日々愚案

歩く浄土265:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理22/生と死はどこにあるか10

  

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半世紀を振り返ると人類史を凝縮して生きてきたような感慨がある。苛烈だった。そのわたしが不穏だが静謐な日々を過している不思議。辺見庸は『渚にて』を回想しながら言う。<スタンリー・クレーマーの『渚にて』を想いだす。いつみたのだったか。エヴァ・ガードナーよかった。第3次大戦で北半球が壊滅。メルボルンの人びとも薬剤による安楽死を選ぶ。トイレットペーパーの買い占めは、たしかなかった。ただ静かだった。>(「On the Beach」2020年03月09日)当事者として不穏な日々を生き、その生を矯めつ眇めつしながら、なお嫌悪する社会とつながっている。そんなこともう止めればいいのに。わたしの静謐だが不穏な日々には断念も諦めもない。悟りや回心とも違う。端的に言って内包に死はない。ずっしりかるい性を生きている。カルロ・ロヴェッリの刺激的な本への批評もここからなされている。

時間のなぞを解き明かそうとカルロは自然哲学を現代的に基礎づける量子力学の深い森を渉猟し、時空もまたミクロの粒子のふるまいから生まれてきた付随的な観念だと確信するようになった。赤裸に言うと、「存在するのは、出来事と関係だけ」であり、それはそれぞれのレベルで粗視化された物語に属するという賢者の思考の慣性が貫かれている。量子力学で覚知した時間に先後がないこと、量子は確率関数としてしか存在しないこと、そして熱力学の第二法則であるエントロピーの法則に量子のふるまいはしたがうこと、それらの知見から、時間は重層的で多様な層がそれぞれ独立であるであることをほんとうには人々が理解していないと言う。エントロピーの法則を基礎としたループ量子重力理論では時空も量子力学のシミュラークルとされる。ところが生命体はきわめて秩序だった動的平衡をもって生きている。餌から低いエントロピーを得て獲ているだけで(おなじことをホーキングも言っている)、生命は宇宙のほかの部分同様、自己組織化された無秩序だとカルロは言う。カルノの考え方が妥当だとしてみる。そうするとその信もまたある階層で粗視化された譫妄ということにならないか。かれ自身に語ってもらう。

<わたしたちが見ている現実のありようは、わたしたちが組織した譫妄であり、それが進化して、結果としてはかなりよく機能し、わたしたちをここまで連れてきた。この譫妄と折り合いをつけて対処するためにわたしたちが見つけた道具は多岐にわたっており、なかでも最良の道具の一つが理性であることはすでに立証されている。理性は貴いものなのだ。>(205p)

カルロ・ロヴェッリの譫妄はユヴァルの共同主観的虚構であり、吉本隆明の共同幻想に対応している。フーコーは理性もひとつの狂気であると考えた。しかしカルロは理性を宙に吊るのではなく、信を領域化するのでもなく擁護する。

<この先わたしたちは、物事をよりよく理解できるようになるのだろうか。なる、とわたしは思う。何百年もの時を経て、自然への理解は劇的に増し、わたしたちは現在も学び続けている。すでに、時間の謎を巡る何かが垣間見えているのだ。わたしたちは時間のない世界を見ることができる。自分たちの知っている時間がもはや存在しない世界の深い構造を、心の目で見抜くことができる。ちょうどポール・マッカートニーの「丘の上の愚か者」が沈む夕日を見て、地球が回っていることを悟ったように。そして、自分たちが時間であることを悟り始める。>(197p)

カルロ・ロヴェッリは理解することについて自戒することも忘れない。

<それをいえば、「理解する」ということの意味すらはっきりしない。この世界を見て記述し、それに秩序を与える。この世界そのものと自分たちがそこに見ているものとのほんとうの関係は、じつはほとんどわかっていない。自分たちに見えているのがほんのわずかであることはわかっている。かろうじて、物体が発する電磁波の広範なスペクトルのなかのたった一つのちっぽけな窓を覗くぐらいで、物質の原子の構造も、空間が曲がっている様子も見えない。わたしたちは矛盾のない世界を見ているが、それは自分たちと宇宙との相互作用を基に推定したものであって、わたしたちの途方もなく愚かな脳にも処理できるように、過度に単純化した言葉でまとめられたものなのだ。わたしたちはその世界について、石や山や雲や人といった言葉を使って考える。これが、「わたしたちにとっての世界」なのだ。自分たちの世界とは別の世界について、たくさんのことを知っていたとしても、その「たくさん」がどのくらいなのかはわからない。>(202~204p)

