日々愚案

歩く浄土20

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時代を象徴する音があります。オアシスの1995年作品『モーニング・グローリー』。1年で世界中に浸透しました。オアシスの音の虜になりました。その時代の雰囲気を感じたのです。ケミカルブラザーズの『Dig Your Own Hole』にも。1997年。近所迷惑かなと気にしながら大音量でよく聴きました。ブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』もよく聴きました。1984年です。デヴィッド・バーンの『ストップ・メイキング・センス』のビデオ映像はかっこよかったです。20世紀が終わる5~6年前だったと思います。ラジカセで聴くのにぴったりでした。一瞬で虜。インターネットラジオで好きな曲を聴くと、日本でも、そしてイスラエルでもパレスチナでも、互いに戦争をしているのに、若者がおなじ曲を聴くんだと、不思議な気持ちになりました。

時代の雰囲気は感染します。イスラム国による日本人人質事件の惨さ。人質救出の経緯についてはさまざまな見解がありますが、日本人二人が非業の死を遂げたのは事実です。
わたしは川崎少年いじめ殺人事件に、かの事件との類似性を感じました。

「つるんでいるグループから万引きをしろと言われ、断ったら殴られた。やりたくないけどやらないと殺されるかもしれない。グループを抜けたい」と友人にメールをしていた、と記事にはありました。(『毎日新聞』2015年3月1日(日)7時45分配信)

読まなければよかったのにとなんともいえない気持になりました。
なぜ人を殺してはいけないのか、ということをめぐってむかし池田晶子と永井均が対談をしています。一部を引用します。

池田 そうですよ。いや、だから、そこなんですよ。そこで、今日はこの陸田論文を読んでいただこうと思ったんです。永井さんの本の中にあったと思うんですが、道徳なんてものは根拠がないと、それは認めると彼は言うんです。なぜなら、自分が人を殺したのは、悪いと思わなかったからだ、道徳なんていうものを信じていたら殺せるわけがなかったと。にもかかわらず、殺して拘留されたら、ものすごい良心の呵責が起きたと。しかし、道徳を信じていなかった自分が、なぜ良心の呵責を覚えなければならないのか、それが不思議らしいんですよ。

永井 道徳を信じているからですよ、実は。

池田 この場合、一つだけ確かに言えるのは、彼は経験者だということです。こういった、なぜ殺人はいけないのかといったテーマについて、我々は誰も経験していないで議論しているわけですね。彼がそれを経験しているということは、強みではあるけれど、逆に言えば特殊事例でもある。そして、捕まっても良心の呵責なんて一切起きない場合もありえるわけです。その限り、なぜ彼の場合はそうなのかは、本当のところは分からないというのが、私は一番正確だと思うんです。だから、経験したことのない我々が、論理だけで議論できることなのかどうかを、もう一度吟味してもいいんではないか。つまり、殺人についての議論が、安直になされすぎている印象が私にはあって、誰も人殺しをしていないのに、知った風に議論できるのかと。

永井 人殺しをしているかどうかということと、人殺しが悪であるということの根拠は何かということの間に、まったく関係はないと思います。何かをしたということは、何も付け加えないと思いますね。善悪について、ある人がどう感じるかは、社会の構成原理がその人の心にどう影響を与えるかということで、犯罪をおかした人は、それによって良心の呵責を感じたり、感じなかったりする。しかし、そもそも呵責を感じるか感じないかということは、もともとの善悪とは何ら関係がないというか、むしろ順序が逆であって、悪とされているからこそ良心の呵責を感じたりするわけですね。その悪の根拠というのは、良心がそう感じるということが根拠になるのではない。当人がどう感じるかということは、この問題とは本質的に独立しているんです。

池田 永井さんの議論の筋道なら、そうなりますよね。

永井 善悪というのは、僕は非常に単純な社会構成上の問題に過ぎないと思うんです。人間が複数いる、私以外の人がいる。そのときに、複数の人間が共存するために、いろいろ種類はあるだろうけど、ある共存の仕方をするために、何が規範として存在しなきゃけないか、存在せざるを得ないかということが、道徳的価値の源であって、それは価値観を内面化して、良心の呵責といったものを生み出すんだと……。

池田 そうじゃない。私はまったくそうじゃない立場なんです。内面化された善悪が道徳になるとしたら、そんなものは道徳にはなりえないと言いたい。私にとっては、そういった意味での社会的な構成原理というものなど、どんな形であれすべて通俗道徳に見えるんですよ。善は善、悪は悪であって、それ以外にいかなる意味があるのか、と言いたい。逆に言うなら、通俗道徳はすべて悪です。そんなものを信じ込むなんてことは。

永井 ということは、通俗道徳は全然信じなくてもいいと? そのわりには池田さんも従っているじゃない。

池田 それは結果として従うことになっているだけ。

永井 それはなぜなの?

