日々愚案

歩く浄土257:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理14/死はどこにあるか2

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人間は自然の一部であるという一見正しく見える命題のなかにふかいなぞがある。表現の根底、根幹に関わることがそこにある。だれもこのなぞを究尽していない。人間が自然の一部であるとはどういうことか。この考えでは、ユヴァルの言う人間がすべてのモノのインターネットのたんなる道具となるということや、ケヴィン・ケリーの3Dになったデジタルなミラーワールドの端末を意味することになる。それもまた自然生成ではないかという強度を拒むことはできない。

なにが問題なのか、少しずつたどってみる。

三木成夫のシンプルな人間の定義のなかに最良の自然学がある。<「胃袋とペニスに、目玉と手足の生えたのが動物。その上に脳味噌の被さったのが人間」>(『南と北の生物学』)過剰でも空虚でもない最上の人間についての理解が書かれている。その三木成夫さんの本を読んでつぎのようなことを考えた。<「いまのここ」に「かつてのかなた」の「面影」を感得し、生を情感ぶかく包みこむというのが三木成夫の表現のいちばんの特徴で、彼は天与の直感によって、生きているということを自然に還元して考える最良の思想を見せてくれた。内から湧きあがる広大な無償の気のうねりを、湧きあがるエネルギーのおもむくままに、解剖学の言葉でリクツをつけてみた、それが彼の自然学だ。吉本隆明が三木成夫の「初期論」的方法をマルクスになぞらえたがるのも無理はない。それほどの圧倒的な力が彼の言葉にはある。ところで、生物の基本的な体制を「食」と「性」の双極性において見るというのが三木成夫の基本的な考えだが、私は、「食」と「性」の双極性を、あらためて対の内包という〔性〕で結びなおした霊長類が人間と呼ばれるものではないかと考えた。そこにおいてはじめて人間に固有なものが現象する。三木成夫に宿った天与のうねりがイメージする〈融〉の世界や螺旋になった〈流〉の世界を、対の内包という性を主体とする存在概念において結びなおしたら人間はもっと良いものになる気がしてならない。「いまのここ」に「かつてのかなた」を感得しても、「いまのここ」は「かつてのかなた」をいやおうなくはみだしまう。それが生きるということなのだから。つまり人間は「食」において動物と連なり「性」において断続し、ここにおいて言語が起源をなしている。>(『Guan02』)

人間が食において動物とつながり、同時に離接するものはなにか。かつて今西錦司は餌を分け合う関係を所帯と述べている。更科功はもう少しそのあたりの事情を詳しく記述している。<「オスが、メスや子のために食物を手で運ぶために、直立二足歩行を始めた」という仮説を、食料運搬仮説と呼ぶことにしよう。この食料運搬仮説は、一応スジが通っている。><集団生活の中でペアを作ったのは、人類が初めてなのだ。 集団生活の中のペアも、直立二足歩行も、他の霊長類には見られない人類だけの特徴である。ということは、もしかしたら両者の間には関係があるかもしれない。そして、確かに思考実験においては、一夫一婦的な社会であれば食料運搬仮説は無理なく成り立ち、直立二足歩行は進化するのである。>(更科功『絶滅の人類史』)

片山さんはこの二足歩行食料運搬説を<ぼくたちが二本足で歩いているのは善を運ぶためである。直立二足歩行はヒトが善を宿した生き物であることの象徴なのだ。この善なるものを知っているから、それが誰のなかにもあると確信しているから、ぼくたちは相も変わらず誰かを好きになって、ともに家族をつくって子どもたちを生み育てるのではないだろうか。この営みは人間がはじまって以来、一度も途絶えたことがない。すごいことではないか!>(「今日のさけび」2019.7.2)と言う。

さらば消毒とガーゼを実践してきた夏井睦は二足歩行について考えた。<ちなみに、ヒトが二足歩行を始めた経緯には、さまざまな説があって定説はないが、「体重3キロで成獣チンパンジーと同じ脳重量を持つ新生児」が生まれるようになった時、母親がすでに二足歩行していなければ、育児は不可能だったはずだ。「体重が重く、自力でしがみつくこともできない(しがみつこうにも母親の肌はツルツルだ)」赤ん坊は、腕に抱いて運ぶしかなく、そのためには二足歩行が大前提となるからだ。>(夏井睦『炭水化物が人類を滅ぼす』)この考えに更科功の大脳化現象を噛ませると面白いことが出てくる。通常わたしたちは石器を使用したから手の動きが精緻になって脳が肥大したと考えている。更科功は石器を使い始めてしょっちゅう肉を食べることができるようになったから脳が大きくなったと因果をひっくり返す。面白い。

