日々愚案

歩く浄土252:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理10/同一性の形象化が必然とした共同幻想1

 

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他者を自己の生存の手段にしないという思想の究極の課題と、私性によって生きているわたしたちの生の現実はどういうふうに相関しているのだろうか。私性の私利私欲を現実だと考えると、他者を自己の生存の手段にしない人間の内包的な関係のありかたは、私性という定義によって関係の可能性が裏切られることになる。ここになにがあるのか。私性は往路であり、それにもかかわらずだれのどんな生にも無限小のかたちで根源の一人称が内属している。自他未分の熱い意識のかたまりである根源の一人称が始原に存在したと内包論は考えた。この根源の一人称である〔主体〕を意識の外延性は同一性として分節し、根源の一人称のことを事後的に根源の二人称と名づけた。それがわたしたちの知る対幻想という往相の性だということになる。意識の外延性に規定された対幻想と往相の性はわずかに違う。根源の二人称は根源の性という往相の性として分有されても、そのなかに還相の性が見えないかたちで隠れている。意識の外延性と内包性はこれほど違う。意識の外延性をどれほど緻密に延伸しても還相の性が出現することはない。根源の一人称から同一性が身をもたげ外界に触手を伸ばしていくとき、内包から外延へ、外延から内包へと意識の相転移が起こったのではないか。それはおそらく家族の自然な広がりが相互扶助や惻隠の情でつながっていたあり方が厖化し氏族制へと編成された時期に、意識の相転移によって存在は複相化したように思う。ここにある、生の謎であり、人類史のべつの形象化の可能性を解いたものはいない。

かつてわたしを震撼させた吉本隆明はあらゆる共同幻想は消滅すべきであるという命題を理念化して共同幻想論を独創した。かれは3人以上の人と人との関係がつくる関係をあらかじめ共同幻想と定義している。斯くして命題は定義によって反故にされる。この絶対的な矛盾を解消しようとして晩年の吉本隆明は全力を挙げて自身の思想を究尽した。そしてついに意識のアフリカ的段階のなかにこの矛盾を解く鍵を探りあてたのではないかと思う。

吉本隆明のアフリカ的段階が最期に到達した「存在倫理」に耳を傾ける。吉本さんの思想は内包の至近まできていたとわたしは理解している。吉本隆明は「存在」の最も根本的なところに、存在と存在が、命が命と取り換えることのできる、宗教的なものが消滅する核となる倫理が「点」として存在していると語っている。意識の外延性としてこれ以上のことを言うことはできない。外延的な意識のたどるぎりぎりの限界がここに明示されている。親鸞の順次生から着想して「存在倫理」について次のように語る。

吉本 結局、こういうのを設定する以外にないんじゃないかと僕が思えるのは、社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、民族的な倫理でも、何でもいいんですけれども、そういうもののほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、「存在倫理」という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。それを考慮しないと、この手前味噌な言い方とやり方は理解できないんじゃないかという感じ方になっちゃうのです。「存在倫理」という倫理の設定の仕方をすると、つまり、そこに「いる」ということは、「いる」ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに「いる」こと自体が、「いる」ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理を設定すると、両者に対する具体的な批判みたいなのができる気がします。そういう意味合いの論理を設定しないとダメなんじゃないか。
加藤 吉本さん、今おっしゃってることは、本邦初公開として今初めていっているんじゃない?
吉本 今初めていっているわけ。(笑)つまり、今度のテロで、発明したわけなんですよ、どういうふうに考えればいいか。
 例えばこの問題は、「存在倫理」を設定しないと、両方とも自分の立場でいっちゃえば全部成り立って、相手はもちろん悪であって、おれの方は善だ。両方でそういうことが成り立っちゃう。
加藤 『アフリカ的段階について』に「史観の拡張」という副題がついているでしょう。それでいうと、いまいわれているのは「倫理観の拡張」という話だ。

吉本 先ほどの「存在倫理」と関連していて、(略)子供の方から見れば、別におれはこの世に産んでくれとか、生きたいとかいった覚えはないのに生まれた。だれから生まれたかというと、両親から生まれたことは確実なんだけれども、「存在倫理」といいましても、生まれてきたことに対しては半分しか責任は負えない。あとの半分は、自分のせいじゃない。自分が生きているのも死ぬのも、自分のせいじゃないという箇所が……。

