日々愚案

歩く浄土254:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理12/同一性の形象化が必然とした観念の諸形態3

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6月末に身体のあらたな異変が起き、ついに運が尽きたと思った。追い詰められて、ひと月、かぎりなく愚、かぎりなく俗、かぎりなく卑小であることは、はたして肯定されるのか。もし肯定されるとしたらそれはなぜか。そのことについて真剣に考えた。以前片山さんとの対話の際にもこのあたりのことについてよく話をした記憶がある。問いながらずっしりかるい問いのゆくえはみえていたが、まったなしの切迫感があった。本のページをめくったりテキスト文を書く力もなくただひたすら横になりながらそのことについて考えた。意識の外延化された固い生存の条理のなかにこの問いに対する答がないことは先験的だった。それは知と非知をめぐる問いでもある。

生存しないことと対応する生存の最小与件(この言葉は吉本隆明から借用している-森崎注)を肯定する条理は観念の往相の過程のなかには存在しない。意識の外延性が存在の最小与件を慈悲や宗教として語ってきたことはよく知っている。生存が物それ自体に漸近していくときふっと忍び寄ってくる往相の宗教性は、キューブラー・ロスの死を受容する五段階説が虚偽であるのとおなじように虚妄である。言い換えれば、意識の小乗性と大乗性、聖道門(『レンマ学』中沢新一)と内包の条理の違いがここにある。

愚、俗、卑小のなかに肯定される生はあるか。肯定される生の与件を還り道の生存の最小与件と呼んでみる。そこにだけやわらかい生存の条理があるような気がしている。しだいに狭まっていく視界のなかで必死にそのことを考えた。たしかニーチェが善悪の彼岸で、深淵を覗き込むと深淵から覗き返されるというようなことを言っていた。覗きこむことによって見返される深淵がある。深淵を覗きこむことの代償として問われる深淵が生存の還り道の生存の最小与件だと思う。言葉遊びをしているのではない。これ以上なくリアルなことだ。そこに物それ自体のような死があるのだから。そこに追い込まれていくことの不可解さ。
非知は知の派生態であり、どうであれ知に属する。おなじく非僧非俗も僧に属する。知識人と大衆という意識の範型を前提とするかぎり避けることのできない意識のありかただ。これらの知のありようのなかに内面化も共同化もできない生の固有性はない。生の固有性は非知を突きぬけたところに愚と俗と卑小さとして存在する。だれのどんな死のありようのなかにも愚や俗や卑小そのものが生存の最小与件として、幾重にも褶曲した襞となり、非知や非僧非俗の手前に折り畳まれて存在している。摂取不捨。だれもこの存在から免れることはない。それはだれのどんな生のなかにも内挿されていて、死でさえも生の一部となるほかなく、存在しないことが不可能なものとして存在している。

なぜ生存の最小条件は肯定されるのか。簡明に言い得る。自己意識の用語法に倣って言えば、根源の二人称が分有されるからだ。それ以外のどんな理由もない。

承元の法難で、5年の流罪に処せられ親鸞は僧籍を剥奪される。そのときいくらか天皇への恨みがましいことを述懐し、俗名を与えられたことに対して、愚禿親鸞は僧にあらず俗にあらずと書いている。

天皇ならび臣下、ともに真実の教えにそむき、人の道にさからって、怒りを生じ、怨みをいだくに至った。そして、そのために、浄土の真宗を興した大祖、源空法師ならびにその門弟数人は、罪の当否を吟味されることもなく、無法にも死罪に処せられ、あるものは僧の身分を奪われて俗人の姓名を与えられ、遠国に流罪となった。わたしもその一人であるが、こうなった以上はもはや僧侶でもない、俗人でもない。だから、以後わたしは禿の字を用いて姓とする。(『教行信証』化巻土巻 石田 瑞麿訳)

50歳の頃吉本隆明は非知について次のように語った。

〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。(『最後の親鸞』)

