日々愚案

歩く浄土245:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理4

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神の子イエスを救世主とするキリスト教の観念は人類史の偉大な発明だった。中近東の土俗的な宗教であったユダヤ教のなかから生まれたこの宗教はヤハウェという唯一神ののっぺらぼうの観念に刻み目を入れ、神と衆生の生を媒介し、神と人との関係を近づけるとともに神という観念から人びとの生を疎隔する途方もない観念だった。もし神の子であるイエスという観念の発明がなかったら資本主義の勃興も、フランス市民革命の人権理念やアメリカ合衆国の建国理念は生まれなかったと思う。わたしたちの人類史はおおまかにいってこれまで二度の観念の革命に襲来された。キリスト教によってもたらされた神の下の平等という観念と、西欧近代がもたらした神の下の平等という観念の地上化。このふたつの観念の革命をわたしたちは思考の慣性として享受している。この観念の自然が人間にとっての内在性ということもできる。神のもとでの平等という観念をぬきにして法の下の平等という観念が粗視化されただろうか。神という観念を礎にして粗視化された自然はすでにわたしたちの思考の慣性として内面化されている。それはとても自然だ。
この観念にとっての自然がビットマシンによって革命されようとしている現在をわたしたちは生きている。この革命は人格を媒介としない。人格をばらばらな素子に解体し、個々の情報によって人間という概念をつなぎあわせ、人間という概念をつくり変える。人間とっての三度目の表現の革命にわたしたちの生は直面している。歴史を記述することは恣意的だから、どのように歴史を語ることもできる。わたしは生や歴史を表現として語るとき、意識の外延的なあらわれは、それが人格を媒介にする表現であれ、分子記号を媒介にする表現であれ、同一なものに差異を刻み、表現された差異性は統合されて固い生存の条理をなぞるだけだと考えた。神の子であるイエスを媒介に神への差異性として世界を表現する。そこにキリスト教の世界性があった。歴史の近代は人格という差異性を媒介に同一性を表現した。同一性という認識の枠組みは、同一性を刻むことなくして機能しない。あるものがそのものにひとしいというだけではなにも表現したことにならない。
同一性に刻み目を入れ、この刻み目を同一性にたいする差異性と呼べば、その差異性は同一性を動かし始める。差異性を反復することで同一性が同一性という認識の枠組みを保ちながら、さまざまに姿と形を変える。その絶妙な運動が同一性の表現となる。差異性がなければ同一性は運動しない。同一性のなかになにか媒介を入れると、そのとたんに同一性は勢いづく。そのきっかけを神の子であるイエスという差異性がつくり、世界を表現した。西欧近代のなみいる思索家たちの観念の祖型は、ヘーゲルの精神現象学もふくめ、初源の差異性の反復に過ぎないし、この意識の刻み方で自己に言葉が固有のものとしてとどくことは原理的にありえない。なぜならば同一性という認識の枠組みがたんてきにそれ自体として空虚だからである。同一性は反復されることで観念の自動運動を更新していく。意識の同一性はビットマシンや、ビットマシンと融合した諸科学の知や技術ときわめて相性がいい。同一性を技術によって充填する三度目の革命はやすやすと成就されるだろう。ここで、存在の複相性。その存在を往還すると意識の外延性とはべつの自然が踊りでる。存在の複相性を往還することができる。