吉本 その問題を埋めるのは何なんだというと、父親と母親の前には、父親と母親の父親と母親がまだいてと、ずっとお猿さんのところまでさかのぼっていけば、全部理まっちゃうわけですよ。おれの意思で生まれたんじゃないし、産んでくれといった覚えはないとか幾ら主張したって、無限に上の以前までさかのぼっていっちゃうと、その空自な部分はみんな理まっちゃう。生死の内在性としてといってもいいし、遺伝子がみんな満ち満ちちゃって、おまえだけのなんていうのはなくなっちゃうんだよ、でもいいわけです。

吉本 無限小になっちゃうようなところから続いてきた一種の信仰性とか、信念とかいうものの前には、おまえの存在なんて大した意味はないんだから、そんなものは捨てちゃっても構わないんだみたいな観念が出てくるのは当然であって、古い宗教的な心理状態とか精神状態をどこまでもさかのぼっていけば、どうしてもそうなります。おまえの存在、おまえが生まれたいという意思とか、産んでくれとかいうところから出てきたものは何もなくて、ただ、無限に遠い以前からちゃんとそういうふうに考えると、おまえの分は何もないんだから、生命と取りかえっこ、存在と取っかえっこすることは、いってみれば、倫理の最も根本のところに点として、核としてあるものであって、宗教的なものとは取っかえられるということが出てくることはあり得ますね。
(「存在倫理について」吉本隆明VS加藤典洋『群像』2001年11月1日)

かれが最期につかんだ「存在倫理」の核となる「点」は同一性によって統覚されているので、この同一性を領域化すればわたしの内包論になる。固い生存の条理をやわらかい生存の条理へと往還すれば吉本隆明の思想が抱える絶対的な矛盾は消滅する。三人以上の人と人の織りなす関係を共同幻想と定義し、あらゆる共同幻想は消滅すべきであるという実現不能の思想は同一性を還相の性によってひらけば、自己幻想と共同幻想は逆立するという思考の型そのものが跡形もなく消え去る。たんに私性の私利私欲が、身が心を、心が身をかぎる同一性という意識の外延性という堅固な擬制によって閉じられているだけなのだ。

肝心なことだから吉本隆明の言いたいことに意識を集中する。かれは順次生を遡っていけば自分が生きているのも死ぬのも自分のせいじゃないということが存在倫理の核としてあると言う。ついに始まりと終わりの不明を吉本隆明はつかみ、それをひらこうとしたときに生涯を終えた。最期の吉本隆明はここまできたとき、自己幻想と共同幻想の逆立や文明の外在史と精神の内在史という外延表現の必然的な意識のありかたは書き換えられようとしていた。いわんや大衆の原像をや。存在を往還し還相の性を生の原像として生きる存在の全円性の近傍まで吉本隆明の思想は到達していた。はたして吉本隆明の死は分有されただろうか。

最期のフーコーもまた真理は他性によってもたらされると言い、おなじように内包の近傍まで到達した。

「私が驚いているのは、現代社会では、技芸(アート)はもっぱら物体(オブジェ)にしか関係しないという事実です。技法が美術家という専門家だけが作るひとつの専門になっているということですね。しかしなぜ各人めいめいが自己の人生を一個の芸術作外延論品にすることができないんだろうか? なぜこのランプとかこの家が一個の美術品であって、私の人生がそうではないのか?」(「ひとつのモラルとしての性」浜名訳・『現代思想』一九八四年十月号)フーコーもまた生の原像を還相の性として生ききったのではないか。二人の思想の巨人は内包を介して存在の全円性を生きたように思えてならない。

