日々愚案

歩く浄土19

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むきだしの生存競争の露出によって西欧近代に発祥した人権という概念が自家撞着を起こし機能不全に陥り、西欧の政治エリート支配層はその諸原理を必死で鼓舞し保守することで制度の維持を図り、そのやり方に生の可能性を見ることができない者らとの激烈な闘争として現象しています。おそらく平穏にみえる日常の底には深い亀裂があるはずです。

中東の戦乱は日本にとっても他人事ではなくなりました。第二次世界大戦で無条件降伏し、民主主義の国として再建されたこの国の70年が瓦解しようとしています。日々は平穏に流れているとすることもできますが、わたしはナチ前夜だと認識しています。察知したときはすでに動きがとれなくてがんじがらめ。これからしばらく日本は残忍な社会へと傾斜していくのだろうなという嫌な予感があります。
長いものに巻かれるという精神のありようはこの国の古くからの特技ですが、背に腹はかえられないというのは、ほんとうに極東の島嶼国に特有のものか。そうは思いません。どこの国でも実相は変わらないとむかしから思っています。抵抗の仕方の違いは多少ありますがわずかな差異に過ぎないと考えてきました。

もともと個人という考えは日本にはまだ充分には根づいていないのに根づくまもなく瓦解しつつあります。民主主義国家の根本が壊れつつあるのにその自覚もないのです。お上に文句をいう奴はひとしなみにテロリストとなります。戦前の赤狩りとおなじです。とにかく回りを見廻して空気を読み、以心伝心で同調するのが得意な国民ではあります。卓越した能力です。弾圧される前から自主規制するのです。そこには日々の生を余儀なさとしてしのいできたこの国特有の精神風土がありますが、すごい才能です。法による規制よりはむしろ事前に事態を察知する世間の同調圧力のほうが権力の実質に近いという気がしています。自分の頭と感覚で考えて事態に対処するしかないのですが、その自分がすでに世間なのです。はなっから同期しています。

TPPにとって日本という国民国家は非関税障壁ですから、コストパフォーマンスが悪いのです。グローバニストが都合よく儲けるのに国家は邪魔なのです。植民地の総督安倍晋三が国会で日教組、日教組とヤジを飛ばしたのは、こいつの頭のしくみをよく象徴しています。一族の悲願を達成しようとする妄念で精神を病んだオカルト男です。もちろん米国の国益と戦略の上で踊らされているだけです。稀代のアホです。A級戦犯だったじいちゃんの汚名を雪ぎたいという妄執に駆られた虚言男が愛国主義を唱えるのですから笑止千万です。回りが安倍に同調し、政府や官僚にメディアが同期し、新聞テレビに国民が同期する、この見事な調教のしくみには脱帽です。
どんな抵抗も総敗北します。文句をいう側に情緒的な反感以外になんの世界構想もないからです。安倍がバカなのはわかるけど、反対するだけではこの世のしくみはかわりません。このままではいけないという切迫感をもっている人はかなりいると思います。自分の頭と身体で考えるしかありません。人はじぶんが生きてきたようにしかこの事態を迎え撃つことはできないとわたしは考えています。

たとえば加齢とともに心疾患、がん、脳血管疾患、認知症、アルツハイマー、パーキンソン、つまり成人病がひとごとではなくなります。たいていはそのどれかに入ってきます。救命救急、鑑別診断についてはその効用を認めますが、慢性疾患にいまの医療は有益ではありません。かんたんにいえば、頓服としての薬剤や救命の処置は有効なことがありますが、医療の9割は無効だと思っています。むしろ有害です。わたしはそのことを身をもって生きています。原則は病院に近づかないことです。

これからの世界がどうなるか、これからの日本はどうなるか。あなたが致命的な病を宣告されたとして、そのときどうするのかということとまったくおなじ事態に直面しているのです。医療と政治はべつべつのことではありません。おなじです。じぶんの頭で考え、当事者として対処するしかほかに方途はありません。医学も政治も真理という生の統治です。それは権力なのです。善意のだれかが善意で助けてくれるということはありません。できることは個々人がこの急迫にどう対処するかだけです。個々に生きぬくこと、それしかないのです。この国の政治が妙なことになっているのは事実で、わたしはそこに切迫するものを日々嫌なものとして感じています。それは加齢とともに急増する病にどう対処するのかということとまったく同義です。生きられる生をつくることはまた生きられる死をつくることとも同義です。もう一度言います。政治を語ることと病を語ることはおなじことなのです。ともに共同幻想の囚われのうちにあります。こういう前提に立ってこれからの世界の行方について内包論から少し考えてみます。

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自己を生の自然的な基底にするとこの後世界がどうなっていくのかということについてわたしにはひとつの見立てがあります。妄念と思っていただいてけっこうです。
グローバリゼーションの猛烈な圧力があります。電脳社会を背景にハイテクノロジーと結びつき世界を均質化したいという衝動に駆られた妄念です。世界史を画する出来事です。だれもがその渦中にあります。この観念はどこから由来しどこに行きつくのでしょうか。
この力で世界は炎上中です。よく宗教対立の再燃といわれます。そういう世界の騒乱の説明の仕方があることは理解できます。わたしはそれは理念的な錯誤だと考えています。
グローバリズムが正系で、イスラム国の野蛮は傍系にすぎないとわたしは考えています。ネット社会の功罪ですが、ネットでボコ・ハラムやイスラム国の残虐を見聞することができます。もちろんいっさい電脳にアクセスしないで生きることもできますが、いったんアクセスすると、これはいったいどういうことかとつい考え込んでしまいます。むしろ電脳社会から隔離されて生きることはもうできないと思います。