この言葉のつくりかたで自己が自己にとどくことはない。知にとって最後の課題は愚そのもの、俗そのもの、卑小そのものとなることである。追い詰められていく過程で、親鸞の非僧非俗も吉本隆明の非知もともに知の言葉だと考えるようになった。最期の親鸞も吉本隆明もそのことを書き遺してはないがよくよく承知していたと思う。かぎりなく愚、かぎりなく俗、かぎりなく弱、かぎりなく卑小な、その生存の最小条件を自己の手前が掬い取っている。ここまでくると死は生の一部でしかなくなる。死が内包自然として生に包摂されているのだから。

生と死を、ここと、こことはべつのところと言い換えてみる。生は死とペアリングしているのではなく、ここと、ここではないべつのところとリンクしている。存在を複相性として考えるとそうなる。生と死という対概念は人類史のモダンな表象ではないか。数百万年の人類史にとって生や死は、あるいはたかだか1万年足らずの人類史の文明が精神を俄かに存在を分別しただけではないのか。存在を粗視化する観念の網の目がモダンすぎるような気がしてならない。いまここにあることが生のありようだとすると、死という観念はぽんっとここではないところにいきなり転位する。モダンな人類史は内包的な生を表現することができず心身一如の破綻を死と名づけた。そうすると親鸞の横超は遙かな精神の古代形象のおおきな可能性であり、その名残りと言えるのではないか。

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なぜ還相の性という実詞化できない出来事が実体化されるのだろうか。ここにいったいなにがあるのか。可視化されるとこの性は往相の性や対幻想と言われる。同一性を前提とした自己を措定し、その意識が性を表現すると擬制される。なぜこの錯認が生じるのか。『沈黙の神々』を読みながらしきりにそのことを考えた。孔子や老荘がモダンならジェインズの二分心もまたモダンである。ジェインズの理解では二分心が消えたとき神々は沈黙し二分心の痕跡をあぶり出そうとした事跡が神との契約を媒介する王の物語ということになる。科学知として受容されにくい思考の斬新さはよく理解できる。ハイデガーより後世の知の研究者も考えるだけ考えて根源の出来事を記述することに失敗している。ハイデガーの自己の共同体への融即を苛烈に批判したレヴィナスも同一性が仕掛けた罠をほどくことができなかった。
自と多を媒介するどんな思考も表現の余白をつくることができない。たとえばブランショの『明かしえぬ共同体』。<しかし、人間と人間との関係が自同者の自同者に対する関係ではなくなり、還元しえないものとしての他者、彼を注視する者に対して対等でありながら、その者とはつねに非対称的な関係にある他者を導入するとしたら、そこを領するのはまったく別の種類の関係であり、この関係はまた、ほとんど共同体とは名付けようのないある別の社会形態を必然化することになる。あるいは人は、ある共同体をめぐる思考の中で何が問われているのかを自問し、またそうした思考はそれが存在したにせよしなかったにせよ、必ずしも最終的に共同体の不在を結論づけはしないのではないかと自問しながら、このまったく別の社会形態をあえて共同体と呼ぶことがあるかもしれない>(『明かしえぬ共同体』西谷修訳)ブランショは根源的に思考しえていない。自と多が同一性をめぐってどうどうめぐりしている。いや、待て、ヴェイユより3つ年上のブランショが生きた時代にあってここまで思考しえたとは希有のことだ。

わたしはヒトの身体に派生した電子ノイズを身体に準拠して有意味化したことのなかに同一性の起源があると考えた。むろんそこに意識の起源があるわけだが、なぜ電子ノイズが有意味化されて意識と呼ばれることになったのかだれもそのことを語りえなかった。同一性のはるかな起源を語ろうとして同一性を前提としてつい同一性の手前を語ってしまう。これまで繰り返し書いてきたが、レヴィナスが自我は起源に先立って他者へと結びついていることを、存在の彼方、あるいは存在するとは別の仕方として語ろうとするとき、すでに自我の手前の出来事を自我という意識の形式で表現することができないことに気づいていない。自己の手前は意識の外延性をどれほど精妙に加工しても語りえないこととしてある。この驚異を表現できなければハイデガーの堅固な同一性の哲学は存在しつづける。つまり永劫この世のしくみが変わることはないわけだ。

