日々愚案

歩く浄土27

51U1txrkuNL__AC_US200_
     1
ふと、手元にあった、こうの史代のぼおるぺん『古事記』1~3巻を読みました。原文の古事記に忠実なマンガです。ギリシャ神話に似た勝手なわけのわからん神々が延々と登場します。神武天皇につながるところで神代の物語が終わります。はやく『日本書紀』も書いてくれないかなあ。読み終えて憑かれたように折口信夫の『死者の書』と『古代研究』を読みました。するといきなりマルクスの価値形態論が頭の中をぐるぐる回りはじめて当惑しました。わたしは神話や民俗学や文化人類学の知見を味わう感度は低いと感じます。それらに親和感を感じることはあまりありません。

むしろわたしは、『古事記』に登場するおびただしい数の神々より、はるかな太古を勇躍した陽気な面々の暮らしぶりに思いを馳せます。かれらの精神の古層も内包論で叙述してしたみたいという強い誘惑があります。内包論はまだ穴だらけで、そこを書いていくのはこれからです。人々の精神の古層から現代までを内包論で貫通したいのです。

このところ貨幣論とは言語論ではないかと思うようになってきました。むしろ言語論の一部が貨幣論ということかもしれません。そういえばむかし、柄谷行人が「言語・数・貨幣」という文章を書いていました。ゲーデルの不完全性定理を逆手にとったひねくれたものだったことを記憶しています。かれの痩せた自然がよく映しだされていました。明晰ではあるが熱さを削ぎ落とした交通法規集みたいな文章でした。
ソシュールの言語論も、吉本隆明の言語論もマルクスの価値形態論からおおきな示唆をうけてつくられたものです。言語論の窮極の基底は同一性です。どうやら、どこからなにを、どういうふうにはじめても、わたしの内包論のモチーフはおなじところにゆきつきます。

    2
友人のTさんから、ゲゼルを知っているかと訊かれました。知りませんでした。Tさんによると「お金もあらゆる自然界の存在と同じように、年を取り最後は消えていくべきである」という考えの持ち主で、アナキスト経済学者として異端児であったそうです。ケインズが、後世の者はマルクスの思想よりもゲゼルの思想から多くのものを学ぶであろうと予言的に評価していたこともTさんから教えてもらいました。Tさん、貴重な示唆をありがとうございます。ゲゼルの本を読んでみようと思います。高価な中古品『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』(残りあと1冊です)と『国家の解体』を注文しました。シルビオ・ゲゼルはマルクスより44歳若い人です。マルクスの資本論と対照しながら読み解くと面白いものがでてきそうです。

ゲゼルの減価する貨幣とポランニーの蕩尽理論とマルクスの資本論とバタイユの普遍経済学を分有者の思考から眺めるとべつの貨幣のあり方がでてくるような気がします。内包贈与論にしても、内包親族論にしても、内包という気づきからしか着想はできないと思っています。
だから内包贈与論や内包親族論は、内包論から流れ下った、外延表現としてある貨幣論や国家論の拡張としてあります。自己というものは奥行きがあり、それ自体として領域化されています。内包論から言えば、マルクスの資本論もケインズの経済学も思想としては同型だと言えます。

「歩く浄土」は今年いっぱいつづけようと思っていますが、そのなかで、内包親族論や内包贈与論の骨格をつくっていこうと考えています。資料の読み込みに時間がかかりますが、そのつど考え切れたところまでをブログでアップしていきます。片山さんとの討議の第二部、第二分冊に相当することになる予定です。転変する状況を折り込みながら、いろんな著作家の言説を扱っていきたいと思っています。

    3
戦中に天皇のためなら死ねると思い決めた吉本青年は、無条件降伏という敗戦を迎え、戦後の価値転換に生きた心地がしなかったと言っていました。戦中に詩を書き、文学に一家言があったにもかかわらず、文学という内面はまったく無力だったと語っています。「マチウ書試論」の関係の絶対性というよく知られた言い回しがあります。

人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意志がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた、人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。(略)秩序に対する反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。

関係の絶対性とは、マルクスの経済論と自己幻想と対幻想と共同幻想という観念が社会の総体とどう関係しているのかということを意味しています。そのとき吉本隆明はそれぞれの観念の位相構造をそれとして弁別する同一性という絶対的な自然的基底があるということに気がつくことはありませんでした。彼の思想は同一性を暗黙の公理として行使しています。この同一性をひらくのが内包論だということもできます。

しばらく「歩く浄土」で、対称性人類学を唱える中沢新一が、この同一性についてどういうことを考えたのかノートします。5冊のカイエソバージュシリーズは2002年から2004年にかけて刊行されています。全部一度は読んだのですが、再読します。
考えていることははんぶんはそっくりだと思いますが、中沢新一とわたしでは知の触り方がずいぶん違うという印象があります。言葉のつくりかたの違いとも言えます。わたしにはかれの考えはこれからの世界の可能性やひらきかたについて観察する理性の立場から語られているように見えます。同一性の彼方を思考しながら、単独者という典型的なモダンとしてそのことが書かれているように感じられます。
心の起源や、一と多、部分と全体について究理されていないので、言葉に深さや余韻がなく、さまざまな知識をレイアウトしているだけのように思います。ていねいに読み直してそのあたりのことを書きます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です