日々愚案

歩く浄土263:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理20/生と死はどこにあるか8

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内包論はひとりの読者をもつことをめざしている。ひとりの読者をもつことは、そのひとりの読者を媒介に内面化も共同化もできない内包自然(じねん)の大地を生きる万人の読者をもつことにひとしい。ことばがつたわることはそれほど困難だと思っている。内包という生の知覚は人間の関係のありかた、ひいてはこの世のしくみを革める。
長年、悶絶しながら、10年余の途絶を経て、途切れ途切れに内包論を持続してきた。言うまでもなく内包論は内面の露出(自己表出)ではない。意識は内包的に表出されたのであって、自己意識として自然から分離したのではない。どういうことか。三人称の世界は、存在することの手前から一閃されると、その刹那、存在の複相性としてあらわれる。自己は自己の手前によぎられ〔領域となった自己という性〕となり、同一性的な外延性の一人称と二人称が楕円のようにふくみもたれることになるから、この世のしくみの三人称相互の友愛や博愛という擬制はおのずから喩としての内包的な親族へと転位する。複相的な存在を往還すると外延自然とはことなる内包自然(じねん)があらわれる。この驚異は人類史にとって、あるいは表現史にとって、まったく未知の事態であると言ってよい。

他力のなかの他力である領域となった自己という性を自力によって断つことができるか。できないと思う。離接もまたつながりである。有情が有縁になることはないが、有縁はいつでも有情となりうる。ただ意識の外延性では有情と有縁は深淵でもって隔てられ、つながることはない。意識の内包性では有縁はただちに有情となる。有情は有縁に内接しているということを30年前に吉本さんに申し上げた。あのう、そのう、あなたはいったいなにをおっしゃりたいんでしょうか、と吉本さんは何回も言われた。この問いは今も解決していない。

居なくなった親のことをよく考える。親子は肉親だから赤の他人とは違って有情があるからだと言えばわかりやすい。そうだろうか。有情ではなく有縁ではないかと思う。親の子であり、子の親であるわたしは、親や子と血縁としてつながっている。それはたしかだ。それだと親と子と子の親は意識の外延性としてつながることにしかならない。おそらく大半の人は有縁が有情を内包し、有情に有縁が内挿されていることに気づいていない。同一性という思考の慣性が親子や家族を血縁として粗視化してきたからだ。その延長に親族や氏族がさらに認識の自然として粗視化された。そうではない。親子の手前があるからはじめて事後的に親子の情が生まれる。ほんとうは途方もないことだ。もし親子の手前がなければ子が親をきりなく追憶する不思議が生まれることはない。あまりにあたりまえのことなのでだれもが素通りしている。有縁があるからはじめて有情が生じるのであって、その逆ではない。有縁は内包自然(じねん)としてすでに血縁である。喩としての内包的な親族が内包自然(じねん)の大地の上にじかに内接している。

「歩く浄土262」ではいくつかの考えを仮説として提起した。総表現者という、だれのどんな生も固有であるという生の条理をつくろうとする試みのなかで、いくつかの概念を織りこんでいかないと、外延自然と内包自然がどういうふうに違い、どこでつながっているのが明瞭に言えないと考えた。表現が無限のスペクトラムとして存在し、だれもがそのひとつを縁によってよぎられ生きることになる。総表現者というのはそういうことだ。そして総表現者の基底には息をしないことに対応する息をしているということが生の根源としてある。非僧非俗はまだ外延知の残滓を引きずっている。非知では、生存の最小与件のなかにわずかなすきまがうまれてしまう。存在がそれ自体に重なることがないからだ。だれによっても、どんな思想家によっても究尽されていない。知を非知が包摂することはない。知は非知ではなく、かぎりなく愚、かぎりなく俗、かぎりなく卑小であることによって非知を突きぬけてしまう。非知ではなく無智そのものまでいくときはじめて存在は存在それ自体にに過不足なく折り込まれる。外延から内包へと生を往還するとおのずとそうなる。根源の性を分有し、領域となった自己という性は、自己から離脱した、自己の手前にあるからだ。表現が無限の階調としてスペクトラムとしてあるということは、無為であることも、なにもなさず緘黙をつらぬくことも、一言も発しないこともまたおおいなる表現である。考えを進めるにあたって親鸞の有情より有縁を度すべきであるという順次生がおおきな支えとなった。

