日々愚案

歩く浄土247:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理5

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生誕と死のなぞを自己が自己であるという同一性は解くことができない。私が自己の意志でこの世に生をうけたか。そんなことはない。だれもが何の何某と名づけられていることにものごごろついたら気づく。生誕に自己の意志は関与していない。では、一晩寝たら目が醒めるのと、そのまま目が覚めないのはどうちがうか。死を体験することはできないという、追い越しえない死の先駆性が死にはある。このなぞを緩衝するために共同幻想という虚構がうみだされた。死という虚構を埋めるために共同幻想が発明されたわけで、たしかにここに人間の思考にとっての限界がある。死とはなにか。この思考の限界を解いた者はいない。死というなぞは人類史にひとしい規模をもっている。それはたしかだ。わたしは思考の限界がそのまま生の可能性ではないかと内包論を進めるなかで考えるようになった。思考の限界とともに、なぜ人びとは共同幻想という虚構をつくったのかというなぞがここに深々と横たわっている。わたしは生誕のなぞも死のなぞも同一性が必然として生んだ観念の産物だと内包論で考えた。同一性という観念にどんな裂け目を入れ、その裂け目を差異性として反復しても同一性という空虚な観念の形式を埋めることはできない。わたしたちは思っているよりははるかに動物に近く、考えているよりはるかに他の霊長類と異なっている。この違いはいったいなにに起因するか。生誕や死は自己に属するか。生誕も死も自己に帰属しない。貨幣という歴史のなかでもっとも強固な共同幻想より生誕や死のなぞのほうが硬度が高いような気がする。貨幣の起源は精神の古代形象の身体性のなかにあり、さまざまにその身体の延長が粗視化されてきた。死のなぞは身体の延長態である貨幣よりはるかに根深い。

死は自己に帰属するか。死ねば死にきり。自然は水際立っているという考えは身勝手で、つまらない。では死はだれに帰属するのか。死は、自己でもなく共同性でもない存在のなかにある。この存在のことをわたしは内包的な存在と名づけてきた。言い換えれば存在の内包性を自己という同一性が措定することはできない。おなじように死を同一性が指さすことはできない。同一性が存在の内包性を指さすとき、いつもそこに生きていることの存在の遅延性が生じる。べつの言い方をすると、同一性的な表現は生の不全感を不可避とする。どんな例外もない。この始原の遅れわたしたちは思考の慣性とみなしてきた。はたしてそうだろうか。外界のおおきな自然と内面というちいさな自然。おおまかに人類の歴史の一万年はこの意識のなかに閉じられてきた。もう一度問う。生誕はだれのものか。死はだれのものか。生誕や死は自己の内面のなかにも共同性のなかにもない。死は彼岸の共同幻想だとわたしたちは思いなしている。そのような自然しかつくりえていないということだ。

わたしたち人間がつくった最大の共同幻想は死である。ふしぎなことに存在の複相性を往還すると生誕や死のなぞがだれに属するのかがよくわかる。死は一人称のなかにも三人称のなかにもない。自己という意識の外延性が内包化された、領域としての自己のなかに死はある。自己が領域化されるとき、自己にとっての第三者である共同性は二人称としてあらわれるので、死は共同性として疎外されることなく、領域としての自己と内包的な親族のなかに抱き取られて存在することになる。ここにはどんな倫理も介在しないし、人間の観念にとってのおおきな飛躍がある。電脳社会が心身を細分化し、個々の素子まで解体することで、ばらばらになった断片をつなぎあわせて人格を媒介としないポストヒューマン的な理念を思考の慣性としてつくっていくことは意識の外延性の必然であるが、死もまたその再編された世界システムのなかに埋もれていく。これからは物の秩序の狭間に生と死が挿入される。これまでも意識の外延性では人と人は倫理を媒介としないとつながらかった。自由と平等に比べて友愛や博愛と、つまり第三者性はまったく次元が違う。この次元の違いを倫理が媒介する。それらは市民主義的な擬制である。この擬制はグローバルな電脳社会の到来とともに崩壊の危機に直面している。私性と第三者がますます剥離していく。新しい世界のシステムは世界をすべてを私性で覆い尽くし、適者生存の最適値がコストパフォーマンスとしてより過酷に迫られることになる。自由と平等は私性にとって都合のいいことだが、第三者は赤の他人である。ここにある矛盾を電脳社会は消してしまう。同一性を埋めるものが技術になっていくからだ。この変化の過程に人格は関与できない。すべてが私性で覆われ、私性は適者生存をなぞることになる。

