日々愚案

歩く浄土38:共同幻想論の拡張11

http://mewbo.jp/song/tmpvideo/bob-dylan-changing-of-the-guards/BWAlcb-OZTw
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アキと朔の最後の話にしつこくこだわります。

なんども取りあげてきた谷川俊太郎の好きな詩がある。

あなたの眠らなかった夜を私は眠ったが
私の知らないあなたの日々は
私の見た夕焼け雲に縁どられていた(「日々」)

なんど読んでもいいなと思う。
もっとすごいのもあります。

まわらぬ舌で初めてあなたが「ふたり」と数えたとき
私はもうあなたの夢の中に立っていた(「ふたり」)

この感覚もよくわかります。

誰も名づけることは出来ない
あなたの名はあなた(「名」)

そのとおりです。

もうひとつ諳んじている好きな詩があります。

どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言っているうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく(「ここ」)

まもなく死ぬことになるアキと朔の今生の別れの話は、少しだけ狂おしくはあっても、谷川俊太郎の詩とまったくおなじです。
アキのなかに朔がすっぽり入ってきて、朔のなかにアキがすっぽり入ってきて、もうアキはアキでなくなり、朔は朔でなくなっています。さらにアキは朔であるだけでなく、朔はアキであるだけでなく、ここを突きぬけます。そしてそのままにここがどこかになっているのです。宗教的な信はここまでくることはできません。

わたしはこの不思議を、AとBが関係したらAでもBでもないCがあらわれると言ってきました。それが内包だとも。アキと朔に聞いたら、そう、そう、そう、と言うに違いないと思います。これはリクツではなく知覚です。
アキと朔がつくったのは内包自然です。縁(えにし)によっておのずから現成したのです。だれのなかにもひっそりと眠っている、それがあることによってヒトが人となった由来である根源の性によぎられて、アキと朔は内包自然に触れたのです。だからアキは「ここがもう天国のよう」と言います。アキも朔も内包自然を生きたのです。

この生の知覚を同一性でたどることは絶対にできません。外延表現の世界ではピカソの触れた真っ赤な青も、曲がった直線も、ずっしり軽い性も矛盾です。内包表現ではあったりまえの自然です。死に行くアキはアキであり、残される朔は朔です。外延表現ではそうなります。それにもかかわらず、アキが朔になり、朔はアキです。さらにアキでもない、朔でもないところまでゆくのです。内包論では自然です。むしろこの驚異が自然なのです。たがいのことを思いやるということとはまったく絶対に違います。このとき自己も外界も反転し、この内包自然に陥入してしまいます。

朔になったアキと、アキになった朔は、さらに深い、この世のどんなものより深い世界に期せずして触っています。もちろんアキや朔がそのことを言葉として意識することはなかったと思います。無意識であってもアキと朔はそこまで行っています。それは始まりがあって終わりのない意識の流れです。神仏と往相の性の彼方の内包自然です。
この不思議や驚異を言葉としてとりだすことができれば、人為や意志とはなんのかかわりもなく、わたしたちのこの世のしくみはおのずからひとりでに変わります。
そういう驚きがアキと朔のひかえめだけど狂おしい話のなかに埋もれています。なんならこの会話だけで世界認識の方法をつくりあげることもできます。

知を積み増すことで世界を語ってきた西欧の知の偏りは知を解体することを識りません。ヨーロッパの知には知の還り道がないのです。知を積み上げることと知に超越する神を語ることは矛盾しないのです。ヨーロッパ的知の限定というものがあります。
仏教は異質な思考をとっています。積み上げた知を積み上げるごとに縁起という概念で相対化します。あらゆるものを相対化し自然に融即する技術です。
仏教の縁起や空という概念はこの知覚を同一性にふたたび封印しています。神仏と往相の性の彼方にある根源の性という内包自然は、ある固有の他者との縁(えにし)によってしか手にすることはできないのです。この機微を仏教は括弧に入れています。仏教は他者を一般化して語ります。仏教の世界にたいする触り方は独特ですが、衆に空を敷衍しています。そこにはどんな性もありません。

宗教的信は同一性を前提とした生の不全感の解消をすることしかできません。その意味ではあらゆる宗教的信は擬制であり、ニヒリズムを根本的には払拭しきれていません。どんな宗教的な信も突きつめの甘さを自身の宗教のうちに遺しています。信を解体できていません。同一性の彼方があることを指し示しながら、この彼方をそのままにはひらくことができなくて、消したはずの同一性を召還しています。