<親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念佛まうしたること、いまださふらはず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてて、いそぎ浄土をさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々。>(『歎異抄』)

内包は人間の思考にとってまったくの未知なので内包の語り手であるわたしもいったいここでなにが起こっているのかよく見知っているわけではない。宮沢賢治の擬音のなかには種族語や民族語につながっていく与件がないと書き、自然的な内包感覚が赤の他人である三人称という多者に接合される契機をつかもうとする、その意識のありかたがすでに往相の外延知であるという矛盾。複層的な存在を往還すると言いながら、往還が外延的に語られる錯誤。往還の錯認や擬制について「歩く浄土263」として短く追記する。親鸞の有縁を媒介に複相的な存在の往還や領域となった自己という性や総表現者を、ひとつながりの存在の全円性として言ってみたい。

親族が拡大して氏族制になるとき三人称が疎外されオノマトペが外延化されたといういうことにどんな意味があるか。氏族性を象徴するトーテムを考えてみる。共同主観的現実そのものといえる共同幻想というトーテムから内面という自然が露出する。叙事、叙景、叙情となるがいずれも共同主観的現実の雛型の自然である。往相の意識に同一性の自然をどれほど重ねても同一性の自然が複雑になるだけで生が熱くなることはない。あるいはこう言ってもいい。なぜ内包の面影がいくばくかのこった人間の自然的なつながりは外延性によって覆われていったのか。なにが言いたいのか。睦み言葉である擬音が種族語や民族語にどのようにして接合されたのか。この問いを立てるとき、内包論も同一性の罠に落ちている。どう考えてもつながらない。つながらないが現に種族語も民族語も現存する。意識の外延性を横超することを内包と言っているのに存在の複相性を往相の知の過程のりくつで言おうとするからもどかしいのだ。存在の全円性を生きるとこは生の技法として難しくはないがかんたんでもない。

なぜ親鸞は有縁を度すという衆生済度を、有情に先立つとしたのだろうか。推測するに、親族が拡大し、氏族になるのは意識の必然で、その自然過程では自己の意識と共同性が同期する聖道門が興隆する。それは衆生を自力の信で囲い込むことであり、仏の可視化であり、実体化であり、親鸞はそのことに激烈な違和感をもった。信の解体の後に残る信にしか生きる余地はないがこの信は共同化できない。親鸞は内面化も共同化もできない他力を自然法爾と名づけた。なにより親鸞にとって極めてリアルな理念以前の生存感覚として他力はあった。他力は知解可能な生の知覚である。

おそらくこの思想の難所は吉本隆明の音色のいい言葉と結びついている。<「歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を〈持つ〉人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に帰せられます。>(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』)吉本さんのこの考えの核心には大衆の原像がイメージされている。すぐれた思想だが、あらゆる共同幻想は消滅すべきであるという思想の命題は三人以上の人間の関係が生む観念を共同幻想と定義したことによって共同幻想がのこりつづける矛盾を抱えこむことになった。すでに大衆の原像は生の原像に、外延的な上から下への権力のベクトルは、内包論によっておのずからなる関係を能産するものして拡張されている。自己の手前にある領域となった自己という性によって、三人称の人間の関係は共同幻想ではなく喩としての内包的な親族へと転位する。ここではじめて固有の生と固有の歴史が現成する。

ある種の霊長類が自他未分の性によぎられたときヒトはアニマルからセクシーなアニマルとなりのちに人と名づけられた。この生=性の自然が心身一如に封じ込まれたときに同一性が起源をもつことになり、セクシー・アニマル・コンピュータな生命形態の自然を人は生きることになった。この自然のことをわたしはモダンと呼び、意識の外延性が連綿として重畳されたことになる。言い換えれば、内包的な生命形態の自然のほうがはるかに永く、歴史時代以降のさまざまなあらわれはつい最近のことだということができる。だから古代文明や古代思想はあまねくモダンな意識の表象態だと考えてきた。おおまかには人びとの自然なつながりがトーテムによって表徴され、あるいは聴覚言語が視覚言語として切り取られた時期にモダンな意識が表現されたと言ってよい。

