日々愚案

歩く浄土261:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理18/生と死はどこにあるか6

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じぶんで考えるしかないことを考えるためのきっかけになる考えはないか。いろいろ目についたものを読んでみたが、わたしが考えようとしていることはどこにも書かれていなかった。比喩として言うと、なぜひとはパンを奪い合うのか。なぜ一緒に食べよう、いやあなたが食べていいよとならなかったのか。なぜ禁止は侵犯されるのか。もしそれが人間の自然であれば考えることはない。流れるように舞いあがるひととひとの関係はないのか。引き裂かれる生のただなかでそのことを考えつづけた。お伽噺をしたいのではない。世界の底まで降りたら世界のふたがひらき、なにか熱い自然があった。くらくらした。内包的な贈与に驚倒しなんとかその驚異を名づけようとして数十年がすぎた。吉本隆明を読み、滝沢克己を読み、ヴェイユを読み、レヴィナスを読み、ヘーゲルを読み、マルクスを読み、フロイトを読み、フーコーを読み、その他もろもろを読んだ。かれらの難解な言葉から音色のいい音が聞こえてくるのはどこか。読解の基準はいつもそこにあった。かれらはなにを考えようとしたのか。そのかれらは考えをすすめるうえでなにを表現の公理としてもちいているか。ある論理を駆使してかれらが対象を粗視化するとき、そこで運用されている意識の公準はどういうものか。その公理がじぶんなりの手触りの感触で感じられたとき、かれらが記した文字の読解は読了する。かれらは存在について究尽しきれていない。それぞれの個性的な記述の癖はあるが存在のなぞを解きつくしているとはとうてい思えなかった。いずれにしても、かれらが語ることを、じぶんのやむにやまれぬ、考えるしかないことに引きよせてしか、読むことはできなかった。そうやって本を読んできた。

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読んだとき不思議というか異様な感覚を覚えた。たとえばユヴァルのつぎの発言。ユヴァルによると、ハンムラビの法典とアメリカ合衆国の建国宣言はまったくおなじ思考の型をしている。<アメリカ合衆国の独立宣言には、こうある。「我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる。」>(『サピエンス全史』上巻)この独立宣言をユヴァルは読みかえる。<我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる。>(同前)

人間という概念を変形することなくユヴァルの考えは可能とならない。人間についての思考の慣性を宙に吊り、神経を逆なでするような記述が世界的な読者をもった理由だと思う。ぎょっとするわけだ。世界は適者生存という条理に貫かれており、万人は剥き出しの生存競争をそれぞれ異なった形態で順応していく。そういうことが書かれている。言われてみれば、ハンムラビの法典もアメリカ合衆国の建国理念も神から流れ下った観念を媒介にして社会が成立している。その時々の世界を支配的な共同主観的虚構が統御してきた。この視線で人類7万年の歴史を俯瞰し、来たる千年紀を遠望した。ユヴァルの冷め切った情動の識閾下になにがあるのだろうか。これでもかこれでもかと文明の興亡と殺戮と滅亡が語られる。それを語るユヴァルはきわめてニュートラルだ。ユヴァルのなかでいったいなにが記述のバランスをとっているのだろうか。なぜ道路交通法の教則本みたいに歴史や生が記述できるのか。いままで読み知った著作家のなかでここまで冷め切った書き手はいなかった。ルーマニアの虎狼シオランでさえ情感深い思想家に見える。『21 Lessons』を読み切ったときかれの公準に触れることができたような気がした。

『サピエンス全史』でホモ・サピエンスの7万年の歴史を鳥瞰し、『ホモ・デウス』でこれからの千年紀に当面することをSF風に書いている。『ホモ・デウス』でユヴァルはぶれながら情報テクノロジーは生を呑み込んでしまい、人類の大半が無用階級(存在する価値にない人びと)となり、生物工学は人間という種を心身の一片にいたるまで分子記号で切り刻み、ブレイン・コンピューター・インタフェースと融合し、超人ホモ・デウスと劣等サピエンスに種分化がおこり、超えがたい生物学的カーストができると予言する。この虚構には絶対的な矛盾がある。ユヴァルの信が実現するには、生が科学知によってつくられたシステムの属躰になることが必定であるという仮説を要請する。この条理を自然として受容すればユヴァルの占いは当たることになるだろう。ひとつの仮説を度外れに拡張する。生のありようをクリスパーキャス9で編集し、ビットで再構成できるという迷妄。生をアルゴリズムに還元し、神経のアルゴリズムを外部のブレイン・コンピューター・インタフェースに結合できるという蒙昧に呑み込まれているようにみえる。もしもすべての人びとがこの科学知の新興宗教とシステムを受容すれば、内面のない共同幻想のみのグロテスクな人間は誕生すると思う。ジェインズのあたらしい二分心の登場だ。

