日々愚案

歩く浄土260:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理17/生と死はどこにあるか5

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ユヴァルの新作の感想を書くにあたってまず親鸞の他力についてあらためて考えてみる。なぜ親鸞の他力は他力という自力の念仏者の集団を生んだのか。親鸞が解かずに残した他力の余白がある。他力とはなにか。はからいが消えてみずからがいつのまにかおのずと領域になる不思議。親鸞を超越する仏の慈悲が親鸞に注がれそれを親鸞がありがたく頂戴するということではない。それだと自力の念仏集団にしか成らない。親鸞が親鸞のまま仏になること。親鸞はこの不思議を自然法爾と呼び、言葉としては遺されていないが、ここを生きたと思う。仏という念仏は消えた。にもかかわらず仏という宗教的な観念は生き延びた。これはどういうことか。なぜそうなるのか。親鸞は宗教を解体したはずではないのか。親鸞が語り残したことがある。内包はこの難所をこじ開けろうと懲りずに挑んでいる。

なぜ親鸞を論じるのかは、なぜユヴァルの本を読むのかにひとしいこととしてある。ユヴァルの本のなかに、人間という理念がポストヒューマンというあたらしい種に移り変わっていく様が比喩的に語られていると思うからだ。理念としてより強い実感としてある。むろんこの遷移を是としているわけではない。人間がべつの自然に転化することを非とするならば、人間という概念を可能とした同一性の起源まで遡り、同一性の母型となる根源の性によって、人が神になることの空虚さを語るしかないと思う。自力はホモ・デウス(超人)と劣位のサピエンスに分別することを受容する。自力の信では拒めないのだ。それほどの強圧が生の地殻変動として起こっている。恐ろしいのはこの遷移が、風が吹くように、雨が降るように、あたかも天変地異のように自然に起こるということにある。意識の外延性のなかにはこの変化を拒む理念が棲まう余地がない。

アフリカのサバンナに淵源をもつ人間の生の様式は押し寄せるサイバーパンクな進化の大海に適応できず滅んでいくのだろうか。ユヴァルは端的に人間という外延は可変であると書いている。人間という概念はいちども成就されることもなく滅んでポストヒューマンに引き継がれていく。まったく違うという唸り声を内包論から挙げている。内包論はやわらかい生存の条理をつくろうとしている。内包もまたひとつの念仏、内包はやさしいうなり声だと思う。科学知を生の根拠とするハイパーリアルな剥き出しの生存競争を自力廻向の知で阻止することは敵わない。ただ親鸞の還相廻向を拡張することによってだけ惑星大に広がろうとしている自然生成を内包自然のなかに融解させることができると考えている。およそ850年前に生まれた親鸞。親鸞の見果てぬ夢のかけらをいま内包は生きている。

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内包という考えの変遷について考えてみる。哲学や思想の対象として内包論を構想したことはいちどもない。厄介な出来事に避けられぬ該当者として遭遇し、腰だめに低く身を起こし、いくつもの修羅をくぐり抜け、偶然そこから生還した。その渦中で生を引き裂く力とおのずと生をつなぐ熱い自然にであった。この体験を手放さずに体験の意味をつかみたかった。いまも終わることのない内包論として書き継がれている。当事者性を手放さずに引き裂く力の条理をつなぐ力に拠って外延的な存在を根底からひらくことは困難をきわめた。煩悶しながら少しずつ言葉をつくりはじめた。意図したことではないがふり返ってみると、生を引き裂く力を意識の外延表現、生をおのずとつなぐ力を内包表現と名づけてきたような気がする。紆余曲折、つづら折りの道だった。内包という出来事に驚倒し、自己の手前に根源の性という人間に固有の観念の母型があり、根源の性が分有されることで自己が自己である各自性が生まれると考えた。これは理念ではなく圧倒的な生のリアルである。