    2
アキと朔の別れの場面を逍遙しています。物語のひとこまを取りあげてみる。余命が幾ばくもないアキと朔はふたりの思い出を刻みたくて、朔が瀕死のアキを病院から連れ出して航空会社のカンターまでやってきたところでアキが倒れる。運び込まれた病院で深夜、彼女の両親と朔と朔の父親が待機する。アキの母親から「会ってやってちょうだい」といわれ朔は無菌室に入る。

「お別れね」と彼女は言った。「でも、悲しまないでね」
 ぼくは力なく首を振った。
「わたしの身体がここにないことを除けば、悲しむことなんて何もないんだから」しばらく間を置いて彼女はつづけた。「天国はやっぱりあるような気がするの。なんだか、ここがもう天国だという気がしてきた」
「ぼくもすぐに行くから」ようやくそれだけ口にすると、
「待ってる」アキはいかにも儚げに微笑んだ。「でも、あまり早く来なくていいわよ。ここからいなくなっても、いつも一緒にいるから」
「わかってる」
「またわたしを見つけてね」
「すぐに見つけるさ」(『世界の中心で、愛をさけぶ』160p)

アキの母親から会ってやってといわれてから、いまわのきわのアキと朔の会話です。まずアキの母親が見守ります。血縁のつながった母子ですから事の次第としては自然です。つぎに朔が呼び入れられます。アキと朔には出会う縁(えにし)がありました。でもきっかけはささいなことだと思います。始まりはしだいに深くなりました。ここで思うのですが、もともとはアキと朔はバガボンド同士です。漂泊者どうしがそれぞれの親子より深くなるのはよく考えてみれば不思議です。親子は親子の会話をなしたはずで、親子の別れもアキと朔の別れも悲しいし、どちらが悲しいか比べることはできないけれど、アキと朔の別れは次元が違うと思う。血縁はないのです。夫婦が内包自然だとしても血縁の家族は所与の自然です。まして当初はアキと朔は赤の他人なのです。互いが互いにとって未知の漂泊者です。
それなのにこの会話が可能となるのです。すごいことです。わたしたちはこの不思議を知っているのにほんとうには知らないと思います。

縁があるとひとはたがいにこうなることができるのです。心身一如の存在である自己が一瞬でふくらみ領域化されるのです。これより不思議なことはありません。アキと朔が一緒に暮らすことはありませんでしたが、見事に関係を生きたと思います。

不条理に突然見舞われたとき、いきなりテロの被害に遭ったとき、あるいは不治の病で死を宣告されたとき、近代由来の社会思想は出来事を受容することにたいしてまったく無力です。世界宗教は宗教自体が歴史のなかでもまれて苦労してきているので、それぞれの受容の仕方を熟知しています。なにかのきっかけで宗教的な信をうれば、心の起伏を穏やかにすることができます。しかし信を疑えば、信は一瞬にして崩壊します。信は同一性を前提とした閉じられ制約された生です。わたしの知覚では宗教的信も同一性の囚われのうちにあります。わたしはそう理解しています。

アキと朔の触った内包自然は共同幻想としての宗教的信よりはるかに規模がおおきく、より広がりと深さのある知覚だと思います。むしろこの驚異はヒトが自然から離陸し、人となった太初から身を潜めていたように思います。陽気な太古の面々は自己を基にした対幻想を知るよしもありません。しかし世のなかの転変にもかかわらず情動の原型は変わらないと思います。

    3
アキと朔の最後の話を手がかりに吉本隆明の幻想論の概念の水準と輪郭をみていきます。かれは『共同幻想論』の序で、インタビュアーの質問に明確に答えています。「世界思想の中でおれの場所というのはここにあるはずだ」(勁草書房版『共同幻想論』33p)と言い、不適な自信にあふれています。かっこよくて若い頃心酔しました。この書の後記としてまたつぎのように述べています。「わたしは終始、わたしにとって切実な課題がわたし以外の人々にとって切実でないはずがないし、わたしにとって現代的な課題が、わたし以外の人々にとって現代的でないはずがないという確信をいだいてきた。それがうまく本書を読まれる人々に伝わってくれたらと願うだけである」(277p)
吉本さん自身のこの表現のモチーフは消費社会の興隆するなかでイメージ論として大転回を遂げました。

