日々愚案

歩く浄土262:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理19/生と死はどこにあるか7

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内包は、万感の想いを込めた、わたしの生存感覚を貫通した、ある情動を、私的にではなく普遍的に語ることができるという確信があって書かれている。もし内包について信がなければ、内包は戯言だということになる。その真偽のほどはじぶんにはわからない。わたしの主観ではなく他者が判断することに属する。ひかえめに所論を主張すれば、ことばには始まる場所があり、ことばがことば自身を生きることで、個人の内面でも、内面が共軛された共同性でもない世界が内包自然として開示される。内面でも共同性でもない世界を体験した人はあまりいないのではないかと思う。存在の複相性を往還することはあまりにシンプルすぎて、自覚されることがほとんどない。内面と共同性は人類史が擬装したとてつもなくおおきな思考の慣性であるからだ。外延的な自然が重畳した認識の自然の重力を振りきる機会は縁としてしか訪れることがないことにも起因している。

この思考の慣性は堅固だから抜けでるのは容易ではない。だれもがこのしばりの内部に閉じられたまま世界を論じることになる。内包という生の技法は、一人ひとりに手渡しでしかつたわらない。ものすごくアナログだと思う。内面化も共同化もできない世界は、人類のだれも自覚的に生きたことがない広大な生きられる未知としてあるにもかかわらず、あまりにも内包自然はさりげなく存在しているので、ほんとうはだれもが激しく渇望しているにもかかわらず意識にのぼってこなかった。どうであれ内面と共同性としてかたどられた意識とは異なる存在の複相性を往還する内包自然(じねん)という意識の第三層が存在する。この世のしくみやあり方を根底から覆すことのできる生の新しい様式、世界認識の未知の表現は内包論が進むにつれて少しずつ可能となりつつある。

そうだとしても、感じ考えたことを文字にする、このありふれたことを始めるまでに長い時間がかかった。考えるしかないところに若い頃追い込まれたのは事実で、でもどうやったらその体験を文字化できるか、そのことがまた長いあいだわからなかった。わたしが気づいたことは内面化や、内面を共同化することではなかった。わたしたちを縛っている思考の慣性で体験を表現できるとはまったく思えなかった。なにか未知の表現によってしか遭遇した出来事に輪郭を与えることはない。この道行は困難を極めた。わたしの試みを理解する者がいるとも思えなかった。いまもそのさなかにいる。

共同性をつくることができる意識と、どうやっても三人称をつくることができない意識のあり方がある。意識の外延性は三人称を外化し、意識の内包性は三人称をつくることができない。領域としての自己が性であるとしたら三人称という概念は存在しないし、三人称をつくろうとしてもつくることができない。人倫を語っているのではない。なぜこんなことになるのか。存在が複相的だからだ。もし意識が外延という単層だったら三人称は不可避となる。ひるがえって自己が領域としての性だとしたら、どんなに渇望しようと三人称の世界をつくることができない。

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ユヴァルの虚構という言葉の使い方には二重の意味がある。わたしの言い方では、意識の外延性が象形する現実と、意識の内包性が形象する現実の両極があるということになる。わたしたちは意識の外延性の自然を、共同主観的な現実と、この現実に抗するささやかな内面という自然に、二重化して生きざるをえなかった。意識の外延性をたどるかぎりそのことは自然であり是非の入り込む余地はない。意識の外延性は衆生を統治する思考の慣性が認識の自然となって長い世紀に渡り、それはほぼ人類史にひとしいわけだが、重層され、現在に至っている。ユヴァルが自覚しているかどうかわからないが、ユヴァルにとって内面は共同幻想と矛盾しないものとして考えられているような気がする。ユヴァルによると、内面の自由は進化のアルゴリズムに置き換えられるのだから。内面もまた共同主観的な虚構である。だからその虚構をアルゴリズムで強化することは可能であるとユヴァルはくり返し主張する。わたしたちが粗視化してきた認識の自然をたどるかぎりユヴァルの考えを追認するしかない。

ユヴァルの認識では、すべてに適者生存のありようが負荷され、それは自然な生成として流れているということになる。やわらかい生存の条理をかれが渇望することはない。それが痛快でもある。ただユヴァルは自由や平等や博愛という擬制にきわめて鋭敏な感覚をもっている。人間至上主義を自由主義が媒介し、データ至上主義に取って変わられる人類の大分岐にさしかかっているという切迫感がある。世界の無言の条理は微塵も改変されていない。徹底した適者生存によって人類史はつくられてきたという認識がユヴァルにある。そこでユヴァルは人間が神になればいいのではないかと考える。AIと生物工学で人間を改良すればポストヒューマンが可能となる。だれよりユヴァル自身が途惑っている。

なぜユヴァルかと問うことはなぜ親鸞かを問うことにひとしいとどうしても言ってみたくなる。ユヴァルは三作のなかで、かなり頻繁に人間の自然なつながりは150人であると述べている。じつに味わい深いと思う。親鸞も800年前に有情より有縁を度すべきであると順次生を説いている。なにがここにあるか。人間の思考の慣性にとってのおおいなる転換点が暗黙のうちに語られている。ユヴァルは思考の根本で、言語が共同主観的現実をつくり、この虚構に媒介されて国家や貨幣というものがあらわれたと考えている。この媒介が現実性をもつには聴覚言語が視覚化されることが必要だった。視覚化された文字を音読するごとに、ジェインズの二分心が命ずるものと臣従するする者に分割された。この思考の慣性はいまも変わらずにありつづけ、惑星の規模で、ある思考が自然生成されようとしている。アルゴリズムだ。アルゴリズムの属躰になるということ。違う。アルゴリズムの主体は人間であり、どうすれば、アルゴリズムが人間の属躰であるにすぎないことを実現できるか。わたしがユヴァルに注目している由縁がここにある。ホモ・デウスと言いながらユヴァルにはためらいがある。

たしかに150人であり、ここに有情から有縁に大転換せざるをえなかった人間の観念のありようが生々しく現前している。だれも知らないが親鸞は生涯このことを考えつづけたような気がしている。言い換えれば850年後のわたしが縁によって親鸞が考えたことのつづきを考えていると思う。どんなけれん味もないが、考えることのリアルがここにある。大事なことだからくり返す。数千年前に、聴覚言語から視覚言語が発明され、視覚言語がさまざまな自然をつくりだし、ふたたび視覚言語が惑星規模で映像の一部になろうとしている。思考の慣性にとっての大転換が迫っている。わたしたちが当面する世界の現実をこのように抽象することが可能だと思う。わたしはこのような人類史を内包自然(ないほうじねん)によって摂取することが可能だと考え内包論を考えつづけてきた。