根源の性の核には還相の性があり、還相の性によって内包自然は統覚されている。還相の性と往相の生はあざなわれて自己の手前に自他未分の根源の一人称として内包的に存在しているが、自己の側からは根源の二人称と知覚され、根源の性の分有者はそれぞれが〔領域となった自己という性〕としてあらわれる。自己は心身一如の同一性という外延知に、領域となった自己という性は内包知として表現される。内包知は親鸞が無上仏と名づけたものにとてもよく似ている。最期の親鸞の思想をもっと享受したいので、他力や横超や自然法爾について考えを進めてみる。原口孝博さんと片山恭一さんの発言を追いながらそこに立ち入っていく。

原口孝博さんの〔重なりの1〕は内包とほとんどおなじことを言おうとしている。原口さんの〔重なりの1〕を幾重にも積み重ねていくと共同性になるだろうか。原口さんの〔重なりの1〕とおなじ言葉の気圏を片山さんも生きている。原口さんは〔重なりの1〕のありようについて「自己を起点に放射状に、無数に産み出すことも可能となる」と考えている。片山さんは「光を放つのは、ぼくたち一人ひとりです。無数の光を反射して、透明だった世界が発色をはじめる」と〔遠いともだち〕があらわれると言う。そのとき放射状に産みだされたそれぞれの無数の〔重なりの1〕やそれぞれの〔遠いともだち〕は相互にどう連結するのだろうか。

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この問いをわたしもまた長年考えてきた。親鸞の思想を手がかりに考えてみる。ここに親鸞の他力をじかにつかみ自然法爾を生きている覚者が3人以上いるとする。50人でも100人でも、いや何人いてもかまわない。親鸞は弟子ひとりもたず候と言い、仏は親鸞一人がためにありという伝承もある。親鸞の激しい聖道門(ユヴァルの瞑想)への批判は非僧非俗の思想で貫通するだろうか。親鸞の他力を生きる念仏者は念仏者の集団をつくるだけではないのか。宗教の世俗化ということでは説明がつかない。親鸞は浄土教の教義を解体した。宗門はそこで終焉したはずだ。それにもかかわらず他力を信じる巨大な念仏者の集団ができた。ここにどういう背理があるのか。少なくとも親鸞の意図したことではない。卓越したベンチャー企業家蓮如の功績があるとしてもそれだけではない。

浄土教の教義を解体することは仏という観念を解体するということと同義である。言葉として遺されているわけではないが最後の親鸞は、親鸞の手前にある仏を親鸞として生きたのではないか。そのときの仏は、衆生をあまねく慈悲によって照らす空間化された仏ではない。親鸞はかたちのない無上仏を親鸞一人がためにある、実詞化できない固有名として生きた。それは親鸞がどう言おうと〔性〕にほかならない。親鸞は領域となった親鸞を仏と共に生きた。仏もまた親鸞にほかならない。他力で自力を相対化することはできるが他力本願という自力は残響音となって遺棄される。この〔在る〕のざわめきが他力という自力の原型となって可視化され巨大な念仏者集団が形成された。貨幣も国家もグローバル経済も、強いAIもバイオテクノロジーもおなじ範疇に属する。

わたしは他力のなかに他力をつくることではじめて他力は本懐を遂げることになるのではないかと考えた。最期の親鸞はそこまで到達していたと思えてならない。親鸞がかたちのない無上仏をことばとして生きるということは、親鸞が領域になることで、そのことは領域となった親鸞が固有の仏を親鸞として生きることにほかならない。親鸞のこの思想を内面化できるか。親鸞のこの思想を共同化できるか。できない。そのとき非僧非俗は非僧非俗を突き破り愚・俗・卑小そのものとなり、いかなる共同性を疎外することもなく、やわらかい生存の条理を実現する。親鸞の他力がはらんでいた逆理をひらくと他力のなかの他力が現成する。自然法爾は領域化することができる。親鸞の手前に仏という性が領域として存在する。内包の性の由縁がここにある。