このようなわずかな知でさまざまに世界を粗視化し、粗視化された自然は遷移するとカルロは言う。異論はないがなにが述べられているということでもない。縷縷、量子重力理論を下地にした世界についての一般知が同一律を暗黙の公理として緻密に語られているだけではないか。カルロへの問いかけは内包論への問いかけでもある。ではどこから思考の慣性として時間が出てくるのか。内包論にとっての時間とはなにか。

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宇宙全体に共通の「今」はないことや、時間は質量に近いほうが速く、動くほうが遅く進むし、時間が流れるリズムはアインシュタインの方程式で記述される。そのことはかなりの程度理解している。極微の世界はどうなっているか。量子の重ね合わせや量子のもつれは、ミクロの世界の出来事であり、10のマイナス44乗(1秒の1億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1)という無限小のプランク時間では時間tは量子化されて時間概念は存在しない。一方、プランク時間と対をなすプランク長は10のマイナス33乗(1センチメートルの10億分の1の10億分の1の10億分の1の100万分の1)となっている。
日々私たちが暮らしている世界の知覚ではとらえることができない世界がある。カルロによると量子の世界では時間は連続的ではなく離散的である。量子力学のもうひとつの発見は不確かさである。量子は重ね合わせとしてしか存在しない。カルロのループ量子重力理論では時空も電子のように物理的な対象である。時空という容器の中で量子の奇妙なふるまいがあるわけではない。存在するのは、出来事と関係だけということになる。ペンローズのサイクリック宇宙論とおなじようにおおきなひとつの仮説である。

カルロの『時間は存在しない』の論理構成の要は量子のふるまいをエントロピーの法則に沿うように粗視化してみせたことにある。その大要はホーキングの時間の矢の説明と違うところはない。ホーキングはもし宇宙が収縮期に入ると時間の矢は逆転すると予言していたが、観測によると宇宙の膨張はいっそう加速し、理論家も観測家も途惑っている。事象の地平の中に存在すると言われたブラックホールに外に裸の特異点があることをアインシュタインの方程式を解いた佐藤・富松の解で一時代を築いた佐藤文隆がおずおずと、もしかすると私たちは私たちが認知しうる宇宙だけを論じようとしているのではないかと語っている。宇宙論の人間性原理だ。<最近、こうした着想をいっそう拡張した宇宙論における「人間的原理」という考えを唱える人もあらわれた。これはまず我々の宇宙が、人間あるいは他の知的存在を許すように非常に都合よく出来ている点に着目する。そしてこの都合の良さ、合目的性は偶然ではなく、このように都合のよい宇宙だけが認知しえる物理学の体系なのだと考えるのである。他の場合では多分そこにそれを認知する知的存在が現れず認知されない。知的存在との関連でのみこの宇宙での物質の法則があるのだというわけである。人間はそこでは単なる宇宙の傍観者ではなく、認知しえる宇宙を形成する上では欠かせない存在となる。筆者には人間まで持ち出して物理法則の起源を論じようとするのは少し行きすぎのようにも思えるが、物理法則のある部分が我々の膨張宇宙の特殊性に依存してあるのだという事は本当のように思える。>(佐藤文隆「宇宙の中で」『現代思想』1979年7月号)あっというまに物理学の自然も遷移した。それでも暗黒物質や暗黒エネルギーの正体については解決のきっかけさえみつかっていない。当時はきわもの的あつかいだったが、いまでは、多世界宇宙も多次元宇宙も前提として繰り込まれ、さまざまな宇宙論が入り乱れて宇宙のなぞを解こうとしている。この思想的な潮流の先頭をカルロ・ロヴェッリは駆け抜けている。