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語りえぬことについては沈黙せよと言ったヴィトゲンシュタインの格言がどんどん可視化されてくる。脳の機能とコンピュータのそれと代わり映えがしないということもできる。大橋力の『音と文明』という本を糖質ゼロの食事を一日一回するときに読んでいる。分厚い本でちょこちょこ読んで半分くらいまできた。おもしろい。偉大な書物であると思う。意識の視野にあがらない非言語的思考は三木成夫や小泉文夫が得意としていて、芸能山城組を主催する高橋力もこの意識の系列に属しているようにみえる。大橋力は音を媒介に意識の幅を拡げようとしている。読み進めるにつれて『音と文明』のすごさがわかってくる。興奮しながら頁をめくっていく。もしわたしがマルクスで現在を生きていたら、資本論ではなくビット論もしくは分子記号論を論じるだろう。言語脳はデジタルで前言語脳はアナログだという生のリアルから、音楽制作の現場で音のデジタル編集をやりながら、デジタルをはるかに超える始祖鳥のつばさの音を大橋力はつかんでいる。ビットマシンを駆使しながら、やわらかい生存の条理を表現する途方もない音楽家であり思索家である。驚嘆した。願わくば梅夫忠夫の『文明の生態史観』になりませぬように。。。
つまみ読みしている吉田秀和の音楽の本の解説者である保苅瑞穂は、プルーストが音楽の圧倒的な感動にたいしてつぎのように嘆息したと書いている。「ある種の生き物が、自然が見捨てた生命の形態の最後の証人であるのと同じように、音楽というものは、ーもしもこ言語の発明も、語の形成も、観念の分析もなかったとしたらー魂と魂の交流がそうなりえたかも知れないものの唯一の例なのではあるまいか、と私は思うことがあった。音楽は後続を絶たれた一つの可能性のようなもので、その後、人類は話し言葉と書き言葉という別の道に入ってしまったのだ。」プルーストの音楽への憧憬を、どんな偉大な楽曲であれ空気の波動にすぎないと大橋力は相対化する。この切り口に腰をぬかした。ただ者ではないとただちに直観する。人類にとっての三度目の意識の革命を大橋力はどう切りぬけるのか。読み始めてすぐに、ああ、三木成夫だなと感得する。世界への感受性の根がそっくりなのだ。わたしは、しゃべり、歌い、踊る、音の根底にあるものは〔性〕だと思っているが、大橋力の音はどういうものか。『音と文明』の骨格である言語脳のふるまいは外延知に、前言語脳のふるまいは内包知に、正確に対応している。三木成夫の「胃袋とペニスに、目玉と手足の生えたのが動物。その上に脳味噌の被さったのが人間」という考えを、音楽の実作者というところからさらに肉づけし、壮大なスケールで文明の外在史を相対化し、デジタルな世界を否定するのではなくデジタルな世界よりいいものによって包み込もうとし、そのリアルの存在を表現しようとしている。とても柔軟な思考だと思う。いったいだれが音という表現で文明史をめくりなおそうとしたか。

大橋力の本に接した驚きをさわりのところから入っていく。わたしたちの認識にとっての自然を大橋力は抽出する。格段に斬新なことが言われているわけではないが。こういうあたりまえのことから、ぞくっとする観念の着想を淡々とかれは展開する。

・・・現生人類では、視覚の存在が前提になる筆記描写の能力が飛躍的に発達し、脳内の情報を外部にとり出すとともにそれらを固定し記録することが可能になった。さらに、他の感覚現象が視覚系へ可逆的に変換可能になる場合がある。これらによって、私たち人類では、それまでの地球生命には見ることのなかったきわめて高度な知能活性が出現している。そのもっともめざましい例が「文字の使用」、つまり言語音声という聴覚系の担当する空気振動現象を視覚系に変換する仕組であることに異存はすくないだろう。一方、あまたの古代文明に源を発する絵画のような具象的描写、そして、特にルネッサンスから近現代にかけて爆発的に発達して科学技術文明を開花させる不可欠のツールとなった設計図やブロック・ダイアグラム、そして五線譜のような抽象的なグラフィック表現のすさまじい威力についても、指摘しなければならない。これらは、高等哺乳類の中でも特に人類において極度に発達してきた大脳新皮質、とりわけ理性の座といわれる〈前頭前野〉の活動のコピーを躰の外に取り出すことを実現し、その機能の著しい増幅と安定化をもたらした。それとともに、人間の個人差や主観を超越した客観的・普遍的な情報処理を大きく助けている。
 このように、視覚の働きによって「記録」「伝達」「比較」「論理」「演算」「推論」「計量」「モデル化(構造、連関、因果関係等の可視化)とその組換え」などにかかわる脳の働きが、とりわけ現生人類において桁外れに、というよりはむしろ際限なく、増幅され加速されてきた。
 このような視覚系の情報処理機能は、特に、聴覚系の情報を二次元平面上の記号配列として精密に描写する機能をあわせもつことによって、飛躍的に拡張されている。それは、元来は聴覚系に依存する音声現象として人類史に登場した言語が視覚媒体である文字によって置き換えられ、また音楽が同じく楽譜によって置き換えられてしばしば主客が転倒する状況に導かれている現実によって充分理解できることだろう。