『21 Lessons』は前二作で広げすぎた風呂敷をちいさく畳んで近未来の世界について21の講話が啓蒙的に語られている。この新刊を読んでよかったと思うことについて少し感想を書く。ユヴァルは国民国家の自由・平等・友愛という理念はグローバルな世界では機能しないことを前提としてかれの考えを述べている。三作に共通の問題意識であり、共感をもって読んできた。くり返すが、もうひとつの前提がユヴァルにある。人間の観念をAIや生物工学と結合することができ、科学知に人間の観念を同期できるとユヴァルは考えようとしている。この観念の場所を担保するのがかれの瞑想になっている。人間に固有の情動もアルゴリズムにすぎないから人間は拡張されたアルゴリズムに併呑されることになる。<あと数年あるいは数十年は、私たちにはまだ選択の余地が残されている。>そのために瞑想に日々勤しんでいると『21 Lessons』は結ばれる。肩すかしを食らった気になるのはわたしだけではないと思う。

ユヴァルはこの本の中でつぎのようにはっきり言い切っている。かれはべつに奇矯なことを言っているわけではない。人間の情動もすべて生化学的なアルゴリズムであると明言するユヴァルも、<心がどのようにして脳から現れるのかは、まったく説明できずにいる。>つまり何十億のニューロンの発火とシナプスを通じた刺激の総和と意識のあいだには深淵がある。そのことをユヴァルははっきりと認めている。ただ、意識がAIテクノロジーと生物工学の融合で説明がつくと人びとが信じれば人間は科学知の属躰となり、融合した超知性は人類最強の共同幻想となるだろう。瞑想に勤しみながらなかばユヴァルはこの世界の変化を受容している。それはユヴァルが複相的な存在を往還していないからだ。

大国間の力の均衡が多極化し核戦争の危機が迫っているとユヴァルは言う。また気候の変動により生態系が攪乱されているとも言う。それらはこれまでもあったことでそれほどの未知はない。過去地球が全球凍結してスノーボールになったことが何度かある。そのとき地下数千メートルのバクテリア以外すべての生物が絶滅した。隕石が衝突して恐竜が滅んだとも言われるが、最近の知見ではインドのデカン・トラップの噴火による膨大な二酸化炭素の放出が隕石のインパクトによる絶滅にとどめを刺したことになったともいわれている。気候変動で人類が滅ぶことはなく、戦争で全人類が滅ぶこともなく、それらは回避できるだろう。人間を分子記号のレベルで自在に編集し新人類という新しい種を人為的に創作し、AIテクノロジーに結合することは、人類が体験したことのない未知との遭遇としてある。ユヴァルはこの技術的破壊について懸念し打開する処方をもちあわせていない。

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『21 Lessons』を読み通してユヴァルについての疑問が氷解した。ユヴァルは親友からヴィパッサナー瞑想を受けるべきだと進められ講習を受講する。要約せずにかれの言葉を拾ってみる。

<私は二000年に初めで講習を受けて以来、毎日二時間瞑想するようになり、毎年一か月か二か月、長い瞑想修行に行く。瞑想は現実からの逃避ではない。現実と接触する行為だ。私は毎日少なくとも二時間、実際に現実をありのままに観察するが、残る二二時間は、電子メールやツイートの処理やかわいい子犬の動画の鑑賞に忙殺される。瞑想の実践が提供してくれる集中力と明晰さがなければ、『サピエンス全史』も『ホモ・デウス』も書けなかっただろう。>(『21 Lessons』402~403p)

<心を直接観察する現代的な方法がないので、現代以前の文化が開発した道具をいくつか試してみる手もある。古代の文化のなかには、心の研究にたっぷり注意を向けたものもあり、それらの文化は間接的な報告を集める代わりに、人々を訓練して自分の心を体系的に学ぶという方法に頼った。これらの文化が開発したさまざまな方法を一まとめにして「瞑想」と呼ぶ。>(同前405p)