これを矛盾と考えるならば存在の複相性を往還するほかない。稀に心ゆかしい人はみぞおちに良心があるから第三者に気配りをする。おおくの体験を経てその心ばえを偽善として否定することはない。ここで問題なのは私利と私欲と利己心と第三者者は意識の外延性ではつながらない。それにもかかわず三人称という赤の他人にたいして惻隠の情が起こることはある。どういうことだろうか。おそらく内包的な意識の痕跡や面影として同一性的な意識の平面に投影されている。いずれにしても意識の外延性のなかで第三者性は厄介で解決不能のものとして現象する。民主主義の理念が連綿と歴史を織りなしてきた生にとって人間がつくりえた最上の制度であることはたしかだし、これ以上の制度をわたしたちはつくりえていない。デモクラシーでは人と人は倫理でしかつながらない。そして倫理は必ず侵犯される。現実はもっとむきだしになっている。いうまでもなくビットマシンの外延革命に翻弄されて民主主義の理念は機能不全に陥っている。どうやろうと個々の人の心ばえの総和でビットマシンの社会の変革に抗することはできない。ビットマシンの攻勢によって人間の思考の慣性はおおきくたわめられることになる。世界史の地殻変動によって人格を媒介とする民主主義の理念は改竄されることになる。わたしたちが生きてきた思考の慣性はこの変化に抗することができない。

内包論で探究してきたことを念頭におきながら大橋力の『音と文明』を追駆する。

    2

大橋力は地球生命体の進化の歴史は、それまでに獲得してきたものを確保したうえに新しい機構を増設していくのが基本的な生命の戦略であり、脳という臓器も例外ではないと言う。ここでもういちど三木成夫の人間についての卓越した定義を思い出そう。「胃袋とペニスに、目玉と手足の生えたのが動物。その上に脳味噌の被さったのが人間」だと三木成夫は言う。脳みそは幾重にもつぎはぎされて累層されている。湿潤療法という画期的な治療法を確立した夏井睦は『炭水化物が人類を滅ぼす』の二冊目の「最終解答編」で、脳は緻密に組み立てられた臓器ではなく、行き当たりばったりに継ぎはぎされて大きくなったと、大橋力と似たことを言う。特段のことではなく、進化は古いシステムのうえに新しいシステムを上書きしていき、古いシステムのDNAは削除されずに保存されている。

全脊椎動物が代々受け継いできた「脳の進化計画書」には奇妙な2つの指令が書かれていた」ために、つぎはぎだらけの非論理的構造になったという。その「奇妙な指令」とは次の2つである。
「①古い部品や機能は絶対に取り外さないこと」
「②新しい部品や機能を付け加える際、その部品や機能は常に『オン』の状態を保ち、『オフ』スイッチはつけないこと」

 ①の結果としてわれわれの脳は、魚類の脳に両生類の脳を載せ、その上に爬虫類の脳をかぶせ、さらにその上に初期哺乳類の脳を積み重ねるという「ミルフィーユ状態」になったのだ。古い機能を取り外してはいけない、という基本仕様のためである。
 だから、両生類では魚類の脳と両生類の脳を繋ぐ連絡経路が必要になり、哺乳類では魚類の脳と哺乳類の脳の連絡経路も加わってしまい、連絡経路同士が複雑に絡み合うようになったのだ。
 神経伝達物質にしても、論理的に考えれば1種類で十分なはずだ。なぜなら、神経の機能とは「刺激を受けたらシナプスで繋がっている細胞に神経伝達物質を送って興奮を伝えること」だからだ。「刺激があったことをシナプスで繋がっている神経細胞に伝える」とは、要するに「オン/オフ」の1ビット情報であり、それを伝える伝達物質は1種類で十分だ。
 また、情報を伝えるべき相手は、すでにシナプスで繋がっているので、伝えるべきでない神経細胞に興奮が伝わることはないため、脳全体で1つの神経伝達物質を共有しても問題は起きないはずだ。
 脳全体で1つの神経伝達物質でよければ、分解酵素も1種類で済む。そうすれば余計な分解酵素を作る必要はなくなり、遺伝子もコンパクトにできる。私が創造主だったら絶対にそうする。
 要するに、私が脳解剖が苦手だったのは、私の脳味噌が悪いためでなく、脳の構造が非論理的だったためなのだ(と、学生時代の成績の悪さの言い訳をする)。
 そして、脳の構造がこれほど複雑になった原因(元凶?)は、前述の「脳の基本設計書の二大指令」にあるのだ。