空気の振動である聴覚言語が可視化されて文字が発明されたことによって自然にさまざまな刻み目を入れることが可能となる。聴覚系による自然との交歓が、可視化され映像化され、象形文字や楔形文字という自然として定着した。音を可視化することで二次元的な文字という表記が発明されたことになるが、それは文字によって存在が粗視化されたことを意味する。神という観念の発明も書記に拠っている。文字によって神という観念が表現され、神という観念は空間化され、共同体に視覚と聴覚の連合をもたらしている。共同主観的な現実とは視聴覚の連合によってもたらされて統覚される。

大橋力はAIについてペンローズよりはやわらかい対応をする。なるほどなと思った。長くなるが要のところなので引用する。

 近現代文明の中で言語脳機能の存在感をかくも肥大させた淵源が、メソポタミア、パレスティナそしてギリシア以来の西部ユーラシア諸文明の体質に根ざすことは否定できない。しかし、この体質にすべての責任を嫁する考え方は、相当に妥当性に欠ける。なぜならば、私たちの「心」に棲まいしその状態を私たち自身に報告する〈意識〉の作用が、言語脳モジュールの働きをモニターしレポートするうえですこぶる雄弁である一方、非言語脳の働きについてはほとんど何も語ってくれないからである。これは、私たちの脳機能に具わる文化や思想以前の生得的な特徴であり、宿命としかいいようがない。このような自己モニターにかかわる脳機能それ自体が、恐らくは私たち現生人類の言語脳の発達途上性に基づく限界を反映した仕組なのだろう。それによって、意識に捉えやすい一次元低速小容量性の言語情報処理過程が極度にクローズアップされる反面、それを捉えるには意識の力が及ばない多次元高速大容量性の非言語脳本体の活動は、その存在自体を含めて、ともすれば不可視状態に埋没し勝ちになる。
 このような基礎構造と結びついて、深刻な問題が西欧近現代文明に導かれた。それは、偏ったモニター系としての〈意識)の雄弁と饒舌に屈して、最大の武装であったはずの〈懐疑〉を自ら解除しつつ従順に意識に身を委ね、認識と思考のすべての原点を意識それ自体に託してしまったルネ・デカルト流の知識構造である。これによって、意識のもつ非言語脳機能への射程不足がそのまま文明全体の構築と制御にもち込まれた。このデカルト的パラダイムの限界をしっかりと把握し、すでに究極的に蔓延してしまっている「意識に捉えやすく言葉で語りやすいものがそうでないものを覆いかくす」というバイアスをどうはねのけるかが、私たちに与えられた基本的に重要な課題と考える。