生涯の生老病死や夥しい生が重畳された歴史を表現するどんな記述の仕方にも根がない。どのような表現のスタイルをとろうと同一性という擬制では自己が自己にとどくことはなく生の不全感を象ることしかできないし、その共同的な軌跡をどれほど集積しても適者生存をなぞることにしかならない。自己が自己にとどかないし生と歴史はいつまでも背馳する。ここになにがあるのか。ジェイソンの言説はとても新鮮だった。かれは環界からの刺激への応答として身体の「私」が生まれ、身体の規範の類比、アナログとして心が生まれたのだという。なるほどとわたしは膝を打った。身体のアナロジーが心なんだ。わたしの若い頃からの実感としていうと、いつもどこに行ってもついてまわる違和感や過剰さが同一性の起源だということになる。ヒトが自然から離陸してその違和感を緩衝しようとした身体に起源を持つノイズの応力がアニミズムという表現だった。ジェインズはいきなりモダンな二分心でアニミズムを薙ぎ払った。

ジュリアン・ジェインズの唯一の著作『神々の沈黙』はきわめて刺激的だった。この本を読んで、実詞化できない還相の性について少しだけ考えを進めることができたような気がしている。これまで「歩く浄土」で何回かハイデガーの『同一性と差異性』について感想を述べてきたが、かれの同一性的な思考の根幹にある媒介・連結・総合がジェインズの主張の核心とみごとな対応としていることに気づいた。
知覚が刺激を感じ受容する機能的空間のことをジェインズは意識や心と呼んでいる。それがとりあえず「私」の原型である。機能的な空間はそれを見ていて、そのことを見て取る内観の場所がアナログな「私」として写像される。謂わば身体という重力が落とし込んだ空隙がジェインズがアナログと呼ぶ「私」の場所である。環界を知覚する機能的な心の空間が写像されてアナログな「私」が誕生する。ジェインズによる心や意識の定義はわたしたちの思考の慣性が暗黙の前提として受け容れている心や意識とはまったく異なることに留意されたい。
身体があり、その身体に付随する心的なものがあるというわたしたちの習慣的な認識の自然からするとジェインズの意識や心の定義は、バランスのとれたカロリー制限食と糖質制限食ほどの違いがある。あるいは傷を消毒すると、傷は消毒しないとの真逆な違いに似たものがジェインズの記述概念にある。認識の自然となる公理が違うというほかない。次のくだりを読んだときぎくりとした。

<肉体を持つ「私」が物理的な環境の中を動き回り、あれこれ見て歩けるように、アナログの〈私〉も〈心の空間〉を「動き回り」、様々なことに「注意を向け」て集中できるようになる>

ずいぶん若い頃からいつもどこに行こうとついて回るなにかがある、それはいったいなにか、そういった疑問が絶えずあった。長年経って、この、いつも、どこに行ってもつきまとうなにかが同一性の基盤であり起源であることに気づいた。そのことをジェインズはみごとに言い当てている。

 意識の働きはどれも、こうした行動の比喩や類推に基づいており、非常に安定した基盤を入念に構築している。そこで私たちは、実際の行動についての類推によるシミュレーションを〈物語化〉する。これは疑う余地のない意識の側面だが、従来の意識の共時性の議論からは漏れてしまったようだ。意識はたえず物事を物語の中にはめ込み、あらゆる出来事に前後の関係を付加している。この特性は、私たちの肉体という自己が物理的な現実の世界を動き回る様子のアナログだ。現実世界の空間的な連続性が投影されて、〈心の空間〉における時間の連続性になる。この結果、「空間化された時間」という意識的な時間の概念が生じ、私たちはその中に様々な事象や 自分たちの人生さえも位置づける。空間以外のものになぞらえて時間を意識することは不可能だ。
 以上より、意識の基本的な内包的定義は、「アナログの〈私〉が機能的な〈心の空間〉で〈物語化〉を行なうこと」となる。そしてその外延的定義は、デカルトやロック、デイヴイッド・ヒユームにとってそうだったように、「内観できるもの」だ。(『神々の沈黙』柴田訳)