極微の世界と極大の世界ははどうやれば統一されるか。わたしの関心はそこにはない。世界にたいする、ある思考の慣性を極限まで延伸するとどうなるのか、その典型をカルロ・ロヴェッリの宇宙論にみている。いったん時間が消え、時空も量子重力理論の粗視化の対象とし、世界を再構成している。カルロの言葉で言えば、ループ量子重力理論は時間のなかで物事が展開する様子を記述するわけではない。物事が互いに対してどう変化するか、それだけである。時間の特権性はまるごと剥奪され、生命がたゆたうきらめきを自己意識の時間として再生する。カルロ・ロヴェッリはループ量子重力理論という時空も他の物理的自然のように粗視化の対象としながら、この試みもまた言語規範にすぎないことを自覚している。どこまでも聡明だと言える。賢者の所以である。ここまでカルロの考えを読み解きしながら、無造作に「存在」という言葉を使ってきた。奇妙なことだが、存在という言葉がどれほどくせ者かということに、時間の究明に生涯を捧げたカルロ・ロヴェッリが気がついた節はない。

人間が生み出す観念の球体を描いてみる。この観念の球体に人文諸科学、自然諸科学、あるいは芸術が、そのどこかに位置する。そしてそれらの諸観念が相互に関係していることは疑い得ない。表現は無限の階調をなし、切れ目のないスペクトラムとして存在している。これらの諸観念をなにが統覚しているのか。ひとつの精神がそのままふたつの精神であり、ふたつの精神がそのままひとつの精神であり、そのことによって精神の各自性が表現されるのだとしたら、存在するとは別の仕方で、存在することの手前に、複相的な存在が始原的な観念としてある。共同化も内面化もできない信以前の信があると考えてもいいのではないか。カルロ・ロヴェッリの知の力はそこまでとどいていない。

ループ量子重力理論では時空も量子のふるまいを記述する数式の数ある変数にすぎないとされる。量子のふるまいと、生きているということのあいだには目が眩む深淵が横たわっている。対象を粗視化する次元がちがいすぎるのだ。生きているということ、エントロピーのあいだにはなんの相関もない。そう考えることも観念の粗視化は可能とする。同一性を数学の基盤とすることと、同一性が内包に内接していることは理念の深度がまったく異なる。わたしはそう考えてきた。

内包は嬉しいことのおすそ分けということもできる。べつに喩としての内包的な親族という分かりにくい言葉でいうこともない。このふるまいのなかに我とか共同性はかけらもない。ただ、おのずから自然(じねん)をふるまうだけだ。人為の余地はどこにもない。有縁を度すとはそういうことだ。エントロピーから意識を措定しても味気ない。万物がエントロピーの流れに沿って運動する。だからどうした。出来事と出来事の関係をエントロピーによって粗視化すると生きていることの不思議が量子のふるまいの臣民になった気がしてくる。

<・・・また人間の脳を構成する原子や分子、有機化合物という物質は宇宙の膨張期につくられたものであることもはっきりしている。そうすると当然のこととして論理は次のようにはこばれる。宇宙に存在する物質のふるまいが熱力学の法則に合致するのなら、人間の脳を構成する有機化合物もまたエントロピーの法則にしたがうことになるにちがいない。人間のもつ観念の作用も脳の生理過程に基礎づけられるわけだから、脳の生理過程とのなんらかのズレによって生じる〈考える〉という人間の観念の作用が熱力学の時間の矢に沿うことになるのは必然である。つまり人間の心理的な時間の矢は宇宙論的な時間の矢と同じ方向をもつことになる。>(『内包表現論序説』所収「自然論」)ホーキングの時間の矢についての理解を韻を踏むように追従しているだけだとわたしは思う。この世界では神に取って変わって熱力学第二法則にしたがう事象のふるまいが自然な真実の光景だとされる。そうだろうか。エントロピーからつくられる生きていることの説明は同一性が共同化された虚構や譫妄にすぎないのではないか。内面化や共同化できない存在の複相性のなかにしか生の固有性はない。それは存在しないことの不可能性として存在している。量子重力理論の解釈によって神という同一性の権化が量子のふるまいに憑依し転遷しただけである。だいいち人間の精神現象のひとつにすぎない力学で万象を説明できるはずがない。カルロ・ロヴェッリの、存在するのは、出来事と関係だけで、この物語はエントロピーの諸相によって可視化できるという思想は、熱力学の鬼才エイドリアン・ベジャンが『流れとかたち』で、生への衝動は流れを最適化するようにできている。生物・無生物を問わず万物は流れを最適化するように変化する。それが進化史である。生命は流れであり、動きであり、デザインなのだという理念と瓜二つと言えないか。

