日々愚案

歩く浄土249:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理7/『世界の中心で、愛をさけぶ』の未知

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息を詰めるようにしてこの数年内包論を書き継ぎ、幾分か世界に王手をかけようとしていた。その矢先にわたしの地上の旅がふいに終わりかかった。内包論を少しでも進めたくて無理に無理を重ね、無理が祟ったわけだ。心の不穏の後、脳の不穏があり、また死の間近まで行った。死にかかってまた生き返っただけだが、脳の不穏のとき内包の信が漠とした不明にさらされた。そのときの体験をぬきにやわらかい生存の条理を語っても空疎だと思う。脳に不穏があって2018年5月16日に脳出血で再入院し、40日を病院で過ごし、生還した。おそらく心筋梗塞の薬が効きすぎて出血したのだと思う。おかげでいろんなことを考え、まだ内包論で考えきれていない不明があることに気づいた。それがどういうことなのか必死で言おうとしている。死に鷲づかみにされているとき考えたこと。生きていること、つまり生を自己が自己であるという同一性が支えきることはできるか。思弁では何とでも言えるが現実的には虚偽の意識なしに生を同一性が支えることは絶対にできない。内包論で同一性の虚ろについては長い年月をかけしつこく論及してきた。この虚偽を覆い隠すために自己という観念と共同の観念が招来された。その錯誤は人類史にひとしい。だれも、ただの一人も、自己や共同性という観念の粗視化を拡張した者はいない。

同一性として粗視化された観念がどれほど狭くて制約された概念であるかを脳の不穏を経て骨身にしみて痛感した。3月末の心の不穏に続発して5月のなかばに脳の不穏があり今回も運良く生還した。わたしが入院した病院には脳外科がないので、CT撮影をしながら出血部位が拡大するかどうか二日間経過観察をし、出血がひどくなれば基幹病院に搬送し、そこでさらに諸検査を受け開頭手術になると説明を受けた。そうなればいずれにしても手遅れになる。若い頃からそれぞれにいいがたい言葉にならぬ体験をいくつか経てきたが、猶予された死を間近で感じた二日間は格別だった。心筋梗塞の治療と脳出血の治療は真逆であるので治療のやり方は互いに相反する。死に向かって収斂していく意識を意識することは意識の体験にとって過酷である。わたしは入院してから二日間死に包囲され死に閉じ込められた。それは死にたいする恐怖ということではまったくない。命が細っていくのを実感していたし、猶予された死を間近で感じて今回は生きたまま退院することはないだろうなと観念していた。余儀なさとしての死が輝くことはないのか。死は生の一部であり、生のひっかき傷や窪みにすぎないと内包論で主張してきたにもかかわらず、死に囲繞されてじわじわと死をまちながらすっきりしない気持ちをもったのはたしかだ。数十年主張してきた内包の信がいくらか希薄になった。なぜそうなのかということだけが気がかりだった。主体は実体ではなく領域としての自己は他者によってもたらされるという内包の核心をなす絶対的他者の浸透力が希薄になっていたのだと思う。

こういうことだ。わたしたちの生がどのようなものであろうと例外なくだれにとっても始まりと終わりは不明である。じぶんの意志に拠らずこの世に生を承け、また生の終わりを体験することもできない。かろうじて生の始まりと終わりの不明のあわいをわたしたちは洋の東西を問わず自己意識や自我や主観や主体と呼んできた。べつの言い方をするとそういう意識のありかたが人類史を重畳してきた。この意識のありかたをわたしたちは同一性と名づけている。ここにはどんな存在の全円性もない。またこのような存在のありかたをどれだけ考察してもそこからあたらしい生や死が出てくることはない。命が縮んで細くなっていた頃、見舞いに訪れた友人たちにおなじことをくり返し話した。親しい誰かがぼくの手を握りぼくの目を見ながら、ほんとうはもっと生きていて欲しいけど、それを避けることができないなら、今晩でも、いまでもいい、何も心配しないで安心して死んでいいよと言ってくれたらおれは往生できる。根源の性を分有することのなかにしか生きられる生や死はないということだ。生も死もひとりでは成就しない。エックハルトは神はじぶんより近くにいると言い、親鸞は他力の自然法爾を生きた。もう生きて退院することはないと考えていたとき、しきりにそんなことを考えた。自己という外延存在ではなく内包存在を分有することのなかに人類史の未知や生の未知がある。死の間際まで行ったときそれより痛切なことはなにもなかった。