1990年に吉本さんと対談をしたとき、吉本さんはわたしに「あなたの内包というたましいのイメージは」と言い、「あなたはあなたに関心のない領域にもっと関心をもちなさい」と言葉をつづけました。内包は内面とも外界とも違います。内面や外界を包む概念です。マンガとロックはわたしの好きで得意な領域でした。言われてうれしい花いちもんめ、でした。俯瞰するもなにもわたしはその現場にいました。
話のなかでこれからのこの国の行方についても双方が主張しました。吉本さんは総中流化する社会で、貧困や欠乏を根拠にする思想は退廃であると断じました。わたしはこれからこの国は剥きだしのハイパーリアルな生存競争の時代に向かうと主張しました。総中流化は一瞬で破綻しました。時代の趨勢はわたしの予測したとおりに進行しています。わたしと吉本さんの対談がバブルのまっただ中でなされたことは象徴的だと思っています。

吉本さんの戦後二度目の思想の「転向」は勇み足だったと理解しています。むしろ社会の変貌を、じぶんを希薄にしながらつかむのではなく、じぶんのがわにすべてを引きよせ、さまざまなひずみを存在の根底においてひらけばよかったのです。わたしは生の原像を還相の性で生き切ることをじぶんの考えの根底としています。わたしが当事者性を手放すことはありません。

①だんだんこういうことがわかってきたということがあると思うんです。それは、いままで、文学理論は文学理論だ、政治思想は政治思想だ、経済学は経済学だ、そういうように、自分の中で一つの違った分野は違った範疇の問題として見えてきた問題があるでしょう。特に表現の問題でいえば、政治的な表現もあり、思想的な表現もあり、芸術的な表現もあるというふうに、個々ばらばらに見えていた問題が、大体統一的に見えるようになったというようなことがあると思うんです。
 その統一する視点はなにかといいますと、すべて基本的には幻想領域であるということだと息うんです。なぜそれでは上部構造というようにいわないのか。上部構造といってもいいんだけれども、上部構造ということばには既成のいろいろな概念が付着していますから、つまり手あかがついていますから、あまり使いたくないし、使わないんですけれども、全幻想領域だというふうにつかめると思うんです。その中で全幻想領域というものの構造はどういうふうにしたらとらえられるかということなんです。どういう軸をもってくれば、全幻想領域の構造を解明する鍵がつかめるか。
 僕の考えでは、一つは共同幻想ということの問題がある。つまり共同幻想の構造という問題がある。それが国家とか法とかいうような問題になると思います。
 もう一つは、僕がそういうことばを使っているわけですけれども、対幻想、つまりペアになっている幻想ですね、そういう軸が一つある。それはいままでの概念でいえば家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である。そういうものは大体対幻想という軸を設定すれば構造ははっきりする。
 もう一つは自己幻想、あるいは個体の幻想でもいいですけれども、自己幻想という軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というのはみんなそういうところにいく。
 つまりそういう軸の内部構造と、表現された構造と、三つの軸の相互関係がどうなっているか、そういうことを解明していけば、全幻想領域の問題というものは解きうるわけだ、つまり解明できるはずだというふうになると思うんです。そういうふうに統一的にといいますか、ずっと全体の関連が見えるようになって、その一つとして、たとえば、自分がいままでやってきた文学理論の問題というのは、自己幻想の内的構造と表現の問題だったなというふうに、あらためて見られるところがあるわけです。そして、たとえば世の人々が家族論とか男女のセックスの問題とか、そういうふうにいっていた問題というのは、これは対幻想の問題なんだというふうにあらためて把握できる。それから一般に、政治とか国家とか、法律とか、あるいは宗教でもいいんですけれども、そういうふうにいわれてきた問題というものは、これは共同幻想の問題なんだなというふうに包括的につかめるところができてきた。だから、それらは相互関係と内部構造とをはっきりさせていけばいいわけなんだ、そういうことが問題なんだ、今度は間題意識がそういうふうになってきます。 そうすると、お前の考えは非常にヘーゲル的ではないかという批判があると思います。しかし僕には前提がある。そういう幻想領域を扱うときには、幻想領域を幻想領域の内部構造として扱う場合には、下部構造、経済的な諸範疇というものは大体しりぞけることができるんだ、そういう前提があるんです。しりぞけるということは、無視するということではないんです。ある程度までしりぞけることができる。しりぞけますと、ある一つの反映とか模写じゃなくて、ある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところまでしりぞけることができるという前提があるんです。