三木成夫をたどりなおすように初期の内包の考えをふり返ってみる。突き詰められていないあいまいさがあることはのちに思い知らされることになるが、モチーフの生々しさはいまも生きている。

<明暗不明の悠遠の太古に、ある種の霊長類が苛烈な妖しい情動に身を焼かれ、この情動を形にして、起源の言語や芸術を表現した。他の生類の生を掠め取って生きるのが動物の本質だから、灼熱の性からあふれて形になった起源の言語は、人間という自然の欲をいっそうかきたてることになった。ライオンが冷蔵庫を持っているという話は聞いたことがない。そういうことだ。〔内包〕する性の情動を巻きとって発熱した霊長類の一種属が人間の起源をなすとしても、起源の言語は〔内包〕という知覚をあふれ、奔流となって身のなかに流れこんだ。見てきたわけではないがそれは凄じいものだったにちがいない。人間の起源をなす〔内包〕する太陽の像は、罠にかかって煩悶しその亀裂を埋めようとして、アニミズムや神や仏として外延化されるほかすべがなかった。善悪という倫理がここに発祥する。私の知るかぎり人間がつくった制度についてのさまざまな考察はすべて、これ以降に属するものだった。私は制度以前の太古のひとびとの情動の襞に対の内包像を重ねて〔1〕の思考の外延をやぶろうと考えた。

セクシー・アニマル・コンピュータな人間が数千年をひとまたぎにして現代に到達するのはほんの一瞬だった。ひとびとが自らのなかに際限のなさを発見したとき、無限や無意識という「神」があらたに創造され、古い「神」が死んで近代の知が編制されることになる。科学も資本も、それらが結合したシステムもそうだった。この奔流は止めようがなかった。ニーチェは近代の巨大なうねりに体当たりし翻弄されて狂死した。今、私たちは近代が発見し切り拓いた時代の尖端に長い影を落としている。異様に鋭い感覚の持ち主だったニーチェが気づいた〔1〕の真ん中に存在する昏い穴が〔衆〕にゆきわたるのに、赤眼の人類史の規模の厄災が代償として支払われた。

内包表現論をしぶとく考究することで、私は、ヘーゲルやマルクス、あるいはフロイトがカタをつけたと思い込み、しかし詰めきらずにのこした意識の明証性に関わる、考えることや感じることの根源にある超越の問題群にひとつの道すじをつけることができたと考えている。意識の明証は、〔内包〕という像と相関するが、同じものでなく、ただ〔内包〕という知覚の表現としてのみあるという〔存在〕の原理は、繋ける日の元気そのものだとおもっている。不可知論ではなく、どんな明証もここより先へは行くことができない。また〔内包〕という知覚によってはじめて宗教的な大洋感情が、大洋の像へと拡張されることになる。これよりシンプルなものはなく、これよりプリミティブなものはない。もっとかんたんでわかりやすいものがあったら是非お目にかかりたい。世界はそう複雑でも入り組んでもいないのだ。大丈夫だ、ここしばらく〔世界〕は私の〔内包〕の知覚でやっていける。傲慢な自信が私にある。はじめから意図したわけではないが気がつくと、私は神や仏という超越を組み替えてしまったというわけだった。それは同時に、意識の明証がけっして手にすることができない、なぞることはできても、じかにふれることのできないものだった。無限を発見したカントールの驚きに似ているかも知れない。私は興奮した。私は〔内包〕という直接の知覚を機軸に未存の人類史を構想することが可能だと感じている。言い替えれば人間がこれまでつくってきた膨大な知の体系を根本からそっくり組み替えることができると密かに考えている。