ユヴァルの言う150人と、擬音語(オノマトペ)とことばの始まる場所には強い相関がある。このつながりをうまく言えたら重層化された人類史とはべつの人類史を構想することが可能だ。わたしはユヴァルの150人を比喩として理解することにした。人間の自然的なつながりは150人を超えると、意識の外延性の必然として関係の直接性は自然性から離脱して虚構となる。そのつながりが分岐する比喩だと考えればいい。人間の自然的なつながりが、自然的なつながりを振りきってつながるには粗視化された共同主観的な虚構しかない。そのひとつの指標としてユヴァルは150人を可視化した。実詞化すると150人ということになるが、親鸞の有縁を媒介にすると150人は70数億に拡張できる。おそらく親族の外延である氏族制が意識の内包を外延で覆い部族制へと転化するときに自然的な聴覚言語のオノマトペが三人称へと疎外された。その長大な影の中にわたしたちの生存がある。宮沢賢治の擬音語、「かべ いいいい い/なら いいいい い」(「しばらくぼうと西日に向ひ」)や「デデッポッポ/デデッポッポ」(同前)はどうやっても種族語や民族語を構成する与件をもっていない。そのことに観念の凄まじい可能性があると考えてきた。自己の手前にある内包自然(じねん)という観念の母型が前景化し、存在の複相性を往還すると、べつの言語の美の様式がしだいに浮かびあがってくる。

内包言語が共同幻想へとねじ曲げられ、存在の複相性が同一性的な存在へと遷移する途方もないことに遭遇しているのではないか。かつて吉本隆明は共同幻想についてつぎのように語っている。だれもがなんども立ち止まり考えに考え、腑に落ちることもなく通り過ぎてきた場面だ。
『どこに思想の根拠をおくか』の冒頭でインタビュアーが吉本隆明に問い尋ねる。
<人間は生理過程の矛盾を不可避的に「観念」として疎外する、という考察は、もしそうありえたならば動物のままのほうがよいのだ、という考えにつながっていないでしょうか。つまり、幸福か不幸かという対の意味とは違うとは思いますけれど、人間の本質は〈不幸〉なものであるという認識がそこにあるように思うのです。>
答えて吉本隆明は言う。
<もしそう思うならば、人間の本質は〈不幸〉なものだとおもいます。この〈不幸〉の内容は、つぎのように要約されましょう。ひとつは、いったん〈人間〉的な過程に入った人類は、人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが〈良きもの〉であれ〈悪しきもの〉であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかにないということです。つまり〈人間〉を制度的にも社会的にもさらりとやめて、〈動物生〉に還るわけにはいかないということです。いいかえれば、人類の現在性を〈離脱〉した〈生〉は不可能ということです。(略)第二に、人間は、他の動物のように、個人として生きたいにもかかわらず、〈制度〉、〈権力〉、〈法〉など、つまり共同観念を不可避的に生みだしたため、人間の〈不幸〉は、個人と共同性とのあいだの〈対立〉〈矛盾〉〈逆立〉としても表出せざるを得ないという点です。(略)これらが、人間の本質が〈不幸〉ことの内容だとおもいます。ただ、この〈不幸〉は、〈不幸〉なことが識知された〈不幸〉であるために,究極的には解除可能な〈不幸〉ではないでしょうか。>

同一性が刻印した三人称が不幸であるとして、不幸であると認知することで不幸を解除することができるか。断言としてできない。解けない主題を解けない方法で解こうとした意欲は理解できるが、存在の複相性という理念を挿入することなしに共同幻想からの還り道を生や歴史としてつくることはできない。人間の不幸は個人と共同性のあいだにある矛盾や対立や背反にあるのではない。内面が共同性と背反するというのは擬制だと思う。矛盾や対立や背反があると仮構しないとままならぬ生の余白がつくれないからだ。人々はこの余白のことを内面と名づけた。自己の観念はただ共同性に同期する自然として存在している。吉本隆明はこの現実から目を背けることによってかれに固有の思想をつくった。吉本隆明にことばの始まる場所が訪れることはなかった。最晩年のアフリカ的段階のなかで三人称が消滅する機微を微かにつかみかけていた。吉本隆明の見果てぬ夢はそこにあったと思う。拡大した親族である氏族制が部族制に陥入したときにオノマトペは三人称として疎外されたと言うべきか。転形期の人類史は国家という共同幻想が部族主義という共同幻想まで精神的な退行を起こそうとしている。しかしそれは比類ない歴史や生の可能性でもある。歩く浄土を敢行する由縁がここにある。

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『なぜ世界は存在しないのか』を書いた哲学界のミック・ジャガーと言われる、民主主義を称揚するマルクス・ガブリエルの稚拙な考えとユヴァルの考えのあいだには大きな違いがある。ガブリエルはユヴァルを次のように批判する。

<ハラリと私とを関連付けて質問されたのは初めてのことですが、とても鋭い指摘だと思います、ハラリは言ってみれば、自然主義、科学主義の司祭のような存在でしょう。テクノロジーによって人類が消滅し超人が誕生するという被の本は、聖書のテクノバージョンといえるかもしれません。ハラリのように、自然科学だけを真実と捉え、それ以外の想像的な事象を虚構と見なす科学主義は、民主主義の基盤を損なうことにつながります。というのも、科学主義は、人権や自由、平等といった民主主義を支える価値の体系を信じないニヒリズムに陥ってしまうからです。(略)したがって払たちは今、これからの100年ために、分かれ道の前でどちらに進むかを決めなければなりません。一方の道は、世界規模のサイバー独裁や全人類の滅亡に続きます。これがまさにハラリが示したものです。そしてもう一方には、普遍的なヒューマニズムを追求していく道があります。こちらは、あらゆる人間存在の中の同一性を認識し、それを人類のこれからの発展のための原動力にしていく道です。後者に進むのであれば、私たちは、さまざまな人間存在のあり方を会議のテ一ブルに持ち寄り、グローバルな格差をなくしていくためのシステムを共につくらなくてはなりません。それができて、人類滅亡というファンタジーは消え去っていくのです。>(「コンピュータは哲学者に勝てない―気鋭の38歳教授が考える『科学主義』の隘路」YAHOO!ニュース2018/07/12)

人類の転形期を語るガブリエルの比類のない鈍感さ。同一性の基盤をなすヒトゲノムの基本的人権とか言い出しそう。世界が存在するかしないか、なんとでも言える。ガブリエルの世界が存在しないという世界についての言葉遊びをていねいに批判してもいいが、この世のしくみも生も、ガブリエルが考えているよりはるかにはるかに壊れている。人倫が決壊した世界について否定性だけで書かれた脅迫の書をガブリエルの脳天気に対置してみる。ユヴァルがくり返し語るITによる人類史の厄災ともなりうる大規模な雇用破壊は書かれていないが、グローバル経済の無慈悲について記述された絶望の本がある。ガブリエルの愚鈍がなかったら引用するつもりはなかった。すぐにゴミとして捨てた。むごい状況のなかで柔らかい生存の条理を模索することもなく生を脅迫することを生業とするのは悪質な詐欺であるとわたしは思う。『ニホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ』のまえがきで響堂雪乃は言う。