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デカルトの基礎的な言葉「我思う、ゆえに我あり」-「コギト・エルゴ・スム」を、どうしてもわたしは意味ぶかいと思えないし、証明として有効だともとても思えない。文の前半が一人称単数で書かれたあと、後半でこの一人称単数が存在すると結論するのである。これは手品師の手口とまったく同じだ。わからぬように、まえもってウサギをシルクハットに入れておき、そのあと、みんなが驚きの声をあげるなかで、それを取り出すのである。同じようにこうだって言えるだろう。「我すわる、ゆえに我あり」。あるいは「我話す、ゆえに我あり」。あるいは、単に「我あるゆえに、我あり」。くだんの文が証明せんと見せかけていることを本当に証明するには、「あるものが考える」とか、すくなくとも「ある人が考える、ゆえに我あり」とかでなければならない。でも、それではまったく意味をなさない。つまり、この文はなにも意味しないということなのだ。同語反復なのである。それは、それ自身の前提条件を証明している。いずれにせよ、「我あり」という謎をこの言葉が解くことはない。

内包論の一節みたいだが、このくだりは『エンデのメモ箱』(田村訳)のなかにある「デカルト」についての断章である。これがエンデの文章であるということを記さなければ内包論として読めてしまう。数を図形に変換することが可能であるとデカルト座標を発明した偉大な数学者にして哲学者であったデカルトは人間についてはじつにつまらぬことしか言っていない。人間機械論がそうだ。いまふうに言えば人間はアルゴリズムであるということになる。エンデが言うように、デカルトは「我」も、「我が存在すること」もなにも考えた節はない。デカルトが言ったことはA=Aであるということ。この同一律には人間が考え得るありとあらゆるものが代入される。その歴史の臨界点をわたしたちは生きている。意識の外延性は強いAIとバイオテクノロジーに覆い尽くされることになるだろう。文明の外在史と精神の内在史という対になる観念がたどる意識の必然がそこにある。科学と貨幣には共通するものがある。科学は進歩を、経済は成長を追い求めてやまない。金融工学も生物工学も強いAIによって制御されている。これからの時代はもっと急峻にこの過程が進んでいく。それは時代の趨勢として拒むことができないが、しかしほんとうに究尽しなくてはならないことは意識の外延性がなぜ「我思う、ゆえに我あり」という同一性によって統覚されるのかということだと思う。人間という驚異の出来事がアルゴリズムの一部にすぎないとなるのは不可避だとしても、意識の外延性はおおきな自然の外在史を拒むことができない。精神というちいさな自然の内在性など一瞬で新しい思考の慣性に呑み込まれてしまう。

人と人はどうやればつながるのか。もともとつながるということはどういうことか。もしつながるということがあるとすればそれはどういう機縁によるものか。いくら考えても答えのないことを半世紀考えてきた。それが内包論だといってもいい。意識の外延的な表現で人と人がつながることはない。そのことはわたしのなかではこの上なくリアルなものとしてある。もしも意識の内包的なものがありうるとしたら、人と人は倫理ではなくおのずからいやおうなくつながっている。この表現の機微はなかなか伝わらない。片山恭一さんとの話のなかでこのあたりのことに少し触れたことがある。この半世紀、いったいじぶんがなにをやっているのかわからないまま自分にとってもっとも切実なことだけを考え生きてきた。そのことにどんな意味づけもできないが、わたしはそうしか生きることができなかった。なんども問う。人と人がつながるということはどういうことか。意識の外延性では人と人の関係は切断されている。だからこそつながっているという虚妄が擬制として仮構された。

あるものがそのものにひとしい同一性の原理はいったい何を言っているのか。個々の生にも歴史にも固い生存の条理をもたらしただけだと思う。かんたんにいえば適者生存。同一性はあらゆる諸学の前提で鞏固な思考の慣性を形づくっていおり、同一性という最も自明のことが何を意味しているか問われることはない。ほんとうに不思議なことにそのことを問うたものはいない。わたしはあるものが他者と融即している根源の出来事を観念の始まりだとみなして内包論を展開してきた。

