日々愚案

歩く浄土46:共同幻想のない世界8-バタイユ断章1

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Dr.Feelgoodのstupidityをスマホで聴きながらジョルジュ・バタイユの「マダム・エドワルド」を読んでいる。ウィルコ・ジョンソンとは一度ライブのひけたあと話をしたことがある。お土産に玉露をもっていき、お茶の入れ方を下手な英語で説明した。冷や汗もの。鮎川誠さんの紹介だった。シーナもバリバリ元気だった。シーナ&ロケッツの鮎川さんとは大学生の時のクラスメート。鮎川さん夫婦とは書き切れないほどの想い出がある。いつかそのことも書きたい。シーナの訃報に接して49日、ロケッツのロックを聴いた。シーナに合掌。

バタイユの思想のあらがみえてしまうのは悲劇かもしれない。バタイユの思想にはいくつか特徴がある。ひとつは、ヘーゲルの影響。思想の息づかいがヘーゲルだ。偉大なヘーゲルの精神のうねりがバタイユのうちに生々しく生きているのを感じる。部分的な影響というものではない。それは全面的なものだ。バタイユの理路を追いながらしばしばそのことが浮かんだ。ふたつめは、ヘーゲルが手をつけなかった性の苛烈さを渉猟したということだ。これだけはヘーゲルの埒外だった。ヘーゲルの息づかいで精神の古代形象を探索した。それがバタイユの未踏の思想だったと理解している。
バタイユの思想にも時代性がふかく刻印されている。反社会的であることが何事かでありえたそんな時代性がバタイユの思想に反映している。
「マダム・エドワルド」は高尚なポルノ小説である。オルレアン図書館長だったバタイユは実名ではなく作者はピエール・アンジェリックとなっている。

ついでながら、。。。この「歩く浄土」は、対米従属ヤンキー安倍晋三と、安倍晋三を批判するこの国の良心とはまったくべつの次元で書きつがれている。
山口二郎は言う。

6月6日 学者が学問を探求し、論理的な議論をすることを、政治家が指弾する時代となったのか。学者の発言に権力者がここまで動揺しているのだから、学問的良心は力を持つことを、学者は信じていくしかない。

なんとばかげたことを言う。わたしが大学生になったのは1968年。あの全共闘運動が盛んであった頃だ。血の気が多く肉体派だったわたしはその全過程を無党派としてフルコースでやった。乱暴狼藉のかぎりを尽くし法治国家からきちんと罰をうけた。あのくだらない若者の騒動がわたしにのこしたものはなにもない。
大型バイクをぶっ飛ばすこととロックを聴いて狂乱することと機動隊と衝突することとはまったくおなじ生の体験だった。一瞬見た深い夢。あの運動にじかに関与した多くの者にその生の知覚がのこっていることを信じて疑わない。

47年前に学生になったとき、「大学の自治と学問の自由を守れ」という標語があった。瞬時にうそだと思った。その当時でさえ大学は自動車学校と変わりはなかった。運転免許証の交付と学卒はほとんど似たものだった。実感としてそう思った。爾来わたしは独力で考えてきた。考えたいことを考えたいように考えてきた。
山口二郎のこの言説は安倍晋三の批判を念頭に置いて書かれたものだがこんな時代遅れのことが言えるような生き方をかれはしてきた。安倍晋三に匹敵するアホとしか言いようがない。

大型バイクで危険な速度で運転すること。ドアーズやパティ・スミスやイギー・ポップにのめり込むときだけは生きている気がした。生きることがひりひりじんじんしていた。だれにもそんなことがあったのだと思う。いのちの芯が虚ろだから刺激の強い手応えのあるものが欲しかった。バタイユもおなじ気分で時代を疾走した。生き急ぐように時代を駆け抜けた。65歳で没。
ヘーゲルの思考をひそかに使いながらヘーゲルを超えようとした。あけすけに性を生きること。生々しく生を生きること。生を思想にすること。それがバタイユのやろうとしたことだ。おそらくバタイユは性の概念を根柢からゆさぶり、性の知覚を革めたかった。わたしもわたしに内在する性の知覚で自己同一性に穴を開けようとして内包論を書きついでいる。わたしにはバタイユがめざしたものがなんであるか手に取るようにわかる。

