日々愚案

歩く浄土37:共同幻想論の拡張10

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『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一)についてまだ書き足りない気持ちがあるので少し追補する。なぜアキは最期の瞬間、朔に会わなかったのだろうか。いまなら言える。往相の性の果てる還相の性の場所にすでにアキがいたからだ。もちろん朔にはそのことはわからない。還相の性は親鸞の正定聚とも違います。還相の性は親鸞の他力にのこされた最後の未然を拡張したものだとわたしは考えています。親鸞の他力は信の同一性を解体しながら最終的には同一性に回収されているようにわたしには見えます。わたしは神仏という思想よりはるかに広がりと奥行きのある根源の性のことを考えてきました。還相の性は〔ことば〕の関係です。そのなかにいて、そこを生きながら、どうじにこの世の信を解体できる唯一の、そして最後の場所だと思います。

根源の性はひとであることの根源であり原像です。それがあるためにヒトは人となったのです。根源の性が共役的にくびれた分有者は互いに不一不二(不可分・不可同)です。でもこれだけではまだ決定的になにかが足らない。
アキと朔のあいだに起こった出来事は不一不二ということでは言い尽くせない。ここまでならば覚者のほかに仏なしとする禅仏教でもくることができた。たんなるアジア的負荷のかかった自然への融即にすぎません。固有の他者との対意識を内包自然の場所からそのままにひらきたいのです。なにが足らないのか。
これまで書いてきた手持ちの概念でも内包親族論や内包贈与論を書きすすめることはできる。内包というわたしの生の知覚をもっとふくらませるには、なにか、もうひとつ足らないことがある。とんでもないところにきてしまった。

わたしが朔ちゃんと一緒にいた時間は、短かったけどすごく幸せだった。これ以上の幸せは考えられないってくらい。きっと世界中の誰よりも幸せだったと思うの。いまこの瞬間だって……だからもう充分だわ。いつか二人で話したでしょう、いまここにあるものは、わたしが死んだあとも永遠にありつづけるのよ。(小学館版『世界の中心で、愛をさけぶ』155p)

わたしはね、いまあるもののなかに、みんなあると思うの」ようやく口を開くと、彼女は言葉を選ぶようにして言った。「みんなあって、何も欠けてない。だから足りないものを神様にお願いしたり、あの世とか天国に求める必要はないの。だってみんなあるんだもの。それを見つけることの方が大切だと思うわ」しばらく間を置いて、「いまここにないものは、死んでからもやっぱりないと思うの。いまここにあるものだけが、死んでからもありつづけるんだと思うわ。うまく言えないけど」
「ぼくがアキのことを好きだという気持ちは、いまここにあるものだから、死んでからもきっとありつづけるね」ぼくは引き取って言った。
「ええ、そう」アキは領いた。「そのことが言いたかったの。だから悲しんだり、恐れたりすることはないって」(同前129p)

「お別れね」と彼女は言った。「でも、悲しまないでね」
 ぼくは力なく首を振った。
「わたしの身体がここにないことを除けば、悲しむことなんて何もないんだから」しばらく間を置いて彼女はつづけた。「天国はやっぱりあるような気がするの。なんだか、ここがもう天国だという気がしてきた」
「ぼくもすぐに行くから」ようやくそれだけ口にすると、
「待ってる」アキはいかにも儚げに微笑んだ。「でも、あまり早く来なくていいわよ。ここからいなくなっても、いつも一緒にいるから」(同前160p)

いまあるもののなかに、みんなあって、なにも欠けてない。それを見つけることが大切。いまここにあるものだけが、死んでからもありつづける。アキの言葉はわたしの生の知覚とおなじものです。この生の知覚は正定聚からはみだします。この覚知はそれ自体としか言いようがなく、自然的な規定としての対幻想では説明のつかないことです。むしろ岡潔のふたつの心に近いということもできます。

数学において自然数の一とは何であるか、ということを数学は全く知らないのである。のみならず、ここはとうてい手におえないとして、初めから全然不問に付しているのである。数学が取り扱うのは、自然数の全体と同じ性質を持った一つの体系が存在すると仮定しても矛盾しないか、という問題から向うのである。幾何学の点についても同様である。(『春風夏雨』)