<これから君たちはニホンという国ができて以来、最も過酷な時代を生きなくてはならないのだ。それは君たちの曾祖父母が先の大戦で体験した苦難を楽々と超えるのであり、人類社会における未曾有の悲劇と言っても差し支えないだろう。マスメディアに幻惑される私たちは仮想世界の住人であり、未来を窺うどころか現実への接触すら困難なのだが、一見平和に見える日常の暗渠では、想像を絶する事態が進行しているのだ。

君たちが対時する脅威とは、外国資本の傀儡と化した自国政府であり、生存権すら無効とする壮絶な搾取であり、永劫に収束することのない原発事故であり、正常な思考を奪う報道機関であり、人間性の一切を破壊する学校教育であり、貿易協定に偽装した植民地主義であり、戦争国家のもたらす全体主義である。そしてこれらの諸々が砂山のように堆積し破壊点を迎えた時点で、ニホン国の崩壊は誰の目にも明らかとなるだろう。いや、むしろ「そもそも国など無かったこと」が暴かれるのだ。

かくして本書は、若い君たちがこのような時代を生き抜くための指標とすべく書き下ろしたものである。しかし断わっておくが、僕は君たちを子ども扱いする気など毛頭ないのだ。本書で記述した語彙や観念は極めて高度であり、つまるところこのような様式そのものが、君たちの知性に対する畏敬と尊重なのである。また201の概説全てが学術用語で括られているとおり、それらは筆者の臆見や私見ではなく、多くの碩学や研究者の思考によって濾された精度の高い仮説群である。つまり本書の特性とは反証(証拠によって否定すること)が極めて困難な点にあるのだ。

いずれにしろこれから君たちは生存の確率を高めるために、知識を深め思考を明澄にしなくてはならない。つまり「生き残るために学ぶ」のであり、「希望に到達するために絶望を凝視する」のである。そしてそれは「出来上がった脳」の大人には到底不可あり、柔らかく可塑(刺激によって変化可能な状態)性に満ちた脳を持つ君たち(若者)の特権なのだが、この場合における(若者)とは単に未成年を表すに止まらず、権威や常識に束縛されない自由な精神を持ち続ける者の総称であることを申し伝えておきたい。2016年11月20日>

響堂雪乃の脅迫する詐欺商法は論外として、もうひとつ気になる考えが出てきている。非凡な経済学者と言われるグレン・ワイルとエリック・ポズナーの手になる『RADICAL MARKETS 脱・私有財産の世紀』だ。この著書はふたつの概念によって練りあげられている。ひとつはラディカル・デモクラシーである。一人一票の選挙からボイスクレジットという仮想的な予算をそれぞれの有権者に与えて、自分が重要だと思う問題に与えられたボイスクレジットの平方根数だけ投票するというルールだ。ボイスクレジットが4であれば2票、400であれば20票。自分の関心ある政策に集中的に投票するシステムである。世の中に敷衍されるかどうかはともかくだれも思いつかなかった斬新なアイデアだと思う。もうひとつは、富の「共同所有自己申告税」(COST)である。翻訳者安田洋佑は入り組んだワイルとポズナーの新奇な理念をうまく要約している。かれらは財産の所有に関するルールを変えようと提起する。私有財産制度は投資効率においては優れていても、配分効率が独占され、他者による所有を排除することで成り立っている。たしかにそうだ。他者を自己の生存の手段とすることに私有制の原理がある。そこでかれらは私的所有に流動性をもたらす大胆な具体案を提起した。それは次の3つの命題からなる。そのまま引用する。
<1.現在保有している財産の価格を自ら決める。2.その価格に対して一定の税率分を課税する。3.より高い価格の買い手が現れた場合には、3-ⅰ.1の金額が現在の所有者に対して支払われ、3-ⅱ.その買い手へと所有権が自動的に移転する。>
経済成長の停滞と富裕層への過剰な富の集中の核心をなす私的所有を動態化し、富の集中を緩和しようとする斬新な試みである。注目に値する考えだと思う。ただ私的所有の動態化の試みである「共同所有自己申告税」も他者を自己の生存の手段にしない存在の複相性の往還から言えば、姿を変えた私性の延長にすぎないような気がする。その行為の総和がグローバル経済の無慈悲を回避することができるだろうか。できないと思う。もっと根底的な思考の転換によってしか世界の墜落からまぬがれる途はない。もうそれは先験的なものだと言ってよいほどに切迫している。

三者に共通する思考の擬制がある。危機を煽ってそれを商売にする響堂雪乃も、天才ガブリエルも、天才ワイルも、自己を前提とした「社会」主義者であるということ。自己と社会と経済をリンクさせるとき、この前提をかれらが疑うことはない。言い換えれば、他者を自己の生存の手段にするとき、かれらの主観的な心情とはべつにすでに顔のない三人称が立ちあがっている。かれらはともに政治の存在しない世界を構想したことがないという意味で「社会」主義者だと言える。ようするにかれらにとって言葉はいつも戯れであり、世界を解釈するテクニックが競われているにすぎない。わたしたちが知る認識の自然では、つまり思考の慣性ということだが、私性は、私性を外延化した共同性としか同期できない。私性と共同性が相互に入れ子になって対立項を補完する。ここにそれぞれの主観的な意識の襞にある信の相違を超えた思考の限界がある。悪意の響堂雪乃とガブリエルとワイルが「社会」主義者だというのはそのことを寓意する。まったくおなじ思考の型だとくり返し述べてきた。安倍晋三の虚言とおなじだと言ってもいい。意識の外延性をどんなに手直ししても他者を自己の生存の手段とする私性のありようは変わらない。存在の複相性を往還するなかでやわらかい生存の条理をあたらしいOSとしてつくること。同一のOS上にどんなアプリを走らせても固い生存の条理の適者生存は変わらない。わたしたちは生のOSそのものをわたしたちの知る思考の慣性とはべつのものとして立ち上げ、既存の生のOSをその一部にしようと内包論を持続している。

ガブリエルが信奉するリベラルもワイルの脱・私有財産も現実を回避した言葉の戯れ言にすぎない。どこを切り取っても言葉の緊迫感がない。私性のありかたが根本から変わらないかぎり、どれだけ気の利いたことを囀っても、わたしたちの日々が伸びやかになるだろうか。この世のしくみに馴致する賢者が世界の行方を嘆き余裕綽々として衆生に説教を垂れているだけではないのか。なによりかれらのなかのひとりとしてことばの始まる場所を語った者はいない。だから言葉は虚しく空を切り、宙を惑乱するだけで、いちども世界に降り立つことがない。

    4

総表現者という理念は、生を営むそれぞれの個人が、無限のグラデーションあるいはスペクトラムとしてある表現のひとつを選び、おのずから表現者となることを意味している。一人ひとりが、だれもが、生を固有のものとして生き、固有の表現をもつ。この生の様式は、知識人と大衆という生を睥睨して統治する生のありかたとまったく異なる。だれの、どんな生も、大衆として一括りにされた一員ではなく、固有の生を生きる総表現者の一人である。そのありようは表現の無限を分有することに比喩される。総表現者という理念のなかでは、現実もひとつもフィクションであることが含意され、現実というフィクションから無限の階調をもつ表現を生きることになる。