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エロティシズムとは死に至るまでの生の称揚である。これがバタイユの思想の根本命題としてある。スターリンの死を父を失ったようだと言うコジェーヴのヘーゲル読解に接して打ちのめされた体験をもつバタイユがいる。4半世紀前に書いたバタイユについての文章を再録する。

森崎 バタイユがボケて死ぬ直前に書いた『エロスの涙』というのは面白かったですよ。ぼくはバタイユの言うことは半分違って半分そうだなと思いますけど、ボケて書いたこの文章は飾りがなくなって、非常に面白かったですよ。言いたいことはよく解りましたけど、これではやっぱりヘーゲルに勝てんなと思いましたね。
鎌田 やっぱりヘーゲルに勝てないとダメなんすかね。
森崎 ダメですね。ヘーゲルは「1の外延表現」の親玉みたいなもんですね。でもバタイユは非常にいいことに気付いているんですよ。「性」というのは起源において激越なものだった、というのです。ぼくもそう思いますね。それなのに「認識」が生を冷たくしたというんです。
鎌田 「解釈」が。
森崎 はい。でもぼくは違うと思うんです。それは半分当たって半分違うと思うんです。ヒトは「性」を創って人間になったんだ、とバタイユがいうことはぼくもそう思うんです。それはものすごく激越なものなんだ、と。けれどその後の展開がぼくはバタイユと違うんです。バタイユは論理の展開が完全にヘーゲルそのものなんです。ああ、ヘーゲルに食われているなあ、と思うんです。
 僕は人類、というと大げさになるけど、ヒトが偶然、性を発見してひとになって以降の歴史は群れ(衆)から自分が徐々に分離してきた軌跡のような気がしています。これを〔3→1〕の歴史と呼んでみます。これが僕のイメージでは人類幼年期ということになります。人類前史といってもいいです。数千年続いた〔3→1〕の歴史は最近、といっても二~三百年の幅はあると思うけど、大きな屈折点があったという気がします。産業革命以降といってもいいし、近代以降といってもいいです。
 この屈折点のところで〔3〕から〔1〕が分離する速さにはずみがついたと思うんです。そしてこの〔1〕が極まったのが現在ということになります。〔3〕から〔1〕がだんだん分離して、その分離にはずみがついたのがちょうど近代ということです。どういうことかというと〔1〕が〔1〕の中に際限のないものを発見したということです。ヘーゲルやフォイエルバッハやマルクス、ニーチェやキュルケゴールがそこに位置していたと思うんです。
 〔1〕が〔1〕の中に際限のないものを発見したことの驚きを彼らはそれぞれ癖のある言い方で表現したわけです。この際限のないものを無限や無意識と言いかえるとスッキリします。自己意識の至上物を宗教と考えることも、いやそれは自然科学的な無限のことなんだといっても同じです。自分の中に際限のないものを発見して驚き、その輪郭をはっきりさせることは同時に〔1〕を追い詰めることでもあったわけです。〔1〕が〔1〕について無限や無意識を発見したことをもって近代の始まりを定義することができると思います。そしてそれが広範に行き渡るのに人類史の規模の厄災、戦争と革命と動乱の百年があったという気がします。おぞましい戦乱の百年と引き換えに〔自分が自分であること〕を手にしたのだと思います。
 バタイユはいいことに気がついたのに、当時としてはそれしかなかったということもあって、その面白いことをいうのにヘーゲルの論理を使ったんだと思います。で僕は思うんやけど、そしたら〔3〕から〔1〕が分離するのを促進した力は一体何だということになるわけ。僕はそれが〔2=1〕だと思う。昔々の大昔、ひとびとはその大洋感情を歴史の制約の下で神や仏と名付けたんだと思います。ヘーゲルにしてもニーチェにしても闘ったのは神という概念とであって、神という概念の素になる大洋感情そのものと闘ったのではなかったと思います。バタイユも同じ轍を踏んだというわけです。(『内包表現論序説』30~31p)

