日々愚案

歩く浄土246:情況論72-公文書改竄について

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2018年3月12日、9億円の土地を森友学園にプレゼントした顛末を記す、改竄された決裁文書を、財務省が国会議員に開示した。アベシンゾウ夫婦の関与がごっそり削られ、安倍首相が「繰り返しになりますがね、私や妻が関係していたという事になれば、私は総理大臣も議員も辞めるという事ははっきりと申し上げておきたい」と言ったのが2016年2月17日の衆院予算委でのこと。アベの意を汲み取って、大慌てで財務省の役人は心中でなんで書き換えなといけないのかと思いながら、上の指示に従って決裁した公文書をあちこち改竄した。国家を私物化してきたオカルトな私性しかないアベシンゾウがかつて籠池を詐欺師と国会で言ったその口で昨日、「なんでこういうことが起きたのか」と詐欺答弁を重ねた。ノミの頭にも劣るアベにして言えることだが、ホモ・サピエンスの頭があったとしても愚行は繰り返される。ここにはいったいなにがあるのか。これまでサイトで何度か戦後の総敗北について書いてきた。国家の私物化と精神の退行の流れのなかに今回の決済された公文書の改竄も位置している。わたしの体験の核にあるすぎぬ時代のすぎぬことから国家存立の土台に関わる公文書の改竄について書く。蜂の巣をつついたような騒ぎになっているが、空騒ぎはいつのまにかすぎつぎの話題に移っていく。こういう世の習いの中に言葉はない。みな錯覚しているが、個人と社会はいかなる意味でもつながらない。この錯認は思考の慣性に起因するのだが、思考の慣性のありかたが変わらないかぎり変わることはなにもない。

「たとえどんな生涯であれ代理不能のふかく刻みこまれた固有の体験というものがある。それは言葉に最も遠い場所だ。書けぬことも書かぬこともある。〔おれは人間ではなく〈おれ〉である〕という表現の格率から、〔わたしは〈性〉である〕という内包の知覚に至る、わたしの三〇年を賭けて、原口論考の感想を走り書きする。一人でながいあいだ戦争をやった。時代がうねって渦巻いた、避けようのない、昏い、仁義なき戦いだった。船戸与一や笠井潔やトマス・ハリスの小説よりもサイコでハード・ボイルドだった。終戦も手打ちもどこにもなかった。じぶんのすべてを賭け、殺されても殺してもゆずれないこととしてそこを潜るほかなかった。不意の一撃にそなえ全身を眼にした二四時間。麻紐の滑り止めを巻きつけた一尺の肉厚鉄パイプをブルゾンの袖にしのばせ、灼熱の夏にボルトナットを縫いこんだ皮手袋を身につけ重ねた十数年。それがじぶんがじぶんであることのすべてだった。書くということはどこか遠い世界の出来事だった。そうやって十数年を生き延びた。それでもアタマのなかが一瞬で真っ白になる出来事のまえでおれは能面になった。迂闊だった。書かぬことも書けぬこともある。一九八六年、三六の歳だった。自殺する人がやたら元気に見えた。じぶんがそこらに転がっている石ころとおなじみたいで一切の感情がなくなった。コトバも消えた。死でさえ余裕がありすぎた。おれたちの連合赤軍としてひきうけた一九七三年春の昏い衝撃も吹き飛んだ。Jumping Jack Flash! そしてわたしはビッグピンクにさわった。そこから内包表現論をはじめ、一〇年が過ぎた」(『Guan02』所収「熱くて深い夢」)