 ここで問題の焦点になる〈意識〉という脳の働きについては、それを専門とする哲学や心理学からの定義に多大な含蓄が込められているものの、私たちにとっての概念道具としての有効性、実用性となるときびしい限界を覚えずにはいられない。たしかに、音楽の定義がそうであるように、体験的に自明であり、しかも自己言及的な性格が濃いこのような概念の定義は容易なことではない。
 そうした中で、人工知能学者長尾眞がコンピューターのアナロジーとして示した意識の概念は、私の知るかぎり他に例のない絶妙の意味内容を伝え、きわめて効果的に機能してくれるだけでなく、一種の胸のすく爽快感をもたらしてもくれる。すこし長文にわたるが引用してみよう。
「意識とは何かについては多くの議論がなされてきた。ここでは時空間の中で自分の刻々の行動を再確認していること、自分が今なにをしているかがわかっていることであると考えよう。このような定義にしたがえばコンピュータは立派な意識をもっているということができるのである。コンピュータは今何をしているかはコンピュータの中で仕事を統括しているオペレーティングシステムと呼ばれているプログラムが常に監視していて、次にはどのような仕事をやらせるとか、人間でいえば感覚器官にあたる各種の入出力装置がどうなっているかを知り、そこからの情報をうけて適切に対応している。もちろんオペレーティングシステム自身が今なにをしているかを報告せよといわれればすることができる。またコンピュータの中のどこかが故障するとその部分をきりはなし、その部分をさけて仕事をさせるような手はずもととのえることができる。こういったすべてのことは外部に対して詳しく報告をすることもできるうえに、コンピュータは電源を切られて命をうばわれようとしたら、それを瞬間的に検知して演算装置などコンピュータの中枢部分にある情報を安全な永久記憶装置に緊急退避させてから死んでゆくのである。そして次に電源を入れてもらって再生したときには死ぬ直前の状態に復帰して、そこからまた仕事を始めるということすらできるようになっている。
 このようなコンピュータの働きをみると、人間が自分のしていることが何であって自分の頭の中は現在どのように活動しているかを意識できるということとほとんど同じことをコンピュータはやっているといえなくもない。しかしそれでも、意識の根源は自己の存在感、存在意識、すなわち自己意識であるから、これがコンピュータに持てるはずはないという人もいるだろう。では自己の存在感とは何か、それがあるといってもどのようなものであるかを明確に言ってもらわないかぎり意味がない。言葉には出せないが存在感があるのだという表現はあまりにも非科学的、独善的であり、科学的思考を追究している哲学としては矛盾であろう。「言葉には出せないがその自覚がある」というのならコンピュータ自身もそれと同じことを主張することはいとも簡単である。コンピュータは現にここに存在して動いているのであるから」