人には心が二つある。大脳生理学とか、それから心理学とかが対象としている心を第1の心と呼ぶことにします。この心は大脳前頭葉に宿っている。この心は私と云うものを入れなければ動かない。その有様は、私は愛する、私は憎む、私はうれしい、私は悲しい、私は意欲する、それともう一つ私は理性する。この理性と云う知力は自から輝いている知力ではなくて、私は理性する、つまり人がボタンを押さなければその人に向って輝かない知力です。だから私は理性するとなる。これ非常に大事なことです。それからこの心のわかり方は必ず意識を通す。

ところが人には第2の心があります。この心は大脳頭頂葉に宿っている。さっきも宿っていると云いましたが、宿っていると云うと中心がそこにあると云う意味です。この心は無私です。無私とはどう云う意味かと云いますと、私と云うものを入れなくても働く。又私と云うものを押し込もうと思っても入らない。それが無私。それからこの心のわかり方は意識を通さない。直下にわかる。東洋人はほのかにではあるが、この第2の心のあることを知っています。(「一滴の涙」1970年5月1日 於:市民大学仙台校)

この、第2の心の世界ですが、二つの第2の心は二つとも云える、一つとも云える。
不一不二と云うんです。不一不二と云ったら二つとは云えない一つとも云えないのですが、この自然と自分とは不一不二、他人と自分とも不一不二、こう云う風。

この第2の心の世界はその要素である第2の心は二つの第2の心が不一不二だと云うのだから数学の使えない世界です。又この世界には自分もなければ、この小さな自分ですよ、五尺の体と云う自分もなければ、空間もなければ時間もない。時はあります。現在、過去、未来、皆あります。それで時の性質、過去の性質、時は過ぎ行くと云う性質はあります。しかし時間と云う量はありません。そんな風ですね。自分もなければ空間もなければ時間もない。その上数学が使えない。(「一滴の涙」)

岡潔は同一性の起源の闇について明確に語っています。岡潔のおしゃべりを東洋かぶれと言って済ますことはできません。仏心というふたつめの心は共同幻想そのものです。自己幻想は共同幻想に融解しているからそのように感じられると言うだけのことです。そこに格別の意味合いはありません。岡潔の気づきを面白いと思うのはそのことではないのです。数学者は自然数の一がなんであるか知らない。不一不二の心を数学は扱えないと岡潔が言うことは一大事です。数学が使えないということは同一性を根拠にした自然科学は危ういということです。大脳生理学も心理学も応用経済学もA=Aを前提としないと成り立ちません。数学の実作者だった岡潔はそういうことを言っています。大森荘蔵も大脳生理学の虚妄を指摘してきました。柄谷行人も体系の無矛盾性は明証でないことを「言語・数・貨幣」で言いました。

数学のもつ切断力はもっとも切れ味がよくもっとも抽象力があります。すべての自然科学は数学の明証性の下位にあります。アインシュタインは一般相対性理論で自然の概念を革命しましたが、同一性を根拠にしています。岡潔の数学の成り立たない、数学を行使しえない心の領域があるという宣明は貴重です。

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わたしたちは心身一如という生命形態の自然をもっています。それは自己を同一性によって刻むことを自然的な規定としているからです。心が身をかぎり、身が心をかぎるという自然は疑いようがありません。わたしはこの生のありようを外延的な自然であり、そこではだれもが外延的表現の途に就くと言ってきました。この自然は拡張できるのです。

アキと朔の最期の会話からわたしたちの知る自然とはべつの自然がありうることがうかがえます。同一性を前提とした対幻想ではないと思います。いうならば彼らが知覚したのは内包自然です。アキの「また見つけてね」と朔が「すぐに見つけるさ」という応答は、アキが朔であり、朔がアキであることなしに成り立ちません。対幻想ということでも自己幻想ということでも言い尽くせません。この別れのとき、アキのなかに朔が、朔のなかにアキがすっぽり入ってそれぞれの自己が領域化されています。根源の性の分有者は内包自然です。アキはアキであり、朔は朔であり、互いに離接しています。それにもかかわらず離接したままひらかれています。アキはこれから死に行くのですが、それにもかかわらずいつも一緒でふたりです。残される朔も、ひとりでいてもふたりです。根源の性の分有者ととはそういうことです。それでもこの事態を言い表すにはまだひとつなにかが足りないのです。

