内包的な親族へと組み替えるということが宮沢賢治の擬音の本態である。ここに文明の外在史と精神の内在史とはまったく次元を異にする内包自然の未知がはてなく拡がっている。>(「歩く浄土217」)

⑤<存在の複相性から吉本隆明の『心的現象論』を読み解くとどうなるか。吉本隆明のアフリカ的段階や宮沢賢治の擬音についての理解をみると内面の内包化にいくらか気づいている。吉本隆明の「第三段階」(表現意識の第三段階―森崎注)と、内包論の意識の第三段階を比較する。吉本隆明が表現意識の第三段階と呼ぶものは宮沢賢治の擬音についての批評として書かれている。『宮沢賢治』の巻末の「擬音一覧表」では意味不明とされる擬音の解釈だ。「だが第三段階になると違う。作品の運命は遠ざかり、ただ作品の無意識のなかにしまいこまれる。それと同時に作品はじぶんじしんの運命にたいする他者の表現をうみだすのだといっていい。わたしたちが普遍的な喩とみなすものは、いずれにしてもこの他者の表現をさす」(『ハイ・イメージ論』所収「普遍喩論」)吉本隆明の他者の表現は依然として外延的な思考に閉じられているが、ほんとうは宮沢賢治の表現世界を作品の無意識とするのではなく、それ自体として取りだすことができれば、内面の内包化に到達するようにわたしは思う。
宮沢賢治の擬音の意味は、意識の外延性を内包性へと往還すればつかむことができる。存在の複相性を挿入しないと擬音の解釈は成り立たないとわたしは考えた。意識の外延性を延長して解読しようとしても、デデッポッポは意味不明となる。内面という表現がとどかない意識の領域があることを吉本隆明自身が表明していることになる。このことは意識の内面的な表現がとどかない意識の領野があることを逆説的に暗喩しているとわたしは理解した。内面の表現がとどない意識の気圏は内面を内包化するときにリアルにあらわれる。外延的な表現をどれだけ緻密に重ねても内面が内包化されることはない。存在の概念を拡張するしか内面の内包化に達することはない。外延的な意識が内包のなかに陥入することではじめて内包の内面化がかすかに輪郭をあらわす。文明の外在史と精神の内在史の背反という表現のカテゴリーを拡張したとき、意識の外延表現とはまったくべつの未知の表現があらわれるということだ。擬音は性的な表現なのだ。存在は可塑的で、バイロジカルな複相性として存在している。意識の外延性は精神の第二層までは表現できるが、内面より深い意識は意識の第三層としてあらわれる。意識の外延性を内包化すると外延性ではない意識の第三層という内包自然があらわれることになる。宮沢賢治の作品は意識の第三層まで到達している。内面を掘り進んでいたら内面をつきぬけて内包自然という意識の第三層までつきぬけてしまっている。>(「歩く浄土225」)

    4

内包論で韻律を普遍化するとメビウスの輪になって同一律ではない喩となってあらわれる。やっと宮沢賢治の擬音を三人称を疎外しない幼童まで拡張することができたように思う。幼童とはなにか。意識の外延性を横ざまに突き抜けることである。なぜ竪超ではなく横超か。不意の背後の一閃は自力ではなく横ざまに竪超を理不尽に簒奪する他力としてあらわれるからだ。どんな言い方をしてもわかりにくいので、親鸞の竪超を一捻りした還相廻向の他力を媒介する横超という思想を借用する。最期の親鸞は浄土教の教義を解体し尽くしている。消滅した信はどうなるか。解体した信を生きた者たちは、あるいは自然法爾を感得した者たちは、相互にどんな関係をつくったのだろうか。親鸞の思想はそこが行き止まりではないので、仏と円融し領域となった最期の親鸞を始まりとする内包の大地に受け継がれている。変わるだけ変わって変わらない内包の信へとつながっているとわたしは考えている。

有縁があるから有情があると親鸞は考えた。有情から有縁が出てくることはない。他力の由縁である。ただ有縁を生きると有縁はそのままじかに有情につながる。存在の複相性を往還すると有縁と有情はメビウスの輪となってひとつながりになる。意識の外延性を極限まで延伸しても有情が有縁になることはない。ここに人類史的な錯誤がある。同一的な生のありようは適者生存を括弧に入れて、あたかも自由で平等であり、人々は友愛によって結ばれていると錯認できる。往相廻向では有情が有縁となることが仮構される。850年前にユーラシア大陸の東にある島嶼の国に生まれついた一人の念仏者が生涯を賭けてこのうそを指弾しつづけ、同一性の手前にある他力という思想をつくった。「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」も「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」も言葉が深い。弟子が一人もいない親鸞一人のために仏がいる。この思想は内面化も共同化もできない。仏と円融することのなかに世界のすべてがある。仏と円融した最期の親鸞はどこに行ったのだろうか。浄土教の教義を解体すると信はオノマトペへと拡張された。「この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり」の自然(じねん)とはなにか。わたしは幼童だと思う。竪超は意識の外延性で同一性の範疇にあり、横超は存在の複相性の往還にあたる。横超とはそういうことだ。どんな境涯であっても、ただちに幼童の世界に達することができる。摂取不捨とはそういうことだ。仏と円融して領域としての親鸞になることがなければ信を解体することはできなかったと思う。仏と円融することが第一義であり、この道理の手前の自然は内面化も共同化もできない。言葉として遺されているわけではないが、円融するただひとりの他者によって第三者はあたかも家族のように喩としての内包的な親族としてあらわれる。