②共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。〈種族の父〉も〈種族の母〉も〈トーテム〉も、たんなる〈習俗〉や〈神話〉も、〈宗教〉や〈法〉や〈国家〉とおなじように共同幻想のある表われ方であるということができよう。人間はしばしばじぷんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもきない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。(『共同幻想論』序 欧文は略 20~34p)

③〈性〉としての人間はすべて男であるか女であるかのいずれかである。しかしこの分化の起源は、おおくの学者がかんがえるようにけっして動物生の時期にあるのではない。あらゆる〈性〉的な現実の行為が〈対なる幻想〉をうみだしたとき、はじめて人間は〈性〉としての人間という範疇をもつようになったのであるといえる。〈対なる幻想〉がうみだされたことは、人間の〈性〉を社会の共同性と個人性のはざまに投げだす作用をおよぼすことになった。そのために、人間は〈性〉としては男か女であるにもかかわらず、夫婦とか、親子とか、兄弟姉妹とか親族とかよばれる系列のなかにおかれることになった。いいかえれば〈家族〉がうみだされたのである。だから〈家族〉は時代によってどんな形態上の変化をこうむり、地域や種族によってどんな異なった現実関係におかれたとしても、人間の〈対なる幻想〉にもとづく関係であるという点では共通性をかんがえることができる。そしてまたこれだけがとりだすことのできる唯一の共通性でもある。わたしたちはさしあたって〈対なる幻想〉という概念を、社会の共同幻想とも個人のもつ幻想ともちがって、つねに異性の意識をともなってしか存在しえない幻想性の領域をさすものとかんがえておこう。
 〈家族〉のなかで〈対〉幻想の根幹をなすのは、ヘーゲルがただしくいいあてているように一対の男女としての夫婦である。そしてこの関係にもっとも如実に〈対〉幻想の本質があらわれるものとすれば、ヘーゲルのいうように自然的な〈性〉関係にもとづきながら、けっして「自己還帰」しえないで、「一方の意識が他方の意識のうちに、自分を直接認める」幻想関係であるといえる。もちろん親子の関係も根幹的な〈対〉幻想につつみこまれる。ただこの場合は、〈親〉は自己の死滅によってはじめて〈対〉幻想の対象になってゆくものを〈子〉にみているし、〈子〉は〈親〉のなかに自己の生成と逆比例して死滅してゆく〈対〉幻想の対象をみているというちがいをもっている。いわば〈時間〉が導入された〈対〉幻想をさして親子と呼ぶべきである。そして、兄弟や姉妹は〈親〉が死滅したとき同時に死滅する〈対〉幻想を意味している。最後にヘーゲルがするどく指摘しているように兄弟と姉妹との関係は、はじめから仮構の異性という基盤にたちながら、かえって(あるいはそのために)永続する〈対〉幻想の関係をもっているということができる。(『共同幻想論』所収「対幻想論」188~189p)

押し入れのなかを探して『共同幻想論』を引っぱりだしました。河出書房新社の第一版第一刷です。昭和43年刊です。熱心な吉本さんの読者でしたから読みましたが、理解できませんでした。大半の読者もまたそうではなかったかと思います。共同幻想という言葉だけが一人歩きをしていた感じがありました。『共同幻想論』を書いたとき吉本隆明は思想の絶頂期にありました。その勢いやすごいものであたるところ敵なしでした。なによりわたしがその渦中にあったので伝聞ではありません。

若い頃わたしは部落解放運動に外部から関わり、もはや外部の者とはいえない場所から、吉本隆明の共同幻想という考えを手がかりにひとりの悪戦を戦い抜きました。吉本隆明の共同幻想という思想がなかったらやれなかったといまでも思っています。はんぶんだけは吉本隆明の共同幻想という思想に恩恵を被りました。のこりのはんぶんは内包論として引き継ぎじぶんの考えをつくっています。わたしは内包論を世界思想として構想しています。