わたしは自己のなかの絶対の他を根源の性と名づけているが、あるものと他なるものが融即した精神の古代形象が根源の一人称から根源の二人称へと分割されたのか。あつい意識のかたまりである根源の一人称それ自体からどういう機縁で同一性が身をもたげたのか。レヴィナスがよく引用するパスカルの言葉がある。適者生存のど真ん中に居座る私性をもっともよく象徴している。「『そこはおれが日向たぼっこする場所だ』。この言葉のうちに全地上における簒奪の始まりと縮図がある」。これよりみごとな私性の根拠を知らない。そしてパスカルを手引きとしながら語られたレヴィナスの思想の未知もここにある。なぜ根源の一人称という内包的な表現から根源的な二人称という自己意識の表現が生まれたのか。駱駝が針の穴を通るよりもっと困難だが私性を拡張することは可能だと思う。

自己のなかに自己ではない絶対の他の痕跡がなかったら、切り株のこの場所はおれのものだが、おれの代わりにそこに座っていいよということがなぜ起こるのだろうか。

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内面化も共同化もできない意識のありかたのなかに生や人類史の未知の可能性があると内包論で主張してきた。わかったと思った次の瞬間いったいなんのことだかわからなくなる。片山恭一さんが編集してくれた、連続討議「歩く浄土第四回」の文中でわかりやすくまとめられている。なにを話したか、ブログでなにを書いたか覚えていない。片山さんの地道な編集がなかったら内面と共同性の意識の同型性についてのわたしの所論の趣旨が伝わることはなかった。『内包自然と総表現者』で、わたしはつぎのように話している。肝心なところだからその箇所を貼り付ける。