存在とは穴が開いた状態のことではないか。バタイユはこの逆理に気がついたにも関わらず罠に落ちた。彼はエロティシズムが我々と動物を分かつ人間の起源だという。激烈な性の発見が人類の起源をなすにもかかわらず、認識という明晰が生を冷たくしたという気づきがバタイユの思想の根柢にある。そしてこの思想には認識の明瞭さと生が冷めることが不可分なことであり、それは避けられないとバタイユは言う。
それでもバタイユの思想には魅力がある。精神の古代形象を探索するとき、バタイユの性の感覚はいまでも妥当な領域がある。起源の人間がほかの霊長類から分岐したときの精神の錯乱をバタイユの思想から推測することが可能だからだ。起源の心性のありようをよく描写しえていると思う。バタイユの未開心性の分析はドナ・ウイリアムズに感情が生まれたときのパニックや『死と生きる』(池田晶子vs陸田真志)の陸田発言と重なる。

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『エロスの涙』はバタイユの死の1年前に書かれたものだ。編者と訳者によると認知症による記憶障害があったとされている。バタイユのエロティシズムという考えは親鸞の正定聚に匹敵する概念で思想としておなじ位置にあるという気がする。そこを引いてみる。

① 死、あるいは死の意識とエロティシズムとが一つのものであることを明白に、そしてはっきりと見て取るのは、おそらくたやすくなかろう。もちろん、原則として、欲望の高まりは生命と対立するものではなく、むしろ、欲望の結果として、生命が感じられるのである。エロティックな瞬間はこの生命の項点でさえあって、二つの存在が引かれ合い、交尾し、生き続ける瞬間に、生命の最大の力と最大の強さが現れるのだ。それこそが生命であり、生命の再生である。そして、生命は再生されて、溢れ出す。溢れ出して、極度の錯乱に到達する。交わり合う肉体は、身をよじり、気を失って、快楽の過剰の中に沈み込み、死の正反対の方へと向かう。(『エロスの涙』58p)

意識明瞭なときのバタイユの言葉より記憶障害があったときのバタイユの文章の法がシンプルでわかりよい。エロティシズムの最高の瞬間にエロティシズムは沈黙するとバタイユは言う。バタイユのエロティシズムにはひねりがあってセックスや生殖行為を性だと言っているわけではない。世間の性と半ば重なりながら半ばずれつつ、ある意味、性を実体化している。生は個人の死によって切断されるが、生の連続性は死によって非連続的なものとなるのか。終生バタイユを悩ませた疑問がここにある。エロティシズムの頂点において死は連続的なものとして回収されることになるのだとバタイユは言いたげである。カトリック小僧であった体験からバタイユが『エロティシズム』の扉に書いている文章が面白い。バタイユは神という全一性を喪った心性をなにかで埋めたくてたまらない。

② このような概観(『エロティシズム』についての概観-森崎註)に目を奪われていた私にとって、何よりも大事なことに思われたのは、私の青春期につきまとわれていたイメージ、すなわち神のイメージを、一つの総体的な展望のなかに再発見し得るかどうかということであった。もちろん、私は青年時代の信仰にもどるつもりはない。しかし私たちが住んでいるこの見棄てられた世界において、人間の情熱は一つの目的しか持っていないのである。私たちがそこに近づく道は多種多様である。この目的には、じつに多種多様な面がある。しかし私たちがそれらの面に意味があると思うのは、それらが深いところで統一されているのに気がつく場合のみである。
 この作品においては、キリスト教の衝動とエロティックな生命の衝動とが、同じ一つのものとして発露しているという事実を強調しておこう。(『エロティシズム』7p)

キリスト教とエロティックな衝動がおなじひとつのものとして発露されているという事実はバタイユの発見である。おなじことにわたしも気づいた。神という超越ぬきに存在を語る困難にハイデガーも遭遇した。