嘆く思想やおあずけする思想なんかいらない。そういう、生をくらくするつらいものは生きていくのに何の役にもたたない。そう、欲しいのは元気の素。北風と太陽、あれだ。幾重にも巻きつけて着ぶくれしたシステムの堅固が、〔内包〕の思想の、あまりの熱さにたまりかねてすこしずつ融けはじめるだろう。それが内包表現が世界に望むことだ。どんどん私の空想はふくらむ。もしも創られつつある新しい自然に〔内包〕という知覚を直結できたらとおもうとゾクッとする。ほんとに〈わたし〉が〈あなた〉に成ってしまう。イン・エクスタシー!>(『内包表現論序説』まえがき)

<対の内包像によって微分された〈わたし〉が、クラインの壷の曲面をなぞるようにして〈あなた〉へと反転する《関係》の全体を内包表現と呼ぶ。この表現理念によってわたしたちはひかえめに、しかしはっきりと〈内包表出〉という〈関係の表出概念〉を手にすることができる。これはわたしによってはじめて言われることである。また、「表出史」という概念が自己意識の外延的表現からみて可能だとするならば、内包表出史という概念が自己意識の内包表現として可能となる。ひとびとがどちらの表現理念を善しとするか、もちろん恣意に属する。あたかも数という概念のうちで自然数や有理数が相互に併存しうるように。ただ、どちらが拡張された表現型であるか、そのことははっきりしている。>(『内包表現論序説』所収「内包論」一部改訂)

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片山さんの「今日のさけび」(2019.11.6)について感想をメールしていたらもう少しメモを書きたくなってこれを書いている。
ヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトクライス』が前提となっているので、そこも貼りつける。
<ところで、およそ人間精神が生命に立向って驚嘆せざるをえないもの、それは犯し難い合法則性のようなものではない。むしろこの合法則性とは、人間精神が自らの不確かさによる苦難と自らの存在のおぼつかなさから来る脅威からの救いを求める安全地帯なのである。われわれを真に驚嘆せしめるものは、むしろ生命が示すさまざまに異った可能性の見通し難い豊かさにある。現実に生きられていない生命の充溢、それは現実に生きられ体験されているほんの一片の生命よりも、予想もつかぬほど豊かである。もしもわれわれが現実的なもの以外に、可能なるもののすべてに身を委ねたとしたならば、生命は恐らくは自己自身を滅してしまうことになるだろう。だからこの場合には、有限性は人間の悟性が遺憾ながら限定されたものであることの結果としてではなく、生命の自己保存の戒律としてわれわれの眼にうつる。>(ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』木村敏・濱中淑彦訳)

片山さんが書かれた、<ぼくの想像が及ぶところで言うと、身の凍るような激しい恐怖を、太古の人々は自他未分の「性」によって凌いだように思える>について少し考えている。おおよそつぎのような感想を送信した。
ぼくの人間の定義は、セクシー・アニマル・コンピュータです。アニマルは身体性として哺乳類や動物に属します。自然の一部でもあります。コンピュータは聴覚映像を視覚映像に定着させたときに書記・貨幣・国家となりそれらを同一性が統覚し、アルゴリズムそのものに還元できます。人間の定義のうちセクシーというも同一性的に表現されてきたように思います。特異であり可能性があるのはセクシーを内包的に表現することだと考えてきました。理念的というより体験的な実感です。ぼくの言い方で言うと、自他未分の渾然一体となった灼熱の光球を生きてしまった生きものが人なんだと言うことになると思います。ここには時制も倫理もありません。これも実感です。あまりにまぶしくて目がつぶれるので、「生命の自己保存の戒律」として身が心を、心が身をかぎる自己同一性を選択したのだと思います。それでも根源の性は同一性的な生のあり方のなかにも痕跡として残されているので、歴史のあみだくじを逆にたどると根源の一人称にたどりつくことになります。ヴァイツゼッカーの言うように「われわれを真に驚嘆せしめるものは、むしろ生命が示すさまざまに異った可能性の見通し難い豊かさにある。現実に生きられていない生命の充溢、それは現実に生きられ体験されているほんの一片の生命よりも、予想もつかぬほど豊かである」と言うことになります。

歴史はさまざまにありえたはずなのになぜ認識の一つの系列に沿ってしか表現されなかったのか。フーコーのなかにずっとその疑問があったように思います。歴史はあみだくじであり、あみだくじだとしたらそのあみだくじを逆にたどったらどういうことになるのか、それがフーコーの知の考古学のモチーフではなかったか。最近そう思うようになってきました。