森崎 たとえば村上春樹という作家がいます。彼の作品がたくさんの読者を獲得しているのは、村上春樹という個人と、大勢の読者のあいだを通約するものがあるからです。それをぼくは意識の外延化と呼んでいます。別の言い方をすると、村上春樹の作品は内面にあらかじめ社会性がコーディングされているんです。
片山 あらかじめコーディングされた社会性というのは?
森崎 わかりやすいところで言うと、内田樹さんが「文化的雪かき」と呼ぶようなものです。人知れず世界の善を少しだけ積み増しすること、文化的雪かきをこつこつやりつづけることで、世界は善なるものにいくらかでも近づく、という典型的な市民主義の倫理を信奉している人たちは、村上春樹の小説を読んで安堵すると思います。そういう読者との馴れ合いというか、共犯関係のなかに村上春樹という作家はいます。だから安倍晋三と同じなんです。村上春樹の内面にも安倍晋三の内面にも、あらかじめ社会的なコーディングがびっしり書き込まれていて、彼らはそのコーディングにしたがって作品をつくり、発言をなしています。村上春樹が政治的にリベラルで、安倍晋三が米国に隷従するオカルトな国家主義者であるということはなんの関係もなく、意識の型としてはまったく同型なのです。大半の読者は、村上春樹をそのようには読みません。ちょっとだけ考えたふりができるし、安易で気持ちいい。気持ちよく読ませるためのスキルは高度です。でもモチーフなどというものは遠にない。もともとなかったような気もします。彼にとって考え尽くされるべきことは何もなく、表現の核心はことごとく回避されている。何も書くことがないのに何かが書かれているように擬装する、その技術でだけ村上春樹の作品は書かれています。
片山 まあ、アスリートとして優秀ってことですね。
森崎 それを言うなら安倍晋三だって優秀ですよ。ぼくが外延的な意識というのは、普通に人々が生きている思考の慣性のことです。そこから見れば、村上春樹の作品と安倍晋三の愚劣は別ものであるように見えます。しかし外延表現という意識の範型で一括りすれば、彼らの主観的心情の違いがあるだけで、意識の呼吸法にはなんら変わるところはありません。安倍晋三にもそれなりの心労はあるでしょう。もちろん村上春樹にもあると思います。投下した心労が貨幣によって酬われる世界で、作家がアスリートなら政治家だってアスリートです。プロスポーツや芸能の世界では、価値化や序列は当然のこととして彼らはアスリートです。作家も政治家も同じです。
片山 つまり、こういうことでしょうか。内面化というのは、内面といいながら本当は社会性を帯びている。社会化された内面が、たとえば村上春樹の小説を通して伝わる。すると村上さんの小説を読んで、ああ、ここに一人の個人の内面が描かれている、と思ってもそれはすでに社会化されたもので、要するに社会小説であると。
森崎 そうです。個別は個別といいながら、その個別のなかに暗黙に一般性が通約されていて、一般性は一般性といいながら、個別をそのなかに通分しているのです。この曖昧さが、内面の文学と政治のような外延権力を、ともに延命させてきたのだと思います。文学と政治は対立するのではなく相互に補完し合うのです。それがぼくたちの知っている文学です。一つの小説作品が読者を得るということは、その文学的な行為のなかに粗視化された自己が、共同性として暗黙のうちに約定されていて、出来事を通分した自己が共同性へと約定されて引き受けられているからです。この一連の行為は、通分した自己と約定された共同性という前提を抜きにしては成り立ちません。人と人がつながることとはまるで違う出来事なのに、いまだにぼくたちはこういう理念しか発明できていないのです。
片山 少しわかってきました。内面化することも共同化することもできないものを、それ自体として取り出すということを、森崎さんはずっと考えてこられたわけですが、内面化というのは、そこに社会をコーディングすることであり、共同化とは個別を一般性へと通分することだ。この個別と一般性を相互に通い合わせる意識の呼吸法が外延的ということで、アスリートはこの呼吸法でないと走れない。
森崎 そうだと思います。自己の内面化は社会に向けて暗黙に自己を通分しているものです。その共約された心性を引き受けるとき、抽象化された共同性という一般性が成り立ちます。内面化は内面の粗視化によって可能であり、粗視化によって抽象化された内面の一般性のことを共同性と呼ぶとき、内面化による出来事の粗視化は余儀なさとしての権力なのです。
片山 「粗視化」という言葉、ぼくはロジャー・ペンローズの本のなかで出会って、面白いなと思ったのですが、本来は物理学の分布関数なんかで使われている専門用語みたいですね。細かく見ると違っていることも、マクロのスケールでは同じに見えるってことで、「知覚情報の粗視化」というふうに使われます。わかりやすく言うと、解析度を下げるってことでしょうか。たとえば一つの小説が書かれるとき、内面を粗視化して、本来は一人ひとり固有で通約できるはずのないことを一般化し、読者という衆に提供している。このあり方が権力ってことですね。なぜならそれは共同性を呼び込むから。共同性の中身は市民主義とかナショナリズムとかオカルトとか、いろいろありますけれど、そこでは村上さんの小説も、安倍晋三さんの発言も同じになってしまう。
森崎 同じなんです。文学的な表現も政治的な表現も意識の底では密通しています。それこそが思考の慣性なのです。文学的な表現にも政治的な表現にも、自己意識の外延表現という予定調和の世界があるだけです。一つの小説作品は読者に何ができるでしょうか。何もできません。ないと困るというものではない。なければないで、また別の本を探せばいいだけです。同様に、政治は多くの人に何ができるでしょうか。何もできません。一と多、個人とたくさんの人がつながりうると間違った一般化を仮構するだけで何もできません。なぜそうなるのか。簡単なことだと思います。意識が閉じているからです。この意識が人類史を拘束してきました。もし別の意識の呼吸法がないのだとすれば、人間はシステムの属躰になり事物と同じものになると思います。もっとやわらかい意識の圏域があると思うんです。誰の、どんな本に書いてありません。誰も言っていないし、どの本にも書かれていない。ただ自分がくぐり抜けた体験を手放さず、思考の慣性に体験をゆだねることもせず、裸形の一箇の実存としてつかんだ感覚です。このリアルを、ぼくは「内包」と名づけました。内包自然を生の自然的な基底とすることで、総表現者という位相が可能になる。生きていることがそのまま表現ということを、一人ひとりがやりはじめればいいんです。内包自然と領域として自己は不即不離だから、そこに何かの縁があって触った知を注ぎ込んだらすごいことになります。七十億の主体が出現し、七十億の表現が可能となる。
そこまで行かないと、老人、認知症、障害者の問題などは片付かないと思います。コストパフォーマンスが悪いから抹殺すればいい。総アスリートからは不可避的に出てくる。これにたいして人類総表現者という理念を対置する。それ以外に解きようがないと思います。コストパフォーマンスのよくない者は抹殺すればいいのか。冗談じゃないですよ。生きていることが表現なんだ、という概念をつくることができれば誰だって生きられる。その場所は誰のなかにもある。だから還相の性が可能になるとともに、誰もが表現者でありうる。未知の表現をぼくたち一人ひとりがつくり、一人ひとりが固有の生を生きるなら、世界の無言の条理は干からびる。一人ひとりの生はそれほど深いとぼくは思います。内包自然を人の生の基底にすれば、人は誰もが自ずと表現者となります。総アスリートではない、総表現者のなかに生きられる未知があるのです。生きていることが表現であるということがじかに可能となる。(『内包自然と総表現者』)