ジェインズによると意識は二分心の崩壊後にはじめて習得されたものであり、神を失った混乱のなかで混乱を治めるあたらしい精神のしくみが誕生したことになる。それはわたしたちのよく知る王権による神聖政治だ。
もう少しジェインズの考えに耳を傾ける。かれの二分心という大胆な仮説は人間という存在にひとつのおおきな裂け目をつくるものであり、ハイデガーの思考の型を象る同一性と差異性を媒介・連結・総合する概念のうち媒介という理念に相当するように思える。二分心の世界では人間という存在は命令を下す神の声とその声を聴いて命令を実行する人間に分化していた。むろん二分心のなかに近代由来の人間という概念も意識も存在していない。ジェインズによれば意識と呼ばれる非常に私的な世界が生じたのはおよそ3000年前だとされる。神の声による命令が書記に取って代わられ二分心の輪郭がしだいに消えていく。その結果、宗教という慣行が生まれたとジェインズは考える。それは失われた神々の声を取り戻そうとする努力だったと言う。このジェインズの考えに内包からお返しをしてみる。消えていった二分心の神々の声への郷愁として宗教が起源をもつとするなら、自然の一部である人間が自然から離陸していくことへの恐怖や懼れや違和感の打ち消しとしてアニミズムが存在したわけだが、その臨界点で二分心が生まれたのではないか。わたしは二分心もまた自然へ回帰したかった初期人類に渇望のひとつだったような気がする。

ジェインズの意識についての仮説は斬新だが意識の外延性の内部で概念の記述が試行されている。身体的な自己の影が意識ではない心的なものとされ、同一性のはるかな起源である内包自然の核にある自他未分の還相の性の知覚はかけらもない。意識の外延性の特異点として二分心が構想されているようにみえる。二分心を発端として二分心を可能とした意識のべつの形式を創案すればよかった。意識についての思考の慣行を転倒したいモチーフはよく理解できる。おそらく人類史の発祥とともに粗視化してきたわたしたちに深く内在する思考の慣性を拡張しようとしていることにジェインズの考えのわかりにくさがある。ジュリアン・ジェインズの二分法にあってもフーコーの人間の終焉にあっても。内包論で主張してきた存在の複相性はジュリアン・ジェインズのバイキャメルマインド仮説やミシェルフーコーの人間の終焉と重なるところがある。自己の自己についての意識の未然形としての二分心があり、自己は実体ではないと想定することで自己の意識の特異点を破ろうとする試みと読み替えることが可能だからだ。ジェインズの二分心と内包のあいだには千里の隔たりがある。

それにもかかわらず、肉体を持つ「私」が環界を動き回る行動の比喩や類推をアナログな〈私〉として写像したとジェインズが語り、空間以外のもので時間を意識することは不可能であるという考えに惹きつけられた。根源の一人称を意識の外延性で根源の二人称と名づけ、根源の二人称は領域としての自己をつくりだすとしても、内包的な意識を統覚する還相の性は実詞化できないにもかかわらず往相の性や対幻想として空間化されるほかない。この認識のしくみは是非を超えている。親鸞もまたこの機微についてよく識知していた。
「この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります」(親鸞「末燈鈔」石田瑞麿訳)
わたしは親鸞の自然法爾をふくらませてもっ奥ゆきのある出来事として還相の性を表現しているが、形もないこの上ない出来事の湧出を実詞化できないにもかかわらず仏と名づけている。自然法爾にしても他力や横超にしても言葉である。このような表現の逆理を通してかろうじて実詞化できない出来事が一瞬空間化される。ここには存在するということにどういう裂け目を入れるのかという根源的な問いが深々と横たわっている。

存在しないことが不可能な還相の性によって領域としての自己が可能となり、同一性の用語法の一人称と二人称が相等となる不思議によって三人称の世界が喩としての親族となり共同幻想が消滅する。この機微に意識の外延性で触れることはできない。ジェインズの身体の「私」と身体が写像されたアナログな「私」は類推やアナロジーによって成り立っている。二分法の神の声とその声に追従して声の実現に努める意識の型は二分法の神が消えた後に王権を行使する神聖政治を虫木草魚にふるまう祭祀層として実体化された。数千年にわたる知識人と大衆の二項図式によって人びとはこの意識の範型の虜囚となった。いずれにしてもジェインズの世界は同一性の世界によって細かく記述される。そうではない。自己の手前にある実詞化できない根源の一人称の核となる還相の性は「自己が関係が関係それ自身と関係するような関係」(キルケゴール)に内包化され自己は領域となる。ありえたけれどもなかったものがこのようにして現にあるものとなる。自己の手前を可能とする公準によって意識の外延性はまるごと包摂される。往相の性や対幻想として空間化されてもその核のは実詞化できない還相の性が内包的な世界を統覚している。自己の手前という概念は宇宙のインフレーションの指数関数的膨張に比喩されてもよい。空間内を運動する物質は光速を超えることができないという光速度不変の法則は空間自体が指数関数的に膨張するときには適用されない。なんとなれば根源の一人称という自他未分の出来事のなかに同一性によって分割される時空の構造そのものが存在しないからだ。