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アインシュタインの「神はサイコロを振らない」や「月は私が振り向いたときにだけ存在するのか」というよく知られた言葉がある。思考実験をやってみる。中の見えない箱に電子を一個入れ、箱の中に仕切りを入れる。私たちの知覚では電子は仕切られたどちらかにあるはずである。量子の世界ではどちらの側にも電子は50%の確率で存在することになる。蓋を開けると、その瞬間、電子はどちらかの側にある。いわゆる観測者問題であり、100年間並みいる物理の大才がこの問題を解き明かそうと果敢に挑んだが、すっきりとは解けず、もやもやしたものがのこってしまう。相対論と量子力学の黎明期アインシュタインとボーア、ハイゼンベルクのあいだでつぎのようなやりとりがあった。(*)

(*)1926年、ボーアは合理的な量子力学を建設した。これはその弟子のハイゼンベルクがパウリとともに討論した結果到達した不確定性原理が基礎となっている。アインシュタインは、早速ベルリンのカイザー・ウィルへルム研究所へハイゼンベルクを招待してその講演を聞き、その夜は自宅に呼んで熱心にその内容を詳しく質問した。アインシュタインは「あなたは原子のふるまいは確率によってしか決まらないという。しかし私は自然の法則はサイコロによって決まるようなものではないと信じている」といい、不確定性原理の思想の中にある、自然法則として、物理量の測定値が原理的には確率によってしか予言できないという点に対する不満を強く主張した。ボーアやハイゼンベルクは測定による自然現象の受ける撹乱は、原理的に、最後まで測定できないという立場をとっていたからである。
ハイゼンベルクはその自叙伝『部分と全体』(1969年)の中で、そのときのアインシュタインとの対話について次のよう述べている。
-ベルリンの研究所での私のゼミナールの講演が終って、アインシュタインの自宅に招かれた。その道すがら、アインシュタインは、私の研究歴や物理学の中で何を興味をもってやっているかなどと尋ねてくれた。しかし自宅につくやいなや、アインシュタインは口を開いて「あなたの説は非常に不思議なことに思われる。まずあなたは、原子の中の電子の軌道は全く排除しようとしている。しかし、霧箱の中で電子の走った跡が実際に直接写っているではないか」といった。これに対して私は答えた。
「原子の中で回っている電子の軌道は観測できないけれども、原子が放出する光の振動数やそれに対応する電子の振幅は、直接観測によって推定できます。そこで、電子の軌道についての知識の代りに、このような振動数や振幅の全体についての知識でもって、原子の中の電子の状態が決まる、と考えます」
アインシュタインはさらに問いを続けた。
「あなたは、観測できる量だけで物理学の理論が築き上げられるといったが、本当にそう思っているのですかと。私は驚いていった。
「先生は、相対性理論の基礎をつくり上げられたとき、これと同じ考えかたをもっておられたのではなかったでしょうか。われわれは絶対的な時間というものを観測できない以上、物理学の中で絶対時間という概念を用いてはならない。何か一つの座標系の中での時計の読みだけが時間の測定の規準になる、といわれていたと思いますが」
アインシュタインは答えた。
「おそらく私はそのような哲学を利用したと思うが、それは深い意図があったわけではないのです。実際にどのような手段でわれわれが時間を測っているかを思い出すための発見的な目的でいっただけです。しかしあなたのように、理論を観測できる量だけでつくり上げようというのは根本的に間違っています。事実はその反対です。まず理論が、人間の観測できる物理量の概念を定めるのです」(『アインシュタイン選集3』所収「アインシュタイン小伝」湯川秀樹監修・中村・井上訳)

量子力学を創設したボーアは観測する前の量子のふるまいについてはなにも語れない、それが量子論だと言い、アインシュタインとの有名な公開討論会を行った。ホーキングはホーキングなりに、ペンローズはペンローズなりに、カルロはカルロなりに、解釈するが、解けたわけではない。