池田 価値が別にあるからですよ。通俗的な価値なんかはどうでもいいことですから。どうでもいいことだから結果として従うことになる。お金が欲しいから泥棒をしたい、というわけでもない。なぜ泥棒をしたくないかというと、魂に悪いと分かるからですよ。

永井 なぜ悪いんですか。

池田 直観としか言えませんね。「リアリー」ですよ。

(略)

池田 そうだな、永井さん的な洞察という意味ではね。逆に、永井さんの道徳についての洞察を読んでいて私が感じるのは、道徳的なものがそれだけで憎いんじゃないか。

永井 別に道徳は憎くなくて、どちらかというと、道徳的価値とは、他の価値と独立させて特別に維持しなきやならない価値だと言いたいんです。

池田 でも、それは最初から無理に決まっている。

永井 いや、事実、我々の社会はそうしてきたんですよ。でもそこには無理があるんだと僕が言うと、それは無理だと僕が非難しているように聞こえるんですね。道徳的価値というのは非常に特殊で、脆くて弱くてダメな価値なので、これは無理な形で守ったり、特殊なものとして祭り上げるとかしていかなきゃ、とても立ち行かない。昔のように魂を信じている時代ではないんだし、なんの根拠も持ってないわけだから、道徳的価値なんて、それだけだったら信じてもらえない。

池田 それは価値が外在的だと考えるからですよ。内在的ですもの、価値は。そうでなければ価値とは言えない。

永井 池田さんやプラトンはそう思っているし、道徳的な宗教の信仰者もそうだけど、多くの人はそうじゃないんですよ、事実。そして、その事実はどうしようもない。

池田 ええ、どうしようもないという事実は認めます。

永井 だから、プラトンのように、魂の調和とか、そういうような種類の何か内在的な価値、自分の内部にある価値とのつながりがあるとしなければ困るんですね。あるとしなきゃ困るのは社会が困るんです。その当人は困らないんですよ。それでめちゃくちゃなことをやって、勝手にやっても。でも、あるとしなければ困るけれども、それが信じられなくなる。(『2001年哲学の旅』230~232p)

「悪の根拠というのは、良心がそう感じるということが根拠になるのではない」と永井均は言います。それに対して池田晶子は「なぜ人を殺すのが駄目かというと、魂に悪いからだ、直感であり」、そのことに「リアリー」があると言い返します。折り合う余地はありません。二人のこのすれ違いについては立ち入りません。
わたしは池田晶子さんは外延論の極限を思考し生き抜いた至誠の人だと思っています。そのことを疑ったことはありませんが、わたしの考えとはずいぶん違う人です。一度じっくり話をしてみたい人でしたが、2007年に亡くなっています。
永井均は身過ぎ世過ぎをやっている正真正銘のバカですが、それはともかく。罵倒はするなとディスプレイの上端に張り紙をしていますが、こういう奴が目の前にいたら冷静でいられるかどうか。たぶんいらいらして。。。

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そこで殺人の実行者に登場してもらいます。池田晶子さんはこの人との往復書簡を本にしました。池田晶子さんの手に負える相手ではないなと感じたことをまだ覚えています。引用します。

当時、私にはどちらかというと殺す事が先に頭にあったように思います。思い出してみると当時、私にとって被害者の方々は、何か非常に大きな一つの障害のように思えていました。「人生最大の乗り超えるべきハードル」といった感じがありました。(この理由を考えてみて、又、他人の誤解を生むので書くのをやめようかとも思いましたが、それでは説明がつきませんので書きますと)これには私の父親の事が関係しています。私は父親が非常に嫌いで、小学生の頃一度殺してやろうかと考えた事もあります。と同時にとても恐れていた事もあり、私にとって世の中で最も憎むべき存在でした。自分の周囲にいる人間、特に上の立場にいる人間への敵対心は、この父親との関係性を他の人との間に置いていたのかも知れません。

 で、なんとなく体型や性格に父親に似た所を持つ被害者の方二人にその関係性を強くし、余計に「絶対にこいつらに勝たねば」と考えたのかも知れません。真に勝手な話で、被害者や御遺族には申し訳ない限りです。それなら父親を殺すか、二十何年もその自分の考え方をほったらかしにしておかなければよかったのです。小学生じゃあるまいし、父の事も憎むのではなく哀れんでやるべきだったのです。少なくとも父を反面教師にして、上の兄のように正しく生きるべきだったのです。いわゆる「アダルト・チルドレン」と言われる人と同じで、自分の弱さを親のせいにしたいが為に、それらの思い出にしがみついていたのです。