AIの研究者は凡庸なことをいっているのになぜ胸のすく爽快感を大橋力はもつのか。大橋力がAIの研究者を俯瞰できる場所に立っているからである。大橋力はつぎのように考えた。長文だが引用する。

私たちの脳のモデルからすると、意識の役割は言語脳モジュールの中に組み込まれたローカル・コンピューターのオペレーティング・システム(OS)に近く、モジュール内の情報処理の管理運営と監視に当り、その状態を脳本体に報告する。ここでの意識の立場は、西欧近代の通念となっている専制的地位から従属的地位に移行し、その上位に脳本体という報告相手を戴くことになる。ここで、報告を受領する脳本体の機能モジュールやその窓口が何かが新しい重要な問題になる。
 この窓口としては、非言語脳本体のもつ強力な環境認識機構の中で、内部環境に向かって開かれた領域すなわち「臓器感覚」のカテゴリーがもっとも調和しやすい。臓器感覚という用語はもしかすると混乱を招くかもしれないので、より厳密には、身体からの〈求心性入力情報〉のひとつと位置づけるのがよいだろう。いうまでもなく、意識が報告する情報の構造は感覚を基礎にしつつも明らかにより高次のシステムに達している。それを認識する枠組を既存の概念の中に求めると、感覚のひとつ上の階層として〈知覚〉、さらにその上の階層として〈認知〉を挙げることができる。ただし、概念が高度化するほど条件の吟味を複雑に行わなければならないので、今の段階では安全性を優先して、もっともはば広い概念枠である感覚の階層にとどめておくことにしよう。これによって、意識を一種の「臓器感覚」という枠組で捉え直すことが可能になる。
 臓器感覚の具体的な例として、消化器系のそれはわかりやすい。食餌の供給状態に対応した空腹感、満腹感、侵襲や傷害に対応した痛覚などがレポートとして脳本体に送られ、もちろん、特別に支障なく運用されている場合にもそのことがレポートされ、しかるべき応答を導く。この枠組で捉えると、意識が導く反応は、脳に付帯する言語脳モジュールという一臓器から脳本体に送られたシグナルを脳本体が解読して発生させる〈自覚される体験〉の中に含まれることになる。
 ここで意識からのレポートを受領し解読し応答する脳本体側のメカニズムはどうなるのだろうか。これについては、感覚・知覚・認知機能とそれらを統合する高次脳機能レベルを含む脳活性全般に及ぶ多次元包括的モニター系の存在が想定されなければならない。〈超言語性の自覚される体験〉は、その働きの中のひとつの領域に他ならない。ただし、ここで、それ以外に、自覚が困難であったり自覚が不可能な体験の領域が膨大であることを見逃してはならない。〈超言語性の自覚される体験〉は機能上の必然として制御系と一体化し、コンピューターでいえばメインフレームレベルにおけるOSを多次元連続大容量化したような機能モジュールとして存在することだろう。このような脳内機能モジュールの候補として、例えば霊長類の高次脳の研究者船橋新太郎がアラン・バドリらの〈中央実行系〉を発展させて前頭前野の機能として提案している「実行機能」モデル(取締役会モデル)や、同じく澤口俊之の「動的オペレーティング・システム」モデルなどは、よい調和を見せてくれる。このふたつのモデルは、その研究材料が霊長類に属するマカークの脳であるところがとりわけ注目される。なぜなら、マカークは旧世界ザルに属する高度に進化したグループで、脳全体の構造が人類とよく似ているので実験材料としても標準的なものになっている。しかも、類人猿には達していないため、言語機能性の脳内領域はほぼ皆無と見てよいだろう。ということは、マカークの脳は、言語機能を伴わない純粋な非言語脳としてもっとも高度な水準に達したもののひとつに数えることができ、人類の非言語脳機能を言語脳によるバイアス抜きで類推するうえできわめて適切な材料を提供することが期待されるからである。
 人類の脳の最上位のOSへ言語脳モジュール側のローカルなOSとしての〈意識〉から送るメッセージは、私たちの体験が示すとおり複雑高度ではある。けれども、もっとも基本的な臓器感覚の発生とその解読という属性においては、満腹感や動悸感あるいは腹痛などと同類であるとも考えることができる。
 脳全体のOSは基本的には多次元で働かなければならない。しかしその制御対象のワン・オブ・ゼムとして従属する言語脳モジュールとの高度な同期が要請された場合、意識というレポートのもつ一次元離散情報の低速な逐次処理に同調するため、脳本体OSの情報処理モードも一次元離散情報の逐次処理という状態に大きく傾かざるをえない。これは結果的に、意識以外のもろもろの次元をOSの顕在的な操作領域からおし出して意識の専制状態を導く。それは、例えば「腹部の激痛」という臓器感覚によって心が占拠された状態のようなものかもしれない。
 なおこのような意識専制の場面に現れる脳機能の狭窄と、その反対に意識の活動を抑止した場合に現れる脳機能の全方位に向かっての解放は、社会ごとの文化特性として体制化される傾向を示す。それらの間の落差をめぐって、東西文明の衝突や南北エスニシティーの相剋に象徴される人類史スケールの問題が生起してきたと考えることもできよう。