    3

同一性はあたりまえのようで本当はぜんぜん自明ではない。即自性としていうならばA=Aはあたりまえである。しかしそこに同一性の底のみえない深いなぞははない。二分心とその崩壊のありようをジェインズは詳細に記述した。かれの世界は二分心ぬきには成立しない。神という媒介ぬきに存在を語ることができるか。ひどく驕慢な人物だったハイデガーはできると考えた。同一性と差異性を論じるとき、媒介という概念がいちばん難しい。媒介が定立すると媒介を連結し総合することができる。ハイデガーは同一性と差異性の分別について媒介という概念の設定の仕方のはじめから躓いている。これからハイデガーのユークリッド空間のような世界をリーマン空間のように変容させてみる。AがAで〈ある〉とはどういうことか、ハイデガーが語っている。

それゆえにAはAである(A ist A)という同一性の命題に対する一層適当な型式は、ただに各々のAはそれ自ら同じであることを言い表わすのみならず、更にそれ自らと各々のA自らは、同じであることを言い表わしているのである。この自同性のうちには、それ自らとの関係、従って媒介、連結、綜合、即ち統一性への合一ということが存している。西洋的思考の歴史を通して同一性が統-性の性格をもって現われることは、以上のことに由来するのである。しかしながらこの統一性は決して、それ自らにおいて他との関係を有せず、ただ一つの無差別なものに固着しているという気のぬけた空虚さではない。けれども同一性の内で支配し且つ古い時代から既に知られている関係、つまり各々のAとそれ自らとの関係を、かかる媒介として確立し且つ特徴づけられて現われるに至るまでに、更にまた同一性の内における媒介がかく出現するために一つの土台が見出されるまでに、西洋的思考は、二千年以上を要しているのである。(『同一性と差異性』大江役)

若し我々が《AはAである》という型式を、ただ軽はずみにうっかりしゃべるようなことをしないで、慎重にそれの基調的意味を聴きとり、それを熟慮するならば、同一性の型式は我々に、その教示を与えるであろう。その型式は本来的にAはAであることを述べているのである。我々は何を聴きとるのか? この《ある》によって、その命題は、各々の存在するものが如何にあるかを、即ちそれ自らがそれ自らと同じであることを、言い表わしている。同一性の命題は存在するものの存在について語っている。その命題が思考の法則として妥当するのは、ただその命題が存在の法則である限りにおいてである。その意味は各々の存在するものそのものには同一性が即ちそれ自らとの統一が属しているということである。
 同一性の命題が、それの基調的意味から聴きとられて、言表するものは、すべての西洋的近代ヨーロッパ的思考が思考するところのものである、即ちそれは同一性の統一が、存在するものの存在における根本特徴を成すということ。我々が各々の種類の存在するものに対して或る態度をとる場面並びに仕方のあらゆる場合に、我々は同一性から我々に語りかけられていることを知る。この語りかけが語らないならば、その場合は決して存在するものが、それの存在において現われることはできないであろう。(同前)