この前提に立ち、ことばの始まる場所を生きているふたりの表現者を追いかけてみる。昨年末にセーラー服歌人の鳥居さんを安冨歩さんの紹介で知った。サラダ記念日の俵万智さんのさわやかな短歌より印象に残った。
岸田奈美さんは年が明けてからネットで遊んでいるときに偶然知った。弟さんとお母さんの写真の表情がよくて惹きつけられた。岸田奈美さんの書く言葉は表情がいい。読んでいて気持ちいいし、泣き笑いする。これ、落語の世界だと思う。伊坂幸太郎に匹敵する書き手が誕生しつつあるのかもしれない。
なによりこの二人に共通するのはことばの始まる場所を生きているというリアルさにある。ほとんどの物書き文化人は自身のことばの始まる場所を括弧に入れたまま世界を論じる。大半は虚偽が売文の商売である。セーラー服歌人と岸田奈美のエッセーには言葉の奥行きとどうじに危うさも感じる。これから彼女らがどうなるかは面々のはからいでわたしが感知することではない。それにしても年末と年始にふたりの表現者のことばの始まる場所に遭遇したのはうれしかった。

言葉は世界の成り立ちを説明するためにあるのではない。ことばがことば自身を生きたくてさまざまな表現となってあらわれる。生きるひとつの媒介として言葉もある。わたしは、歌い踊る生の根源にあるものを〔ことば〕と呼んできた。言葉によって生きられているものはことばによぎられた生であり、ひとりでいてもふたりであり、ふたりでいてもひとりである、領域となった自己という性にほかならない。ここに歌い踊る生の根源がある。太古の陽気な面々も、むごい世相と世界に遭遇しているわたしたちも、日々変わりなく、いつもすでにその上に立っているシンプルな情動、天意をつきぬけた、あたかも重力の法則を覆すことにも似た驚異に直立している。

生い立ち、体験、出来事、なんとでも呼びうるがそれらのなまなましいことを表現することと、生の体験のあいだにどんな相関があるか。謂わゆる作家論とテキスト論になるわけだが、どちらの立場にたっても、いずれにしても表現の主題をめぐる言説は迷路に入り込む。もともと生の固有性の体験を内面化という意識のありかたで表現することができるのか。わたしはできないと体験的に思うし、そう考え、内包論をつくってきた。どんな痛切な言語化できない体験も同一性の罠に落ち、内面という体験は共同化される。もし作者と読者のこの回路に疑義を挟めば作者と読者がつながることはない。つながりうるという擬制が文学や芸術をあらしめている。内面化と内面の共同化はそれほどたやすい意識の外延性に溺れてきた。内面が内面を超えて表象しようとすることと、内面が共同化されることのあいだには、エイズウイルスに倫理を説くほどの距離がある。

生い立ちと表現の気風は関係するか。内包自然(じねん)を内面と共同性のあいだにはさむと、濃密に関係するとどうじにまったく関係しない。この微妙な淡いに表現の味わい深さがある。関係するが関係しない内包自然(じねん)に意識の外延性は触ることができない。べつの言い方をすれば、存在の複相性を往還することなく領域となった自己という性の不思議に触れることはできない。ことばにはことばの始まる場所があり、ことばがことばを生き始めると言葉はもう言葉を制御できなくなる。ことばが生の重力から離陸してことば自身を走り始める。このふるまいを統御する技法は、作者が生きた、言葉から遠い生の深さから流れてくるとしか言いようがない。
情報テクノロジーが高度になると、現実とフィクションの関係はスペクトラムとしてあると考えるほうが現実に即しているのではないか。胡蝶の夢の現代版が映画マトリックスだ。現実か仮想か判然としない。現実からフィクションへ、フィクションから現実へと表現は縦横に行き来する。わたしたちが現実とみなすことと、現実の表現と考えることは、スペクトラムとしてあるような気がしている。現実からフィクションへと表現はスペクトラムとして遷移するというとき、すでに現実がフィクションであることが含意されている。言うならば無垢の現実などはどこにもなく、あるとすれば現実というフィクションとして存在しているとしか言いようがない。意識の外延性の世界はここまで変貌を遂げてしまった。それでも内包という観念の母型に回帰しながら、内包自然(じねん)の大地のうえを浄土が歩く。

世界の変貌に直面して現実と表現という擬制を表現の根拠とすることは虚偽である。存在と存在の粗視化の区別はほんとうはないと考えるほうがよい。ここに物それ自体としての大きな石があるとして、それがどんな石であるかいろいろ言うことができる。どんな言い方をしても石そのものとは違う。なにかほんとうのことがあって、そのほんとうのことを表現する。ということをどんなふうに表現しても、存在それ自体に到達することはない。存在了解の始原的な遅れが存在の本質をなしているからだ。意識の外延性による表現の行為はそういうものでしかない。表現とは存在を粗視化するさまざまなグラデーションやスペクトラムのことを示唆している。そこまで言わないと総表現者の考えが強い輪郭をもつことはない。石それ自体という観念と、石はどういうものであるかという記述の違いがあるだけで、現実それ自体も、それがどんな現実であるのかも、観念の強度の違いとして無限の階調をもっている。鋭く尖った丸みも、曲がった直線も、真っ赤な白も存在する。石それ自体から、それがどんな石かを記述するには無限の階調があり、それはスペクトラムとしか言いようがない。そのひとつひとつに総表現者が固有な者として対応する。

こういうことだ。内包という理念に強度という理念を挿入しないと内包は成就しない。40年ほど前に内包を着想したとき、内包を書き終えたら次は強度論について書こうと軽く考えていた。なんの。内包に没入した。内包の途方もない表現の可能性にいまも圧倒されている。いまは内包のなかに強度という観念を入れ込もうと考えている。総表現者というだれも考えたことのない領域は、わたしの生存感覚のど真ん中を貫通した出来事がなんであるのかということとじかにつながっている。それはことばの始まる場所の体験だった。わたしはわたしのことばの始まる場所をもつことができた。

     5

鳥居さんという歌人の歌集をアマゾンから取り寄せて読んだ。『キリンの子』には不思議な印象があった。いくつもの感想が湧き上がってくる。鳥居さんの生い立ちはちょっとヘヴィで、事実とフィクションのありようがよくわからない。解説者の書く彼女の日々を『キリンの子』の短歌に即して琴線に触れるところだけ少し感想を書く。鳥井さんの生は代理も譲渡も不能なものとして生きられている。この生い立ちを物語とすると、彼女の短歌から豊穣な生の源泉がわたしたちのほうに流れてくる。