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前回も取りあげたがもう一度カルロの言葉でそのことをたどってみる。かれは言う。<つまり順序が問題で、電子の位置を測ってから速度を測ると、速度を測ってから位置を測ったときとは違う状態に変化するのだ。・・・その結果、時間の芽が生まれる。・・・そしてその順序が、時間的な順序の原始形態なのである。>カルロの<量子変数の「非可換性」>は人間が長い歴史のなかで培ってきた巨大な思考の慣性によって支えられている。<なぜなら私たちは常にただひとつの瞬間に存在しているのであって、ふたつの瞬間に存在し得ないから。現在の私たちに見えるのは現在だけだ。>これは果たして物理学の問題か。わたしはそうではないと思う。内包という観念の母型から分岐したひとつの観念の幹が事後的に分節された同一律がそれ自体のなかに矛盾を含んでいることのあらわれだと考えてきた。存在するとは別の仕方で、存在することの彼方ではなく、外延的な存在の手前にある存在の複相性から派生したある観念の型が同一性であり、観測者問題が解けないのは、物理学の問題ではなく、同一性がそれ自体にたいして対称性の破れを包含していることに起因しているように思う。あるものがそのものに等しいという自己相等の原理はエントロピーのわかりやすさよりはるかにいりくんだ思考の慣性を形象してきた。それが人類史であるというほどに。その物理学的な表明が観測者問題となっていつまでも解けずに物理の世界を漂っている。

どう言ったらいいのだろうか。カルロ・ロヴェッリもまた同一性の囚われのなかでループ量子重力理論を構想しているのではないか。わたしがたどり得たかぎりでは、カルロの時間についての考察は、ベルグソンの生の哲学を貫く非空間的な純粋持続を時間と定義したことを超えるものではない。カルロ・ロヴェッリはループ量子重力理論で得た知見を世界認識の方法に度外れに拡張してしまった。ある真理を獲得した者は摑取した信であらゆる現象を説明したくなる。わたしの内包論も例外ではなくそのことを強く自戒している。だから内包論は同一性的な思考の慣性を拡張するあるひとつの観念による粗視化であると言ってきた。内包論の可能性についてはきわめて控えめで、面々のはからいのひとつとするのが妥当だと思いながら、内包の思想に全重量を賭けている。内包論が時代に耐えうるかどうか、この世のしくみに、この世にあらざるいい音色の風を吹かせることができるかどうか、のちの世の人々が判断することだと思う。それともわたしの考えの対極にある貨幣とAIと生物工学を撚りあわせてポスト・ヒューマンをつくることになるのか。

カルロ・ロヴェッリは量子のふるまいが時空の芽を生んだことを、いま、ここの、唯一性のなかに還元してしまっている。そうではなく、時間の原始的な形態は、ただひとつの瞬間の対称性の破れを告げ、ひとつの精神のなかにもう一つの精神が並存しうることを寓意している。そこまでいってカルロの時間論は固有の表現となる。つまり量子重力理論は固有の表現論たり得ていない。

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カルロ・ロヴェッリがループ量子重力理論で感得したことと似た感覚を、若い頃わたしは自身の生存感覚を貫通する出来事として体験した。控えめにわたしの生存感覚を表明する。「自然論」はむかし書いたもので、その後いくつかの概念をつくって、内包論を持続しているが、荒削りなところはあるが、骨子の変更の必要を認めない。

<僕は〈あること〉のたわみやしなりの表現を時空とよんでいる、ここからはじめたい。人間の生命形態の自然ということを考えている。時空の繭を発生のイメージとして考えるなら幾通りもの言い方ができるとおもう。発生の概念とはそんなものなのだ。しかし起源ということになるとそんなふうにはいかない。ヒトが流体ではなく形態の恒常をもって、同一の形態や他の形態や環界と相互の組み込みを繰り返すうちに、ともかく観念という見えないしさわれないけど存在する不思議なものが、舞い飛ぶ蛍のようにぼんやり輝きはじめ、星明りのようにあたりを照らしはじめた。あぶり絵のようにぼんやり滲んできた観念がこんどはレンズのように世界をたわませる。時空の謎もここにある。