瞑想で得られる境地もとうぜん生化学的なアルゴリズムになる。ユヴァルの主張からするとそうなる。その生化学的なアルゴリズムにどんな意味があるのだろうか。瞑想についてならユヴァルは道元を祖とする禅宗のはるか後塵を拝していると思う。『正法眼蔵』ほどの切れ味はない。語られる瞑想は凡庸である。なによりアルゴリズムに還元できる瞑想によって『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』や『21 Lessons』が書けたとは信じがたい。7万年の人類史の事跡の記述とこれからの千年紀の途方もない変化を冷静に記述する心の支えが自己を無とする瞑想という信に根拠をおいているのはたしかだ。仏陀についてユヴァルは言う。<ブッダによれば、人生には何の意味もなく、人々はどんな意味も生み出す必要はないという。私たちは、意味などないことに気づき、それによって空虚な現象への執着や同一化が引き起こす苦しみから解放されるだけでいい。「どうするべきでしょう?」と人々が訊くと、「何もするな。何一つ」とブツダは勧める。>(同前390~391p)歴史と生を記述するユヴァルは仏陀の無に惹かれている。その手立てがかれの瞑想だと思う。世界を生態観察するには自己が無となるほかない。ユヴァルはそういう空虚な信をもっている。空虚な自己が世界の空虚さを語り、読者が空虚な気持ちになる。

しかし考えてもみよ。強いAIがビッグデータを再帰的に演算するパターン認識と人間の意識はまったくべつものである。脳を分子、あるいは素粒子のレベルまで精査しても、脳のなかに意識を見いだすことは原理的にできない。意識は自己に超越するものとして発生したのではなく、自己の手前で内包的に表現されたものであるからだ。どうやろうとアルゴリズムが意識の内包を後追いすることはできない。生命科学の進歩によって、人間の脳は完備したものではないことが分かったとユヴァルは言う。ここはとても興味を引いた。

<人間の脳の生化学的なアルゴリズムは、完全には程遠いことも判明した。脳のアルゴリズムは、都会のジャングルではなくアフリカのサバンナに適応した経験則や手っ取り早い方法、時代後れの回路に頼っている。>(同前41p)

いったいどこに完全な脳のアルゴリズムがあるのか。完全とはどういうことか。時代遅れとはどういうことか。一瞬で香港デモの覆面若者を識別するコンピュータのパターン認識は人間にはできない。膨大なビッグデータを瞬時に解析することもできない。アナログな脳とおろかな生の様式しかもちえていない。そのとおりだ。それがどうした。人間をアップデートすることで煩悩を解決できるか。生物工学で心身を刻みビットで編集し、科学という宗教に同期することで煩悩を消去することはできるだろう。それが人間か。古代の陽気な面々が歌って、踊って、その日暮らしをしていたのは悲惨なことか。喰い、寝て、念ずる生の原像とはそういうものではないか。非僧非俗の底が抜けた凡俗の極みに生それ自体の価値がある。

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ユヴァルはアルゴリズムが意識をもつことはないと周到な言い方をしている。それにもかかわらず矛盾した発言をする。意識についてヘーゲルほど徹底して考えたことがないからだ。意識とコンピュータの演算力やパターン認識力の違いは、外延的な意識がサバンナ起源の心身一如の自然に淵源をもつとは言え、まったくべつのものである。知能と意識の違いがユヴァルのなかで混乱している。

<だが現実には、AIが意識を獲得すると考える理由はない。なぜなら、知能と意識はまったくの別物だからだ。知能とは問題を解決する能力を指す。意識は痛みや喜び、愛、怒りといったものを感じる能力を指す。私たちが両者を混同しがちなのは、人間や他の哺乳動物では、知能と意識が切っても切れない関係にあるからだ。哺乳動物は、ものを感じることによってほとんどの問題を解決する。>(同前100p)

意識と知能の関係についてユヴァルは熟知しているように見える。つぎの発言をどう理解するか。

<AIが独自の感情を発達させるのが絶対に不可能ではないことは言うまでもない。不可能だと言い切るほど私たちはまだ、意識についてよくわかっていない。一般的には、次の三つの可能性を考察する必要がある。

1 意識は有機生化学と何らかの形で結びついており、非有機的システムに意識を持たせるのは不可能である。
2 意識は有機生化学とは関係ないが、知能とは特定の形で結びついており、そのためコンピューターは意識を発達させられるし、一定以上の知能を持つためには、意識を発達させざるをえない。
3 意識には、有機生物学とも高度な知能とも本質的な結びつきはない。したがって、コンピューターは意識を発達させるかもしれないが、必ずしもそうするとはかぎらない。まったく意識を持たないまま、超知能を持ちうる。>(同前100~101p)