これから書くメモは時代のなかで格闘した吉本隆明の事績であって、すでに過ぎたことに属する。引用①は当時まだ勢いのあった下部構造決定論にたいして吉本隆明が精一杯力こぶをつくったところです。大半は無駄であったとわたしとの対談のときも言っていました。マルクス主義の下部構造が上部構造という観念領域を決定するという時代錯誤の考えを批判して、マルクスの自然哲学と資本論はべつのものだと擁護したうえで、そのマルクスの経済論にかれ自身の幻想論の位置づけを述べています。吉本隆明は幻想論の独自性を強く主張しました。すでに生きられている事実に属するから、格別の妙味はない。すべてをお国のためや天皇のため、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶという共同幻想全盛時代の反動として個人の私性を擁護し優先するという思想の先鞭をつけたものだと理解します。戦後の制度も吉本隆明にとっては擬制でした。それはマルクス主義という先進思想との対決でもありました。そこをはっきりさせるために吉本隆明は自己幻想と対幻想と共同幻想の区別とつながりをはっきりさせる必要があると考えたのです。

引用②のなかで取りあげるべきことは、吉本隆明が対幻想を共同幻想の特殊な形態と考えていることです。「共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした」とはっきり書いています。ここには抜きがたく自己幻想を優位におく吉本隆明の思想の特質があらわれています。かれは対幻想のなかでは人間は全人格的にではなく部分的にしか登場できないとべつの本でも明言しています。『共同幻想論』を書くにあたって性的な関係をともなわない兄弟と姉妹のゆるやかな対幻想が氏族性から部族性への飛躍をもたらし、そこに国家という共同幻想が起源をもったというのが共同幻想論の大まかな骨格です。ヘーゲルの考えが最大限に評価されることになった由縁です。現に国家は事実としてあるのですが、ヘーゲルのこの考え抜きには小さな村落の集団が国家をなすということの説明がつかなかったのです。なにかしら理念の組み上げ方に無理があると思っています。吉本隆明の考えでは対幻想は国家へ至る媒介領域としての意味しかもちません。いまでも不満です。

引用③のコメントを少し書きます。『共同幻想論』を読み返し、当該の箇所をスキャナで読み込み、文字変換の確認をしていて気づいたのですが、かなりびっくりしました。対幻想は吉本隆明の独創だと思い込んでいました。なんだ、ヘーゲルからの借りものかと失望しました。経済論についてはマルクス、対幻想についてはヘーゲルとフロイド、自己幻想は実作者だからお手の物。そのうえでふたりの思想家を脇に配する。宗教的信の解体にについては親鸞。マルクス主義の批判の先鞭をつけたヴェイユ。のちに三木成夫の内臓感覚が自己表出の根源であると表明はしたけど、吉本隆明のオリジナルな思想とはとはなんだったんだろうと考え込みます。そういえばイメージ論で新規にうちだした世界視線という斬新な概念もありますが、フーコーの人間の終焉を転化したものです。

観念の積み増しは観念にとっての自然過程で、ほっておいてもそうなるという思想は吉本さんの生の知覚であるように思います。できれば知的なことに関わりなく生きたかったというのはかれの生存感覚で、いまでもこの感覚は好きです。それ以外はぜんぶ先人からの借りものではないか。釈然としません。時代が更新されるとともに思想が古びていくことはあります。どんな思想もそのことからまぬがれることはないと思います。そのことをもって批判しているのではない。思想を時代に合わせようと思想の大転換をしたそのやりかたになにか欠陥があったのではないかとわたしは考えています。
わたしの生存感覚と吉本さんの生存感覚をつきあわせてみます。

    4
内包親族論や内包贈与論の下ごしらえとしてこのブログを書いています。当初は、吉本隆明が柳田国男の遠野物語を下敷きにして『共同幻想論』を書いたように、吉本隆明の『共同幻想論』を下敷きに内包親族論や内包贈与論のノートをとるつもりでいました。それで46年ぶりに読み返したのです。幸い探したら手元にありました。しかし構想のイメージがふくらみませんでした。いろいろ考えをめぐらせましたが、そのなかにいて、そこを生きている言葉にしか触手が向かわないのです。べつにわたしは世界を解釈したいのではないのです。なによりわたしが日々変貌しつつあるこの世界を生きたいのです。

『共同幻想論』をていねいにたどりなおすと、数千年前の起源の国家で終わっていると後記に書いてあります。共同幻想論は現代的な問題意識をもって書いたものであることも述べられています。夏目漱石や森鴎外の作品も登場します。わたしの内包論も現代的なひとつの世界構想として書かれています。『世界の中心で、愛をさけぶ』の文言を扱うのはこのわたしの構想を刺激するからです。未知の世界構想を可能とする言葉がちりばめられているからこの作品を取りあげています。