電脳社会では空間の距離は位相的な変換をうけているので、遠近も、歴史の時間もぐちゃぐちゃになります。それを承知で書いています。インターネットがはりめぐらされどことでもアクセスできます。インフラとしては基盤はもうかなりできあがっています。
この世界の変貌は科学・技術の進展により自然過程として実現しました。そこに倫理の介在する余地はまったくありません。この変革の担い手の主人公は電脳社会です。いま第三次の産業革命の只中です。これから世界はどこに向かうのかと問うと、明るい未来ではなさそうだという不安は、だれのなかにもあると思います。世界では戦乱と紛争が頻発し収まる気配はなくこの国もやがてテロに襲われると、おそらくだれもが感じています。あっというまにそういう時勢になりました。

いずれにしても国民国家は超国籍企業の世界をフラット化する力に押し切られ呑み込まれていくと判断しています。ここにはお金の合理性とお金につきものの抗しがたいわかりやすさ、つまり、同一性の権化のようなものがあります。この過程は不可避だと思います。世界同一賃金、正規雇用の非正規雇用化は資本の流れの最適化であり拒むことができないと思います。おそらく現存の国民国家は、廃藩置県のように再編成されることになります。西欧近代発祥の人権の理念もそこでさらに外延化することで延命しようとするはずです。同一性によって自己を実有の根拠とする外延論理のたどる必然です。それ以外に方途はないのです。

世界を平定することになるであろう超国籍企業の世界がどう理念化されるのかまだ見えません。おそらく再編される、かつて国家であった共同体の再理念化と、そこでの民主主義の再定義は、現存する理念を外延することで書き換えられることになると思っています。このわたしの認識では、中東の戦乱は、圧倒的な資本力と科学技術力と武力をもつ新しい世界理念によって囲い込まれ順伏され周縁として配置されることになるのではないかという予感があります。いま起こっていることは宗教戦争ではないし、電脳社会の圧倒的な興隆の煽りをうけた凶悪な犯罪にすぎないのです。そしてこの犯罪を緩和するために中心の理念はその対策として、地方交付税のような贈与の形をとることになると思えるのです。もちろんその贈与はコストパフォーマンスとして最適化された資本のなかに繰りこまれています。ピケティの、r>gを読み込むと、そういう世界が遠望されます。

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暗い見通しを書いたので、気分直しに、ヤマザキマリさんの『プリニウス』のⅠとⅡを読みました。ローマの時代もいまも代わり映えしないです。なんだ、おなじじゃないかとわかって、でもこのマンガ面白いです。若い友人からもらったフライング・ロータスのCDもいいです。一息つきました。

これから迎える時代の様相は、妄想かもしれませんが、ラフスケッチとしては大筋の流れは、はずれないはずです。同一性を公理に自己から始めるかぎり人の考えつくことはそんなに変わらないと思うからです。誤差の振幅も同一性のゆらぎの範囲に収まると思います。

わたしは内包論を外延論の世界イメージを跨ぎ越す理念として考えています。とてもシンプルな理念です。

内包論では自己のなかの絶対の他は根源の性ということになります。それはわたしにとって掛け算の九九とおなじようにたしかなことです。外延論理、つまり自己同一性ではということですが、一人称と二人称はべつの出来事としてありますが、内包論では一人称と二人称はおなじものではないのですが、べつのものでもないのです。わたしはわたし(一人称)、でありながらわたしはあなた(二人称)であるからです。わたしがじかに性であるということはこういうことです。それは自己ということに還元することもできないし、共同性に還元することもできない、それ自体の領域としてあります。わたしが根源の性を分けもつあり方を自己とは言わずに、分有者と呼んだのはそういう含みがありました。(「歩く浄土16」)

ここを理念の根拠として世界を内包的に描くと違う風景が見えてきます。理念の跳躍があります。「わたし」は根源の性によぎられて拡張した〔わたし〕になっているのです。いちいち〔わたし〕と表記するのが面倒なので、〔わたし〕を、わたしと書きます。このわたしの世界の知覚は一人称であるとどうじに二人称です。しかしわたしたちの歴史は異なった展開をとりました。心身一如という生命形態の自然によってまず身分けされ、その同一性に言分けを封じ込めたという存在論の制約がなければ、この一人称と二人称をそのまま根源の一人称と名づけることもできました。わたしたちの歴史では、同一性を前提にすでに自己を象っているので、自己の拡張型である〔わたし〕を内包論として想定するしかありません。慣れるまでこの意識の操作はけっこう面倒です。

小さい頃補助輪なしで自転車に乗れることが不思議でした。補助輪がなければ自転車は倒れるはずです。若い頃、水泳に打ち込みましたが、泳ぎ初めの頃、水中でどうやって息つぎすればいいのかそれを覚えるのがむつかしかった記憶があります。乗り慣れ、泳ぎ慣れると、そのことを意識することはありません。それとおなじことなのです。
わたしは、いま、かなり自在に外延論理と内包論理を切り替えることができます。10年はかかりました。わかったと思うその刹那、また、わからなくなりました。そういうことを延々とくり返しました。
なんども言いますが、わたしは、一人称であるとどうじに二人称なのです。このとき一人称と二人称は、おなじものではないのですが、べつのものでもありません。不可分で不可同なのです。それが、わたしが、じかに性であるという意味です。ツェランの「私が私であるとき、私は君である」ということとおなじです。その先があることをツェランはつかむことができずに死にました。おそらくドゥルーズも。ただそのことはここでは問題となりません。自己意識の用語法で自己と呼ばれる思考の慣性の先に広大な未知の生があります。それがあるために自己同一性は可能となったのです。世界に対する暗い予感は内包の知覚でまったくべつの世界へとひらかれます。

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