 それで「勝負してやる」と思った時に、「乗っ取る」とほぼ同時(又は先)に、「殺す」という考えを持ちました。とにかく相手に勝つ。それも小さい頃からの「弱い」自分に勝つ為にも力で勝つ。それをやる事が、自分がそれまで乗り超えてきた事全てに対しての「完成」という感じがしていました。乗り超えてきたとは言っても、それは自分の為だけの利を得る為に他を定めるという「自己愛」の連続で、それが極点に達したという事でしょう。自分にとっての全てに対して勝つ。それをやり遂げる事が使命のように思えてきたのです。もう金も店の乗っ取りも、二の次三の次になってきました。完全な本末転倒でした。もう「殺す」、それが自分にできるかできないか、それだけが問題の全てになっていたのです。「ぼくは敢然とそれを実行しょうと思った、そして殺した……ぼくは敢行しようと思っただけだよ、ソーニヤ。これが理由のすべてだ」というラスコーーリニコフの告白と全く同じです。

 ここまでが私の動機であり、裁判上は何の価値もない話なのですが、これを実行、つまり行為にするとなると、ドストエフスキーの百万分の一程の想像力もない今の日本のほとんどの作家が考える程、楽ではありません。そんなに簡単にはいかないものです。実際には殺人についての観念性などないから、簡単に殺人小説が書けるのでしょう。何故堂々と「殺人」について書かれたモノがあれほど多数出回るのか、私は不思議でなりません(売れりゃいいと思ってるからでしょうが)。これ程想像力だけで書かねばならない難しいテーマは他になく、それを書く能力のあるストエフスキーのような人間がそうやたらにいるとは思えないのです。

 さて私にこれが書けるかどうかは分かりませんが、頭は悪くとも経験がありますので書いてみます。で、又、抽象的になり、分からない人には分からないと思えますが、池田さんの御手紙にもあった「血が流れる~永久にいなくなる」、そう考えると恐ろしいから人は人を「殺せないのではないか」というこの部分なのですが、私が思うに (厳密に言って)、これは「殺す」という「観念」ではなく思えるのです。

「人を殺す」と本当に考えると、つまり「殺す」という観念を純粋に(感覚的な表象を交じえずに)持つに至ると、もうその時点で血とか内臓とか死体とか―、つまり動物一般にはなんでもない、理性的精神にとってだけの障害(又は「死んだら永久にいなくなる」とか「相手にも家族がいる」といった、やはり理性的精神にとってだけの障害)は、「殺す」という純粋(原始的)観念、つまり「衝動」が本当に存在している「自己」においては、「殺す」事自体への障害ではなく、「殺した後」の単なる物的障害であり、この時点である意味、観念は「断絶」を超えて現実化しているように思えます。

血を見るのがイヤなら毒殺、自分で直接やるのがイヤなら他人に頼むというように、「殺す」という観念を本当に持っている者には、そういった障害は実はどうにでもなるものなのでしょう。(私の場合は血や死体を恐ろしいとか、相手にも家族がいて殺されれば悲しむといった事を考えなくなりました。というより考えるのを止めていたのです)。つまり、ここで「躓いている」人間は、まだ「殺す」という観念を真に持っておらず、理性(の抑制)がその観念の発生を止めている状態と思えます。故に決して現実(行為)化しません。
 さて、私も先程「断絶」という言葉を用いましたが、これは行為との「決定的な断絶」なのでしょうか? どうも私の経験からすると、そうではなくて、実は元々 「観念」と「行為」は一体であり、つまり動物一般がそうであり、ヒトとしての動物がそうだったものであり、「理性」 つまり「人間」が生まれた事でその自然的統一としての「一体」の内に「善悪」が生まれ、ここで初めて観念と行為(現実)が(膜一枚で単細胞のように)分裂したといった感じがするのです。その膜(理性)は発生時は弱いものではあるが、成長しうるという特性を備えているという感じでもあります。

 又、同時に、自然的統一者としての全的(一的)存在から「自己」を理性によって自我として誕生させる、もう一つの「自然からの人間の分裂」も起きたという事ではないでしょうか。そして個々の理性のその時点での強弱によって、ある観念が生まれたり生まれなかったり、それに続く行為が起こるか起きないかという差異が生まれるように思えます。人間が「心の中で人が殺せる」とは、自然存在としての観念がそうするのではなく、理性的精神を介して (又はそれ自体が)表象を交じえて想像するから可能なのであり、これは動物一般にはまずできない事でしょう。彼らは「殺す」と考えれば (考えないとも言えますが)殺すのみですし。