感想を書くにあたって、あらゆる表現は、それがどんなものであろうと、フィクションであるという仮説を設けることにする。思考の慣性という認識の自然の概念を拡張したいからだ。そうすると、セーラー服歌人の短歌や岸田奈美のエッセイの素地のよさを気兼ねなく論じることができる。そうしないと『キリンの子』の作者の短歌を論じることができない。あらためて申し添えると、セーラー服歌人を総表現者のひとりとみなして作者と短歌の感想を言ってみたい。生い立ちや逆境の真偽がわからないにしても、それがどうであれ、『キリンの子』という短歌集にいくつかの好きな歌がある。『キリンの子』の作者の生い立ちに触れないで、つくられた短歌だけを手がかりに感想を言えるかと問うてみて、それはできないと思った。『キリンの子』の歌を読みながら、ことばがことばを生き始めるのがどんなにすごいことか、ひしひしと伝わってくる。永山則夫の『無知の涙』の読後感と似ていた。エミネムのラップの通奏低音に流れている悲しみのようなものと言ってもよい。

『キリンの子』の解説では、小学校5年生の時、学校から帰ってくると、精神を病んだ母親が向精神薬セパゾンを大量に服用し自殺していた。エアコンを強くしたことや母親の口の中に食べ物を入れても飲み込まなかったことが短歌で詠われている。警察から死に至る過程を何度も尋問され、心が壊れ、身寄りがないので養護施設に収容され、虐待を受け、精神病院に入り、ホームレスになり、拾った新聞で漢字を覚え、ことばによぎられ、短歌という言葉と出会い生き直しをしている。ドナ・ウイリアムズの『こころという名の贈り物』に言葉の音色がよく似ている。悽愴な生涯がことばによぎられて生がふくらんでいくさまに圧倒される。言葉も生もここまで深くなれる。そうだ花村萬月にもつうじるものがある。

表現はすべからくフィクションである。その前提で『キリンの子』の歌を読む。脚色されていないはずがない。くり返す。それにもかかわらずその歌からなにか衝迫されるものがある。だから、それが表現なのだ。むしろきわどくないものは表現ではない。キリンの子の短歌を読むとき、彼女がどういう出自をもち、どういう苛烈な生を生きてきたかなど、なんの関係もない。つくられた短歌を読者がどう読むか、それだけが、短歌の価値だと思う。なにか迫るものや自身の生に照らして共感することがあれば、そこにしか読むことの体験はない。それこそ面々のはからいである。

『キリンの子』の作者は古今、新古今の短歌の作者よりはるかに高度な表現の様式を彼女の壮絶な生とはべつに付与されている。作者の意図と関係なく表出の高度化が自然的な必然として込められているからだ。米国のアフガン空爆のさなかにエミネムのの『THE MARSHALL MATHERSLP』というCDを聴いたことがある。2曲目の「キル・ユー」。とても大事なことが言われている。むかし書いた文章を貼りつける。

<母親を首を絞めて殺してやる、キル・ユーってお前のことだ、「もう貧乏をネタにラップすることはできないぞってみんな言ってるが/コカインをネタにラップするなとは言ってなかったぜ/・・・/その通りだぜ、ビッチ、今となってはもう遅い/俺のアルバムは300万枚のセールスを上げ/2つの州で悲劇が起こった/俺が暴力を発明したのさ、下劣で有害、キレやすいヤツ」。べつにエミネムのことを好きではないけれど、盆に帰省した娘からいわれるまでは聴きとれなかったラップの過激な歌詞のあいだに、数回一瞬「Why?」とささやくような声が入っている。だれにともなくつぶやかれるエミネムのこの「Why?」がずっと耳に残っていた。エミネムの途方にくれたような、かすかな、ほんとうにかすかな「Why?」だけが、テロと戦争についてほんとうのことを語っているような気がする。消え入るような「Why?」は激怒や憤激、イスラムの大義や怨讐を突き抜けて、この世界のどこでもないどこかへわたしたちをさらっていく。なんだかとてもかなしくて不思議な気持ちになってしまう。粉塵となって崩落する巨大ビルからも、デイジー・カッター爆弾の巨大な火球からも「Why?」が聞こえていたような気がするのだ。そのときわたしのなかでテロと空爆が消えた。それはなにかとても大事なことのような気がする。

コロンバイン高校乱射事件に触れて、エミネムは、はっとすることを言う。「俺が学校に行っている間、俺はよくいじめられていたし、人を殺したくなってくる気持ってどんな感じなのかはわかっているつもりだよ。そこであのガキ二人はその一歩を超えちゃったわけだけど、そこで二人は『もうこのまま我慢させられるわけにはいかないんだ、やり返すぞ』って思ったわけだよね。それでああいうことをやろうと決心しちゃったわけだよ。もちろんそれでなんのいわれもないガキどもも死んでしまった。でも、あの二人はいじめられて、臨界点まで追い詰められたわけなんだからさ。あの二人だって潔白だよ。でも、誰もあの二人の立場から事件について考えてみようとはしないんだ」「俺がこういう人間なのも、こういうことを考えてこういうことをくっちゃべってるのも、それは世の中が俺をこうしたからなんだよ」。インタビュアーの「それを言っちゃったら、もうお終いですよ」に答えて言う。「そう。でも、世の中はめちゃくちゃなんだから。で、俺はそのめちゃくちゃな世の中の産物なんだから。けれども、俺は自分の娘と自分の家族の落とし前はちゃんとつけているんだからね」(『ロッキンオン』二〇〇一年七月号)

わたしはエミネムの発言をすでに処刑された連続射殺魔永山則夫の『無知の涙』と比較している。米国と日本の文化の違いや三〇年という時代のひらきがそこにある。しかし表現を表出史の稜線でたどるときそれらの差異は括弧に入れることができる。それでもなおそこには歴然とした差がある。「世の中が俺をこうした」「俺はそのめちゃくちゃな世の中の産物なんだ」と言うとき、彼にはじぶんが「くっちゃべっていること」がよく見えているのだ。それはエミネムが「勝ち組」で永山則夫が「敗者」であるということとは関係がない。おそらく彼は無意識にプレイして喋っている。永山則夫は殺人を社会のせいにできた。社会的な生存の仕方がその人の意識のありようをかたどることが信じられた。言葉の上からはエミネムもおなじことを言っているように見える。でも彼はそのことを信じていない。じぶんのなかには何もないということをすでに知っているのだ。おれは人間ではなくおれであるということをいやおうなく生きるほかない。そこに彼は立っている。そしてそのことが表現の高度化なのだ。>(『Guan02』所収「テロと空爆のない世界」)