大橋力は言語脳モジュールの意識をデカルト的理性になぞらえ、脳の進化史で累層してきた脳の構造と機能が言語脳のモジュールに先行して存在すると言う。生物学的な常識でどこにも奇矯なことはない。大橋力はデジタルな言語脳の機能のことをローカルなOSと呼び、前意識という意識に昇らない意識のことをアナログ脳と比喩し、このアナログ脳に基本OSがあり、言語脳モジュールのデジタルな意識ではアナログ脳に到達できないと主張する。意識が導く反応は、脳に付帯する言語脳モジュールという一臓器から脳本体に送られたシグナルを脳本体が解読させる〈自覚される体験〉の中に含まれることになる。脳本体の働きとしては感覚・知覚・認知機能を統合するより高次脳機能の多次元的理解が想定されるべきである。このOSは多次元連続大容量の機能モジュールとして完熟しており、言語脳モジュールの意識である一次元の小容量離散的逐次言語処理はローカルなOSにすぎないと大橋力は言う。デカルト的言語脳モジュールはわたしの言い方では意識の外延表現と対応している。つまり意識の外延性とはことなる意識の内延性があると、大橋力は音を手がかりに未知の雄大な知のありかを探索している。また言語脳モジュールの意識の専制を固い生存の条理、前言語脳の意識の全体性をやわらかい生存の条理の比喩として『音と文明』を読み継いでいる。あるいはもう少しべつの言い方もできる。言語脳モジュールによるデカルト的意識の専制を前言語脳の意識の派生態とみる大橋力の方法論を意識の外延性にたいする意識の内延性と呼ぶこともできる。デカルト的意識は内面の理性をとおして共同性へと同期する。どれほど緻密な内面であってもあらかじめ共同幻想が意識に潜在して内面にコーディングされている。だから大橋力は意識の内面化ではなく、意識の内延化の可能性を、流動的知性の賜である言語脳モジュールの意識に先立つ脳本体の多次元大容量の解明のなかに求めているのだと思う。つまり大橋力の前言語脳をもつマカク猿は言語脳モジュールの線型的な意味の体系よりも豊潤な世界をもつ多次元的なものの象徴として存在している。

言語脳モジュールと意識の始原をなす前言語脳が意識の外延性と意識の内延性に対応していると考えてみると、言語脳モジュールの意識の専制主義を相対化するものとして前言語脳が位置していることが理解される。内包論では意識の外延性や意識の内延性を包む表現を存在の内包性と考えている。ていねいに読み込んでいくと、意識の専制をやわらかく解きほぐそうとして大橋力は言語脳モジュールの意識の優位をデジタルな文字という書記以前の脳本体の複雑性に還元したがっているようにみえる。かりに前言語脳の意識が意識の内延性であるとするならば、意識の内延性もまた意識の外延性が空間化されたものではないか。

    3

知性の及ばぬ領域に音があるというのはよくわかる。もちろんここで音は知性の手前にある〔性〕という比喩を意味している。あるいは宮沢賢治の擬音といっても言い。言語脳のふるまいと前言語脳のそれを表現として言うと、どうなるか。不在の神に祈るヴェイユが公共的な場での言語の〈信〉と「婚礼の部屋」の言語の〈信〉は異なるという考えや宮沢賢治の〔遠いともだち〕やフーコーの主体は実体ではなく他なるものからもたらされるということを大橋力が読み解いたらどうなるか。ヴェイユも宮沢賢治もフーコーも最後は言葉が〔性〕であることに出会っている。〔音〕は〔性〕であるということにならないだろうか。〔音〕の根源にあるものは、歌い、踊り、しゃべる、同一性の手前にある内包存在という〔性〕を言祝ぐものではないだろうか。デカルト的脳の意識の専制状態は言語脳モジュールが同一性によって占有されているから生まれるのではないか。わたしはデジタルな脳とアナログな脳の対位は、差異性を反復する同一性の空間化だと思う。わたしの理解では、大橋力の言語脳モジュールの意識の専制は要約するとつぎのようになる。

①言語は自然の粗視化である。自然を象形文字や線刻文字として切り取り形象化した。
②言語は自然を写し取り自然を可視化した。
③身振りの聴覚言語が可視化された文字言語と連合する。