人間の生命形態をここで〈かたち〉と言い換えてみる。〈かたち〉は恒常体なので〈かたち〉と〈かたち〉は隔たっている。〈かたち〉ともうひとつの〈かたち〉との隔たり、〈かたち〉とたくさんの〈かたち〉との隔たり、〈かたち〉と環界との隔たりがある。〈かたち〉のたわみやしなりがかえって隔たりにさわる作用、これが空間という概念の起源だ。そのときはじまりのプリミティブな空間に〈かたち〉の自然が埋め込まれた。もうひとつおおきな軸がある。〈かたち〉のたわみやしなりがおなじ〈かたち〉にかえろうとする作用、これが時間という概念の起源だ。そのときはじまりのプリミティブな時間に〈かたち〉の自然が埋め込まれた。つまりヒトの形態の自然に順伏して時間と空間の格子があらかじめ埋め込まれたことになる。ヒトの形態の自然はこうして写像され、時間と空間の発祥をもったことになる。ヒトの生命形態の自然からながれた時空の起源や、そのとき陰伏された格子の時空のどこにも倫理や意志や交換は入ってこないしその余地もない。ただ、〈かたち〉のたわみやしなりのおのずのふるまい(自動作用)がゆらいで、観念の素子があぶりだされるようにプリミティブな時空を表現するほかなかったことはたしかだという気がする。そして陰伏されたはじまりの時空の格子に沿って、人間のあらゆる観念が順伏してながれおりていくことになった。

すこし気楽にイメージをのばしてみる。ヒトは〈かたち〉を延ばしたり折り曲げたりして隙間を充足しようとした。・・・水平になると、ほんと隙間がなくなる。そうか、対関係の自然ってこんなことだったのか。あるものがそのものに過不足なく重なるから、離接した〈かたち〉がひとりのままに〈ふたり〉となり、〈ふたり〉は重なっているから〈ひとり〉である。太古のおれがじぶんにさわるこの情動と隔たりとのズレが、じつは時間と空間のズレなのだが、〈かたち〉が〈かたち〉にふれることのズレとして了解される。

人間の観念という現象が、身体の生理過程とのズレで発生することは自明で確固としたものだろうか。一見見当ちがいにみえるここからアインシュタインのインパクトに近づくこともできる。可視光線を眼の網膜が受容し化学変化をおこし、その信号を視神経が脳の視覚中枢に送信し、〝あっ、これがガンズンのCDだ〟と了解する。いくつかの信号の経路があって、それぞれの送信と受容のズレが積み重なって、どういうわけか観念というわけのわからないものが、しかしともかくあらわれてくる。理屈を追っかけていくかぎり、人間の観念現象は身体を台座とするほかない。この理路のどこにもおかしいところはない。それはほんとに自明で確固として不変なのだろうか。おれのイメージのうちにあるアインシュタインはここに挑戦した。

時空の格子模様は不変ではない、自然のイメージを変えれば、自然はちがって立ちあがる、相対論はそういっている。多義的な自然があって、複相の粗視化がある。相対論が時空の相関をくずし、ゆるんで何かにはずみをつけた。ほんとうは〈在ること〉のたわみやしなりのゆらぎがあるだけではないのか。そしてこのゆらぎを時間と空間に整序にしただけではないのか。形態の自然が時空を順伏し、形態の自然がこの謎を陰伏した。

「さあ、いち、にい、-電脳空間は四方から、滑りこむように展開した。なめらかだけれど、いまひとつ。もう少しうまくやるようにしなくては-そこで新しいスイッチを押した。突然の衝撃とともに他人の肉体へ。マトリックスは消え、音と色の波-モリイは混みあった通りを進んでいた。・・・怯えて、一、二秒、ケイスはモリイの体をなんとか操ろうとしてしまった。ようやく己れを制して受け身になり、モリイの眼裏の乗客になる。
ミラー・グラスはまったく太陽光線を遮らないようだ。内蔵増幅器が自動的に補正するのだろうか。青い英数字点滅して時を告げる。モリイの視野周縁の左下だ。見せぶらかしてやがる。モリイのボディ・ランゲージは混乱を招き、態度も異質だ。・・・「どんな感じだい、ケイス」という言葉が聞こえ、モリイがそれを発するのも感じ取れた。モリイが片手をジャケットの内側に入れ、指先で、暖かい絹地の下の乳首を撫で回す。その感触に、ケイスは息を呑んだ。モリイは笑い声をあげる。けれども、このリンクは一方通行。ケイスには返事のしようがない。」(ウイリアム・ギブスン『ニュー・ロマンサー』黒丸尚訳)