又、これら動物一般の観念と行為の一致による「殺人」は、現実として善でも悪でもないように、「(心の中で)人を殺す」とは理性的精神にとってだけの「悪」であり、(現実には)善としても悪としても存在しないという事かと思えます。そしてこの原初の自然的統一(者)としての「他がない」、つまり窮極的な自己目的の観念にこそ人間の生来の「悪」 の部分があり、これこそが「原罪」と呼ばれるものかと思えるのです。「できる、できない」にしても、実は人間の観念にある事は元々全て可能な事だったのでしょう。それが故に我々にも「できるはず」という疑問が残るのだと思えます。

しかし「できるはずなのにできない」、この躊躇は「殺人」においてはまずほとんどの人間にはあり、異常殺人犯といえど殺害後はその犯行を隠すものですし、何より「殺人」を善であると言い張った人間は過去いないと思うのです(こう書くと意地でもそう言う奴がでてきそうですが)。つまりは皆、それをすぐに (物を把むように)無自覚には「できない」というこの事が、それを「すべきでない、悪い」と知っているという事なのでしょう(あの神戸の事件の犯人の少年についても少し考える事があるのですが、長くなるので別に書きます)。
(『往復書簡「罪と罰」死刑囚との対話』池田晶子vs陸田真志208~212p ブログの制約上傍点は略し、読みやすいように適宜改行しました)

陸田真志という死刑囚がみずからの行為をたどり直し、池田晶子さんに書いた手紙には衝迫力があります。「殺す」という原始的な純粋観念は観念と行為が一体化しており、自然との一体感が分裂して自我を介して観念が誕生したと言っています。
動物一般がそうであるように、もともと自然であったヒトもまた自然との決定的な断絶はなかったと彼は言います。「できる、できない」にしても、「実は人間の観念にある事は元々全て可能な事だった」。ただ人であることは物をつかむようにためらいなく行為することはできないと書いています。「ここで初めて観念と行為(現実)が(膜一枚で単細胞のように)分裂したといった感じがするのです」と。

陸田死刑囚はいくつかの気づきをしています。彼は獄中で自分やったことのいちいちをふり返って、ヘーゲルの理性なものは現実的であるというリアルを知覚したのです。ヘーゲルの精神のうねりに沿って自己を記述しています。それは見事なできばえです。おお、おまえはおれの言ってきたことがよくわかっとる、とヘーゲルは言うと思います。
そのヘーゲルの理念にあるはじまりの不明には気づかぬまま刑を執行されたのではないか。もう少し先まで行けたはずなのに。できれば根源の性までつかんで欲しかった。そのあたりのことは往復書簡本しか知らないのでわかりません。

彼は行為と観念は一体であったとみなしています。「どうも私の経験からすると、そうではなくて、実は元々 『観念』」と『行為』は一体であり、つまり動物一般がそうであり、ヒトとしての動物がそうだったものであり」と考えられています。このときはまだ善悪未生です。このときいろんな観念の可能性があったのに、「自然からの人間の分裂」によって、自我を理性として手に入れ、その後に善悪が芽生えたとこの人は言います。ヘーゲルの理解からそうなるのはわかります。

わたしは彼の認識の階梯は人間の意識の系統発生としても言いうると思うのです。悠遠の太古に、明暗不明で自他未生の観念がむっくり起き上がったと、これまで形容してきました。名づけようもなく名をもたぬこの観念はまだ無分別です。彼によるとヒトとしての動物では行為とのあいだに「決定的な断絶」はないとされています。そうではないかと思います。観念は「自然からの人間の分裂」に起源をもつとも書かれています。その通りだと思います。そのとき身の毛のよだつ凄まじい恐怖とそれを打ち消したいという激烈な衝動が太古の面々に生じたと思われます。
わたしたちの知る人倫の決壊はここに起源をもつように思います。わたしが精神の古代形象と呼ぶものです。この退行はおそらく一瞬です。だからこそそのときどきの文明はこの衝動を飼い慣らす風土に見合った文化のしくみをつくったのです。

殺人の実行者が世界の無言の条理をつかもうとした貴重な証言です。そして、悪は、「他がない」窮極的な自己目的の観念のうちに胚胎されると彼は結論づけています。フロイトが触った、善悪の彼岸にある、矛盾律がなく、時間の観念もないエスとはそういうものだと思います。自己意識の外延化はある契機があればぐるっと廻ってエスに同期するようにできあがっているのではないか。ここをまだわたしたちは吹っ切れていないと思います。そして外延表現ではこのおぞましさを禁圧することしかできません。禁止はかならず侵犯されます。内包論ではこの矛盾は解消されます。

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