日々愚案

歩く浄土248:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理6

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心臓に不穏があって2週間入院し運良く生還した。救急搬送されているとき、薄れていく意識のなかでこんなにあっけないものかと思ったことを覚えている。お迎えが来ずに生きていることに、なにかちぐはぐな感じがして、なじめない。一晩寝て目が覚めればそれを睡眠と言い、目が覚めなければ永眠と言う。生誕と死は自己に属することではないなと心底思った。始まりと終わりに意志は関与できない。関与できるとする錯認が人類の過誤の歴史をつくってきた。肝心なことはなにも考えられていない。そのことを痛感した。ちょうどいい機会なので、生誕とお迎えについて腑に落ちるまで考えてみたい。「歩く浄土247」でそういうことを書いた直後の出来事だったので異変を予感していたのではないかと思う。だれも考えたことのない考えを内包論として書きついでいくことはかんたんなことではない。そのことを考えたいから考えるのだし、書きたいから書くので、すきに考えたいことを書きたいように書くのはたのしい。ひとつ書き上げてサイトにアップすると、もう書くことはなにもない。それを数年繰り返してきた。下手な文章でもこれをひとつ書き上げたら明日死んでも悔いはないという書き方をしていた。息を詰めて考えてきたから心の腑が詰まってしまった。内包論の延長として死についても考えることができる。根源の性を分有することで往相の性や還相の性が領域としての自己として分けもたれるが、死もまた根源の性を分有する驚異のなかにあると言うことができる。生も死も根源の性の分有として存在している。いかなる意味でも死は自己に属していない。死が自己に属さないということは死を体験できないこととして昔からだれもがしっている。では死はどこにあるのか。生と死は対等な格としてあるわけではない。死はいつも生の一部としてしか存在することができない。

あれは臨死体験だったのだなと容態が落ち着いてから後知恵のりくつで思った。心血管イベントのまさにそのときまで心不全がこの身に起こることなんか考えていなかったので、いきなりのこの痛みはいったいなんだという当惑としてあった。消去法でいくと心筋梗塞になる。それで救急車を呼んだ。ちゃんと玄関の鍵も開けた。知識として知っている死の恐怖をともなう痛みだ。もう出ました。すぐ到着します。ここに搬送して欲しいと希望を伝えたが、そこでは処置できませんというので、近くの嫌いな病院に搬送され、CCUで10本くらいの管に繋がれる。4日止め置かれ大部屋に移る。搬送後1日は意識が混濁していたので、2日目から担当医たちとの投薬と病院食について折り合いようのない意見の食い違いがあらわになる。がん治療も心血管イベントの先端医療も治療の発想はまったく同型だから命がかかっているわたしとしては納得しない治療を受け入れるわけにはいかない。救命救急医療では医者がすべての権能を所有し、患者はそれを受け入れるしない。心臓の造影では心筋は瀕死の状態です。だからこの薬を点滴し、内服しないと心臓は止まります、と言われたら治療を受容するしかない。この脅迫は悪ではなく善意であることは了解するが、地獄への道は善意で敷きつめられているわけだ。がんの早期発見早期治療の脅迫とおなじものを心筋梗塞の先端医療に感じた。合法的な殺戮のしくみがシステム化されていて患者がそのことに異議を唱えることはできない。医学知の多くが共同の迷妄であると患者が思いつくことはない。
心臓カテーテル手術の熟練の技術があることと、病因の説明はおおきく乖離している。心筋梗塞とおなじくがんも生活習慣病のひとつであるが、がんや心筋梗塞の引き金となる誘因はおおくの迷妄に覆われている。糖質ゼロ食をつづけているとケトン体値が高くなり、糖尿病性ケトアシドーシスと誤認定される。再梗塞を防ぐために一刻も早く脂質異常を改善することが正しいこととされ、ケトン体を中心に代謝が回っていることは現代医療では異常ということになる。胎児や乳児のケトン体値は正常値よりはるかに高値である。それが人体にとっての代謝の自然であるのに、高ケトン体値を不自然であり糖尿病性ケトアシドーシスと診断することで治療の対象とする。糖質の過剰摂取による血糖値の乱高下が血管へ酸化ストレスとして作用し、種々の生活習慣病を招き寄せるというのが理に適った説明である。この道理を制度としての医学は受容せずに危険な考えだとみなす。糖質過多のバランスのとれた食事と投薬によって高血糖をコントロールし、生活習慣病を予防する倒錯が生じる。糖質の過剰摂取の結果としてさまざまな生活習慣病が引き起こされる妥当な見解を抑圧し、投薬によって改善できるというまちがった考えが医学では真理とされる。炭水化物を中心としたバランスのとれた食事をしても、食後の高血糖を防ぐことはできない。またコレステロールは悪であるという神話もある。高糖質の食事とコレステロールを悪とする治療の体系が生活習慣病を招来するおおきな要因をなしている。先端医療を施す基幹病院の救急医療やがん治療は迷妄に充ちている。救命救急医療の熟練の技術と病因はみごとに乖離している。それが先端医療の現実である。高糖質食を摂取しなければ食後高血糖は生じない。血糖値の乱高下による血管内皮への酸化ストレスによる炎症も起こらない。酸化ストレスの長年の積み重ねによって血管は硬化し疲弊する。救急医療にも先端医療にも固い生存の条理はあるがやわらかい生存の条理は微塵もない。身体の死はあるが人の死はない。
病院食は高糖質で、糖質ゼロを強引に敢行したが、担当医、管理栄養士、看護師、薬剤師から総スカンを食う。おまけに内服薬のいくつかを飲まない。先端医療を施す基幹病院の面目は丸つぶれであり容認するわけにはいかない。幾本ものチューブにつながれ、命を握られた状態で、いくつかの治療薬と高糖質食を拒否することはたやすくはない。じぶんの生き死にを赤の他人に任せることはせず、じぶんで決めるという格率にしたがい、わたしは譲らず、退院を勧められ、受け容れた。心臓の不穏もハードだったが、入院中のスタッフとのやりとりも劣らずハードだった。がん治療も救命救急医療もおなじ矛盾を抱えているとわたしは思う。