アルゴリズムが意識をもつことはないと言明しながら、意識と知能についての錯認がユヴァルにある。もともと意識と、ユヴァルが考える問題を解決する能力を知能と定義するその対比の仕方が馬鹿げている。徹底した機能的な意識や知性の記述しかユヴァルはできない。有機生化学と関係ない意識が知能と特定の形で結びついているから、アルゴリズムは意識を発達させることができるし、優れた知能をもつには意識を発達させざるをえない。なにを言っているのかわからない。言っていることが矛盾している。意識が優れた知能を前提とするどんな理由もない。ユヴァルの認識のなかで超知能は主観的意識のないジェインズの二分心のようなものかもしれない。

意識とアルゴリズムが一意対応することはないことを前提として3つの可能性を提起しているが、意識とアルゴリズムがべつものだとするユヴァルの言い方を受け入れれば、1以外の命題は命題のなかに矛盾を抱えこんでいる。ただデータ教が共同主観的現実となり個々の意識を覆ってしまえば2と3は成り立つ。なんども言ってきたが、意識の外延性はユヴァルの2と3の考えを拒むことができない。グローバル経済の無慈悲が国民国家を非関税障壁としてなぎ倒し、つぎにグローバルなテクノロジーと生物工学の融合がサピエンスという種の概念を根本から書き換える。過誤の人類史はよりおおきな共同主観的虚構によってしか包摂できないとユヴァルは言おうとしている。

1について少し感想を書く。意識は有機的な身体の生化学となんらかの相関をしているというあたりまえをユヴァルは言っている。意識と意識の台座となる身体の相関の矛盾した関係については吉本隆明の定義を上廻るものを目にしたことがない。<そこで、わたしたちは、身体の生理過程がそれ自体で矛盾をつくりだすときは、つねに心的な過程をうみだすという規定をもうけることにする。つまり心的な過程は生理的な過程の矛盾を補償するための吐け口であり、心的な過程ははじめてこのような矛盾の捨て場あるいは緩衝域としてうみだされたものであるとしておく。>(『心的現象論・本論』)吉本隆明の言語の表現理論の核心をなす表出という概念の起源が語られている。かれの心的なものの起源についての卓越した考えでユヴァルの言説はとどめをさされている。いつか機会があれば、物理的、化学的な電子ノイズがなぜ有意味化され、観念の位相的な構造を産生したのか、考えてみたい。おそらく差延という存在の始原の遅れが電子ノイズを内包的な表出として表現し、人間という概念を生んだと考えている。ひそかにソシュールやチョムスキーとは異なる、種族語をつくることのできない内包言語論を構想している。

2についてどう考えるか。なぜ、意識と、知能という意識と関係のない特定の問題を解決する能力とを関連づけないといけないのか。ユヴァルが考える知能は演算力と再帰的なパターン認識力にすぎないが、コンピュータによって、なぜ意識は強化されないといけないのか。データ解析能力が向上すると意識は発達するか。観念の自然過程をどう考えるのかという視点がユヴァルに欠落している。非僧非俗を突き抜けた内包的な凡俗の極み、つまり生存の最小与件としてある愚そのものに人間の人間的な価値の根元がある。この俗と卑小という生のささやかさに人であることの価値の源泉がある。7万年のサピエンスの歴史を俯瞰し、これからの千年の行方を占うユヴァルに生の最小与件という内包自然(ないほうじねん)がわかるとは思えない。

他力の先に、他力がたわんでおのずから膨らんだ内包自然(ないほうじねん)が価値の源泉として、可視化することはできないが、無上のものとして存在する。むろんユヴァルはなにが言われているかまったく理解することができない。瞑想は外延知の煩悩解脱のテクノロジーであって、愚や俗や卑小というささやかな存在に内挿された、この上ない、どんな深いものより深い、深みをつくることはできない。外延的な我執を内観し脱自をめざす俗の境地のどこにも未知はない。そこで、無知それ自体が歌い、踊ることがあるか。内包の無智はいいぞ。言葉に目が生え踊り歌う。原初、ことばは歌であり踊りであり、音の根源にあることばが念仏をなした。

3についてはいうまでもなく、現に超知能、つまり演算力とパターン認識は人間の知性をはるかにしのいでおり、おおくの恩恵を被っている。超知能とアナログ脳の融合で人間の限界を超えようとする試みを意識の外延性が拒むことはできないが、この意識の流れのなかで生が舞うことはない。