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〔重なりの1〕にちょっと刻み目を入れると、還相の性と、それを核とした喩としての内包的な親族になる。還相の性はたんなる起点と考えていい。還相の性は、あるか、ないかとして存在しているのではない。還相の性というつながりがあるから、自他未分の根源の一人称が根源の二人称として表現される。しかしこの起点がないと人と人のつながりは共同性として疎外され、国家と貨幣の交換を避けることができない。国家や貨幣や科学知からどうやったら折り返すことができるか。還相の性と内包的な親族の関係のどちらが優先するか、その先後はどうなっているかと問うことには意味がない。起点があるから優先や先後のない関係ができるし、そこでだけ凡庸な悪が消えてしまう。領域としての自己が性であるなら、三人称が疎外する凡庸な悪はどこにも存在する余地がなくなる。心身一如に自己のありようの起点をおくかぎり、三人称が疎外されることからまぬがれることはない。人倫をどれほど熱く説いても禁止は侵犯される。

もし、領域となった自己という性の知覚が虚偽なら内包論は一瞬で崩壊する。それを承知で内包論を書いてきた。それぞれの自己が互いに他者として出会ってつくる観念の世界を対幻想だと、対幻想という言い方をするかどうかはともかくとして、たいていの人はそう考えている。きっかけは個人と個人の出会いとして始まるが、ほんとうは個人はそのとき、自己という領域としての性になっている。往相の性という対幻想を特殊な共同幻想と考えると、個人から家族、家族から親族、親族から氏族、氏族から部族へと共同性は自然に拡大していく。いまでは最強の共同幻想である科学知によって意識の慣性は急峻な変貌を遂げ、グローバルな経済の無慈悲をもたらし、生物工学やAIと結合し、遺伝子編集で強化されたポストヒューマンの誕生さえ視野に入ってきつつある。どこかで思考の慣性を折り返さないと、一部のホモ・デウスという超人と劣等のサピエンスという生物学的カーストが登場し、膨大な無産階級が産みだされることを避けることはできない。ペリーの黒船来航とは比較にならないまったく未知の人類史に当面しているといっていい。心身一如の自己がその心身の一片に至るまで分子記号に還元されビットによって再編集される。

このような外延表現の思考の慣性が惑星大に拡張し人類という概念が消滅するかもしれないとユヴァルは主張する。バイオテクノロジーとAIの先端知の開発に余念がなく、嬉々としてあたらしい知見を語る科学者はグロテスクで異様だと思う。かれらはコンピュータの演算力と再帰的なパターン認識を知能だと考え、人間を超えると言う。高速な演算力や再帰的なパターン認識と意識はまったくべつものだ。その違いに気づかない鈍感さが幼稚なAI万能論者として機能し、この錯誤のうえに人間という概念がつくり変えられようとしている。遺伝子の分子記号をカットアンドコピーして人間が神になることを目指したり、AIと脳をつなぐブレイン・コンピューター・インタフェースと結合することでポストヒューマンができあがるとユヴァルは暗喩する。そこになんの未知もない。ユヴァルが脅迫されている外延知を内包知で包んでしまえばいい。ただ外延知はふたつのことを要請する。総表現者という概念がひとつ。内包自然がひとつ。このふたつを練り合わせて世界を構想すればユヴァルの自力廻向である瞑想よりいいものがひとりでにできあがると確信する。科学知の自動更新などたいしたことはない。使い回せばいいだけのことだ。

なにがこの歴史を革めることになるか。わたしは還相の性と還相の性が巻き取った内包的な人と人の関係だと思う。親鸞が言ったように、有縁を度すべきなのだ。だれのどんな生のなかにもわたしたち個々の意志とはまったく関係なく還相の性は潜勢力として内挿されている。くり返す。それが、あるか、ないか、ではない。この問いに先立って根源の性は存在する。内包という母型から根源の性が弾けて心身一如の同一性的な生が表現され、自己の自己についての意識が分極し、自己の意識と環界が相互に規定し合い、さまざまな自然がつくられ、外延的な生は生の終わりに脱分極し、内包という母型に回帰する。生は内包と共に始まり、ある時間を外延的な生として生き、再び内包に回帰する。個人の生涯も内包から外延を経て内包に回帰し、歴史もまた内包から生まれ、一時期、外延史の世界を描き、やがて喩としての親族から内包という母型に回帰する。誕生と終わりのふたつの内包にはさまれて自己と歴史という外延的な表現が存在している。(この稿つづく)

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