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「歩く浄土247」が心臓の不穏を予見していたのだとして、死は自己には属していないということは明言できる。他者の死は体験できるが自己の死は体験できない。体験できない自己の死は他者の死の体験に重ねられ、生の彼岸にある共同幻想として疎外される。少なくとも私たちの有史ではそうなっている。たしかに自己の死を体験することはできないが、では死はどこにあるのか。根源のふたりが分有されることで生の一部として存在する。存在の複相性を往還すると死は存在しない。やわらかい生存の条理としてあなたのなかでひらかれる。心筋梗塞から心臓移植をして命をながらえたジャン・リュック・ナンシーが『無為の共同体』や『複数にして単数の存在』や『侵入者』のなかで〈分有=分割〉という言い方をしている。言葉の使い方としてはわたしの分有と似ている。ブランショやバタイユもナンシーの分有という言葉に騙された。西谷修においてをや。わたしの分有という理念とナンシーの分有という理念はまったく違う。
心臓移植を経てなにかがナンシーのなかで変わったようにみえる。意識にとって先験的なものとして存在していた共同体についての理念をナンシーは相対化しかかっているようにみえる。共同体を複数にして単数の存在として引き寄せたことのあざとさ。ひとりのなかにふたりが存在する。こけおどしの演技にすぎないが、それがナンシーにとっての心臓移植の意味だった。このとき自己と侵入した他者は生を分有するものとして相互に存在している。この外延的な関係のことをナンシーは分有と名づけている。先行する世代の思想家が社会や共同体を意識の外延性として可視化したことが人類史の厄災を招来したことにナンシーは自覚的である。なによりナンシーにとって共同体は無限ではなく有限のものであった。ドナーとレシピエントは無名の非人称の関係のなかで臓器が移植される。有限の臓器はリサイクルされることで複数の存在から単数の存在を象ることもできるというわけだ。生体工学の高度化と共に延命の技術は革新される。意識の外延性が生殖工学や生体工学の高度化と共にさらに外延化されるだけでこの変化のどこにも意識によっての未知はない。あおくんときいろくんがばったり出会いうれしくなって交じり合いみどりになってしまうことが内包と分有なのだ。AとBが関係しAでもBでもないCになることを内包と名づけている。ナンシーの自我と侵入した心臓の自我は互いに外延の関係にある。ナンシーの言葉で語ってもらう。

分有とは次のような事態に対応している、すなわち、共同体は私に、私の誕生と死とを呈示することによって、自我の外にある私の実存を開示するのだ。とはいえそれは、あたかも共同体が弁証法のモードや合一のモードに則って私にとって代わるような別の主体であるかのように、共同体においてあるいは共同体によって再び投じられた私の実存ではない。共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈と別のものではないのだ。共同体とは有限な存在たちの共同体であり、それ自体がそのようなものとして有限な共同体である。言いかえれば、無限で絶対的な共同体と比較して限定された共同体ということではなく、有限性の共同体なのである。なぜなら、有限性こそが共同体的「であり」、それ以外の何ものも共同体的ではないからである。(『無為の共同体』西谷修・安原伸一朗訳)

ナンシーは外延表現の無限性を有限の共同性に限定することで存在の意味を読みかえようとする。生の有限性を無限ではなく生の有限性である共同性へと差し戻すのがかれの哲学だと言える。存在の複数性という言葉で共同性の無限性を有限と限定するために、有限である共同性のことをナンシーは存在の複数性を名づけている。自己に先立つ共同性の意味化を消して、共同性の価値を裏返すことで、マルクス主義や共同性にまつわる迷妄を解こうとした。臨在する死が共同性を引きよせるというナンシーの弁舌にはあざとさがある。自己意識の無限性は内包のきりのなさの表現としてあるにもかかわらず、かれは自己意識に先立つ存在の複数性を可視化することをひとたびは否定し、あいまいな存在の複数性を共存在として自己と他者へと共役する。この戯れにナンシーが気づいているかどうかは判然としない。いずれにしても存在を同一性をなぞりながら可視化したことは疑い得ない。存在を可視化し実体化することで自己や共同性を主観的には有限なものへと限定する。なにか機能主義的な匂いがしないか。死はひとりでは成就しない、死を看取る者がいて、死は成就するという俗見をかれは導く。この死の臨在が共同性なのだとナンシーは言っている。みごとに存在の複数性は共役される。かれが心臓移植を経て生きているという事実が分有ということをもっともらしく見せる。医療の進歩によって生が延長されるということはそれ自体である。ドナーとレシピエントは匿名においてしかつながらない。たしかに他者の死によってナンシーは生を延長できている。しかしいずれにしてもお迎えが来るのであって、その不可避性は毫も揺るぐことはない。非人称の公共性という共同性を複数性とし、その複数性から単数の存在がつくられるビットマシンの外延革命と融合した先進医療の自然生成について語っている。意識の外延性はビットマシンや分子記号を駆使することで存在をマトリョーシカ人形のようにさらに外延化することができることに時代の先進性があるとナンシーは言っていることになる。

ナンシーの身体の現場
①わたし(誰?「わたし」だって? まさにそれが問題、古くからの問題だ。この発話の主体とは何なのか? 発話内容の主語にとってはつねによそ者であって、その主語にとって避けがたく侵入者であるような、しかしまた必然的にその駆動力であり、シフターあるいは芯であるような)―わたしが他人の心臓を受け容れてから、やがて一〇年になろうとしている。(『侵入者』)

②臓器提供を奨励する目的で、ドナーとレシピエントの間の連帯意識とか、友愛とかがおおいに強調された。そしてこの贈与が、人間(この語の二つの意味において) にとっての基本的義務になったというのは疑いえないことだし、それが血液型の不適合という以外の何の限定もなく(とりわけ、性的、あるいは人種的な限定はなく、そのためわたしの心臓は黒人女性のものであるかもしれない) 生/死が分かち合われるネットワーク、生が死と接合され、通い合うことのできないものが通い合うネットワークというものの可能性を、万人の間に設定したということも疑いえない。
 とはいえ、すぐに、よそ者としての他者が顕在化してくる。女性だとか、黒人だとか、若者だとか、バスク人だとかでなく、免疫学的な他者、置き換えられないのに置き換えられてしまった他者だ。その他者の顕在化が「拒絶反応」と呼ばれる。わたしの免疫システムが他者のそれを拒絶するのだ (ということは、「わたし」には二つのシステム、二つの免疫上のアイデンティティがあるということだ)。(同前)