今、ケイスはモリイの「眼裏の乗客」である。「モリイが片手をジャケットの内側に入れ、指先で、暖かい絹地の下の乳首を撫で回す。その感触」にケイスは「息を呑」み、おれはゾクッとした。ここが『ニュー・ロマンサー』で今も鮮烈な印象で残っている。オレは一瞬ヤラシクなった。この〝ざわっ〟とした感じが〈感性〉の進化と深化のかねあいだという気がする。〈感性〉をロックにおきかえても、社会や世界や歴史と読みかえてもいっこうにかまわない。
モリイが乳首を撫で回すその感触を海の彼方にいるケイスが感じるのだ。まったく、ゾクッとする。ケイスがモリイになるのではない。モリイはモリイ、ケイスはケイスなのだ。とても不思議な気がする。

〝どんな感じだい、シゲル〟といわれたらどうしよう。ほんと、どんな感じだろう。ゾクゾクする。時空のモザイクが形態の自然からながれおりてくるものなら、もしも〈かたち〉をかさねることができるとしたら、時空のモザイクはどうなるのだろうか。人間の観念が身体の生理過程との矛盾としてあらわれてくるという自明さや確固とした普遍の枠組みがゆらがないだろうか。時空の謎も観念の現象も〈かたち〉の「いま・ここ」がふたつ以上を占めることができないということを自明のこととして繰り込んでいる。

それは〈かたち〉の「いま・ここ」が唯一性としてしか存在しないから倫理や交換や時空の格子を生みだしたということにほかならないのだが、アインシュタインの相対論の「同時性の相対化」はここまで拡張して感じることができる。アインシュタインが特殊相対性理論で断行した「同時性の相対化」という自然の革命が逆に「いま・ここ」の唯一性を明るみにだした。おれはアインシュタインのインパクトをこう感じた。これはおれの信念の表明なのだ。

〈かたち〉が「いま・ここ」をふたつ以上占めることができたら、時空の構造はおおもとから変更をこうむるにちがいない。対幻想を結び目として二様にながれおりた自己幻想と共同幻想の厚い累層を、対の内包像から逆にながれあがることで〈生のかたち〉を組み替えることができるというたしかな予感がある。そこに猛烈な観念の飛躍の可能性が秘められている。時空とは何かではない。〈在ること〉のたわみやしなりの表現が時空なのだ。おれは「いま・ここ」の唯一性のもつ地上性がひらかれようとしている気がしてならない。>(『内包表現論序説』所収「自然論」)

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『内包表現論序説』はずいぶん昔の本だけど、「自然論」と「起源論」はまだ読まれていないと思う。その頃、それまでにない生の体験の渦中にあった。普遍的な言い方をする。近傍の体験だ。エックハルトの「私より私の近くにいる神」ということがじかにわかった。もしも、あるものが他なるものと重なることがなければ、なぜ、あるものがそのものとなるのか。いまなら有縁と有情の違いとはっきり言える。あるものがそのものに等しいことは、内包という観念から派生したきわめて限定された、ある観念にすぎない。思考の慣性で言えば、A=Aという同一律だ。この同一律の上にあらゆる人文諸科学、自然諸科学が成り立っている。
やがて分子生物学は博物学的な古典になり、量子生物学が興隆するだろう。わたしの理解では、おそらく、量子の重ね合わせやもつれがコンピュータに実装され、フォンノイマン型コンピュータとは異なる原理で作動することになる。ではなにが、量子のふるまいや量子のふるまいを駆動する量子コンピュータの信を支えるか。親鸞の悪人正機や還相の性や存在の複相性をコーディングできるとは思えない。1が2であり、2が1であり、そのことによって1が1である存在の根元を同一性は原理的に記述できない。存在の複相性をそれ自体としてではなく、近似の近似の近似としてシミュラークルする以外にしか外延的な意識の延伸の可能性はない。存在論が認識論に先行するというわたしの実感がゆらぐことはない。

こうやってメモを取りながらしきりに殷の甲骨文や古代アッシリア帝国のことが脳裏をよぎる。ジュリアン・ジェインズの二分心に音色のよさや一陣のさわやかな風を感じることはない。だから、そう感じるわたしの生の感覚にユヴァルの『サピエンス全史』がすっと入り込んだ。おなじようにカルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』に魅入られた。一般知ではあってもカルロの言葉には美がある。量子として粗視化された世界には時間も因果も時空でさえも量子のふるまいに従属するとカルロは言う。時間は消え、最後にベルグソン的時間が再生されるさまをみて、肩すかしを食らったような気がした。カルロの意識はとてもモダンなのだ。フーコーはそのモダンが壊れた果てに、ふいに他者の来訪を語った。