人間にとっての第三番目の観念の革命がどういうことであるか大橋力はよくつかんでいる。かれは「意識に捉えやすく言葉で語りやすいものがそうでないものを覆いかくす」と言っている。わたしの言葉で言えば、外延知が内包知を侵襲するということになる。人工知能の研究者長尾眞のAIと意識はほとんどおなじではないかという主張を、たしかにそうですね、とまるごと受け容れながら、でもそれはたんなる言語脳モジュールのことですよねと軽く受け流し、前言語脳のふるまいによって包んでしまう。前言語脳は人間の内部環境としては臓器感覚になってのこっていると大橋力は考えている。この臓器感覚は神経中枢に求心的な刺激をもたらし、遠心的な回路が反応するが、遠心路の回路は意識と同型である運動器官となって反映する。みごとな三木成夫の表現の活用だと思う。旧世界ザルに属するマカク類は哺乳類ではあっても真猿類なので言語脳をもってはいないが純粋な非言語脳を所有している。ローカルな言語脳モジュールのうえに前言語脳がもっとも基本的な脳としてかぶさっているというのが大橋力の主意だ。脳本体のOSは多次元的なものであるが、下位のOSのひとつにすぎない言語脳モジュールが脳本体に同期を強いたばあい意識の専制が支配することになると警告する。大橋力は前言語脳が言語脳の理性に先行すると考える。

 この主従関係を援用すると、脳と意識との奇妙な関係を解読するうえで絶妙な効果を発揮する新しい切り口をつくることができる。というのは、私たちのモデルにおいて「主」となる非言語脳本体にとっては、意識というモニター回路を通じて言語脳モジュールの状況を悉に知ることが有意義であり、それを実現しているけれども、「従」として付随する言語脳モジュールには脳本体の全貌をモニターする意義がなく、そのための回路が高度に整備されている可能性もほとんど考えられないからである。仮に非言語脳機能の高忠実度モニター回路を整備しようとすると、その複雑大容量高速性によって、現在の何倍に達するかわからない脳の巨大化が必要になるだろう。つまり、デカルト的概念としての意識は、言語脳モジュール自身についてしか悉に知ることも語ることもできない。それにもかかわらずこの意識に脳機能の中枢を担わせるという倒錯に陥ると何が起こるだろうか。
 まず、意識の専制が脳本体のOS本来の多元的・包括的動作を占拠して一次元の逐次的言語処理に閉じこめてしまうことは、体験の承知するところである。これによって、元来、言語機能が非言語脳を通じて具象世界そして物質世界へとつながり客観的な実在と連結していた回路が断ち切られ、実在による拘束が外れて「思考の自己運動」すなわち情報のひとり歩きが可能になる。いわゆる「形而上学」は、このパターンの思考に対する強く肯定的あるいは否定的に美化された呼称かもしれない。
 このとき発生する次の深刻な問題は、意識の実体をなす言語脳モジュールでの論理的思考の真偽や正否が、閉じられた孤立系内での記号配列フォーマットへの忠実性あるいは無矛盾性だけで、つまり〈語〉や〈記号〉を列べる手続きの自己規則遵守性だけで決定されるという「心」の状態が出現することである。こうなると、言語脳モジュールが意識を通じて告げるメッセージは、真偽や正邪のいかんにかかわらずすべて「真理」としてふるまい始め、理由のない確信がとめどなく増殖を重ねるようになる。それは、奇怪で不幸な事態をほとんど恒常的に招きよせる。すなわち、非言語脳本体のもつ進化史上の実績に支えられたきわめて確実性の高い現実認識や信頼性の高い多次元思考というものが、それに較べてはるかに次元が低く誤りの度合が高いに違いない言語脳機能によって確信的に蹂躙されるのである。

わたしは大橋力の言語脳モジュールや前言語脳を実体化せずにひとつの比喩や象徴として読んでいる。ただかれの言いたいことはよくわかる。ある思考の慣性の怖ろしさを大橋力は強く主張する。観念が自然とみなすものの大半は内面化された共同幻想である。実感的にそう思う。がんの早期発見・早期治療もバランスのとれたカロリー制限食も傷は必ず消毒するも、それらのひとつだ。身体はまちがわないという免疫理論を主張した安保徹さんも過剰適応と消耗疲弊から病をつかまえようとしている田頭秀悟さんも、思考がとても柔軟でなにか気持ちがふわふわする。大橋力もそういうことが言いたくてたまらないのだと思う。始祖鳥のつばさの音を想起するように未来を追憶したものがだれかいたか。本を読み進めながら、よく似たことを考えた人がいるものだと、興奮がピークにくる。