わたしはむかしからだいたい10冊くらいの本をどうじに読む習慣があります。ひとつずつ読むと疲れるからです。内包親族論や内包贈与論をすすめる手がかりをつかみたいからというモチーフがあります。読んでいて大半の本は退屈です。優れた知性による優れた書物であることはわかるのですが、なにか交通法規集のようで気持ちが踊らないのです。これからも内包論を書きつぐにあたって必要な本を必要に応じて読んでいくことはありますが、共感することやなにか未知のものがそこにないと読む気になれないのです。

下手したら『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一)1冊で内包論が完成するかも。いまひとつ候補作がありますが、文章にまではまだもっていけていません。

そこでふたたびアキと朔。

吉本さんのむかしの作品『共同幻想論』を取りあげたのはただひとつの理由からです。引用③の、「〈家族〉のなかで〈対〉幻想の根幹をなすのは、ヘーゲルがただしくいいあてているように一対の男女としての夫婦である。そしてこの関係にもっとも如実に〈対〉幻想の本質があらわれるものとすれば、ヘーゲルのいうように自然的な〈性〉関係にもとづきながら、けっして『自己還帰』しえないで、『一方の意識が他方の意識のうちに、自分を直接認める』幻想関係であるといえる」という箇所を吟味したかったのです。かなり愕然としました。これってヘーゲルの考えたことなんですね。あのヘーゲルです。体育の時間に縦隊の整列のときに「前へならえ」とか「気をつけ」とか「休め」とかありましたが、そういうことが好きな人ですね、ヘーゲルは。ヘーゲルは空海の生まれ変わりです。ヘーゲルにとって意識は世界そのものだから、意識を実現することは世界を実現することに等しく、その体現が世界精神であると考えた、あのヘーゲルが対幻想など考えたわけがありません。なによりかれは自己が可愛かったのです。対の意識は媒介そのものでたんなる飾りの言葉です。じぶんより大切なものを脇において、自己幻想が共同幻想と逆立するとして、それがどうしたという気持ちがわたしのなかにいつもありました。手にするものは空虚な境涯です。わかりきったことです。

対意識が自己へと還帰することなく、「一方の意識が他方の意識のうちに、自分を直接認める」幻想関係であるということをだれもが生きています。あまりにあたりまえすぎます。対幻想はわたしたちにとってはとっくに所与の自然となっています。どういうふうにこねくりまわしてもそこに未知はない。内面化された自己から対意識をとらえ返しても、そこにはなにもないと思うようになりました。夫婦や男女の関係がうまくいくとか、いかないとかそういうことが言いたいのではない。それはどうでもいいのです。

ひとはだれもじぶんが生きてきたようにしか世界をとらえることはできません。わたしは対幻想の本態は内包自然にあると考えるようになりました。『Guan02』を書いて以降の10年余の悶絶を経て、わたしが手にした生の知覚です。いま、知にも往き道と帰り道があるように、性の世界にも行きと還りがあると思っています。性には往相の性と還相の性があります。吉本隆明が血煙をあげながらつくったマルクスの経済論に対置した幻想論が幻想論にたいして表出の展開を遂げたのです。わたしの個人的な体験を超えて時代性としてこの表出の感覚があると思います。作者の無意識もふくめてアキと朔の会話でそのことが見事に象徴されています。

死に行くアキは還相の性の場所から朔に、短いあいだだったけど、楽しかったよ、また会おうね、と言います。いつも一緒だから悲しまないで。アキの別れの言葉は、いわゆる対幻想をはみ出しています。この会話が意味することはもっともっと深いのです。「いつも一緒にいるから」「またわたしを見つけてね」「すぐに見つけるさ」。いずれも平易な言葉です。アキは朔に、世界は〔あなた〕である、と最期に言ったのです。ここがどこかになるということはそういうことです。こういうの、すごく好きです。

『世界の中心で、愛をさけぶ』という作品を流れる太い精神のうねりとやわらかくて音色のいい音はまだ解読されていません。この作品はドストエフスキーの『罪と罰』を超えてのこりつづけます。ドストエフスキーの作品は、マトリョーシカ人形の世界であり、神という超越を仲立ちとした世界との和解のひとつの方便です。そこに未知はありません。神仏と往相の性の彼方をアキは生きました。内面化された自己ではなく、領域としての自己として。アキと朔の短い永遠にしかあたらしい生の可能性はない。

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