爾来一万年余、アニマルな存在でもある人がコンピュータと融合し新しい外延性の歴史や生が生まれようとしている。ハイパーリアルな生存競争の始まりだ。人間の終焉から人間の動物化としてポスト・ヒューマンが駆動する。この自然の遷移は不可避ではない。だれのどんな生なかにも、名づけようもなく名をもたぬ、根源の性と呼ぶほかない絶対的な善が無限にちいさな、かたちなきかたとして埋め込まれているからだ。〔ビスケットいっぱいあるからあげるよ〕(堀江菜穂子)がそのことを比喩している。この世のしくみがこうでしかないことを受容しながら、その思考の慣性のなかで人々は生きているとしても、意識の外延性は内包的な意識の部分でしかない。わたしたちの知る人類史は内包自然の一部が同一性によって余儀なさとして形象されてきたにすぎない。意識の外延性を統覚する人間の精神の夢として表徴された神や仏という太陽感情でさえも内包の痕跡にすぎない。近代以降は貨幣が神や仏に取って代わり、さらに貨幣はAIや生物工学と融合し、適者生存によって人をサル化しようとしている。

わたしは既存の適者生存を前提とする、他者を自己の生存の手段にする生の様式とまったくことなる内包自然(じねん)の大地に根ざした、還相の性を核とし、領域としての自己という性と、ひとりでいてもふたり、ふたりで居てもひとりの存在が巻き取っていく、喩としての内包的な親族によって、意識の外延的なさまざまな自然を包み込むことができると考えている。いまひとつこの考えになにかつけ加えることがあるとすれば、生の原像を還相の性として生きるとき、生の原像はどこに価値の基底をもつかという根元的な問いがある。非僧非俗や非知はまだ知の解体の途上にあってここに触れることができない。知に対する非知、あるいは非僧非俗は、依然として知の範疇に属する。非知ではなく、愚それ自体、俗それ自体、卑小それ自体、息をしていないことと対応する生存の最小与件が、可視化も実詞化も実体化もできない〔性〕として挿入されている。だれのどんな生のなかにも意識とはべつのかたちでこの〔性〕が分有されているから、固有の生それ自体が価値となる。心身一如の自己という認識の容器のなかには空虚だけがある。ヴェイユも宮沢賢治も言語化できない意識の深いところでこのことに気づいていた。

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宮沢賢治もヴェイユもほぼ同時代を生き、おなじ言葉の気圏を生きた。存在の外延性と存在の内包性をふたりは往還している。夭逝したふたりがそのことを自覚していたかどうかはわからない。宮沢賢治は存在の複相性をどのように生きたか。すぐに象徴的な語りが浮かんでくる。意識の外延性を生きているときの宮沢賢治の悲痛な気圏を象徴している。宮沢賢治は外延的な意識の表出と内包的な意識の表出を自在に往還している。
<・・・・・・・・/空には暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるへてゐる/ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生まれ/しかも互いに相犯さない/明るい世界はかならず来ると>(「業の花びら」『春と修羅 第二集』異稿)

この問いに答がないことを宮沢賢治は知っているが、言わずにはいられない。それにも関わらず、かれは答のない問いを問い以前に折り返している。固い生の条理をやわらかい生の条理にくるりと反転させる。どこにも作為はない。天与のものとしか言いようがないように思う。内包自然を生きているときの宮沢賢治を象徴する場面を取りあげる。内包的な意識の表出を宮沢賢治は、<ユリアがわたくしの左を行く/大きな紺いろの瞳をりんと張って/ユリアがわたくしの左を行く/ペムペルがわたくしの右にゐる/・・・/ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ>(『春と修羅 第一集』「い小岩井農場」)に比喩される内包自然として生きている。宮沢賢治にとって環界は内包的な親族だった。そう考えると宮沢賢治の無限の階調をもった表現のスペクトラムが染みこむように入ってくる。

<わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。>(宮沢賢治『「注文の多い料理店」序』)

意識の深いところにある意識ではない知覚で宮沢賢治は存在の往還を意図せず表現している。意識の外延性の悲劇がそのまま意識の内包性として開かれうるということ。かれがそのことを自覚していたとは思えないが、存在を往還して、かれはでくのぼうとして短い生を全うした。