二十数年前に書いたこの場所からいまもわたしは内包論を書きつづけている。言葉には始まる場所があり、言葉が言葉を生きることがなければ、言葉がじぶんにとどくことはない。わたしにとっての生のリアルは個人の内面化のなかにも内面を共同化することのなかにもない。内面や共同性は内包への過渡として過程的に存在する仮象にすぎないと内包論では考えている。生を表現として考えるとき、わたしたちは二度の観念の革命を経ている。一度目は神や仏という観念の発明であり、二度目は西欧近代の個人の生存権や基本的人権が人格に属するという観念の革命である。むろん人格は共同幻想であるから個人の内面のなかにも共同幻想がコーディングされている。資本主義も英国清教徒の思考の慣性が発明したシステム、つまり共同幻想であり、その共同幻想が人格を媒介にして個人に内面化された。それが事の次第だと思う。では共同幻想の起源はどこにあるか。おそらく精神の古代形象が巻き取った身体性に由来する。『音と文明』で大橋力は面白いことを言っている。「言語は離散性の記号を一次元に連鎖させて行うデジタル通信であるため、信号対雑音比(SN比)を高めうる。加えて、現生人類の言語脳は、構文機能という内面的活性にあわせて〈構音機能〉〈書字機能〉という外部への情報発信と保存の能力を発達させた。これらは音と光という遠隔通信の使者を発信者の意図に従わせて駆使する。これによって時間空間とも伝達距離が拡張され、互いに離れて独立した個体の中にある脳と脳とを際限なく多数結び合わせることを可能にしている」。

大橋力の気づいたことにユヴァルも気づいている。多くの人を結びつけるものは虚構の共同主観的現実であり、人間の自然的な共同体の上限は150人だという。「生物学では、同時にホモ・サピエンスについて社会的な動物であるが、とても限られた範囲で社会的なのだと言います。人が親交を深められる範囲は150名程度が限度であるということは、人類に関する単なる事実です。自然にできる集団―ホモ・サピエンスの自然な共同体は150人を超えることはありません。それ以上の規模になるとそれこそ様々な想像や大規模な社会制度が基になっているのです」(「ナショナリズムとグローバリズム:新たな政治的分断」)自然な共同体は大規模になると、共同主観的現実を媒介として、その虚構を現実とする思考の慣性によってつながると仮象された。このとき自然を粗視化したデジタルな言語が虚構を媒介する。そうすると虚構を担保する観念の形式は同一性であるが、この虚構は大きな矛盾を虚構の内部に抱えこむことになる。かつては矛盾を調停するものは神や仏という観念の形式であった。第二番目の人格を媒介とする観念の革命は適者生存によって生を引き裂かれることになる。

ハイデガーは同一性と差異性の矛盾に気づいた。

「同一性の命題は、周知の形式に従ってA=Aと表わされる。その命題は最上位の思考法則と見なされている。我々はこの命題について、しばらく熟考を試みよう。何故かというと我々はこの命題によって、同一性が何であるかを知りたいと思うからである」「同一性の命題が一般に表わされる仕方A=Aという型式は何を言い表わしているのであるか? この型式はAとAとが相等しいこと〔相等性〕を表わす。等しいということには少なくとも二つのものが属している。一つのAが一つの他のAと等しいのである。同一性の命題はそのようなことを言い表わそうと欲するのであるか? 明らかにそうではない」「それゆえにAはAである(A ist A)という同一性の命題に対する一層適当な型式は、ただに各々のAはそれ自ら同じであることを言い表わすのみならず、更にそれ自らと各々のA自らは、同じであることを言い表わしているのである。この自同性のうちには、それ自らとの関係、従って媒介、連結、綜合、即ち統一性への合一ということが存している。西洋的思考の歴史を通して同一性が統-性の性格をもって現われることは、以上のことに由来するのである。しかしながらこの統一性は決して、それ自らにおいて他との関係を有せず、ただ一つの無差別なものに固着しているという気のぬけた空虚さではない。けれども同一性の内で支配し且つ古い時代から既に知られている関係、つまり各々のAとそれ自らとの関係を、かかる媒介として確立し且つ特徴づけられて現われるに至るまでに、更にまた同一性の内における媒介がかく出現するために一つの土台が見出されるまでに、西洋的思考は、二千年以上を要しているのである」(『同一性と差異性』)