幼童は国家に至らない、ありえたけれどもなかった、ある精神の古代形象だと考えてみる。幼童とはなにか問うてみると、共同的な信をつくることができない初期人類の童心だと思う。幼童性は意識の外延性のなかにさまざまな差異性を組み込まれ、氏族や部族として編成されたが、それにもかかわらず幼童性のなかに、ありえたけれどもなかった人類の可能性がある。「1」→「2」→「3」ではなく、複相的になった存在を往還すると〔2=1〕→〔2〕という共同的な信をつくらないひととひとのあたらしい関係が起立する。

幼童という人間にとってもっとも至高の存在のありかたがなぜ毀損され存在の未遂が人類史を重畳したのか。ひとはもともとふたりであるにもかかわらず自己を心身一如に封じ込め、「1」から「2」の性を立ち上げ、その「性」を媒介に共同幻想を累層したのはひとえに同一的なものの存在が平板であることに起因している。このすべての過程が擬制であることが、コロナ禍をきっかけに露わになった。同一性を暗黙の公理とすれば心身一如の「1」が前提とされ、もうひとつの心身一如の「1」と関係づけられるとき、「性」の世界は共同性への媒介となるほかない。囲繞された幾重もの夾雑ぶつを親鸞から剥ぎ取っていくと、最後に残ったものは、親鸞にとって私が仏であり、仏は私であるという足元の直下に厳然するふたりという幼童の世界だったと思う。親鸞にとって道理はそのようなものとしてあった。ここまでくると、有情にもまた有縁の芽があると言えるような気がする。存在が複相的であるということは同一律による適者生存の固い生存の条理を余儀なさとして生きながら、どうじに内包自然を生きることもできる。存在が複相的だから全く矛盾することが外延性であれ内包性であれ、有情が有縁に、有縁が有情に矛盾なくつながることになる。非知を貫通して愚そのものとなるとき、はっきり言えば親鸞の他力と関係なく有情は有縁であり、有縁は有情となる。親鸞はそこまで言い切っているように思える。最後の親鸞には有縁も有情もおなじことだった。

宮沢賢治の〔しばらくぼうと西日に向ひ〕の「デデッポッポ」という擬音は歌い・踊ることの根源に共同の符牒という規範をつくることのできない幼童としてある。デデッポッポは仲間に危機を知らせる聴覚言語でもないそれ自体としてある。もういちど小泉文夫の『音の根源にあるもの』の不思議な場面を取りあげる。「何のことはない、三人で別々な歌を同時にうたったのですね。(笑)だけど、とてもうたい方は感動的だったですね。うたいながらほかの人たちの顔を見て、こちらのほうが一生懸命うたっていると自分も一生懸命うたうのです。あまり長くなってくたびれて何となく向こうが静かになると、じゃ、こっちの人も、という具合にとても気持を合わせているのです。ほんとに仲間意識というか、いっしょにうたいたいという気持がそこにあふれているのです。ただ残念ながら、いっしょにうたえない。そして同じ歌というものがないのです。」ことばが音の根源にあり、歌は言葉でもあるから、「本来はどちらも、一本の幹から出た二本の枝であると見る方が良いかもしれない」「このように、言語の意味をひろくとれば、音楽はその中にふくまれるように、逆に音楽の概念もひろげて行くと、言語もまた音楽の中にふくまれてしまう」と言っている。内包に翻訳すると、歌い・踊る根源にあるものは〔ことば〕と言うことになる。そしてこの〔ことば〕は生を言祝ぐ性が舞いあがり舞い降り踊りだしたものだと思っている。もし存在が複相的なものでなく、同一的な存在の反復しかないとしたら、どのように巧みに生を調律しても、ひととひとはつながらない。ひとはつながるように悠遠の太古から存在している。意識の外延性はさまざまに遷移するだろう。根源の二人称はむかしもいまもこれからも変わらずありつづける。