おなじことは往相の知について語るヴェイユについても言える。

<人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。>(『ロンドン論集と最後の手紙』杉山毅訳)。

この文章は「しかし」と接続され、いきなり転調し、匿名の領域が還相の言葉として語られる。それがどういうことであるかていねいに言う前に彼女は生を終えた。

<しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない>(同前)

ヴェイユの匿名の領域はふたつにわけることができる。自己が領域になり、その自己が性としてあらわれるということ。このとき自己という一人称はそのまま二人称であるから、三人称の世界は喩としての親族となる。もうひとつある。人格に対比されるヴェイユの無人格的な匿名の領域は自己意識ではなく、内包的に表出されている。おそらくヴェイユは自己が領域であり、それを可能とする還相の性が存在することをしらなかった。

ふたりの存在の複相性の往還は正確に対応しているようにわたしにはみえる。またふたりの稀な存在の行きと還りの言葉は、親鸞の有縁を媒介にするとなめらかにつながり、複相的な存在を往還することができる。

存在の複相性の往還をしつこく書いてきたのに、同一性的な思考の慣性のわなにひょいと落ち込む。どうか用心せられよ。宮沢賢治の擬音から種族語や民族語の言語の規範はどうやっても出てこない。では内包的な人と人の自然的なつながりが拡大された氏族性が規範をもち、なぜ部族制から、部族の連合へと外延史は積み上げられていったのか。と考えることが往相の知でしかないと言うことだ。自己の手前を生きるということは、外延に外延を重ね、自然を遷移するのではなく、自己が領域となる内包自然を生きるということなのだ。有縁は有情よりはるかに深い生の知覚だと思う。ここに気づくと意識は一気に軽くなる。外延と内包を往還することで生きることの奥行きが深くなる。

半世紀近く切れ切れに吉本隆明の思想を追尋するなかで大半の言葉は過ぎていったが、三つのことは依然としてたしかな手触りをもちわたしのなかにリアルなものとしてのこっている。ひとつ。生存の最小与件。この思想は内包の考えのなかで共同化も内面化もできない出来事として継承されている。ふたつ。アフリカ的段階についての最晩年の思想。解けない主題を解けない方法で解こうとした吉本隆明の無意識が、共同幻想の消滅を企図したにもかかわらず定義によって命題が反故にされる思想が、大きな可能性のかけらとして表明されている。わたしの知るかぎり最晩年のミシェル・フーコー以外にこの領域に到達した思想家はいない。
わたしは、自己という領域となった存在の複相性を往還することで、共同幻想のない世界が可能であることを解き明かしつつある。みっつ。放棄の構造。権力の無化を遠望しながらその途方もない困難さを吉本隆明は放棄の構造として表現している。自身の生を余すところなく生きた者以外に放棄の構造という理念がつたわることはない。吉本隆明は知とはなにかと激しく問うた。かれが行き着いた場所は非僧非俗という知の境位だった。わたしの理解では、非僧非俗は知識人と大衆という仮構を前提とした文化的言説の圏域にある言葉である。猛烈な不満があるが、吉本隆明の放棄の構造は知の階梯の無化を可能にするものとして内包にも受け継がれている。ひとりの思想家が遺した言葉が後世の者にどのように読み継がれるか面々のはからいであり、恣意的であるとしか言いようがないが、吉本隆明の生の実感はわたしに充分届いている。そのうえで言う。『敗北の構造』(1972年)で吉本隆明は日本の民衆の総敗北の構造を解き明かそうとしている。この本を貫く主調音は、この世のしくみを変えようとする知の営為がけっして理解されないことを前提としている。それがかれ独特の〔放棄の構造〕だ。内包論は吉本隆明の放棄の構造をまるごと転倒する試みということもできる。知を相対化する非僧非俗ではなく、非知を貫通する無知それ自体によってこの世のしくみを手前に折り返すことが可能となる。そのとき、放棄の構造は消滅し、ことばは、世界と和解する。非僧非俗が拡張されるということ。内包論はそのさなかを進撃している。外延知の無知と内包知の無知は判別がつかないがまるでべつものである。