③そのうえガンがやってくる。悪性リンパ腫だ。わたしはまったく気づかなかったのだが、ガンになるかもしれないということは(もちろん必ずというわけではなく、罷るのはごく少数の移植患者だ)、シクロスポリンに印刷された注意書に書いてあった。原因は免疫力の低下だ。ガンは、侵入者のおあつらえ向きで、ねじけた、始末の悪いイメージのようなものだ。自分自身のよそ者になって、自分自身が自分をよそ者にする。なんと言ったらよいのか(だが、ガンという現象が外発的なものなのか内発的なものなのかは、まだ議論されているところだ)。
 ここでもまた、別のやり方で治療は暴力的な侵入を必要とする。化学療法や放射線療法で相当量の外来物を混入させるのだ。悪性リンパ腫が体をむしばみ疲弊させるのと同時に、治療が体を攻撃し、いろいろなしかたで苦しめる―苦痛というのは、侵入とその拒絶との関係なのだ。そして苦痛を和らげるためのモルヒネさえも、ほかの苦痛を、思考力低下とか錯乱のかたちで引き起こす。(同前)

自然と人工自然を媒介する技術
 自然と技術との境界をあなたが人工的だというのはなぜですか?
 ついこの間のことですが、私は死を免れなかったかもしれないし、もう少し経ったら私の病気は違ったやり方で治療されたかもしれません。私は生きているけれども、それは私が技術のある状態に遭遇したからです。なぜ人は生命を長引かせるのでしょう? なぜ、情報機器を使って情報の流通速度を高めるのか? なぜ世界性なのか? 等々。たとえばクローン製造について問いを立てることができますが、そういうことのすべてを可能にしたのは人間です。そして人間をとおして自然がそうしているのです。もし技術が、自然に発しながら、自然自身のうえに反転してそれを改変しようとし、それを完全に破壊してしまうような危険を冒すとしたら、技術はまたほかの自然、自然の事象のほかの状態を生み出すこともできるでしょう。そのすべてはチャンスと問い掛けを担っており、そういう問いが哲学の核心にあるのです。(『侵入者』)

先進医療は錯綜しゆくえが定まっていない。移植医療はやがて再生医療が代替するようになるだろうし、そうすればナンシーの問いの立て方も変化する。ブランショはナンシーの問いかけに真剣に応答しようとした。治療の選択肢をめぐってそのつど態度表明が迫られることはあるにしても、大半は医療の領域の出来事であって、生の有限性や固有性とは異なるとわたしは思っている。心臓移植を受け入れながら医学や医療を根柢的に批判する姿勢はナンシーにはまったくといっていいほどない。なにを選ぶかは面々の計らいだとしても医療に隷属する生しかかれにはないようにわたしにはみえる。それはとてもつまらぬことだ。ケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの』は第1章BECOMIGで始まり第12章BEGININGで終わる。わたしはケヴィンの本を日本的自然生成が世界の新しいシステムに生成変化していると理解したが、ナンシーもまた時代の趨勢に順伏することで生の意味を読みかえようとしている。ナンシーの分有は好意的に言っても外延の内延化にすぎず、世界のグローバルな生存の条理に回収されてしまうと思う。適者生存という世界の条理に対抗文化的な彩りを添えるものでしかない。自力廻向の信をありがたがる良心の持ち主にとっては心が震える情景かもしれぬ。

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西谷修もナンシーの考えを深読みすることで時代の閉塞感を逃れようとする。西谷修が共謀罪法案に反対する集会に登場してつぎのように述べる場面はなにかをよく象徴している。レヴィナスが1947年に書いた『実存から実存者へ』の翻訳し、『不死のワンダーランド』を書いた西谷修が、「共謀罪法案を廃案に持ちこめないなら、つぎの戦後にしかその機会はない」と発言していた。たしかに憲法改正と戦争を可能にする治安維持を共謀罪法案はめざしている。わたしは西谷修とちがうことを考えている。別に西谷にかぎったことではないが、西谷はかれの知の経験の全力をあげて共謀罪法案と闘うべきなのだ。過ちは二度々繰りかえしませんとこの国は70年前に言わなかったか。特別機密保護法以降の日本の変質は急激で、共謀罪法案で完成を迎えつつあり、帰趨は明らかでないが、変質の臨界を越え戦争へ向けて共同幻想が能動的に動き出しているようにみえる。なぜこうなったのか。システムはいつも超えているということにおいてすでに超えられているという思想を表現できないかぎり、安倍晋三的なものはいつまでもはびこりつづける。風が吹くように戦争が起こるのではない。その西谷修がナンシーの『無為の共同体』を批評する。西谷修のみぞおちにある良心が自力廻向の信でしないことがほんとうは問題なのだと思う。

〈死〉は〈私〉のなしうる行為ではないし、〈私〉がわがものとしうる(我有化しうる)何ものかでもない。〈私〉は〈死〉を近未来形で語ることはできるが、それをみずから果たした行為のように完了したものとして語ることはできない。だから、〈死〉は〈私〉の可能性に属していない。その意味で、文字通りに「私は死ぬことができない」のだ。
では、〈死〉は誰のものなのか?(略)〈死〉は誰にも属さない。この、誰にも属さない、それゆえ行為ではない出来事は、独りでは起こらない。(略)このように〈死〉はひとりでは完結せず、すでに他者の存在を要請する出来事なのである。
(ナンシー『無為の共同体』西谷・安原訳所収 西谷修「〈分有〉、存在の複数性の思考―あとがきに代えて」から)

死がわたしに属することではないはそのとおりだと思う。死はひとりでは完結しない。では死はだれのものか。他者の存在が要請されていると西谷修は言う。問題は他者とはなにか、存在の複数性とはどういうことか、である。ナンシーは心臓移植の体験を経て自己が二人であることを実感し、ドナーとレシピエントの関係を分有と名づけた。これで世界は転回できるとナンシーは考え、西谷修が外延的な関係にすぎない分有という言葉の尻馬に乗って意味づけした。

〈死〉を経験するとは、他者との関係のなかで極限的に浮かび上がるその峻厳な分離の限界を刻まれるということなのだ。だがこの限界は無媒介に分かち合われている。〈死〉という出来事がこの限界を刻むのだとしても、〈死〉の切断によるこの決定的な分離に距離はなく、彼(彼女)がひとりでは死ねないその限界が、そのまま〈私〉が彼(彼女)に届きえないその限界でもあるのだ。それが人間の〈有限性〉を画しているのだとすれば、その〈有限性〉は一人ひとりの存在を決定的に分離すると同時に、無媒介に結びつけてもいる。その関係あるいは出来事をナンシーは〈分割=分有〉〔partage〕と呼ぶ。
   
 そもそも「存在する」ということが、複数の存在者なしには起こりえない、意味をもちえない、〈分有〉によってはじめて可能になる、あるいはまさに〈分有〉として起こる出来事なのだ。〈分有〉ということは、何かを、あるいは〈有〉を、すなわち〈存在〉を分かち合うということではない。分かつということが、〈存在する〉ということなのであり、「存在する」とはつねに「と共に」と不可分の複数的な出来事なのだ。(同前)