鳥井さんの歌は絶海の孤島をまったくモダンに詠っている。古今集、新古今集がどれほど高度な短歌の技術の粋を駆使してつくられたものだとしても、ジェインズの唱えた二分心、吉本隆明の言い方で言えば、表現のなかに共同幻想の遺制を思考の慣性として引きずって表出されている。そこは差し引いて読むことになる。キリンの子の作者はむき出しの生存のただなかに晒されて自身の生を生きている。そのことがじかに伝わってくる。彼女の生を救済するものは歌集では絶無であるようにみえる。意識の外延性で言えば、彼女は同一性の死によってしか往生することができない。死は彼女にとって必定だった。
それにもかかわらず奇跡が起こる。ことばがキリンの子の生をよぎってしまった。もう彼女は死ぬことができない。ことばが短歌という言葉に可視化されることで死が生の一部になってしまったからだ。この不思議に彼女の意志はまったく関与していない。ことばがことばを生きる驚異とはそういうことなのだ。キリンの子の作者には短歌によって生を内面化する手立ては途絶している。むろん共同化もできない。だれより彼女がそのことをしっている。おそらくキリンの子の作者はなぜ短歌をつくっているのかうまく言えないと思う。それがどういうことかに気づく縁が彼女にあるかどうかもわからない。

彼女の歌と生い立ちを分けることはできない。どうじに彼女の短歌を生い立ちに還元することもできない。なにが言いたいか。内包のことを言いたい。彼女が歌をつくるという行為は彼女の生い立ちと不一不二であり、そのことによってことばが始まる場所をもつことができたが、ことばがことば自身を生き始めることによって、内面でも、内面の共同化でもない、はるかに深い意識のありように彼女の生がよぎられてしまうということだ。ものすごいことだとわたしは思う。まちがいなくことばのこの体験の場所で彼女は生を逍遙している。

冒頭の一首。

病室は豆腐のような静けさで割れない窓が一つだけある

初期につくった歌。

あおぞらが、妙に、乾いて、紫陽花が、路に、あざやか、 なんで死んだの

生活綴り方の歌みたいな、このどこが短歌だと言うこともできる。でもどこか意識のさわりをのこす。

やわらかくていい歌をひとつ。この歌をつくるのにどれほど母の死を生きただろうか。

目を伏せて空にのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ

生い立ちと分離できない体験が、ことばから生い立ちごと跳ね飛ばされているまれな言葉だと思う。演歌かもしれない。ブルースかもしれない。作品のできがどうだというまえに、どうしてもそう感じてしまう。ここまできてことばの始まる場所は短歌の言葉に憑依され、ひとりの総表現者となって生と短歌がじかに切り結ぶことになる。

     6

もうひとり年始に岸田奈美さんの記事をブログでみつけ、読むのが楽しかった。全部読んだ。岸田さんのエッセイは奔放で読むだれもが魅了される。文章が上手いのだが少しも嫌味や作為がない。取り繕わない素が岸田奈美さんの真骨頂だと思う。

中二のとき父親が心筋梗塞で突然死し、高一のとき母親が突発性大動脈解離で一命は取り止めたが下半身まひになる。母親は子らの前でそれでも明るくふるまっていたが、あるとき忘れ物を取りに病室に戻ろうとしたら、中から母親の泣き声が漏れてくる。リハビリに2年半かかり、車いす生活となる。
ある日、母親に外出許可が降りて、娘は母を街に連れ出した。カフェもレストランも服屋さんも段差があって入れない。なんとか車いすで入れるカフェに座ると、席に着くなり、母は、辛いからずっと死にたいと思っていたと口にする。その気持ちを知る娘は「死にたいなら、死んでもいいよ」。娘はまなじりを決して言葉を継ぐ。「でも……もう少しだけ私に時間がほしい。私が、ママが生きてて良かった、って思えるようにする。私に任せて。2億%、大丈夫!」。母親はそのときも後々も「2億%、大丈夫!」にびっくり。この話にはオチがある。母が座った席の後ろに、二億円初夢宝くじのポスターが貼ってあった。最愛の母に「死んでもいいよ」と言って追い込まれた極限で、いきなり2億%が飛び込んできた。泣き笑いの落語だ。

なにが言いたいのか。岸田奈美さんのエッセイを読みながら、彼女のことばの始まる場所について考えている。ことばの始まる場所を彼女がみごとにつかんでいると思うからだ。それがなければ彼女の言葉に表情のよさがあらわれるわけがない。たぶん、だれが、どう読もうと、言葉からなにかが感じられるはずだ。音色のいいエッセイが忽然とあらわれたのではない。「忘れるという才能」で岸田奈美さんは書いている。ここはそのまま引用する。
<14年前の夏、憧れだった父が突然死んだ。よく「重くて辛いことばかりの人生を、よく頑張ってきたね」と褒めてもらえることがあるが、恐れ多くて仕方がない。私にとって生きるというのは、頑張ることではなかった。
ただ毎日「死なない」という選択肢を繰り返してきただけの結果だ。父が死んで、母が下半身麻痺になって、障害のある弟と二人で過ごして、正直辛かった。生活が辛いわけではない。毎日毎日、悲しくて悲しくて、しょうがない。それが辛かった。でも、家族を残して、死ぬことはできなかった。だから、生きた。何を頑張るでもなく、ただ、毎日、死なないようにした。その代わり、忘れることにした。楽しい思い出も、悲しい死に様も、心の隅に追いやった。そしたら、辛くないことに、気がついた。父が死んだら、父のことを考えないようにした。母が倒れたら、母のことを考えないようにした。長い長い嵐の夜に、家の扉を締め切って、耳を塞いで、ただ凌ぐ。そんな状況が、何年も、何年も続いた。いつの間にか、嵐は止んでいた。>(「忘れるという才能」)

毎日死なない選択して生き延びた長い長い嵐の夜の日々のなかに、その数年間の中に、彼女のことばの始まる場所がある。

なぜ総表現者なのか。かんたんに言える。だれもがその人に固有の業を生きているからである。ひとはだれも固有の生を選ぶことも否定することもできない、そのことが固有な業ということになる。内面化も、内面が祖視化された共同化もできない。だれもが自身の生を生きるほかない。この生が共同化され、しかるのちに内面化される。おなじことだが内面化され、共同化可能な内面が共同性として仮構される。わたしは擬制を可視化する視線を権力と呼んできた。人類史も芸術も意識の外延性に閉じられている。私性は容易に共同性と同期するが、存在の複相性を私性や共同性に同期することはできない。

だれもがたくさんの人のなかのひとりでありながら、代理不能の、譲渡不能の生を生きているありようは総表現者と形容するしかない。歴史のなかで一度も表現として取り上げられたことのない、いかなるものとも比類を絶した固有の生がここにある。とても大事なことを言おうとしている。知識人と大衆という権力によって生を分割統治する生の技法とはまったく異なる生の様式が可能だということ。偶然知ったふたりの語り手を語りながらそのことの意味を考えている。