ルービンシュタインのピアノ曲をスマホでよく聴く。むかしストーンズが福岡ドームに来たとき、ぼくも息子も娘もそれぞれ別々にライブに行った。良質のライブは演奏者と聴衆が一対一で対座する。そこにいかなる共同性もない(ようにみえる)。音の感動が押し寄せてくるとき、わたしと他者を隔てる皮膜は消えている。わたしはそのまま集団の狂熱のなかに溶け込む。いい気持ちだ。この感動のありかたで人と人はつながるか。南京虐殺の猛り狂う暴威のなかで人と人はつながるか。つながらない。意識の外延性ではつながっていると信じることはできるが他力廻向の信がそこから生まれることはない。意識の外延性の高まりにおいて人と人は繋がりうると錯覚することはできる。それは意識の外延的な物語の恐ろしい錯認だ。システムの属躰であることを覆い隠す虚偽と擬制がここにないか。もちろんいくらか挑発的な物言いをしている。いつ、聖なる心性は惨なる心性に転化するのだろうか。国家以前のはるかな古代心性のなかにその起源があるような気がしてならない。
作者と読者が一対一で対座するとき善が現成するだろうか。ホロコーストが現前することもある。共同幻想の属躰となった個人は嬉々として他者を殺しうる存在でもある。この錯認のうちに日々の生が重畳され人類史が形象化された。こう言ったらどうだろうか。ピカソのゲルニカという作品がある。ナチスのゲルニカ無差別爆撃による虐殺にたいする抗議の芸術作品という世の評価がある。存在の複相性を往還すると、意識の外延性が形象化した夥しい観念の制作物が政治や文学や芸術として粗視化され、長い時代的な思考の慣性を引きずっていることがよくわかる。固い生存の条理ではゲルニカは抵抗の象徴だが、やがてピカソのゲルニカという作品はむしろナチスやフランコのなした蛮行を嘆きながら凡庸な悪として許容する手立へと変容する。そのなれの果てにわたしたちの日々がある。体制には体制の思考の慣性があり、体制の思考の慣性を批判する表現が体制の思考の慣性と同型であること。こういう虚偽の意識を粗視化することでわたしたちの日々は成り立ってきた。同一性が統覚するおおきな自然は貨幣や国家という共同幻想であり、精神の退避するちいさな自然のことを文学や芸術と名づけてきた。いま国家を属躰にするアルゴリズムというデーター教が世界宗教としてそびえ立とうとしている。意識の外延的な表現がアルゴリズム教に取って代わられ国家も文学も芸術もその一部となっていく。外延的な意識の緻密化のどこにも表現の未知はない。やわらかい生存の条理は相対的な善と悪の相克する世界のはるか彼方に圧倒的な善の世界を遠望している。人間の自然的なつながりが親族から氏族制へと転化する時期に根元の一人称という熱い意識のかたまりはそれ自体を生きようとして還相の性という〔主体〕のままに無限に小さなものに縮退し、その斥力が一気に共同幻想の高度化をもたらした。言うまでもなく内包論では生や歴史の動因は還相の性という〔主体〕にある。この反力が意識の外延性としてさまざまな自然を産出してきた。同一性の形象化の必然として政治も文学も双対をなし、同一性によって統覚されている。この意識の外延性の外にでることはできない。ユヴァルの『ホモ・デウス』や磯田道史の『無私の日本人』においてもまた。(この稿つづく)

 

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