あるものがそのものにひとしいという自同性はなにも意味しない。端的にそれ自体である。神や仏はそのようなものとして発明されたが、そのままでは自同性は運動しない。同一性が発明した神や仏という生を統御する観念のなかに裂け目を入れたとき、同一性は差異性を無限に反復することで最終的に同一性そのものに回帰する。そこに西欧近代の人格を媒介とする偉大な理念がある。その長い影のなかをわたしたちは生きてきたが、第三番目のビットマシンの外延革命は諸学と融合しながら、人格を媒介とせずに人格を技術によって素子まで解体し、素子を商品として販売する。わたしの理解ではいずれの観念の革命も外延知に属している。確実に言えることは人格を媒介とする民主主義の理念はビットマシンの外延革命に呑み込まれ、分子記号学的に書き換えられる。それを近代由来の理念は拒むことができない。そこに公文書の改竄は位置している。ここを括弧に入れたどんな理念も空念仏である。

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昨日目にしたツイートからなにが問題であるのかみていく。菅野完は永久凍結をうけたツイッターをべつアカから立ち上げた。一度目の永久凍結のあと、菅野事務所スタッフというツイッターのなかで、「菅野さんはこう言っていた」と取りあげられていたが、2018年3月6日に、おれが書くと言ってツイートを連投し、二日で永久凍結となる。そこで菅野完は、3月8日に「日本のTwitterと中国の微博、どっちがましか?の社会実験」として@SUGANOTAMO2を立ち上げる。もの書き文化人とまったく気風の違う意見を吠えまくる。爽快だし毒がある。事件の現場を疾走するスピード感は痛快だ。

①俺が夕べ泣いてたのはこれ。我が国はこんな国になったのよ。鎌倉時代以下。こんなもん中世国家やないか。

我が国から近代的官僚制度なるものが消え去ってしまった日。
もう我が国は近代国家じゃない。

僕、言論人向けの「刺せるネタ」って、左の文化人しかも大学関係者専門に集めてるのよね。右の人ら刺してもおもろないしそもそも右の人キャリアないしさ。やっぱり俺らは、「偉そうなやつ刺す」のが仕事やからね。

言葉そのものが毀損され、記録そのものが虐げられ、文書そのものが踏みにじられ、「近代的な文字文化」のありとあらゆる概念が、安倍晋三を守るためだけに否定されたのよ?
言論人として党派とか立場とか関係なく、できる事って、「ふざけんな!」って怒る事でしょ。言論人なら

いやつーか、文芸家協会とかペンクラブとか、声明出したほうがいいレベルよ?これあるいみ文明の危機よ?(菅野完2018年3月12日ツイート)

内田樹の同日のツイートも貼付する。

②会計検査院まで公文書改竄に加担していたとは・・・行政の歪みは底なしの様相を示してきました。「こんなことをしたことがバレたら行政に対する国民的信認が傷つけられるから万分の1の確率でもしない」というのは公務員にとって善悪の判断ではなく損得の判断です。倫理じゃなくて算盤。

僕は高級公務員に「高い倫理性」なんか期待してません。でも、せめて「算盤勘定」ができる程度の知力は欲しいと思っています。「頭が悪いやつには権力を委ねない」というルールをもう少し本気で徹底しないと、まじで日本に未来はないですよ。(2018年3月12日内田樹ツイート)