     7

のっぺらぼうでつかみどころのない同一性が規定する存在の罠。西欧近代20億光年の孤独。存在のどこかに刻み目をいれないと存在は動き出さない。ヘーゲルの精神現象学は自己の手前を括弧に入れ、ないことにしてつくられている。神ぬきに存在を語ろうとしたハイデガーの壮大な哲学は「と共に」を可視化し意識を外延性に閉じ込めながら、そこからはみ出るなにかを存在の明るみと言おうとした。存在の手前に神ではないなにかがあることをハイデガーはかすかに直観したかもしれない。最晩年のヘーゲルも精神現象学を可能とする根源が関係が表現であるということに気づいた。それはとりもなおさず、学僧のとき、イエスとは何者か全力をあげてつかもうとし、もがきにもがき、つかむことができず、輾転反側しながら括弧にいれた、そのはじまりの不明に気づきかけたということだ。『精神現象学』に先だって『キリスト教の精神とその運命』があることを知る人は少ない。若いキリスト教の修行僧ヘーゲルが悶絶しながら満身の限りを尽くして解き明かすことのできなかった存在のなぞ。ヘーゲルもハイデガーも紙一重のところまでは来ていた。それがなんであるかをつかむためには認識の基盤となる思考の慣性を転換することが要請されていた。それほどに同一性が刻む固い生存の条理が堅牢だということだ。

ヘーゲルから始まりマルクスを経てハイデガーに至る堅固な思考がどうやっても回避できないことがある。片山さんはそのことに気づいた。ヘーゲルのなかにもアウシュヴィッツが胚胎されているという片山さんの気づきは新鮮だった。わたしも真のマルクスとマルクス主義に本質的な違いはなく、マルクスの思想はマルクス主義を生み、その必然としてスターリニズムが人類史の厄災として躍りでたと長年主張してきた。マルクスの思想の祖型がヘーゲルの思想であることもたびたび指摘してきた。意識の外延性で内面と共同性を表現するかぎり、思索家の思惑がどうであれ、人間の外延自然は私性と共同性が同期するようにできているからだ。天皇制もその罠のなかにあって戦前と変わりなくいまもなお沈潜している。人倫や内面をどれほど語ろうとなんの意味もない。人倫や内面は「社会」主義として領導されるからだ。内面化できない内面より深い内包自然(じねん)によって内面と内面が共同化された三人称の社会を包み込むほかない。わたしの知るかぎり片山恭一さんは総表現者という概念に感応し、そこに認識のあたらしい基軸を感じ取ろうとしている。いまわたしの目の前に2世紀の時代精神を一跨ぎにしたヘーゲルがいる。片山さんはヘーゲルの思想にたいしてつぎのように書いている。

<自己であるけれど自己でない、という『となりのトトロ』的なパラドクスを抱えつつ、しかも自己に先立ち、ある意味で自己に超越する差異として、近代哲学は「死」以外のものを思いつけなかった。ヘーゲル、ハイデガー、ブランショ、デリダ……みんな自己なる意識を死に結び付けている。なんと自己は生の否定において駆動するものだ。このような「死」は容易に神や天皇に置き換わる。ハイデガーのなかにはもちろん、ヘーゲルのなかにもすでにアウシュヴィッツが胚胎されている、と感じるのはぼくだけだろうか。生と死、つまりオンとオフである。自己のなかだけで自己に現前する意識を考えようとすれば、死という絶対的な差異を仲立ちとしたオンとオフに行き着くしかない。アルゴリズムもまた生と死のあいだを明滅している。それは壮大な錯覚として、かたちを変えたアウシュヴィッツを生み出すかもしれない。>(「今日のさけび」2019.12.17)

存在に神を召喚し、存在に切れ込みが入ると、存在と存在者は二分心の関係になる。そのような神をヘーゲルもマルクスもハイデガーも求めなかった。では神ぬきに存在をどうやって起動するか。生の対極にある生と絶対的な差異をなす死を召喚すること。存在は差異を刻まないと運動しない。はじまりの不明の絶対的な差異である死を媒介にすると存在はどのように変容するか。さまざまな思索家がそれぞれ個性的な方法で存在を解釈した。死を生の対立項とするかぎり、生も死も、閉じた円環のなかをぐるぐる回るだけで、自己言及のパラドックスからのがれることはできない。ヴェイユの、人格の表現として人類史に聳える偉大な業績と、それとは深淵をもって隔てられた匿名の領域について言うなら、匿名の領域が人類史に聳える偉大な事跡を遙かに凌ぐ。もっと言ってしまうと芸術などなくてもおおらかに生きていくことができる。多少文化的な人には理解しがたいかもしれない。芸術などなくても人は元気に日々を過ごすことができる。なぜ芸術という権力を過大に評価するのか。少なくともわたしは芸術がなくても日々を味わい深く生きることができる。このような問題意識をもちながら片山さんはグローバルとナショナルな課題についてつぎのように発言している。

<①「現在のいちばん深刻な問題は、グローバルとナショナルが対立していることだと思う。世界と国家や地域が協調できなくなっている。ユヴァル・ノア・ハラリが人類の実存的脅威としてあげる、核戦争の危険性の増大、気候変動による生態系の崩壊、AIと生物工学による技術的破壊といった問題は、どれも国家レベルでは対処できないグローバルな問題である。しかし人々のアイデンティティはあいかわらず国家や民族や宗教にある。グローバルなアイデンティティをどこに求めればいいのか?」>(「今日のさけび」2010.1.14)

<②「かつて黄河やナイル川のような大河の治水は一つの強大な国や王朝が行えばよかった。いまやインターネットという世界中に張り巡らされた川を高速で流れていく情報の管理や制御を、いったい誰がどのように行えばいいのか。すぐに思いつくのは、政治システムをグローバル化してグローバル・ガバナンスのようなものをつくるというものだ。しかし現実に見られるのは、経済のグローバル化を規制あるいは停止して国家経済に回帰するという世界的な傾向だ。アメリカのトランプやイギリスのブレグジットはその顕著な現れと言えるだろう。いまや深刻な対立はグローバルとナショナルのあいだにある。世界と国家や地域が分断され協調できなくなっているのだ。
 人類がグローバルな問題に直面しているのは間違いない。一方にグローバルな自然環境があり、グローバルな経済や技術があり、グローバルなテロリズムの脅威がある。気候変動にしても技術的破壊にしても、また核兵器や細菌兵器の使用を含む戦争やテロの脅威にしても、世界的に懸念されている主だった問題はすべてグローバルな規模をもち、世界規模の合意や協力なしには解決できない。70数億の人類は単一な文明を生きており、ぼくたちは一年365日、朝から晩までホール・アースな問題に直面している。
 しかし一人ひとりの人間のアイデンティティはあいかわらず国家や民族や宗教にあり、多くの場合、これらは相互に利害を異にして対立し、しばしば反目したり敵対したりする。世界規模の協力関係をどのようにしてつくっていけばいいのか。その前提となるグローバルなアイデンティティをいかに育てていくか。いまのところ「人類」は、国民や教徒にくらべると説得力のない虚構にとどまっている。一つの地球という惑星に住み、同じ運命と脅威を共有しているという意識を、ナショナルな意識に上書きすることは可能だろうか。それとも別の方法を模索するべきなのか。これがいまぼくたちの直面しているホール・アースな問題である。」>(「あの日のジョブズは」14 )