引用した西谷修の微妙な言い方にたいして萩原幸枝さんは的確になにが問題であるかを指摘している。

 しかし、ここでわたしには「すべての生と差異の肯定へ向けて」という著者の意図は理解できるにしてもひとつの疑問がどうしても残ります。「死」は自分と他者を分かつものであり、その何者にも属さず人称を持たない分割という出来事によって〈私〉という輪郭を際立たせる、そのようなものであると著者は言います。そしてそのようなあり方をナンシーに倣って「分有」とよんでいます。しかし、分割こそがすなわち分有であるという永遠に近づくことのできない いわば逆説とでもいうような論理の展開はどこかニヒリズムを呼び込むような気がします。別の言い方をすれば、すでにつねに「共に」に先立たれているという「私」つまり「存在の複数性」ということのなかには限りなく小さくはなるけれど永遠に消えることのない単数の1が残るような気がするのです。そもそも始まりの問いだった「1」とはなにか「自己」とはなにかという地点にまたもどってきてしまう可能性はないのか?という疑問です。(「『存在の複数性』または『共に在るということ』について」2003.11.29)

ナンシーの分有という考えもナンシーに共感して追従する西谷修の考えも生の不全感をなくせていない。むしろニヒリズムを隠蔽するために存在の複数性を語っている。根源のふたりを、ひとりでいてもふたりとしてひらくことが存在の分有ということである。西谷修が存在の複数性を語るとき「共に」は「限りなく小さくはなるけれど永遠に消えることのない単数の1が残る」ことを前提としている。西谷修は共同体の実体化を相対化したくてレヴィナスやブランショやバタイユやナンシーの周囲を徘徊しながら、存在の内包性についてなにも実感としてつかんでいない。自己と他者という外延的な関係を存在の複数性という言葉でごまかしなにか意味のあることを語るふりをして言葉を戯れているだけだ。死は自己に属していることではないが、死による切断によって〈わたし〉と〈あなた〉が離接することはない。まして私がひとりでは死ねないその限界が、そのまま他者に届きえない限界としてあるのでもない。ナンシーの自己や他者はあらかじめ1の回路によって実詞化され、その実詞化された自己や他者を宙に吊ることによって存在の複数性を語ろうとしているが、共存在と単独は共同性を前提としてしか成り立つことはない。この意識のありようでは共同体はマトリョーシカ人形となって無限に回帰する。存在の複相性を往還すると、死は根源のふたりを分有するあなたによって生として生きられる。アキと朔の離接の間際の会話。アキが「また見つけてね」と言うと朔が「すぐに見つけるさ」と答える。アキがひとりでは死ねない限界がアキが朔に届きえない限界であるのだろうか。そんなものが分有だとしたら要らない。アキの死は朔に生として受け継がれている。朔はアキだからだ。存在の複相性のなかに死は存在しない。親鸞の正定聚や自然法爾はそういう意味も含みもっている。わたしは存在の複相性について、根源の性を分有することで、自己が領域となり、領域としての自己によって外延的な三人称はおのずと二人称となると内包論で主張し、この二人称の関係のことを喩としての内包的な親族と名づけてきた。存在の複相性を往還すると、内包存在は根源のふたりと内包的な親族としてそれぞれに分有されることになる。この意識の過程のどこにも共同性は存在しえない。おなじように存在の複相性を往還すると、死は領域としての自己のなかに生として存在する。領域としての自己のなかに死は存在する余地がない。

西谷修が存在の複数性を根底的に問うことはなかった。「分かつということが、〈存在する〉ということなのであり、『存在する』とはつねに『と共に』と不可分の複数的な出来事なのだ」とナンシーの考えを注釈するとき、不可分の複数的な出来事は有限性によって分離され、同時に非人称の公共性に無媒介に結びつけられていると言う。有限な生が非人称の公共性に曝され無媒介に結合され、心身の最後の一遍に至るまで商品になるというのが到来しつつある世界システムだ。このシステムのなかでは存在の差異性は技術によって充填されることになる。いまなにが起こっているのか片山さんは的確に指摘する。「生命科学と再生医療とグローバル経済が、70億の人類の心と身体を商品化しつつある。生命の諸要素が新たな可動性を獲得して移送可能なものになり、人から人へ、病気から病気へ動かすことができるようになりつつある。その結果、生きることがまるごと消費と選択の対処になろうとしている」(セカチュウの片山恭一BOT 2018年4月19日発言)
偉大な西欧近代の自己と共同性をめぐる逆理を解こうとしてナンシーや西谷は西欧近代の知をおさらいし、存在の複数性を「と共に」で約分し、共存在が死によって呼び起こされることを有限な生の非人称的な公共性として意味づけし世界システムに同期してしまっている。わたしの考えでは「社会」主義者が電脳社会がもたらす生の条理を拒むことは先験的にありえない。かれらは未知をつくる力をもちえないから必ずシステムに同期し人びとを睥睨する。

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ナンシーや西谷の初発のモチーフがビットマシンと融合した諸学が喚起したグローバルな世界の新しいシステムに呑み込まれていく様子を追いかける。わたしはそこに、ある思考の慣性がたどる必然があると思う。存在の複数性や共存在という社会的な言葉をどれだけ分割しても同一性の拘束衣を脱ぎ去ることはできない。ナンシーの『侵入者』の翻訳者である西谷は〈分有〉という思考の運命についてつぎのように言う。読み込むごとに気持ちがしんしんと冷えていく。この文化人たちは言葉を弄んでいる。絶滅収容所は紛れもなく悪魔が支配していた。だからこそ、存在することとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方に神が要請される言ったレヴィナスの狂気のような熱さえもそこにはない。

通常ならこの語は、複数の人びとが何かを分割して分け合うとか、ひとつのものを分有するとか、分かち合うといったことを意味するが、ナンシーはそれを、人びと(主体たち)の行為としてではなく、〈分割〉という非人称の(つまり誰にも属さない)出来事という観点から捉え、この出来事によって分割されたもの同士が、分離され個別化されながらも同時にそのことによって不可分に結ばれる、という関係の局面を強調する。その関係が、〈分割〉あるいは〈接触〉によって自己へと送り返される複数の存在の輪郭の端緒となる。人間の共同性というのは、個人から出発して、個を超える何らかの実体として構想されるものではなく、そのような〈分割〉によって個々の主体がそれぞれ自己へと送り返されることで構成されるという事態のうちに、〈分有〉という形ですでに起こっているということだ。(『侵入者』所収 西谷修「ワンダーランドからの声、『侵入者』の余白に」)