片山恭一さんは「今日のさけび」(2019.8.29)でドゥルーズが考えた芸術の本質は究極的な、絶対的な差異とする考えを取りあげている。それが究極の絶対的な差異だから反復される。たしかにそうだ。内包論からこの絶対的な差異について少し踏み込んでみる。ハイデガー哲学の致命的な欠落が浮かびあがってくる。ハイデガーが「各々の存在するものそのものには同一性がそれ自ら統一として属している」「我々は同一性から我々に語りかけられていることを知る。この語りかけが語らないならば、その場合は決して存在するものが、それの存在において現われることはできないであろう」というとき、かれの同一性を媒介するものは空虚である。空虚が空虚を媒介し、その空虚が連結し、壮大な空虚という統一を表現した。これがハイデガー哲学なのだ。自らを多へと融即する精妙な技術の空疎さ。『同一性と差異性』は1956~1957年にかけて書かれている。かれがハーケンクロイツの亡霊からまぬがれることはついになかった。<宇宙の茫漠として果てしない空間の中にある地球を思い浮かべてみよう。たとえてみれば地球は小さな砂粒であり、同じおおきさをした隣の砂粒との間は一キロメートルもそれ以上もあって、そこには何も存在しない。この小さな砂粒の表面にうようよとはいまわる愚鈍な動物の一群が生きていて、それがほんのしばらくの間、認識するということを案出して、賢い動物だと自称している。(略)全体としての存在者の中では、われわれ自身が偶然その一人である人間と呼ばれるこの存在者を特に重要視するいかなる正当な理由も見あたらない>(『形而上学入門』川原訳)<かろうじてただ神のようなものだけがわれわれを救うことができるのです。われわれ人間にはただ一つの可能性しか残っていません。すなわち、思惟において詩作において、この神の出現のための、あるいは没落期におけるこの神の不在のための一種の心構えを準備するという可能性です>(『形而上学入門』所収「シュピーゲル対談」川原訳)ハイデガーは神ぬきに存在を語り、空虚を確かに手にした。ハイデガーは神ぬきの、神ではない自己の手前という媒介を持つことができなかった。詐術の華麗さにおいてまちがいなく一流である。

A=AのイコールはAとAがどうつながっているかを接続する言葉としてある。AはAであることに内在する深いなぞにハイデガーはたしかに気づいた。では神の代わりを媒介するものはなにか。神ぬきで存在語ろうとするハイデガーの苦悩があった。だれがどうやろうと困難だ。そしてだれもこの難題を貫通し存在の全円性を手にすることができなかった。内包論は貫通できるという気概に充ちている。その確信がなかったら書くこともない。ハイデガーの『同一性と差異性』を存在の複相性から捉え返してみる。赫々とした意志をもって神ぬきで存在を語ろうとしたハイデガーの『存在と時間』は同一性に対する根源的な差異性をつくることができず差異性が同一性に回収され壮大な空虚として結実した。意識の外延性で根源的な差異そのものに触れることはできない。そのことにさえハイデガーは気づくこともなかった。ハイデガーの哲学的営為が身過ぎ世過ぎを超出することはついになかった。ハイデガーのナチへの加担など取るに足らないことでかれの意識の呼吸法の必然としてナチがあったということだ。自己の自己についての意識を共同性へ融即する技術のひとつとしてハイデガーの自然生成があたかも聖道門のようにしてあったということだ。ジェインズでさえそのことには気づいていた。わずか3000年前に、意識ではない二分心が消えかかり痕跡になろうとしたとき、かれの言い方では心が生まれたと仮説を唱えた。雄大な仮説の規模はわたしの理解では、大橋力の『音と文明』の、言語脳と前言語脳のアナロジーに匹敵する。おおまかにジェインズの二分心は大橋力のアナログ脳に、意識についての意識はデジタル脳に対応すると考えていい。『心の先史時代』のスティーヴン・ミズンや『解明される意識』のデネットに影響を与えたジェインズの業績は大橋力にあってだれだろうか。

あらためてAがAであるとはどういう事態か。終生ハイデガーを批判したレヴィナスもハイデガーの意識の呼吸法を打破することができなかった。かれは自身の生の体験をあぶり出してハイデガー批判を渾身の力で試みた。ハイデガーの自己を共同性へ融即する「と共に」を徹底的に批判するレヴィナスがサルトルのような文化人を拒絶していたことはよく知っている。そのレヴィナスでさえハイデガーと異なるAがAであることの思考の型を表現できなかった。Aが、と言いながらレヴィナスの意識は、存在の彼方を一心に志向する。存在とは別の仕方で、存在することの彼方を目指して、レヴィナスは一散に駆ける。痛いほど気持ちはわかる。もしもAという往相の自我が他なるAと関係するとすれば往相のAは実詞化できない還相のAと切り結ぶしかない。この生々しい世界をレヴィナスが生きることはなかった。初期の著作『時間と他者』で、はじめは他者は妻を意味していましたが、後のインタビューで、いつのまにか多のひとつになりましたと、はっきりかれ自身の言葉として言い残している。おそらくその不如意や心残りをかれは顔という倫理で補おうとした。斯くしてハイデガーの哲学や凡庸な悪は生き延びわたしたちの日々はグローバリゼーションの猛威に翻弄されている。