①と②はおなじことが言われている。この現在を決定するグローバルな世界観はどこにあるのか。そのことを片山さんは問うている。

グローバルな課題とナショナリズムは、グローバルな経済の無慈悲と玉砕するナショナリズムと言い換えたほうが現実に即している。私性を理念化した金融工学の粋としてあるグローバル経済のもたらす無慈悲はAIや生物工学と固く結合する。すでに色濃くその兆候がある。米国とのFTAで過剰な成長ホルモンで肥育された米牛や創薬された除草剤とゲノム編集した種子のセット販売など米国の国益と合致するグローバルな多国籍企業が日本に対してすでにやっていることだ。経済とAIとゲノム編集は心身の一片に至るまで商品化する。GAFAやBATはその先駆けに過ぎない。勝敗は始めから決している。「一つの地球という惑星に住み、同じ運命と脅威を共有しているという意識を、ナショナルな意識に上書きすることは可能だろうか」。明治維新によって藩が廃藩置県されたように、国家はグローバリズムによって駆逐される。

数年前に片山さんとグローバリズムと内面化する国家ということで話を重ねたことがある。すでに牧歌的だという気がする。グローバル経済の無慈悲とグローバリズムに貪食され崩壊しつつある国家というほうが現状に即している。それほど急峻な変化を強いられつつある。衰退し決壊しつつある国家の下で国民経済も民主主義も機能不全に陥るしかない。がん末期の多臓器不全と似ている。どれほどみぞおちの良心を鼓舞してアベのカルトを批判してもなんの意味もない。崩壊しつつある国家に建前を求めても言葉が空を切るだけだ。レヴィナスの含蓄のある言葉を引く。

<自分を他なるものとみなす私の他性が詩人の想像力を鼓舞することもありうる。が、それはほかでもないこの他性が〈同〉の戯れでしかないからだ。自己による自我の否定はまさしく自我の自己同定の一態様なのである。>(『全体性と無限』合田正人訳)

軽やかに言葉を戯れ、砂漠で野垂れ死んだランボーをレヴィナスはあしらう。強靱なレヴィナス。自己意識の外延表現などたかがしれてるとレヴィナスは思想の全重量をかけて言明する。深く共感する。この思考の徹底性と気合いは尋常ではない。レヴィナスの体験の当事者性から言葉の強さが発せられている。

レヴィナスが言ったわけではないが私性という同一性の戯れは過不足なくアルゴリズムでコーディングできるということだ。ホール・アースを焼き尽くすように外延的な意識が燃え盛っているわけだ。意識の外延性で猛火を消化できるか。文化人たちは無条件降伏しかないことを知りつつ、みぞおちに良心を仮構し敗残の美学を囀り回っている。その姿もまた失墜した権力のまなざしである。

グローバル経済のむき出しの無慈悲に対抗する国家はむき出しの私性で対抗する。あるいはこうも言える。ハイパーリアルな適者生存の合理とあからさまな暴力の恐怖との対抗戦であると。朕が国家であったようにトランプや安倍が私が国家であると凄まじい精神的な退行を決行する。国民もまたこの愚行に同期する。インパール作戦の再演だ。なにが問題か。私性は容易に共同性に同期するということだ。まずグローバルな経済がそびえ立つとき、グローバルな勢力に対抗する国家を代表する者は勝ち目がないことを瞬時に体感し、グローバルな力にひれ伏し、国民に同調することを呼びかける。かつて一億総玉砕で経験した愚劣がくり返される。レヴィナスの言葉がここでも効いてくる。惑星規模に拡大された大きな同一性が規模のちいさな国家や国民経済や民主主義を呑み込んでいくということ。なんども言ってきたがこの過程は不可避である。世界システムの属躰であることを強いる人類の総アスリート化にたいして、総表現者の固有の生が立ちあがってくる。

総表現者という価値概念が内包自然(じねん)として輪郭を持ちはじめると、芸術の価値概念もいやおうなく転換される。さいわい音楽や思考は知覚であり、人格の表出を本来的にまぬがれている。またそこにべつの人類史の可能性が存在する。やわらかい生存の条理のもとでは、言語が権力であるように芸術もまた広義の権力ということになるだろう。内包自然(じねん)の大地では、上から下への禁止、抑圧、排除の権力は存在する余地がなくなる。存在の複相性を往還するなかで権力の概念そのものが変容するからだ。それらすべてを含めて芸術を権力と定義できる。権力についての是非を意見しているのではない。私性と、私性と同期する共同性を包摂する表現を実現しないかぎり、超富裕層と圧倒的貧困層が経済によって疎隔されるように、卓越した表現力をもつ者と凡俗は疎隔される。

ヴェイユが言う人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない知の諸相と深淵をもって隔てられた匿名の領域は、芸術とどう相関するのだろうか。芸術はそれほど至高のものだろうか。ちがう。おおいなる思考の慣性が芸術と卑小な生を分別している。どのひとつとしておなじものがない固有な関係こそが表現の本態だとわたしは思う。それ以外に表現というものがあるのか。もしあるとするならばその芸術とやらを明示してほしい。外延的な芸術があり、外延的な内面があることはむろん承知している。人類史がひとつの思考の慣性に沿った錯認であるように、芸術もまた同一性の罠のなかに閉じられている。貨幣が私性の延長された表現の形態であるならば、芸術もまた貨幣と同型なものとしてある。この考えを否定する者がだれかいるか。いるなら名乗りを挙げて欲しい。

むしろグローバルなホール・アースの問題とナショナルな課題は、現代の現実性として言うと、次のように言い換えることができる。スターリニズムやファシズムは部族主義の進化した、あるいは部族主義を再現する「社会」主義の別名ではないのか。おそらくオノマトペが洗練され聴覚言語が意味として分節できるようになったとき、氏族制から部族制への飛躍が起こり、内包的な二人称の言語が部族を可能とする三人称言語へと遷移し、部族の共同性に回帰する私性が同一性として明瞭な輪郭をもつようになった。グローバリゼーションに抗する観念が内面化し崩壊する国家の予感のなかで部族主義という原始へと先祖返りしている。それがいまわたしたちが当面している現在ではないのか。

ここで往相の言葉を折り返し広義の〔性〕を媒介にした還相の表現をつくること。やわらかい生存の条理を可能とする存在の複相性を横断して生きるなら権力の概念を反転させるべきだ。じつに関係が表現であるとき、関係を産みだす力もある。フーコーはひとつのモラルとしての性と言い、内包では、領域となった自己という性と呼ぶ。自己が領域であるとき、相互がおのずからなる関係として表現される。この表現は関係を生む力として作用する。なにより内包という観念の母型のうえに降り立つということ。ここにありえたけれどもなかった世界の可能性の中心がある。(この稿つづく)

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