ヘーゲルもマルクスも吉本隆明もフロイトもそれぞれに意識の起源をたぐっていますが、すべて自己意識の派生態だと思います。ずっとそのあたりのことを書いてきました。
もし人間が他の霊長類と異なる性を生きることがなかったとしたら、怒り、驚愕、恐怖の時の行動や顔貌やうなり声が霊長類や動物の反射的なふるまいに似ているとしても、深い悲しみという感情は生まれようもなかったと思います。あたらしい性を生きたので、制約されたものではあっても、言語の書記、貨幣、国家という秩序が表現された。ヴァイツゼッカーの言うように「この合法則性とは、人間精神が自らの不確かさによる苦難と自らの存在のおぼつかなさから来る脅威からの救いを求める安全地帯」として。

意識は内包的に表出されたのであって、自己意識として自然から分離したのではないとぼくは考えています。人間は自然から内包的に自然の一部として表現されたと内包論で書きついでいます。自己の手前はそういうものとしてぼくの前にあります。

ドナ・ウィリアムズは〔帰属感〕を発見したときパニックに襲われます。ドナは人類史を逆にたどりました。

<物たちは意志の力を持っており、人は、人という名の特殊な物体だったとドナは言います。「『知る』も『感じる』も、わたしにとっては『それ』とか『の』とか『で』といった単語と同じようなものにすぎなかった」「だからわたしは、まるで目の不自由な人が『見る』ということばを使い、耳の不自由な人が『聞く』ということばを使うように『知る』とか『感じる』ということばを使うようになった」と述懐しています。
あるときドナは、「物は感覚も知識もない死んだもの」ということを発見します。そのとき「わたしは人たちにではなく、物たちに見捨てられた、ものの死骸でいっぱいの世界に生きている」と考えます。ドナの「わたしの世界」が根底からくつがえされます。それまで「物たちは、複雑なことは何も考えたり感じたりせずに、ただわたしと一緒にいてくれて、わたしにやすらぎをくれていた」のに、木の葉たちはダンスしていたわけではない、わたしは彼らを信頼していたのに、家具たちはわたしを囲んでいてくれたわけではないのだと感得するのです。そうやってドナはまるで「これから発生する場所を捜しているひとつの文化」のように、寄る辺ない世界に一人佇むのです。小さな余震が絶えずドナをゆさぶり続けます。><(略)やがてドナは決定的な出来事に襲来されます。
「首筋に、寒気が走り始めた。わたしは紙とクレヨンをつかんだ。全身をつかまれてしまう前に、わたしは急いで紙に書く。『大丈夫、わたしは戻ってこられる。大丈夫、わたしは戻ってこられる。大丈夫……』。体は、まるで大地震の時のビルのように、ぐらぐらと震え出す。歯は、猛烈な勢いでキーをたたいているタイピストのような音をたてて鳴る。体中の筋肉という筋肉が、わたしの命を絞り出してしまおうとするかのように、収縮する。やっとその収縮がおさまると、ついに『大波』がぶつかってくる。何度も、何度も、何度も。悲鳴でのどが張り裂けそうになるが、叫びは決して外へ出てゆくことができず、押し戻されて爆発し、心の中で反響する。『息をして』。合い間に、ふと声が聞こえた。わたしは深く息を吸い、一定のリズムで深呼吸を続ける。なんとかわたしは、襲撃をしのいだのだ」。

「真っ暗な底なしの無の世界の主が、わたしを連れ去りにくるという、身も凍るような、泣き叫びたいほどの発作の正体は、このあふれ出した感情だったのだ。そしてそれは、うれしさから怒りまでのあらゆる感情によって、引き起こされていたのだ」。
ドナの身も凍るようなパニックはおそらく人類史の初期を生きたひとびとが体験したことに違いありません。自然と戯れていた太古の面々に感情ということばが、ことばという感情が宿った瞬間に比喩されていいかと思います。ついにドナに、未明のひとびとに、〈つながり〉が自覚されたのです。ドナの生涯にとっての、人類にとっての大いなる一歩が踏みだされました。そしてついにドナはじぶんが人に属していることを発見します。感情の発見から「帰属感」までは一瞬でした。感動的なクライマックスです。そしてその発見は同時に分け持つことの発見でした。>(「中沢新一ノート2」)

