日々愚案

歩く浄土24

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レヴィナスが自我は起源に先立って他者へと結びついていると言ったとき、自我を領域化することと、領域としての自我を帰り道の知で語ることができませんでした。それでレヴィナスの論理では同一性の彼方の存在が倫理的で窮屈なものになったのだと思います。このふたつについての気づきはヨーロッパの知の伝統にはもともとないと考えています。
親鸞は「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」(『唯信抄文意』)と言っています。それぞれの人は我にあらざる我を含みもっているから「われらなり」といえるのです。

またこの「われらなり」は言葉の表出性としてはみえません。愚者ほど浄土に近いということとおなじくこの場所は実体化できません。言葉のもつ合理の還り途として生きられるなにかです。その場所のことを親鸞は、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに、等正覚のくらゐに住す。このゆゑに臨終をまつことなし、来迎をたのむことなし」(『末燈鈔』)と言いました。等正覚とは正定聚のことです。

五感の知覚としては正定聚は見えません。それは神や仏や好きが見えないのとおなじです。親鸞の正定聚はそれ自体としての領域で、ヴェイユの「匿名の領域」とおなじもののように思います。このそれ自体の領域はどうやっても共同化できぬものです。どうじに自我や自己に還帰できぬ出来事です。
自我や自己から発し正定聚や匿名の領域を語ると、それは信の共同性としてあらわれます。親鸞もヴェイユも見事にそこを回避しています。浄土教を解体した親鸞の行跡が浄土真宗という教団となり、ヴェイユの「匿名の領域」が信の共同性を切断したにもかかわらず、以後もヨーロッパの信の教団としてあり続けていることは皮肉というほかありません。事ほど左様に自己も信も複雑怪奇な出来事だと思います。

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一方で空虚な信の共同性というものもあります。
たまたま目にした大江健三郎や坂本龍一の発言がそうです。

「今、日本は戦後最大の危機を迎えている」と大江健三郎は言います。
http://blogos.com/article/107525/?p=2

坂本龍一は脱原発について言っています。
http://blogos.com/article/53085/

音楽家なのにどうして反原発なんですかという問いに答えています。「魚屋さんでも肉屋さんでも八百屋さんでもミュージシャンでも、『人を殺しちゃいけない』とか『泥棒はしちゃいけない』っていう感覚はあるよね。それと同じことだと思うんだよ」。
http://blogos.com/article/52244/

大江健三郎や坂本龍一の発言を、めずらしくゆっくりていねいに読みました。奇矯なことは言われていません。正しいことが言われています。それが喉に引っかかった魚の小骨みたいな読後感としてあります。なんだろうかと考えました。政府の政策は間違いで、是正さるべきであることが主張されています。そういう考えがあることは理解できます。ではその社会運動に参加するかというとそんなことは絶対ありません。この微妙なずれ。言葉が正しすぎるのです。二人の発言には煩悩がありません。つるんとした正義です。かなわんなあと思います。息をするようにウソをつく安倍の愚策も、反政府の広告塔の役割論に沿った正しい言葉のどこにも、日々生きていることの息づかいを感じないのです。安倍の美しい国日本のからっぽも、大江健三郎や坂本龍一のつるりとした言葉も、皺だらけの日々の生の根底に言葉がとどいていないとわたしは感じました。

空虚な信も欺瞞の言葉もあります。本人がそのことを意識しているかどうかはわかりません。典型的文化人のお節介だとわたしは思います。わたしが生きてみたい、わたしが欲しいと思う、わくわくどきどきする言葉は正しい言葉のなかにはありません。

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分有者という概念は自己ではありません。その分有者の連結について10年余考えました。そのわかりにくさについてはなんとか脱することができました。けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないようなものとして、そのことを名づけることを分有者として考えてきたのですが、分有者には往相と還相というふたつの性があったのです。あるものと他なるものが出会うとあるものでもなく、他なるものでもない、未知のXが生まれ、そのことによってあるものも他なるものもべつのものになる表現のうねりを内包表現と名づけてきました。この表現のうねりは往相の性と還相の性というふたつの性の重なりとしてあるのですが、往相の性は自然基底としての性に回収され、どうじに往相の性それ自体にたいして分有者が表現を遂げそこに還相の性が姿をあらわします。この還相の性は親鸞の浄土にたいする正定聚に比喩されるとどうじに親鸞の正定聚の拡張としてあるとわたしは理解しています。

親鸞は僧に非ず俗に非ずという知のあり方を、そのなかにいてそこを生きた人ですが、現実や歴史を還相のリアルで描き尽くすことはしませんでした。わたしは、還相の性というわたしがじかに性である知覚をていねいにたどれば、この世ならず、歴史の概念としても描くことができると思うようになりました。親鸞の未然を拡張することができます。
それがあることによってヒトが人となった、我にあらざる我という根源のつながりはもともとだれのなかにもあるものです。人であることに内属するものとしてあるのです。自己に先立つ神や仏という超越性ではありません。この超越性はあらかじめ同一性が前提とされています。同一性を認識の自然な基底とするかぎり、信の共同性は不可避です。国家へと馳せ昇った共同幻想もまたおなじ命運をたどりました。国家へと至る認識の筋道はつくのですが、どうやれば国家から降りることができるのかということについて外延表現は語ることができません。自己は共同性に同期するようにしかできていません。それは自己と共同性が同一性の産物だからです。

ひとりでいてもふたりというのがありえたけれどもなかったひとの本来性だと思っています。生命形態の自然がまず身をかぎり、そのなかに言の端を言分けたのです。それが同一性の起源ですが、ある意味それは不可避なことであったと思います。同一性のなかに生が監禁されたのです。それがわたしたちの生きている現実であり、重ねられた歴史です。ありえたけれどもなかったものを現にあらしめようとするのが内包論の試みということもできます。根源のつながりにはわたしはあなたであると書かれています。そのことを一人称とする生き方はひとにはいままでのところできませんでした。おまけに一人称を語る自己意識の思考の堅固な慣性があります。

外延論ではなく、内包論の感覚で生きていることや世の中のことを語るのは困難なことに思えます。たしかにかんたんではありません。それでも根源の一人称はやはりあります。また同一性によってそれがさえぎられているように感じられるとしても、もしも自己の陶冶と他者への配慮が矛盾なく存在する根源の性がなかったら、人間精神の夢として語られる神や仏という太陽感情そのものが起動しなかったはずです。ひとの生が外延的なものとしてしかまだ生きられていないとしても、神や仏という太陽感情が、内包の面影としてあることはたしかだとわたしは考えています。人倫や善も内包のかけらで痕跡です(つづく)。

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