古代中国の周辺に位置し、長くその文化圏の影響下にあった島嶼の国の古代中国象形文字の研究者、白川静は「存在」の原義を次のように語る。性と精神の古代形象からするときわめてモダンな解釈だ。

<ものはみな時間と空間においてある。その時間においてあるものを存といい、空間においてあるものを在という。>(『白川静の絵本』)

ここに白川漢字学の無意識の精神の公理が流れている。白川静によると漢字は線によって構成される。横画は分断的であり、否定的であり、消極的な意味をもち、縦画は、異次元の世界を貫通する。それは統一であり、肯定であり、自己開示的である。縦線は肯定であり、統一であり、ここにおいて〔ある〕ことを意味する。ここにおいて〔ある〕ことを示すものが交わるところの横線である。おおよそこういうことを白川静は言っている。とてもモダンな考えだと思う。国家の発生と象形文字の起源が白川漢字学では同一になっている。そうではないはずだ。ことばはもっと豊穣なものであったはずだ。わたしがいまここにあることの無限性を身体と心がひとつきりのなかに限定することで存在という文字が生まれたと白川静は言う。際限のないかぎりなさを横画によって切り取ることで存在という書記が可能となったことは〔ある〕という驚異が存在という文字のなかに封じ込められたことを意味し、そこに国家と古代文字の起源がある。この起源のことをわたしはモダンと言ってきた。

そうだとするならばわたしたちの奇妙な生はいつまでも帝国の属躰であるほかない。可視化すると皇室は遙かなる東洋の叡智となる。そうではあるまい。それはたんなる思考の慣性にすぎない。

ならばいまここをかつての彼方のなかにある遠の面影として感得した三木茂夫の食と性の舞い上がるような流れの思考はどうか。あまりにもモダンである。ケヴィンが『〈インターネット〉の次に来るもの』で書いた12の章は、becoming(成ること)で始まり、beginning(始まり)で終わる。なんだ自然生成そのものではないか。それは同一性の思考では自然生成までしか行けないということだ。そうではあるまい。自然な生成になにかひとつを加えることが表現なのだ。根源の性を分有するとき、わたしはわたしでありながらあなたになり、そのときあなたはわたしよりわたしの近くにいる。この驚異を表現すること。表現の未知を追い求めるわたしたちの困難で狂おしい旅はつづく。>(「歩く浄土117」)

白川静なぜ存と在を分割と統一として表現したのか。存が在となるとき、ひとつの精神のなかにあるふたつの精神は、ふたつの精神がひとつである存在の複相性であるために、意識の外延性が象形した心身一如の精神に遅れて到達する。だから自己が自己にとどかない生の不全感は内面として表象されてきた。その不全感がニーチェの神は死んだや超人や永劫回帰というニヒリズムとなり、ゲーデルは数式を使って不完全性定理として表現した。なぜ存と在は結合したのか。存と在の手前が〔あること〕のたわみやしなりとして内包的に存在したからだ。

意識は内包という観念の母型を分有することで、自己に内包的に表出されたのであって、自己意識として自然から分離したものではない。自覚するしないにかかわらず、はじめから自己はふたりなのだ。<内包という母型から根源の性が弾けて心身一如の同一性的な生が表現され、自己の自己についての意識が分極し、自己の意識と環界が相互に規定し合い、さまざまな自然がつくられ、外延的な生は生の終わりに脱分極し、内包という母型に回帰する。生は内包と共に始まり、ある時間を外延的な生として生き、再び内包に回帰する。個人の生涯も内包から外延を経て内包に回帰し、歴史もまた内包から生まれ、一時期、外延史の世界を描き、やがて喩としての親族から内包という母型に回帰する。誕生と終わりのふたつの内包にはさまれて自己と歴史という外延的な表現が存在している。>(「歩く浄土260」)この内包的な時間を生きるときカルロ・ロヴェッリのエントロピーは消えている。(この稿つづく)

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