このあたりの事情を以前書いたものから取りあげます。中沢新一はユーラシア母語について吉本隆明につぎのように話しています。ぼくの短いコメントも貼りつけます。

<・・・大分前ですけれども、イギリスのBBCの番組で、昔のロシアの言語学者がユーラシア母語を再構成する研究をやっていたのを紹介していました。ごらんになりましたか。この学者は天才的な人で、ユーラシア大陸でいろいろ語られている言葉のデータを全部集めてきて、移動の経路も、わかるかぎりの情報をそこへデータとしてインプットし、幾つかの言葉を取り出します。たいがい生活用語ですね。しかも、必ず必要とする水とか、火とか、塩とか、こういうものだけに限定して、ユーラシア語の母型を再構成してみようとした。これをコンピューターで再構成したのを聞いたんですね。それはそれは身の毛のよだつような音でした。ものすごい深さというんですか、火という音をユーラシア母語で発してみた音、まさにこれは火だという音なんですよ。水という音は、これこそ水だと感じるんですね。(「心と言葉、そのアルケオロジー」『群像』2004年1月)

中沢新一がコンピュータが合成したユーラシア母語を「身の毛のよだつような音」と形容するときモダンな心性が古代の精神をさぐるときの典型があらわれている。明晰な精神は古代の未開の精神をいつもこのように再現する。違うと思う。古代の面々は日々をふつうに生きていたと思う。生のなかに歴史を縦に直立させるとそうなる。明晰さの度合いも迷妄の度合いもなにも変わらないはずだ。古代の精神のありようをモダンな心性が称揚する。この視線のことを観察する理性だといってきた。初期の人類が自然の一部でありながらその自然から離脱しつつあることが不可解で、もう一度自然に戻りたいという衝動がアニミズムやトーテミズムになったのだと理解している。現代の医療もゆがんだ呪術ではないか。どこが違う。むろん雷が大気の放電現象と理解するほどには明晰である。神の怒りは火山活動であるとか。人間の精神を科学が解明するというのは度しがたい迷妄ではないか。加持祈祷で病を退治する呪術とどこが違う。>(「歩く浄土157」)

<人間がサルと違う言葉をしゃべるようになった数百万年前から種族というものができた数十万年のあいだ初期人類はどういうふうに暮らしていたか。書誌学的なことではなく、表現として考えてみる。古代文明の発祥地で国家と貨幣と文字が発明されたその時代を意識のなかではるかに遡る。エマニュエル・トッドは『家族システムの起源』で人類の初期は核家族で、父系性や母系制でもない双方性の未分化なありかたが家族の基本であったと述べている。そうするとそれ以前はどうだったのだろうかと想像がふくらんでいく。この悠遠の太古に同一性は存在したのだろうか。実定的に言いたいのではない。なにかひとつの表現のイメージがかすかに浮かんでくる。もしかすると人類初期の核家族は〔根源の一人称〕の外延的な痕跡かもしれない。それがほんとうの精神の古代形象であるかもしれない。内包的な存在のありかたが長い時間のなかで外延化され、やがて核家族として昇華し、その核家族の深奥にも根源の性が内挿されているから、一世代ごとに内包が受け継がれ、現代へと到達した。スマホでこれを書いているわたしがいるわけだから、少なくとも数百万年わたしの系統の人類が途絶えたことはない。数百万年どこをうろついてきたのだろう。こういうことを考えていると愉しい。悠遠の太古、渾然一体となった熱いかたまりがあった。このかたまりから子どもというちいさいこぶができてくる。とてもシンプルな世界だ。それを内包存在と名づけたい衝動がある。遙かな遙かな太古に熱い情動のかたまりが熱く生きていてあまりに熱いので、熱いかたまりから身を剥がして、ちょっとだけ冷ましてみた。それが家族ではないか。そのなかにも内包は生きている。深奥に内包的な存在があり、内包存在を冷ました輪郭が家族という外延的なもので、渾然一体となった融即した熱いかたまりからむくっと起き上がって、その輪郭をかたどったのが同一性ということだったような気がする。