③ 基礎的には、連続から非連続へ、あるいは非連続から連続への過程がある。私たちは非連続の存在であり、理解できない運命の中で孤独に死んで行く個体であるが、しかし失われた連続性への郷愁をもっているのだ。私たちは、偶然の個体性、死ぬべき個体性に釘づけにされているという、私たち人間の置かれている立場に耐えられないのである。この死ぬべき個体の持続に不安にみちた望みをいだくと同時に、私たちは、私たちすべてをふたたび存在に結びつける、最初の連続性への強迫観念をも有している。私の語る郷愁は、これまでに私が論じてきた、基本的な事項を知らなければ理解できないというようなものでは全くない。いちばん単純な生きものの分裂と融合を知らない人でも、多くの波の中に失われて行く一つの波のように、この世に自分が存在しなくなることを思えば苦しむことは可能なのである。ともあれ、この郷愁は、すべての人間にエロティシズムの三つの形式を強制する。
 この三つの形式、すなわち肉体のエロティシズム、心情のエロティシズム、最後に神聖なエロティシズムについて、私は順次に語って行きたい。そして語ることによって、この三つの形式の中でいつも問題になっているのが、存在の孤独と非連続性とを、一つの深い連続性の意識に代えることだということを示したいのである。
 肉体のエロティシズム、あるいは心情のエロティシズムが何を意味するかは容易に理解されようが、神聖なエロティシズムという観念は、あまり聞き慣れない観念であろう。それに、こうした表現は、あらゆるエロティシズムは神聖であるという考え方からすれば、曖昧でもあろう。しかし私たちは、いわゆる神聖な領域に踏み入らなくても、肉体および心情には遭遇し得るのである。一方、直接的な世界の彼方に組織的に企てられた存在の連続性の探求は、本質的に宗教的な色合いを帯びることになるだろう。そして西欧でよく見られる形では、神聖なエロティシズムは、神の探求、正確には神への愛と混同されているのであり、東洋では、必ずしも神の表象をそこに参与させることなく、同じような探求が行われているのだ。とくに仏教は神の観念なしで済ませている。それはともかく、私は今から、私の企ての意味について強調しておきたいと思っている。私はこれまで、ちょっと見たところでは奇妙な、不必要に哲学的に思われるかもしれない一つの概念、すなわち存在の非連続性に対立する連続性という概念を、説明しようと努力してきた。ここでようやく、この概念なしには、エロティシズムの総体的な意味もその諸形態の統一も、私たちの手を逃れてしまうという事実を強調することができるようになったのである。(同前 22~25p 傍点とルビは略)

とても重要なことをバタイユは言っています。ヘーゲルが思いつくこともなかったエロティシズムの三つの形式のことをバタイユは取りあげています。肉体のエロティシズムは世間の性とおなじと考えてよい。心情のエロティシズムはプラトニックといっても純情といってもいい領域だ。これら二つの性の様式をわたしは往相の性と名づけています。性はここからが不思議なのです。ずっとその先があるのです。バタイユはそれを神聖なエロティシズムと言っています。宗教的な全一性への郷愁という言い方をバタイユはします。この存在のあり方がバタイユにとって普遍としてあることがわかります。バタイユにとっては孤独がいやされる場所です。
バタイユの本を読み返しながら似たことをバタイユが考えていたのだなと気づいて不思議な気持ちになります。ほんとうにびっくりしました。わたしはバタイユが神聖なエロティシズムと呼ぶ領域のことを神仏と恋愛の彼方と名づけてきました。わたしの考えが理解されたとは思っていません。いまは神仏と往相の性の彼方と呼び変えている。この領域を可能とするものが還相の性というものです。バタイユとわたしの考えをクロスさせてみます。

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そこで「マダム・エドワルド」の登場です。顰蹙を怖れてバタイユはピエール・アンジェリックと名乗っている。いまならありふれたポルノです。時代はそれくらいには変化した。花村萬月ならもっとうまく書くことができるかもしれぬ。
ある街角でマダム・エドワルドという娼婦と出会う。「マダム・エドワルドは、裸で、舌を突き出した。好みにかなった。素敵な女だった。彼女を選んだ」と書きだしにある。