①から③のなかに共同主観的現実という人類史を画する虚構の起源があり、ユヴァルの自然的共同体は150人のつながりを上限とすることに対応している。理性という合理はじつは理に適ったことではなく、その合理は言語脳の論理式が同一性によって担保されているだけである。存在の複相性から言うと、あるものがそのものに重なるから、あるものがそのものとして現象することになる。このとき合理は非合理である。外延知は内包知を非合理だとするが、内包知からすると外延知は非合理である。言語脳モジュールの意味の体系はそれ自体の手続きに矛盾があるかどうか、系の公理によって明示することはできない。ニーチェの神は死んだということや、キルケゴールの自己とは関係が関係それ自身と関係するような関係のことであるということや、ゲーデルの不完全性定理は言葉の運用の仕方はちがうがまったくおなじことを意味している。

岡潔も大橋力とおなじことに気づいた。人間にはふたつの心があると岡潔は言っている。ひとつは理性であり、もうひとつは情緒である。数学の本質は情緒にあると岡潔は考え、情緒を数学で表現することに生涯を賭けた。「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」であって、平生の喜びは甘さが淡く、生甲斐(生命の充実感)である」(『春宵十話』)「数学において自然数の一とは何であるか、ということを数学は全く知らないのである。のみならず、ここはとうてい手におえないとして、初めから全然不問に付しているのである。数学が取り扱うのは、自然数の全体と同じ性質を持った一つの体系が存在すると仮定しても矛盾しないか、という問題から向うのである。幾何学の点についても同様である」(『春風夏雨』)

人には心が二つある。大脳生理学とか、それから心理学とかが対象としている心を第1の心と呼ぶことにします。この心は大脳前頭葉に宿っている。この心は私と云うものを入れなければ動かない。その有様は、私は愛する、私は憎む、私はうれしい、私は悲しい、私は意欲する、それともう一つ私は理性する。この理性と云う知力は自から輝いている知力ではなくて、私は理性する、つまり人がボタンを押さなければその人に向って輝かない知力です。だから私は理性するとなる。これ非常に大事なことです。それからこの心のわかり方は必ず意識を通す。

ところが人には第2の心があります。この心は大脳頭頂葉に宿っている。さっきも宿っていると云いましたが、宿っていると云うと中心がそこにあると云う意味です。この心は無私です。無私とはどう云う意味かと云いますと、私と云うものを入れなくても働く。又私と云うものを押し込もうと思っても入らない。それが無私。それからこの心のわかり方は意識を通さない。直下にわかる。東洋人はほのかにではあるが、この第2の心のあることを知っています。(「岡潔講演録」)

その他芭蕉は、秋風はもの云わぬ児も涙にて、と云ってますが、秋風が吹くともの悲しいですね。このもの悲しいと云うのは私がもの悲しいんじゃないでしょう。つまり喜怒哀楽じゃないでしょう。自からもの悲しいんでしょう。又、もの悲しいと意識しないでしょう。直下にもの悲しいんでしょう。だからもの悲しさも第2の心がわかるんですね。時雨が降れば懐しい。この懐しいも又第2の心が直下にわかるんですね。(「一滴の涙」1970年5月1日 於:市民大学仙台校)

心の最も基本的な働きは、2つの心が融合することが出来ることである。人の中心は心だから、心が合一すると、その度合いに応じて人の心がわかる。また、自然の中心も心だから、それと合一すると、その程度に応じて、自然というものがわかる。総て本当にわかるのは、腑に落ちるというふうなはっきりしたわかり方は、心が合一することによって達せられる。心の中心には時間も空間も無い。時間、空間を超越している。(「2つの心」)