その〈と共に在る〉の様相を、ナンシーは他人の死に臨在するという体験に引きつけて語っている。誰もが知っているように、人は自分の死を体験することはできない。けれどもまた人に代わって死ぬこともできない。死は、死にゆく誰かに立ち会うことで、永遠に届かぬものとして体験されるだけだ。そのとき人は、死んでゆく人に同一化することによってではなく、死ぬのはけっして自分ではないという突き放されるような事実によって、自分の〈有限性〉に送り返される。(同前)

この引用のあたりまでならナンシーや西谷の思わせぶりな試みにたいしていくらか寛容であることもできないことはない。同一性を充填する差異性を技術で置き換えていくとき、ナンシーや西谷は複数の存在や共存在を実体化していく。観念の粗視化についての根本的な錯誤がある。この思考の慣性は人格を介在せずに心身を素子まで分解することで、装いを新たにした適者生存のシステムをつくりあげつつある。とても大事なところなので長くなるがそのまま引用する。

 死の否定または「人間化」

 人間の否定性は、今や精神としての人間を支えてきた身体(人間における自然性)そのものを否定する段階に入っている。つまり人間の身体が役に立つ「もの」として利用されるようになったのだ。人間がかつて奴隷として「もの」のように扱われたことはあった。だがその場合にも「もの」が部品に解体されることはなかった。それに奴隷は死によって解放される。だが現在の「もの」化は死をもって始まり、必要な部分だけが部品として「再利用」される。これはまったく新しい事態だと言わねばならない。たしかに死んでしまえば死体は誰のものでもない。死によって、この身体を「私のものだ」と言いうる存在は消滅してしまう。あとは亡き人の遺体に対してとりあえずの「権利」を主張しうる近親者がいるだけだ。だがそんなことが問題でもない。純然たる死体では役に立たない。「再利用」が可能なためには、死にきらない、まだ「生かしうる」身体でなければならないのだ。問題は、死がすべてを奪い去る前に生に活用できる部分を回収することだ。そのために「脳死」をもって「人間の死」とみなし、その段階で身体を人格性の拘束(人格があると「もの」としては扱えない)から解放しなければならない。つまり役立たない自明の死を、人間にとって役立つ「みなしの死」(「みなし法人」と言うときのように)に置き換えることが必要なのだ。このことによって、克服不可能だった死もついに「否定」される。もはや「在りのままの死」はなくなり、死は人間によって規定される「役立つ死」に転化する。こうして死が「人間化」され、その一方でこの「みなしの死」が解放する「人間でなくなった身体」が、生を失い死を中断された人工の中間的身体として、最終的な解体に委ねられるまでしばし「資材」として「生かされる」ことになる。
 このように死が否定され、生の領分がそれだけ拡大されることは、世界のさらなる「人間化」の深まりなのだろうか、それとも人間自身を対象とするこの「否定」のリサイクルは、核兵器と同じように「人間」を否定しようとしているのだろうか? いや核兵器は人類に「自殺の能力」をもたらした。猿が自殺をしないことを考えれば、これは大きな「進歩」ではないだろうか。いずれにせよその時から人間は否応なく一つの全体となり、新たな生存の段階に入ったのだ。その変化を次のように言うことができるだろう。近代における「人間」の形成とは何より、自律した個人の世界の形成だった。そのとき「人間」とは、まず個々の人間の具体的存在のことであり、必ずしも現実的な人類の全体を指してはいなかった。だが「人間」の理念は世界の一体化とともにしだいに現実化し、その中で個人の輪郭は徐々に薄くなり非人称化してゆき、その非人称性を糾合した誰でもない「全体」が、やがて「人間」を代表するようになる。そして今では何より「人間」とは、現実となったこの全体としての人間のことなのだ。その誰でもない「人間」を、非人称的な公共性が代表する。個人の手を離れた死が帰属するのも、テクノロジーの解放する資材がそのために役立つとされる「人間」も、実はこの誰でもない「人間」つまり公共性なのだ。(『侵入者』所収 西谷修「不死の時代」)

 身体性からの復活

 しばらく前「人間は死んだ」ということがよく言われた。それは旧来の「人間」概念に対応する現実がもはやどこにもないということだ。人間はテクノロジーによって世界を変えながら、世界を変える自分だけは「人間」であり続けていると思っている。それはヘーゲルが歴史の終焉を告げたことに対応する、近代の人間中心主義の陥穽だった。だがおそらく現代は、人間が世界で自律した主体として振舞い続けることが、「人間」であることを否定してしまうような、ある臨界点を超えた時代なのだろう。それが「否定のリサイクル」の意味することだ。まさしく人間の臓器を不用品のリサイクルとして活用する臓器移植もその端的な現れのひとつだと言える。だが「人間」の自明性にあぐらをかく思考は、自分の足場を払うこの事態の本質を見ることができず、ほころびたヒューマニズムと現実主義をベースに、人間主義がとうの昔にお払い箱にしたはずの観念論的二元論まで持ち出して、便宜的に対処することしかしない。それが「脱-人間化」する世界にますますアイロニーに満ちた様相を与える結果になっている。自分が今も世界の中心におり、世界を自分のために改変していると思っている「人間」は、実はそのことによって自分が変えられていることに気づこうとしない。だが求められているのは、その新たな現実の前に自分が変わるのを拒むことではなく、自分も含めて変わってゆく事態を確実に認識し、その現実をいかなるアイロニーも含まない肯定的なものへと転化してゆくことである。そのとき新しい事態は「人間」にとってひとつの脱皮となるかもしれない。

 いわゆる「脳死」を「人間の死」とみなそうとする論理が胡乱なのは、人間の死を脳の機能停止に還元して、ある意味では「生きている」と言わざるをえない身体を「死んだ」とみなし、そのあげくに「生き」させて「もの」として利用する、その便宜的合理化のためである。移植技術が臓器とその受け手とを「生かす」ものであるならば、この臓器は「生きている」と言うべきだし、身体を「生かす」技術が人間の生の可能性を変えてゆくのならば、まず人間は身体的生存だということを肯定しなければならない。そして個はもはや単独で完結するものではなく、人間が基本的に複合存在であって、個的な人間の同一性とは単一不変の本質として保証されたものではなく、むしろ複合性によって可変なものとしていつでも組織し直されるということを肯定しなければならない。「私」とは誰でもない、その誰でもないことにおいて初めてこの「私」の複合の生があるのだ、とさえ言う必要があるだろう。そのとき死の非人称性も生存の非人称性も、ただ理念としての「人間」に回収されるばかりでなく、その「人間」の概念と現実に新しい内実を与えてゆく積極的な条件となるだろう。(同前)