宮沢賢治の擬音は自己表出と指示表出で編み上げられた言語の美からするりと脱落し、意識の外延的な表現の圏域を離脱する。内面と外界という精神の形式を前提とするかぎり、宮沢賢治の作品の核にあるものに到達することはできない。「デデッポッポ」という幼童は記・紀・万葉の自然生成の手前で共同的な言語の意味をつくることができず擬音として、わたしの考えでは内包的に表出されている。宮沢賢治の作品は、歌い踊る言語の根源的な表現が、記紀の習俗に世界に収斂するはるか手前で、宮沢賢治は習俗という日本的心性のかわりに作品と擬音によって喩としての内包的な親族を表現したことになる。内面と外界という表現の定型の全体を宮沢賢治の作品は拡張しているようにみえる。互いに相犯すことがこの世の条理であれば、言葉によって尋常ならざる世界を現前させたい。有縁によって有情がむつみあう世界を宮沢賢治はつくりたくてたまらなかった。幼童の世界はこの世ならざるものとしてこの世の条理をはみだしてしまう。内面と内面の外化という表現の定型に宮沢賢治が関心をもつことはなかった。歌い踊る《デデッポッポ》は、変わるだけ変わって変わらない、変わるほどに変わらない内包的意識として、識らずにだれの生のなかにもひっそりと直立して内挿されている。

表現の内部構造である、韻律、選択、転換、喩を引き合いに出してなにが言いたいのか。言いたいことは明瞭である。韻律から喩へと至る表現の過程に人類史や知的な営みが凝縮されている。選択と転換のなかに対象を粗視化する思考の慣性が色濃く反映される。この過程にアダム・スミスからマルクスの貨幣論、人類学ではモルガン、マリノウスキー、モース、レヴィ=ストロースの系譜があり、また一群の哲学諸家が列を成している。同一律は韻律から同一性を反復することでさまざまな差異を充填してきた。われらが人類史だ。人類初期のちいさなバンドは家族から親族へ、親族から氏族へ、氏族は部族に編入され、国家へと上り詰め、意識の専制なかで二分心が聴覚言語を視覚言語へと昇華させ、それらのアルゴリズムはいまテクノロジーによって心身の生体情報を分子記号でびっしり埋め尽くそうとしている。コロナ禍より強度の厄災がつぎつぎともたらされるだろう。同一性的な心性は共同的なものに同期するほかに生き延びるすべをもたない。

ログによると存在の複相性という言葉を使い始めたのは2017年10月からだ。複相的な存在の往還は2018年3月から使っている。存在が複相的であることを同一性は感知できない。同一性が感知できないと言うことはアルゴリズムの圏域にないということだ。ずいぶん考えたが、存在の複相性を往還することがなければ、時代が遷移しても変わることはなにもないという脚下の内包を触知できない。これまで言ってきたように内包知は歴史をつくることなく歴史を超越する。それは韻律を位相的に変換すると、さまざまな選択と転換をカットしてじかに喩を手にすることができるからだ。韻律は喩へとじかにつながる。こうやって、ありえたけれどもなかったものを、現にあらしめることができる。同一性のアルゴリズムが生体をすべてビットで編集しても生きることは毀損されない。国家やテクノロジーに収奪されない幼童というやわらかい生存の条理は、存在の複相性を往還するだけで、だれのどんな生のなかにも内挿されていることがじかに感じられる。存在の複相性を往還し内包自然の圏域を生きるとき同一性が起動する意識の外延性は括弧に入れ斥けることができる。適者生存を幼童へと往還できるのだから。これからほんとうに面白い時代になるだろう。

どう考えても人の意識は、部分的にアルゴリズムであることはあっても、アルゴリズムそのものではなく、意識の全体は複雑性の表現型になっていると思う。だれにあっても意識は線形的なアルゴリズムに背馳するように作動する。アルゴリズムからは違背するような行動を本質的に人間はとってしまう。ある条件があればひとはどのように振る舞うか、おおよその傾向はある。AIはそのことを予測するわけだが、意識のざらつきや齟齬や違和感が、わかっていながら予測を裏切る。むろんAI はそのことも予測するだろう。予測を裏切ることも予測するだろう。予測を裏切ることを予測することに人間的な痛みや後悔をシミュレーションできでも、はじまりがあっておわりのないしだいにふかくなる渦や、<まわらぬ舌で初めてあなたが「ふたり」と数えたとき/私はもうあなたの夢の中に立っていた>(谷川俊太郎)という情動それ自体に触れることはできない。ましてAIが存在の始原的な遅れを感知することはない。始原的な遅れを体験することと、始原的な遅れをシミュレートすることはまったく違う。AIが人間の心的現象をトレースすることは原理的にできない。幼童はひとつの情熱であり、世界がどう遷移しようと無敵の生の寿ぎでありつづける。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です