「歩く浄土17」で「硫黄島 笠原喜久治様 九十八歳で元気です 平成二十四年 笠原良久」を取りあげましたが、朔とおばあさんが入れ替わるだけでおなじ出来事です。往相の生の果てるところに還相の性がありありとありつづけます。

「いつも一緒にいるから」とアキが朔にいう別れの言葉は還相の性から言われていると思います。まもなくアキはいなくなります。それなのになぜ、いつも一緒が可能となるのでしょうか。離接する生が不可分で不可同ということでは説明がつきません。どういうことか。親鸞に往相廻向と還相廻向という言葉があります。還相の性は往相の性とは違います。ひとつの還相のリアルです。
もう一度、なぜ、いつも一緒は可能となるのか。それは根源の性から分有者への働きかけが一方的で一意的だからです。ある縁(えにし)があって根源の性によぎられるということは個々の計らいとは無縁のまったくの受動性です。内包の知覚とはそういうことです。根源の性を宿した分有者の相互の関係も不可分・不可同でどうじに不可逆です。だからいつも一緒ということが可能となります。それは計らいを超えた出来事です。この生の知覚を内包自然とわたしは呼んでいます。

この性の知覚は歴史の概念としてもいうことができます。悠遠の太古わたしたちの陽気な面々は群れの意識のなかに融解していたと思います。自然からむくりと身をもたげ、自然から分別されたとき、身が凍る激しい恐怖が鎌をもたげました。アニミズムがここに起源をもちます。自然から分割されることの恐怖とふたたび自然へ回帰したい衝動がトーテミズムとしてのこされているのだとわたしは理解しています。半人半獸はその痕跡ではないか。半ば自然で半ばヒトであったわたしたちの祖型にやがて灼熱する激しい感情が沸きあがりました。根源の性はここまで内挿することができるような気がします。あまりに激しすぎるこの性の感情を身に封じ込めようとしてわたしたちは家族をつくったのではないか。親族を外延するごとに、そのたびに、内包自然という性を繰りこむこととして、家族は連綿としてつづいてきました。絶えず外延と内包が転位しています。家族という対意識の淵源はほんとうは内包自然としての家族にあるのです。

現実に生きられていない生命の充溢、それは現実に生きられ体験されているほんの一片の生命よりも、予想もつかぬほど豊かである。もしもわれわれが現実的なもの以外に、可能なるもののすべてに身を委ねたとしたならば、生命は恐らくは自己自身を滅してしまうことになるだろう。だからこの場合には、有限性は人間の悟性が遺憾ながら限定されたものであることの結果としてではなく、生命の自己保存の戒律としてわれわれの眼にうつる。(ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』250p)

混沌とした生の豊穣さを有限なものに封じ込め、生命の自己保存の戒律にしたということが、おそらく同一性の起源であるようにわたしには思えます。このときどうじに生の不全感が生まれたのです。この意識の不全感を解消しようとして神や仏という超越が呼び込まれたとわたしは考えました。わたしたちの知る人類史を拡張する内包自然をかたどる、内包史というものが可能です。内包自然という生の知覚の現存性は、歴史の概念としても言いうるのです。
ひとはだれも根源のつながりをひっそり抱いて生きているのだと思う。このつながりに気づくかどうかは縁(えにし)であって意志は関与できない。一意的でまったくの受動性であるということはそういうことです。ただそれがだれのなかにもあるということはたしかだ。

そのなかにいて、そこを生きるということは、いずれにしても信の状態にあるということです。しかし、この信は同一性を前提としないので、けっして共同化されることも自己に内面化されることもありません。それ自体です。強いてこの世のならいにしたがって自己という言葉を使えば、領域化された自己と比喩できます。内包論ではすっきり分有者と言えます。

今回、『世界の中心で、愛をさけぶ』を読み返して、この作品はほんとうにはまだ読まれていないと感じました。読者の側のさまざまな体験と体験を熟成する時間がひつようだという気がします。はは。じぶん自身に照らしてみても当事より内包に奥ゆきと広がりがでてきたと思います。往相の性ではなく還相の性が可能だということや根源の性から分有者が生み出されるしくみは不可逆であるという気づきにたしかな手応えがありました。まだわたしの内包論はかなり先までいけます。

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