むかしむかしの大昔には名づけようもなく名をもたぬなにか熱い渾然一体となったかたまりに手足がふたつずつあった。内包存在を考えていると気持ちがふくらんでくる。宗教も貨幣も国家もなにもない。そんなものがあるはずないと言われてもしらない。表現だから。この表現からは人類史はモダンの極致のように感じられる。初期の体系や国家や貨幣のない時代を生きた陽気な面々もその時代を迷妄とともに明晰に生きた。わたしの遙かなる祖先のことだ。そしていまおなじように現在を迷妄と共に明晰に生きている。いったいなにが違うというのだ。歴史は、原始、未開、野蛮、古代、・・・と遷移したのか。こういうことを言い始めたのはだれだ。きちんとしないと落ち着かなかった整列するのがすきだったヘーゲルがこんなことを言った。弁証法は陽気な面々もしっていた。失敗→反省→納得。生きていることはこのくり返しだから。たまに獲物が多く捕れるとおおはしゃぎし大盤振る舞いをして、歌い、踊り、日照りで食べ物がないとき天を仰ぐ。ときにはヤラしい気持ちになる。ないならないなりになんとかあるだけでやりくりする。生きることの基本はむかしもいまもこれからも変わらない。トッドのいう人類は初期に核家族であったことでさえモダンである。そのモダンな時代でさえ食は分有された。鋳造貨幣ができたのはつい最近だ。おのずからなる贈与。いったい未開から解明へと遷移していくというのはほんとうか。なにが世界をこれほど複雑にしてしまったのか。同一性だ。そうではない。〔人は根源においてふたり〕であるということが、書記と宗教と国家と貨幣に先立つもっともおおきな発明である。>(「歩く浄土157」)

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ユヴァルの言うように<人間は「すべてのモノのインターネット」を創造するためのたんなる道具にすぎない>と考えることもできる。自然生成の理念はいやおうなくここまで拡大される。マルクスの人間は自然の一部であるという自然哲学はここまで敷衍されてしまうし、だれもこの過程を拒むことができない。スマホはじぶんの一部となっている。スマホでググって調べ物をするように、すでに始まっているデジタルツインの世界の世界ではドラえもんのどこでもドアが実現してしまう。検索すると3Dのミラーワールドが拡張現実となってあらわれ、それをわたしたちは自然に受容することになる。

環界の変化は人間という概念を不可避的に改変してしまい、アルゴリズムという宗教に囲繞される。
<巨大なミラーワールドの勃興は、いまこの瞬間に起こっている底流での変化によるものでもある。それは、スマホ中心の生活から、2世紀前からある「カメラ」というテクノロジーへと向かう流れだ。地球と同じサイズの地図を3Dで再構築するためには、すべての場所のすべてのモノを、考えられ得るあらゆるアングルから、すべての時間軸で撮影する必要がある。それはつまり、この惑星全体を、常時オンの状態のカメラで埋め尽くさなければならないということだ。>(ケヴィン・ケリー『WIRED』2019 vol.33)

<いま起こっていることは、おそらく人間の歴史を変えてしまうくらい大きな変化ですが、その変化にほとんどの人は気づきません。いつのまにかそうなっている。いつのまにか世界の風景がすっかり変わっている。ぼくたちが住んでいる街でもよくそういうことが起こります。古い町並みが取り壊されて新しいマンションなどが建っている。すると数年前の景色が思い出せなくなっている。同じことが世界規模で、人間という自然を舞台にして起ころうとしています。生き方のスタイルが変わってしまう。ものの感じ方や考え方が変わってしまう。人間のあり方が根本から変わってしまう。>(片山恭一「今日のさけび」2019.11.2)

自然が自然を表現する驚異のなかに意識の起源はなく、自然から内包的に自然の一部として表現されたことのなかに人間が人間であることの根拠が確乎たるものとして存在している。自己の手前にある〔領域となった自己という性〕を生きるとき、ホモ・デウスやホロスというビットマシンと融合した人の自然は意識の外延性としての自然を意味することにしかならない。生の途絶である死もまた内包的な表現のなかでは、ここではないどこかではなく、生よりも生に近い近傍に生を分有する空間化不能の垂直な時間となって存在する。(この稿つづく)

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