「あたしのぼろぎれが見たい?」
 両手でテーブルにすがりついたまま、おれは彼女のほうに向き直った。腰かけたまま、彼女は片脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり。こんなふうに、エドワルダの《ぼろぎれ》はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやしい蛤。おれは神妙につぶやいた。
「いったいなんのつもりかね?」
「ほらね、あたしは《神様》よ……」
「おれは気でも狂ったのか……」
「いいえ、正気よ。見なくちゃ駄目。見て!」
 しゃがれ声は和らぎ、幼児のような態度にかわり、まかせきった無限の微笑をうかべ、ぐったりした様子で、打ち明けた。「ああ、気がいっちゃった!」
 しかし挑発的な姿勢は崩さなかった。言いつけた。
 「接吻して!」
 「だけど」おれはたじろいだ。「人前でかい?」
 「もちろんよ!」

80年くらい前に発表された作品だからちょっとはやいかもしれない。オルレアン図書館長のバタイユの名義では憚られるから匿名のピエール・アンジェリックとして。書かれていることはいまではとても凡庸です。

 夜のこの時刻には、街路に人影はなかった。だしぬけに、意地悪く、なにも告げずに、エドワルダは駈け出した。サン・ドニ門が行く手に現れた。彼女は立ちどまった。こちらは身動きしなかった。おなじように動かず、彼女はアーチの中央の、門の下で待っていた。全身、黒々と、穴のように単純で、痛ましげだった。笑っているのでないことが、どころか、まさしく、衣服の覆いの下で、今や、彼女はもぬけのからであることが、察せられた。
こうしておれは知ったのだ―身内の陶酔は完全に霧散し―「彼女」の言葉に偽わりはなかったのだ、「彼女」は「神」なのだ。彼女の存在は一個の石の理解しがたい単純さをそなえていた。大都会の真只中で、おれは夜の山中のような、生命のない孤独のなかにいるような思いだった。

なぜ「彼女」は「神」なのか。頭の壊れた奇矯なひとりの女性がいて、それに惹かれるバタイユがいます。それが時代性ということかもしれませんが退屈です。バタイユにはそのことがわからない。バタイユの言葉は世界の無言の条理にとどいてない。エロティシズムより労働の問題がおおきいというとき、バタイユの視線はスターリンの社会主義に向いています。真っ向からスターリニズムを批判しえていません。ヴェイユはトロツキーを面前で罵倒した。あなたたちの社会主義は間違っていると。
バタイユとバタイユの発した言葉にはすきまがあります。それはバタイユが孤独であるというとき、まだ余裕があるからです。言葉が遊んでいます。じぶんの言葉に酔うことができたのです。カトリックの信を棄教したときその空隙に頭の触れた女性が聖化されたものとして入り込んだのです。「彼女」は無言の世界の条理を生きる象徴です。バタイユはその「彼女」に外側から触っています。見飽きた退屈な情景です。かれの『内的体験』は過剰なかれの自意識をなぞるだけで現実に触れていないとわたしは思います。

この作品中の言葉を借りれば、バタイユが「あらゆる言葉のとどかぬところにある」ものを書こうとしたこと、それはたしかです。しかしバタイユは自身の過剰な自意識を「彼女」に投影するだけで「彼女」にはなりえていないのです。「アキ」が「朔」であるならば、「彼女」はすっぽりバタイユに入ってくるはずなのです。そのときバタイユ自身が一気にふくらみバタイユの自己は領域化されます。バタイユに附随する自我ともうひとつの自我である「彼女」がそこに棲まうのです。それが神聖なエロティシズムという領域の本然です。わたしの言葉でいえば還相の性ということになります。同一性がこの世界を記述することはできません。ひとりのなかにふたつのこころがあるからです。

この断章を書くにあたり手元にある、『呪われた部分―普遍経済論の試み』、『エロティシズムの歴史』、『至高性』、『エロティシズム』、『内的体験』、『非-知』、『青空』、『マダム・エドワルダ』、『エロスの涙』を参考にした。バタイユ断章は切れ切れの感想として今後も随時書きついでいく。なお訳者あとがきの類いはまったく参考にならず。隔靴掻痒。またバタイユを理解していない書誌学に関心はない。

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