ここで意識の往還ということが大きな意味をもってくる。わたしたちの知る生や歴史は意識の外延性として表象されてきた。もしも表現が意識の外延性でしかないならば適者生存をなぞることしかできない。事実歴史はそのようなものであった。往相の生や歴史があるとすれば還り道の生や歴史がある。還相の生や歴史はまったく手つかずのまま表現の余白として表現されることを渇望している。

なぜあるものはそのものに等しく重なるのか。ジュリアン・ジェインズに倣って肉体的な関係に連続した空間性をもって動き回る自己を身体Aと比喩してみる。肉体Aが落とし込まれた空隙を心の空間である「私」とすればこの心身一如は劇化されるとジェインズは言う。時間は空間としてしか表現できないという見解は意識の往相の過程としては妥当な考えだと思う。しかし心身の「私」がなぜ「私」に自己相当するのかその不思議にジェインズが触れることはない。身体Aが身体であることはA=Aと表現できる。そのこととAという存在がAという存在に相等することのあいだには千里の経庭があることをハイデガーは発見しながら、自己という存在を共同的な存在に融即した。ナチの、天皇制の思弁的な起源がここにある。
あるものと他なるものが不即不離不可逆に一である根源の出来事の痕跡が神や仏という超越であり、そのことをジェインズは二分心と名づけた。神という媒介ぬきに存在を語ろうとしたハイデガーの試みとも重なる。意識の外延性を前提に自己の手前を表現しようとすることの苛烈と空虚。まだだれも表現したことのないやわらかい生存の条理。それが存在することを意識の外延性でしか措定できない逆理。存在しないことが不可能であるにもかかわらず表現されたことのない意識の内包性。親鸞は根源の一人称のことをなんとか他力や自然法爾と名づけ、エックハルトは自分より近くにいる神を生きた。親鸞やエックハルトの考えたことのさらに先に広大な未知がある。
固い生存の条理のただなかでわたしを襲来した熱い自然の不思議を云いたくてたまらない。もしもあるものが他なるものに重なるという自己意識の用語法からは非合理な驚異がなければ、どうしてあるものがそのものにひとしいということが起こるのだろうか。あるものを往相とすればそのものは還相としてあるものに重なる。このとき往相と還相を媒介する出来事が根源の性なのだ。こうやって存在は往還される。あるものは他なるものに一閃されてそのものとなる。往き道のあるものと還り道のそのものはまるでちがう出来事で、根源の一人称が存在するから可能となる驚異である。ハイデガーの同一性と差異性をつなぐ連結という理念は内包論では往還という概念に拡張されている。固い生存の条理である意識の外延性とやわらかい生存の条理を可能とする意識の内包性を往還すること。ひとびとはあるものがそのものにひとしいことを自明のこととして自己や世界を語ってきた。認識がまったく逆倒していることにだれも気づかない。内面や歴史という虚妄はこの逆立ちによって象られてきた。ジェインズの二分心は容易にアルゴリズムによって定式化される。意識の外延性はまったくの空虚にすぎない。ジェインズの意識の意識を主体と名づけ内面と呼んでみよう。ITがこの惑星のすべてを覆い尽くそうとしている現実のまえでいかなる意味でも意識の意識はどうであれ主体としての内実をもっていない。

以前書いた文章をふたつ貼りつける。キルケゴールの「自己とは関係が関係それ自身と関係するような関係のことである」は同一性がどういうことであるか如実に示している。この愚直さはハイデガーに無縁のものである。