「歩く浄土61」から引用のこの箇所についてのコメントを再掲する。

いったいいつ近代が始まり、いったいいつ勝手に近代が終わったのだと言いたくなる。そういう民主義的身体の公共化がとくとくと痛みもなく語られている。完璧なグローバリゼーションの勝利だなと思う。西谷修が主張するそのことをグローバル権力が日夜実現しつつあるのだ。なにを言うか、この唐変木。眺め降ろしの睥睨する視線。ちょっとだけ顔をしかめながら新しい時代の到来を語る、いったいあなたたちは何者だ。私性も共同性も同一性の派生的な観念であり、自己も社会も同一性が粗視化した観念によって可視化と実体化を受けてきた。時代の趨勢がこうなることは遙か以前からわかりきったことだった。臓器移植が可能となるように脳死が作られたことは事実だし、新鮮な臓器でなければ移植できないハーバード脳死委員会で決められた。そこで語られる生はつぎのようなものだった。「われわれの第一の目的は不可逆的昏睡を死の新たな判定基準として定義することである。この定義が必要とされる理由は二つある。(一)蘇生手段及び生命維持手段の改善によって、絶望的なほど損傷を受けた人びとの生命を救おうとする努力がますます増大した。これらの努力も、ときには部分的にしか功を奏せず、その結果、心臓は動いているが、脳が不可逆的に損傷を受けた患者が出るようになった。知性を永久に失った患者、その家族、病院、及びこれらの昏睡状態にある患者によって必要な病院のベッドをふさがれている他の患者にもたらされる負担は甚大である。(二)死の定義の時代遅れの基準によって移植用臓器の獲得に関する論争が生じるおそれがある。」(「脳死の定義を検討するためのハーバード大学臨時委員会」)

このおぞましい考えと新しい倫理を強固に唱えたピーター・シンガーの主張はおそろしいまでに同期する。ピーター・シンガーは「人格だけが生存権をもつ」と唱えた。人格の表出にすぎない偉大な事績の遙か彼方にこれらの領域と深淵でもって隔てられた匿名の領域が存在すると叫んだヴェイユとの決定的な違い。かれピーター・シンガーは『生と死の倫理』(1989年刊)で言う。「考えてみてほしい―教育を受けること、人間関係を培うこと、家庭生活を送ること、経歴を身につけること、貯蓄すること、休日の計画を立てること。したがって、人格だけが生存権をもつ」と言えるのだ。ピーターは脳に障害をもった子を持つ親は出生前診断を受けなかったことによって責めを負うべきであり、たとえばダウン症の子は出生後速やかに死に至る法的措置を講ずるべきであるとグロテスクな倫理を言い張った。
おなじことを熱力学者のエイドリアン・ベジャンも言う。生への衝動は流れを最適化するようにできている。生物・無生物を問わず万物は流れを最適化するように変化する。それが進化史だと。「同じ進化の方向性やデザインは、勝利するという共通のゴールを目指す人のさまざまな集団で別個に現れる。本当の目的は速度ではなく勝つことで、勝つとは社会的地位を上げること、より良い暮らしをし、より長く生きること、そしてより遠くへ移動することだ。その目的は人生そのもので、その背後にあるのは、生きたいという衝動だ。その衝動は保存(あるいは自己保存)の本能としても知られ、何ものにも優る」(『流れとかたち』2013年刊)ここまで直裁にはグローバルエリートでも口幅ったくて言わないかもしれない。こういう時代の趨勢と要請のなかにナンシーの生存もある。

西谷さん、「死の非人称性も生存の非人称性」がなぜ公共性のなかにさらされる必要があるのだ。そのどこが新しいのか。あなたの痛みはどこにあるのか。すべてを学級会ごっことして生きてきた文化人の戯言ではないか。書いていてアホくさくなってくる。あなたが言うことなど、電脳社会の同一性権力がとうにやっていることだ。グローバル権力はやがて真心を商品にするだろう。世界はかぎりなく同一性に同期するように流れていく。その収斂の過程とおぞましさにどうやって抗するというのか。バタイユやブランショにいろいろと文句を言ったきたが、かれらは観察する理性や言説という権力の圏域から全力をあげて脱出しようとし抗命してきた。またナンシーは先端医療によって生きながらえていることをとまどいながら生きている。それだけはたしかなことだとわたしは思う。それでもナンシーは該当者性と当事者性を惑乱して生き、該当者性から生を理念化しているようにみえる。ほんとうは変わるだけ変わって変わらない内包自然のあらわれとして、もっといえば根源のふたりの言祝ぎとして生がある。テクノロジーによる生の記号的な改変と生きていることのふしぎさにはどんな相関もない。

つい最近、ネットで、投資家のウォーレン・バフェットとアマゾンとJPモルガンが、健康情報産業に合弁で参入するという記事を読んだ。金融と情報の巨大企業が病院の再編や医薬品産業の再編に直接コミットし始め、健康がコストとアウトカムを指標に商品化されると記事に書いてあった。伊藤計劃の『ハーモニー』の世界の現実化だ。身体の各器官を細胞の一片に至るまでリサイクルする。身体の部品をつなぎ合わせて人格を媒介としない生が可能であることを西谷修は受容する。「『私』とは誰でもない、その誰でもないことにおいて初めてこの『私』の複合の生があるのだ、とさえ言う必要があるだろう。そのとき死の非人称性も生存の非人称性も、ただ理念としての『人間』に回収されるばかりでなく、その『人間』の概念と現実に新しい内実を与えてゆく積極的な条件となるだろう」。すごいな、この倒錯。なぜこのような錯認が可能となるか。かんたんに言える。ナンシーの分有が意識の外延性の分割にすぎないからだ。電脳社会が更新する自然の粗視化は人格を媒介にせずに心身の素子そのものを商品として販売する。そのことがいま目の当たりに起こっている。なぜナンシーや西谷修はテクノロジーが可換なものとして実現する複合の生を存在の複数性や存在の共役性に積極的な内実を与える人間の新しい条件というのだろうか。存在の差異性を刻むものは技術と貨幣である。それが分子記号学的な生の微分化として現前している。それは新しい世界システムなのだ。かれらの存在の複数性はモダンな同一性のレプリカントでしかない。だから容易にシステムに回収される。おろかとしか言いようがない。