数少ない読者をさらに限ることになるが、吉本隆明に25時という思想がある。ふつうにあたりまえに過ごすことを24時間といえば、表現は25時に属するという考えだ。吉本隆明の考えに震撼されたことのない者には何のことかわからないと思う。かつてわたしは吉本隆明の思想に強襲されたから、かれが言おうとしたことは実感としてわかる。わからない者にいちいちそれがどういうことか説明する気はない。だからそのことがわかる者に言う。25時は自力ではなく帰り道の知として言われている。知を登りつめた知者が非知へと着地する境位が説かれている。観念の高度化は自然過程であり自動更新されるものでその知に価値はない。不可避の還相の知が非僧非俗としてある。吉本隆明はそう考えた。わかる、よくわかるのに、わたしは内包論で25時として吉本隆明が言おうとした、それによって吉本隆明が吉本隆明である、わかる者にしか実感することができない非知のありかが、かれの意図したことに反して自力の知に属することになると主張してきた。非知が依然として知に領属しているということ。非知ではなく、愚それ自体、俗それ自体、卑小であることそれ自体に重ならない限り、生が固有のものとして伸びやかになることはない。東洋的無の根にある帝力我において何かあらんやという思想は内包知においてはじめて本懐を遂げる。

自力の信を組み換えようとした吉本隆明の遠大で赫奕とした意志の力がある。1985年、品川の寺田倉庫で行われた『いま、吉本隆明25時』が外延知の極北にある究極の自力の信だとすると、内包の〔時〕は、生きていることそれ自体がそのまま他力の信ということになる。他力のなかに他力がないとしたら、個人の主観的な意識の襞にあるいかなる信も共同性を疎外する。他力のなかに他力があるから、この信は二人称をつくることしかできない。同時に内包の知は生の価値がどこにあるのかを明示することができる。非知を突きぬけた卑小であることそれ自体のなかに生の価値がある。ビスケット半分あげるを書いた詩人が詩を書かなかったとしても生きていることの驚異はみじんも揺らがない。それが生きているということそれ自体の価値の根源だ。非知でそのことを指さすことはできない。まして、ここにこんなことがあると寓意することが文学や表現でもない。息をしないこととじかに対応する、息をしていることのすさまじい重量にいったいなにが耐えうるのか。心身一如を自己が占有するという俗知ではなく、ただ自己の手前にある有縁がこの生の驚異を、変わるだけ変わって変わらない恒常的な出来事として支えている。ずっしりとかるい性だ。根源の性を分有するということは、この世のどんなものより深い生の源泉としてある。

<たくさんあるから はんぶんあげるね  はんぶんになっても まだたくさん  まだあるから はんぶんあげるね  すこしへったけど まだあるから  そのまたはんぶんあげるね  とうとうあとひとつになってしまったけど  それでもはんぶんにわってあげるね  つぎにきたこには もうわけてあげられないから  のこったはんぶんの ビスケットをあげるね  ぜんぶあげちゃったけれど  ビスケットとおなじかずの  やさしさがのこっているよ> (堀江菜穂子「たくさんのビスケット」)片山恭一さんは「今日のさけび」(2020.2.16)でこの詩について言う。<どうして「自己の手前」について考えつづけるのか。それがなければ「たくさんのビスケット」という詩の作者は、寝たきりのベッドの上で脳性まひの患者のままだからだ。いや、この言い方は誤解を招きそうだ。彼女が詩を書いたことさえ、本当は二義的なことだと言いたいのだ。たとえ詩を書かなくても、そこに詩は生まれている。寝たきりのベッドの上で。>

非僧非俗の知には非僧と非俗のあいだにわずかなすきまがある。このすきまに権力がしのびこんでくる。外延知で権力を拒むことは主観的な意識の襞にある信としてしかできないし、この信は不可避に共同性を疎外することになる。存在の複相性を往還すると総表現者の表現の無限の階調は、ひとつながりのスペクトラムとなり、それぞれに固有の生としてあらわれる。無数に発色する固有の生を畏れよ。宮沢賢治の業の花びらが、すきとおった風を食べ、もも色の朝日をのむことができるように、名づけようもなく名をもたぬ無限のスペクトラムが、匿名だが固有のものとして乱舞する。ここにやわらかい生の条理がたしかな手応えで現前している。この一文をコロナ禍のただなかで書いたことを付記しておく。(この稿つづく)

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