「歩く浄土248」をサイトにアップしてから半年ぶりにブログの文章を書いている。心の不穏から脳の不穏を経て半年。さまざまなことがわが身を吹き抜けていった。その大半はまだ言葉にならぬ。おそらく死の不可解さは身体が拘束している。心身一如という偏頗な観念の深奥に身体という観念が鎮座する。初源の身体として粗視化された身体という観念が外延的な存在や、そこから派生する身体の延長態である貨幣や宗教や法という権力の起源をなしている。死が共同幻想であるように外延的な自己の観念も宗教的な観念である。身体が死に絡め取られるとき生は共同幻想へと疎外されるほかないとしても、共同幻想へと疎外される自己も共同幻想の派生態にすぎない。つまり共同幻想にも自己のなかにも生や死はない。わたしは内包論でそう主張してきた。そのことが脳の不穏で病状の推移を見ているときなにかすっきりしないものとしてあらわれた。キューブラー=ロスの否認・怒り・取り引き・抑鬱・受容という死の五段階説は固い生存の条理の象徴としての意味しかない。端的に言えば虚偽である。そこにはどんな生も死もない。死ねば死にきり、自然は水際立っているという、身勝手な死の観念もまた外延的な死の範疇に閉じられている。ではどこにほんとうの死があるか。

みずからの意志で生誕することはできない。名前をじぶんでつけたものはだれひとりいない。おなじようにじぶんの死を体験したものもいない。人間という生命形態の自然はこの大きな制約のなかにはさまれて同一性的な観念をさまざまに粗視化してきた。その観念によってつくられた思考の慣性が表象した産物を人類史と呼んでもいいくらいだ。おおむねわたしたちの人類史は意識の第二層までしか生命形態の自然を表現できていない。この自然のことを自我や主観や主体と名づけ意味づけしようと内面的な意識の呼び方の差異が語の使用者の数だけあることになる。それらのひとつがフロイドの「1」の回路を隠蔽したエスであったり、おなじように自己を共同性に融解する「1」の回路にすぎないユングの元型だと言えよう。レヴィナスという風変わりな思想家はそれらを自同律の戯れとみなした。レヴィナスは存在という観念の始まりにある不全感を粗視化したことのなかに悪の起源をみた。特異な知覚だろうか。単独ということのなかには擬制の死しかない。それがどんな理不尽なものであろうと、〔と共に〕によってのみ、死の不条理を生きる者の生は往生する。〔と共に〕という存在を分有することによってのみ往生は必定となる。もしも自己が自己意識によって始まったのだとしたら、その自己は身体の死と共に消滅し共同幻想の彼岸に押しやられる。この思考の慣性を自然とする観念が宗教や法や国家や貨幣という共同幻想として人類史のすべてをかたどってきた。果たしてそうだろうか。身体の死によって覆い尽くされるのが生だろうか。脳出血の部位の拡大を待つ二晩は終わりがないほどに長かった。今年の春以来のふたつの不穏を経て、わたしの内包のリアルはひとつの達成をみた。内包存在を分有するとき死は生の一部であり悦びでもある。

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今回の体験を経て片山さんの『世界の中心で、愛をさけぶ』をもう一度論じてみたいと思った。おおきな表現の未知がこの作品の思考の余白としてあるような気がしてならない。今まさに死のうとしているアキは朔に言う。

「わたしはね、いまあるもののなかに、みんなあると思うの」ようやく口を開くと、彼女は言葉を選ぶようにして言った。「みんなあって、何も欠けてない。だから足りないものを神様にお願いしたり、あの世とか天国に求める必要はないの。だってみんなあるんだもの。それを見つけることの方が大切だと思うわ」しばらく間を置いて、「いまここにないものは、死んでからもやっぱりないと思うの。いまここにあるものだけが、死んでからもありつづけるんだと思うわ。うまく言えないけど」
「ぼくがアキのことを好きだという気持ちは、いまここにあるものだから、死んでからもきっとありつづけるね」ぼくは引き取って言った。
「ええ、そう」 アキは頷いた。「そのことが言いたかったの。だから悲しんだり、恐れたりすることはないって」(片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』)

「お別れね」と彼女は言った。「でも、悲しまないでね」
 ぼくは力なく首を振った。
「わたしの身体がここにないことを除けば、悲しむことなんて何もないんだから」しばらく間を置いて彼女はつづけた。「天国はやっぱりあるような気がするの。なんだか、ここがもう天国だという気がしてきた」
「ぼくもすぐに行くから」ようやくそれだけ口にすると、「待ってる」 アキはいかにも儚げに微笑んだ。「でも、あまり早く来なくていいわよ。ここからいなくなっても、いつも一緒にいるから」
「わかってる」
「またわたしを見つけてね」
「すぐに見つけるさ」(同前)

朔がアキに話すべきことをアキがすべて話してしまっている。いくらか実感を込めて言うなら、この会話でアキが往生することはない。これは批評ではない。朔がアキの死を承けることにおいてアキはみずからの死を生として生きることができるのだ。アキはぼくだから、なにも心配することはない、安心して死んでいいよ、と朔はアキに告げるべきだった。そのときアキは儚げに微笑むのではなく満面の笑みを浮かべたと思う。わたしの内包はここまで到達した。むろん自力のはからいではない、おのずからなる他者の圧倒的な浸透力である。ここにあらゆるはからいを超えてやわらかい生と死の条理が内包的に存在している。もしかしたらふたつの不穏を経て内包は本懐を遂げつつあるのかもしれない。(この稿つづく)

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