    5

存在の複数性や共存在から分有によって自己や他者を定義しなおすことで共同体や歴史の概念を変えようとしたナンシーや西谷の試みが、なぜ、テクノロジーで同一性の差異を充填するビットマシンと融合した諸学と同期していくことになったのか。おそらくナンシーや西谷の存在の複数性や共存在から導かれる分有が意識の外延にすぎず、その信の自力廻向を保存したまま世界の再解釈をしているからだと思う。試みの深度と規模がちゃちなのだ。ビットマシンと融合した諸学はグローバルに世界を改変しつつある。そこではすでに人格を媒介としない生存の新しい条理がほぼできあがっている。テクノロジーが更新するのは観念の自動的な過程であり、それは真理であるように仮構されているが、大半は共同幻想という擬制である。この生の技法は精神の同一性的な古代形象によって適者生存をなぞるように彫琢されてきた。あるいは累積する共同幻想の強度が真理だといっていもいい。いま猛烈な勢いでつくられようとしている世界的な生の新しいシステムは人格をまったく媒介としないで心身を部品に還元することによって、部品と部品を任意に結合していく。もちろんここでは心でさえも部品であり商品である。伝統主義の使い回しを主張する内田樹の愚かな発言を付記する。「昭和大学入学式講演だん。『医療において変わるものと変わらないもの』というお題でお話ししました。医療は集団の営みです。主体も集団、受益者も集団。医術は師から受け継ぎ、弟子に伝え、専門を異にする仲間と共同して行う事業です。市場経済とも個人主義とも無縁です、というお話をしました。」(内田樹2018年4月12日ツイート)グローバル企業はわたしたちの最後に残された天然自然である心身を改造して商品として販売し、医療機関がそれを治療という無条件の善意によって取り入れていく。医療は熾烈な市場経済そのものであり、個人の私利私欲の典型である。その余はすべて欺瞞であると断言できる。この欺瞞と内田樹の良心はとても相性がいい。これだけ鈍感だと天皇親政民主主義のメリットを説く虚偽がどういうものであるかよくわかる。自力作善の身過ぎ世過ぎの商いの行為だけしか残らない。

フーコーは言う。「もちろん医者の金儲け主義は事実としてあるのだが、肝心な問題はそれではない。また、医療の知識が非常にいいかげんで間違っているということでもない。そうではなくて、われわれの身体や苦痛、生命や死にたいして、他人が無制限の力を振るうという事実そのものが批判されているのだ」「つまり医学的な知への〈否(ノン)〉であるといえる」(『哲学の舞台』)
「これまで身体のことはないがしろにしてきたが、いったん病院にほうりこまれると、いかに一切の主体をうばわれ、ただの意志のない肉の袋となって、あちこちへ運ばれるものか、彼はぼくに語ってくれた。肉体は単なる登録番号、名前でしかなく、経歴も栄誉も通用せず、お役所的なひどい扱いをうけるのだ。口から管をさしこまれ、肺のなかを調べられた」(ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』)先端医療の現場では人の生は身体というモノそれ自体でしかない。そして、死の直前にフーコーは、主体は実体ではない、真理は他性によってもたらされるという生の知覚を生きた。西欧の親鸞のような存在に比肩される。

よく似たことをナンシーの『無為の共同体』のあとがきで西谷も言っている。「他(外)が意識されなければ、『私』の輪郭もない。『私』(個々の存在、主体)がまず先に充足したものとしてあるのではなく、誰にも属さない〈分割〉という出来事、そして必然的に〈分有〉でもある出来事があり、それによって他を意識するものとして『私』の輪郭が浮上する。だから『私』にとって〈分割=分有〉という出来事は自己を構成する基本的な条件なのであり、そのために『私』はつねにすでに『共に』に先立たれている」。西谷の「私」と「他者」は自同性から流れ出たたわむれでしかない。自己と共同性が存在の複数性や共存在のなかにまぎれこんでいる。だからナンシーの移植された心臓は「侵入者」という外延的な他者の喩として語られる。ここではどんな存在の位相変換も起こっていない。自己を外延すると侵入者という他者が生まれる。言われていることはそれだけである。そしてそのことをグローバルなテクノロジーがすでに実現している。ここでは生はビットと分子記号によって彫像される。そのほかではない。この生の条理を受容するしかないのだろうか。この適者生存のむきだしの生存競争を人間の観念にとっての自然として受け入れるしかないのだろうか。フーコーはまったく違うと死を目前にして考えた。わたしの理解ではフーコーは外延知の了解のしくみを突きぬけた。そこに生のあたらしいリアルがあることを生として発見している。性的な関係にある自己と共同的な場での自己は自己にたいして同一になることはない。この同一ならざるところにかろうじて実体化できない主体が存在する。それは他性によってもたらされるものであり、真理は同一なものではない。真理は生のべつの形式においてしかありえない。『性の歴史Ⅱ快楽の活用』や『性の歴史Ⅲ自己への配慮』を公刊する頃にフーコーは生き急ぐようにじぶんが発見しつかんだ知をインタビューや対談で述べている。当時そのひとつにわたしは鷲掴みにされた。「誰かの創造的活動をその人が自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにするのではなくて、その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その人の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみるべきかもしれないんです。(「ひとつのモラルとしての性」『現代思想』1984年10月号)ここにフーコーが最期に到達した言葉の場所がある。根源の二人称を分有するということにおいて主体という実体化できない真理が現前する。ついにフーコーは内包をつかんだのだと思う。フーコーが最期につかんだものは存在の複数性という外延論理ではなく、人類史を画するような、存在の複相性というリアルな自然だった。存在の複相性を往還する自然は内面化することも社会化することもできない。ここでやっとモダンな人類史は転換する。

ここまで来るとレヴィナスや滝沢克己の神学というモダンな思想の欠陥が未知のリアルを深く拘束していることに気がつく。〈在るのざわめき〉の観念は神の不在を導き、未開人は光の到来以前にいる、というレヴィナスのイリヤも滝沢克己の神人という観念も同一性的なモダンを前提としたまま自己の自己性や共同性を拡張しようとした。かれらもまた解けない主題を解けない方法で解こうとした。「〈ある〉の観念は私たちを〈神〉に導くものではなく、むしろ〈神〉の不在に、いっさいの存在の不在に導く。未開人たちは絶対的に、〈啓示〉以前に、光の到来以前にいる」(レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳)「むろん、近代以前の人々といえども、そのような擬似知識、それと難しがたく結びついている呪術によってだけ生きていたわけではありません。いくら未開であっても、それなりにちゃんとした生産の技術と、それに見合う社会的組織が『自然発生的』に形づくられていました。それがすなわち人間が現実に生きていたということでありましょう。けれども、かれら自身がそれと『自覚』していたかどうかはともかく、もともと 『考えるもの、意志するもの』として物を感ずる人間は、かれらの実現しえた技術・知識の及ばぬところは、呪術的な想念や儀礼によってその欠を補うことで、暗黒のⅩの恐怖に堪えるほかはなかったのでしょう」(滝沢克己『純粋神人学序説』)レヴィナスも滝沢克己も生の不全感を感知する鋭敏さはとてもよく似ている。ではどうすれば私利や私欲を共同的なものに収奪されずに生きることができるか。神という共同的な信を前提とせずに答えよと問うても答えることができない。ヴェイユは1の回路が邪魔だった。どうしてもなくそうとしてなくせない〔わたし〕のくるしみである〔じぶん〕がのこる。だからこの〔じぶん〕を無にすることによって自己でも共同性でもないものを実現するしかない。それはヴェイユによって狂的なものだった。ヴェイユさん、ほんとうに内包のすぐ近くまで来ていたのですね。