言葉が軽くて深さがない。ふたつの引用からなにが見て取れるか。菅野完も内田樹も民主主義という形骸を前提として政権を批判している。個人と社会は民主主義の理念ではつながらない。すでに人格を媒介としない、心身を素子に還元することでその素子を商品として販売するシステムがグローバルなしくみとして猛威をふるっている。そこに時代の核心があり、この人類史的な変貌は人格を媒介とする民主主義の理念によって対象化することはできない。そこまで時代は追い詰められている。かれらにみられるのは「社会」主義の抱き合い心中である。文化人の物見遊山として公僕のありようを倫理ではなく損得の算盤勘定から判断すればいいと説く内田樹の発言には痛みのかけらもない。官僚が身を保全するために改竄した公文書の原本を残していたことは明らかであり、官邸からの指示を面従腹背する担保として原本の原本を削除せずに保存していた。それだけのことだと思う。
菅野は公文書の改竄によってこの社会は鎌倉時代以前に戻り民主主義の土台が崩壊し、第二の敗戦となり、文明の崩壊に直面してると言う。起こっていることの現場感覚は圧倒的に菅野のほうが鮮度がある。言葉の使い方はちがうけど、文化的雪かきをすれば個人は共同性とつながるはずだという言い分は「社会」主義的な理念でまったく無効であるというのがわたしの現状判断である。個人はどうやっても社会と繋がらない。人格を媒介としない世界システムの出現にたいして世界のビジョンをもてないので善と悪を可視化や実体化することで凡庸な善悪二元論に落ち込んでいる。百年、千年経ってもなにも変わらない。勝ち組による世界統治が適者生存をなぞるだけだ。意識の外延性では個人はどうやろうと共同性の第三者につながらない。人間が社会的な存在であるという思考の慣性で人と人がつながることはない。同一性を暗黙の公理とする個人や社会を包み込んでしまう存在の内包性から世界を巻き直すことでしか、人格を媒介としない世界システムのいっそうの存在の外延化に抗することはできない。

この国では戦前戦中戦後なにも変わってない。戦争をしないという主権さえ戦後憲法にはないことが如実にそのことを示している。非戦条項が戦争を常態化させると言うこと。非戦はもぎ取ったものではなく占領軍から付与されたものである。無条件降伏による戦後の統治がなめらかにつながっているようにみえる秘事として天皇制のしばりがある。そして天皇制的心性は国家が商品に変貌しつつある世界のなかで新しい世界システムに順接する理念として機能する。アベシンゾウ的なものと半アベシンゾウ的なものがぐるっと1回転して同期するしかけがここにある。安倍的なものと反安倍的なものがまったくおなじ相貌のたんなるあらわれかたの違いにすぎないことが看過されているのに、だれもこのことを指摘しない。

ビットマシンと諸学の融合が世界史の地殻変動をもたらしていると考えてきた。公文書の改竄もこのおおきな奔流に揉まれる木の葉のようなこととして起こっている。転形期の世界のただなかで相対的な悪と善を弁別することはできない。すでに生存はむきだしの適者生存に晒されている。常識が壊れるようなことがこれからもつぎつぎに起こるだろう。グローバリゼーションの大きな波に洗われて国家がメルトダウンし、国家が経済に従属する属躰としてしか機能しえていないといういうこと。なによりこの新しい世界システムのなかで国家はおおぶりな商品にすぎない。すでに国家はハイパー資本の流動なかでコストパフォーマンスの悪い非関税障壁としてあらわれている。なにが世界史を画する出来事なのか。融解した国家の理念を私性が統御する。比喩として言うのだが、融解した国家が商品に変貌しつつあるということが出来事の核心にある。消滅しつつある国家の理念を私性が独裁として統治する。ビットマシンによる外延革命はなんら人格を媒介としないから、崩壊した国家の理念を私性が統治することとなにも矛盾しない。それがいま起こっていることのいちばん根っこにある。国家が商品でしかない世界の転形期にあって国家に付随する民主主義が機能するはずもないのだ。国家は危機に瀕して内面化し精神の退行現象を起こし、あたかも国家が中世化しているようにみえる。世界の未知を実体化すると中世的精神に憑依されているようにみえる。国家の内面化に引きずられて小さな生も身をかがめて日本的心性に退行する。そのことがいま、目の当たりに起こっている。ハイパーリアルなむきだしの生存競争のただなかにわたしたちの心身が投げ込まれているということ。脳天気な二人の「社会」主義者の発言を読んで、わたしはわたしの生存感覚を貫くリアルを手がかりに、人間にとっての第三番目の観念の革命を外延知ではなく内包知として完遂したいと思っている。

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