 自他ともに許した稀代の天才、アルバート・アインシュタインは、特殊相対性理論を公にしてのち、非言語脳によって十分に予感されている一般相対性理論の記号配列による定式化までに十年の歳月を費やしている。この時差は非言語思考速度に対する言語思考速度の遅れを意味するものともいえるので、言語脳機能の進化の遅れをとりかえした新しい脳をもつ生命では、瞬時にまでその遅れを短縮できるかもしれない。
 数による万象の支配をめざして集合論を開いたゲオルク・カントールは、何ひとつ存在を仮定しないところから出発して数や数学の体系を導き出すことに成功し、一時は「数学には言語と論理しかいらない。数学の本質はその自由性にある」と述べ、いわばデジタルな言語脳の君臨を高らかに宣言した。しかしその集合諭は、カントール自身が発見した矛盾によって危機に陥った。そしてその解決は、厳密な意味で言語脳機能だけではえられていない。とりわけ、カントールに対抗したリユイツェン・ブラウアーの〈直観主義〉は、まず「私たちは人間であって神ではない。したがって、すべての命題について「αである」か「αでない」かを確かめる方法をもっていない」という言語脳単独支配の敗北宣言ともいえるものに始まっている。
 これに関連して、タルト・ゲーデルは、不完全性定理によって、「どのように工夫して公理系を構成しても、その公理系だけから真偽を決定できない命題が残る」ことを示すとともに「ある公理系の無矛盾性は、それ以外の公理系によって証明しうる。いいかえれば、あらゆる公理系は、有限の手続きでそれ自身の無矛盾性を証明することができない」ことを明らかにして、集合論を無矛盾たらしめようとするピュタゴラスの末裔たちの悲願に止めを刺し(詳しくは第三章四節参照)、言語脳機能の限界を浮彫にした。

ここでも大橋力の言語脳と非言語脳を比喩として読み、むしろ言語脳と前言語脳を横断する親鸞の横超に近いことをわたしは考えている。旧脳に新脳が積層してホモサピエンスが誕生し、あるとき流動的知性が因果を超えて発生したと認知考古学は主張するが、この考えも比喩として読んでいる。言語脳と前言語脳という対位が言語脳的だということもできるからだ。存在に観念の裂け目をいれることは言語脳なのか、前言語脳なのか、わたしは決定不能だと思う。複相的な存在の往還は言語脳か前言語脳であるかに依存しない。ただ人間の観念にとって三度目の裂け目があたらしくつくられようとしていることはたしかで、音から文明史を巻き直そうとする壮大な試みを大橋力は意識の外延性に身をまかすのではなく、意識の外延性を包もうとしている。

言葉が言葉自身を生き始めるとき言葉は性になる。この言葉は同一性の手前に、ある領域としてあり、わたしはこの領域のことを意識の第三層と名づけてきた。意識の第三層の奥まった場所にマカクザルの脳本体の知覚よりふかい意識があると内包論で考えている。サルであってサルをはみだした出来事によぎられてヒトは人となった。そのことは偶然の必然であって、言語脳モジュールにも脳本体にも依存しない。いずれにしても言語脳モジュールであれ、前言語脳であれ、非言語脳であれ、意識の外延性は、生というちいさな自然に内面という共同幻想を実装する。それだけはたしかだと思う。なぜ大半の人は目先の実利に溺れるのか。共同性と同期する内面を自己と観念しているからだ。内面のなかにも、内面を粗視化した共同性のなかにも固有のものはない。迷妄というほかない思考の慣性のなかに生も歴史も閉じられている。(この稿つづく)

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