同一性のはるか手前に同一性の基になる、あなたがわたしのなかにいて、わたしがあなたのなかにいるというシンプルな世界の情動が存在する。この〔なかにいる〕ということが〔と共に〕そのものをなしている。このふしぎがあるから、存在の複相性の往還が可能となり、可視化と実体化をうけた存在の外延性がただちに内包的な存在へと転換することが可能となる。つまり〔と共に〕はいかなる意味でも自我や共同性となることはできない。あなたがわたしのなかにいる。この〔なかにいる〕ということは、わたしがあなたを至上のものとして意識するということとは違う出来事である。もしそうであるとするなら、すでにそれは人々によって考えられたことに属する。たとえば人間精神の夢を対幻想や神(仏)という超越として語ることがそうだ。〔なかにいる〕がノンA=ノンBを可能にしている。〔わたしがあなたである〕は、この〔なかにいる〕知覚によって往相廻向から還相廻向へと反転するのだといってよい。〔なかにいる〕のはわたしがかんがえるあなたがわたしのなかにいるのではなく、あなたのかんがえるわたしがわたしのなかにあるということが〔なかにいる〕ということなのだ。つまり〔なかにいる〕のはあなたのなかにいるわたしのことだといってよい。わたしとあなたが交換されて入れ替わった存在が互いのなかにあるということになる。これが〔なかにいる〕の本義だといえる。そのときわたしの〔なかにいる〕あなたはぐるんと反転してわたしなのだ。もし、あるものが他なるものに重なるということがなければ、なぜ、あるものがそのものにひとしいというふしぎが起こるだろうか。あるものがそのものにひとしいという不思議にはこういった意識の位相的な変換がおのずから組み込まれている。わたしは人間意識の第三層と言い、自己意識の外延表現からここに触るものたちは意識の展延態として第三期の形而上学を想定しつつある。わたしは外延論理の自己という信や共同性の信の根をぬく内包という信が、還相の性のあらわれの領域として自己と、喩としての内包的な親族を可能とすると考えている。内包論で根源の性を分有するということと、ナンシーの分有や分割とは、まったく異なった生の気風だと思う。ナンシーも西谷修も自力廻向の「社会」主義者であるということにおいてニヒリズムをまぬがれていない。かれらにあって、自己と他者はついに外延的な関係を超えることはなかった。

歴史や生の始原に、変わるだけ変わって変わらない内包という灼熱する精神の古代形象があった。根源のふたりということが太初からあり、そのことによってヒトが人となった由縁は、だれのどんな生のなかにもちいさな灼熱の塊として内挿されている。だから、じぶんにじぶんをとどけ、じぶんをふたりとしてひらくことができる。変わるだけ変わって変わらない根源の性はもともとだれのなかにも、ある領域として存在している。人類史がを同一性が粗視化した自己と共同性の歴史だとすると、そのモダンな歴史の手前に精神の古代形象が存在している。エマニュエル・トッドの人類は初期、核家族であったという人類学的な知に刺激された。自己がいて他者がいるという信憑が思考の慣性としてあることはよく知っているが、この観念の型はウルトラ・モダンだとわたしはずっと考えてきた。自己と共同性は対となる概念で互いが互いに憑依することで歴史や生を連綿と重畳してきた。曲率がゼロの同一性的な意識の平面で自己と性と共同性は弁別されるはずなのだが、生の条理は適者生存をなぞるようにしか遷移してこなかった。自己と共同性を架橋するものが生や対の世界だと言われてきたが、関係が表現となることはなく、自己が他者と出会い疎外する観念のことが対幻想と名づけられてきた。いずれにしてもわたしとあなたの関係は世界への媒介にすぎないわけだ。わたしは内包論でまったく逆のことを考えた。言葉が言葉自身を生き始めると表現はおのずと内面という擬制を突きぬけてしまう。わたしは生が根源において二人称であることを表現の公理としている。言葉が言葉自身を生き始めると表現は同一性という拘束衣を脱いでしまう。存在は可塑的で、バイロジカルで複相的なものとして存在する。意識の外延性は-それがわたしたちのモダンな人類史ということだが-精神の第二相までは表現できるが、内面より深い意識は意識の第三相としてあらわれる。意識の外延性を内包化すると、外延性ではない意識の第三相である内包自然があらわれることになる。宮沢賢治の作品は意識の第三相まで到達している。内面を掘り進んでいたら内面が消えて内省と遡行という自然とはべつの内包自然という意識の第三相が忽然とあらわれた。そこではモダンな宮沢賢治はいつもひとりでいてもふたりだった。そこにかれに固有の擬音が内包的な表出として位置している。仏と懇ろになった最期の親鸞が自然法爾といったとき、自然法爾はすでに破られていた。出来事の根源において言葉が性でしかないように、宮沢賢治にとって言葉は擬音となった性そのものとしてあった。じぶんより近くにいる根源のふたりが宮沢賢治の口をついてこぼれ出た音声の余韻が擬音だと思う。賢治の試みは、本人でさえも自覚していない大橋力の『音と文明』に引き継がれている。『音と文明』はデジタルな言語脳とアナログな脳との対比のうちにアナログ脳の優位を暗黙に主張している。デジタルな言語に性というアナログが先立つと大橋力はどこかで感得しているのではないかとわたしは思っている。大橋力の雄大な音の研究は畢竟するところ、音は性の表現であることに帰着するように思えてならない。

根源の性を分有するという事実は、死によって離接することもできないということであり、性が分有されるなら死もまた生の一部として分有されることになる。有限の生は内包のきりのなさとしてありつづける。
心臓に不穏があり、ひと月余、サイトの更新が途絶えたが、無理のないように、これからも内包論を持続する。

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