音を媒介に言語以前の原了解の様式を追尋する大橋力と理性ではない情緒を数学の本質と考える岡潔のおそろしいほどの思考の相同性がある。共同主観的な虚構を現実と看取する共同幻想の原型のようなものがふたりの卓越した知のなかで期せずして共鳴している。ふしぎな光景だと思う。互いの脳は離接しているが、それぞれの脳が共振するのは、精神の古代形象のなかに共同主観的な虚構が虚構であるにもかかわらず、現実であるかのように生まれたからである。それぞれのちいさな自然と外界のおおきな自然が同期するのはそのためである。情緒がなければ数学的な思考そのものがおこることはないと岡潔は言っている。岡潔はフッサールの幾何学の起源を、自我が自然に融解するしくみを通してみごとに解いた。ふたつの心は融合し、合一した心には時間も空間もないと岡潔が感得したことは、ユングの集合的無意識によく似ている。わたしは自己を元型(アーキタイプ)のなかに融かし込む意識のありようは意識の外延性を内延化するものであると理解している。この意識の型は共同幻想を不可避に疎外せざるをえない。身体が自然の一部であることはまちがいないが、台座の身体と相関する心的な領域は自己という同一性ではなく領域として内包的に存在している。人間は考えられているよりはるかに動物に近く、他の哺乳類とは想定されるよりはるかに隔たっている。深海のアルカリ熱水孔でプロトン勾配によりただ一回性として無機物から生命が誕生したように、他の動物や霊長類とは異なる存在の複相性を手にすることによりヒトは人となった。人間は自己や社会的存在であるはるか手前で〔性〕として存在している。デジタルな言語脳をアナログな前言語脳に内延化(空間化)するのではなくあくまでも表現の問題として意識の専制をひらいていく。(この稿つづく)

〔付記〕
反アベ的なものの珠玉のような見本を見つけたので貼りつけます。感想は各自でどうぞ。わたしはこの見解を唾棄します。

むかしSEALDsKANSAIいま関西市民連合の大野君・塩田君が新人のクドウさんをともなって来館。5月3日の憲法集会へ向けて「護憲運動をどう賦活させるか」についてご相談に見えました。「憲法と戦後民主主義の本質的脆弱性」についてお話ししました。

私見によれば現行憲法は「ハイスペックの多機能PC」で機能はすごいんだけれど、自作したものじゃないので、オペレーターである日本国民はその使い方がわからない。電卓と和文タイプと家計簿くらいしか使い道を知らない。95%くらいの潜在能力は死蔵されたまま。それをどう引き出すかが課題です。

自民党改憲草案は低機能ですがオペレーターの血と汗と欲望と怨恨がしみこんだ「自作PC」。だからこれをどう使えば何ができるかを起案者たちは熟知しています。まず用途が決まっていて、そのために製作されたんですから。成り立ちが現行憲法とは逆になってます。

僕たちの最初の仕事は「憲法を使いこなせていない」という現実をしっかりみつめることです。僕たちは73年も修業しながらまだ民主主義の使い方にさえ精通していない。それは「これは自作のものじゃない(だから使い方を知らない)」という原事実から眼を逸らし続けてきたからです。

僕たちはそのことに気づかずに戦後を過ごしてきました。そして、SEALDsの若者たちが登場して「民主主義って何?」と問いかけて来た時に「それについては実はこれまでまじめに考えたことがない」ということに気づいて愕然としたのです。

とはいえ過ちを改むるに憚ること勿れ。たしかに日本の民主主義は市民が戦いを通じて獲得したものではありません。だから「どうせ自分のものじゃないから要らないだろ」という理由で奪い取られようとしてます。それを「いやだ」と宣言するのが戦後民主主義をわがものにする最初の戦いになるはずです。(2018年3月19日 内田樹ツイート)

もの書き文化人の商売文に比べて子どもを養わないといけないから金が欲しくてたまらない菅野完の現場の直感力と疾走感は際立っている。このツイートを見よ。

だとすると政権はもはや統治のレジティマシーを失っていることであり、政権に居座ることは「官邸を不法占拠する叛徒の一派」でしかない。

統治能力に欠ける叛徒の一派が政権を簒奪しており、あらゆる法秩序を踏みにじり法治主義や立憲主義や議院内閣制を毀損する蛮行をかさねている。さのみならず、隠蔽工作の一環として、政権に都合の悪い人物を拘置所に200日以上も拘束している。これを不道徳といわずしてなんというのか。

国家の危機 統治の危機 に黙りこくってるぐらいなら、言論人やめてまえ。

法秩序を崩壊させとるのですから、国家反逆罪でギロチンにかけたいぐらいだ。

さて諸君。
来たる3月23日は、籠池証人喚問から一年だ。我々は知っている。あれから一年の国会議論がすべて虚偽であったことを。その期間中、籠池は獄に繋がれたままだ。かかる不正義は断じて許せない。僕は、3月23日17:30から大阪拘置所の前に立つ。共に立てる人はぜひ来て欲しい。(2018年3月19日 菅野完ツイート)

 

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