<ふとキルケゴールの自己についての定義を思いだしました。自己とは関係が関係それ自身と関係するような関係のことであると『死に至る病』のなかで書いています。なにか呪文のような言葉ですが、かれにとってはとてもリアルなことだったはずです。同一性が制約する自己の謎をキリストを媒介に生きたのです。神との関係において自己が自己となり、神を媒介にすることで他者も措定できると考えています。神や仏を媒介にしないと私が私に出会うことがなくはぐれてしまうのです。私が私にとどかないのです。この空隙を埋める観念が神です。むしろ他力の神です。ヴェイユの不在の神と言ってもいいかと思います。関係それ自身とはキルケゴールにあっては帰りがけのインマヌエルの原事実のことを指しています。転回以降のヴィトゲンシュタインにあってもそうです。インマヌエルという事実によぎられることで、私は自己となり、その自己でもって他者と関係するということです。じつにシンプルなことをキルケゴールは言っているのです。ぼくの理解ではこの信はキルケゴールにとって固有の信であり、共同化できるものではないはずです。それがキルケゴールの生きる力になっています。ヴィトゲンシュタインの信もそういうものだった。だから還相の神をかれは秘匿したのです。キルケゴールもヴィトゲンシュタインもおなじような息づかいをしながら生きたように思います。神という超越をぬきに自己を語ることは生の不全感をもたらしますが、フーコーは主体は実体ではなく他者によってもたらされるということを言い切りました。西欧的知性のひとつのおおきな達成だと思います。フーコーにとって他者は神という超越ではなく、固有名でした。似たことをメルローポンティも言います。私が他人の表情のなかで生き、また他人が私の表情のなかで生きているということ。同一の心的存在者が空間の多くの地点に、つまり私が他人のなかに、他人が私のなかに存在する空間の癒合性。ヴァイツゼッガーも『ゲシュタルトクライス』でおなじことを書いています。イリヤという非人称の在るのざわめきを内面化できない他者の絶対性として引きうけることで、ハイデガー哲学を転倒しようと、レヴィナスは生涯を賭けて格闘しました。そのレヴィナスも第三者問題を解くことはできませんでした。神ではない他者を措定するやいなや三人称が出現するのです>(「歩く浄土218」:Live「片山恭一vs森崎茂」往復書簡14)

<キルケゴールの、自己とは関係が関係それ自身と関係するような関係のことであるという呪文のような言葉を思い出そう。同一性を差異性で表現することはできないから、キルケゴールは関係それ自身を自己に先立って措定する。その関係それ自身によぎられることで自己が自己となるとキルケゴールは言う。キルケゴールの関係それ自身は神のことであり、親鸞の他力とよく似ている。わたしは関係それ自身をキルケゴールとの神とはちがって拡張した。関係それ自身とは根源の性である。根源の性によぎられることで自己が自己となると考えた。世界の無言の条理を統覚している同一性を還相の性によって拡張すると、生を引き裂く業の花(宮沢賢治)は内包自然のなかに陥入する。そのとき自己のなかに、ジョバンニより近いカムパネルラをジョバンニとしていきる不思議がふいに起こる。ジョバンニはおのずと自己を領域として生きる。内包自然はマルクスの自然よりずっと深い。宮沢賢治はそこを生きた。「ユリアがわたくしの左を行く/大きな紺いろの瞳をりんと張って/ユリアがわたくしの左を行く/ペムペルがわたくしの右にゐる」「ユリア?ペムペル?わたくしの遠いともだちよ」(宮沢賢治「小岩井農場」パート九)自己が領域となることによって、ユリアとペムペルは「わたくしの遠いともだち」という内包的な親族に転化する>(「歩く浄土219」)

関係が関係それ自身と関係するような関係は内包論では根源の性を分有する楕円のように領域化された自己としてあらわれる。ほんとうに「空間以外のものになぞらえて時間を意識することは不可能」(ジェインズ)なのだろうか。同心梅という言葉がある。芯をひとつにしながらふたつの花が咲いていることをいう。根源の性を分有するとは、ひとりでいてもふたり、ふたりでいてもひとりを可能とする。同心梅という一心同体は意識の外延性が擬制として象った生や性のありようだと思う。還相の性という根元の出来事を意識の外延化された時間で表現することはできない。実詞化できない根源の一人称は、ただ還相の過程にある表現の比喩として一瞬無上のものとして可視化される。過去を想起するように未来を追憶する無上の性のなかに空間化可能な時制は存在しない。(この稿つづく)

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