いま手元の『サピエンス全史』をめくると意識の外延史の年表が付されている。この年表によると、7万年前に認知革命が起こり、虚構の言語が出現する。ホモ・サピエンスがアフリカ大陸から世界中に適応放散し、棲息領域を広げ、12000年前に農業革命が起こり、5000年前にメソポタミアで最初の王国が誕生する。このとき書記の体系と貨幣が発明される。500年前、科学革命が起こる。資本主義が台頭し、200年前産業革命が起こり、現在に至る。情報工学と生物工学の融合によってサピエンスという種が分化するかどうか、人間という種は終焉するか、その分水嶺に当面している。おおまかにユヴァルは歴史をこういうふうに鳥瞰し、来たる千年紀に超人が出現すると予言している。

わたしはユヴァルの外延的な歴史の記述を内包的に意識の外延性とはまったくことなる内包自然(ないほうじねん)から鳥瞰していることになる。可視化と空間化を旨とする意識の外延性では内包は実詞化しえないが、自力の信の手前に、内包自然(ないほうじねん)としてたしかな実在性をもって存在している。内包と外延は断絶している。かろうじて存在の複相性を往還することで、ふたつの言葉の気圏をつなぐことができる。

いつまで経ってもユヴァルに固有の言葉が始まらない。科学知に脅迫されひきずり回されているユヴァルは思考停止しながら考えあぐね、人類7万年の殺戮と殺戮への馴致をたんたんと記述する。人間というものはかつてもこれからも共同主観的虚構によって操られていく。ほかになにがあるのかという生々しい声がユヴァルの発言からときどき漏れでてくる。人類の厄災と行く末を論じるユヴァルの起伏のない冷淡な論理はかろうじて瞑想によって精神の調律がはかられている。『21 Lessons』を読んでそのことがよくわかった。ユヴァルさん、あなたの人間や歴史についての考察は観念の自動過程にすぎないのであって、観念の行き道からどう折り返すかが、困難な表現の課題として残されています。

ここであらためてユヴァルの思考の方法についてコメントをしたい。可視化、実体化という機能主義的な表現を鋭くユヴァルは提起する。プラグマティズムは、世界を記述するひとつの表現法ではあるが、内在性というものは欠如している。むしろ欠如した内在性のところで、人と人は逆説的につながるわけだ。わたしは機能主義やプラグマティズムで人と人はつながらないと思う。もし、つながるとしたら、社会的な内面と、内面化した擬制の共同性が、なめらかにつながるようにみえるということだ。内面化できない個人のありようと、共同化できない人びとのありようは、はからいを超えてつながるが、ここにはどんな欺瞞も虚偽も作為もない。

意識とアルゴリズムが一意対応しないことをわたしはつぎのように考える。内包のきりのなさが心身一如の同一性からあふれたときにはじめて自己の自己についての意識が表象されたということだ。はからいによって主観的な意識が生まれたのではない。内包のきりのなさから一方的に受動性としてもたらされたのである。だから自己意識をどのように遡っても、意識の内包性を追尋することも知覚することもできない。心身一如の同一性に内包が注ぎこまれ臨界を越えたとき、はち切れるようにして意識は観念の母型である根源の一人称から内包的に発出した。意識は内包という観念の母型を分有することで、自己に内包的に表出されたのであって、自己意識として自然から分離したものではない。自覚するしないにかかわらず、はじめから自己はふたりなのだ。人間の起源をなすサバンナ起源の人類の生の様式はもともとアルゴリズムのはるかな手前にあるものであって、人であることの原初をアルゴリズムで措定することはできない。内包という母型的な観念をアルゴリズムで表現することは原理的にできない。

中国周代に記された紀元前1000年頃の最古の詩編『詩経』のなかに、「冬之夜/夏之日/百歳之後/歸於基室」という詩文がある。読み下しでは「冬の夜/夏の日/百歳の後/其の室に歸せん」となる。雄渾に『詩経』を論じた白川静が妻の死にさいして「意識絶えて今はの言は聞かざりしまた逢はむ日に懇ろに言へ」と詠う。ここにも変わるだけ変わって変わらない内包の性がある。『詩経』の核に痕跡として遺された擬音語。内包の性はさらに遡ることができる。原初のことばはオノマトペだったと思う。内包自然(ないほうじねん)の母型の観念はひとりでいてもふたりのあいだで相互に贈与的な睦み語として語られた。贈与としての擬音。ねえ、一緒に食べよう。ここにことばの起源がある。ことばには始まる場所があり、始まりをもつことばの力をわたしは信じているから、万感の思いで内包論を書き継いでいる。どこまでゆけるか知るよしもない。(この稿つづく)

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