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かぎられた有限の生のなかで体験できることはわずかだと思う。わたしはこの半世紀のあいだにふたつのことを体験した。たったふたつだ。生を引き裂く力と、生をつなぐ力。このふたつの力の体験が内包論を書きつぐモチーフとなっている。生を引き裂き遺棄する存在のありようをかたどるものを外延表現と呼び、人と人がはからいによらずつながる力を内包表現と名づけてきた。なんと言っていいのかわからないが、この生のありかたのなかになにか普遍的なものがあるというリアルが下手な文章を書かせている。やわらかい生存の条理について書きたいならば硬い言葉ではなくもっとやわらかい書き方をすればいいではないかと言われることはよく承知している。
「歩く浄土242」と「歩く浄土243」でキリスト教的信の由来について考え、ヘーゲル的思考の淵源が、神の子であるイエスがキリストであるという宗教にあることをつかんだような気がしている。ヘーゲルの『キリスト教の精神とその運命』はキリスト教の信の起源を対象化する試みであったが、あまりの困難さにヘーゲルはこの試みを断念し、試みを括弧に入れて探究そのものをないことにして、意識の現象学をつくった。そのあいまいさはマルクスの思想にそのまま継承されている。わたしはキリスト教という宗教とヘーゲルの意識の現象学は同型ではないかと考えた。
あたらしく興った原始キリスト教団はユダヤ教を苛烈に批判することで成立する。ユダヤ教の神は衆生とのじかの契約であり、唯一神ヤハウェは自然の条理をなぞることしかできなかった。中近東の土俗的な宗教が世界に君臨するには、ある観念の飛躍が表現として要請された。キリスト教が世界宗教となるには神の子であるイエスというある媒介が必要だった。イエスという人格を媒介にすることで、ユダヤ教の共同的祭儀の神は革命されて世界性を獲得し、二千年に渡り世界を席巻した。キリスト教という世界宗教のなかにある壮大な観念のしくみ。イエスはキリストであるが衆生がイエスになることはできない。一心に信心すれば神の近くまでは行くことはできるが、そこには絶対に分かつもののない隔たりと、絶対につなぐことのないつながりが深々と横たわっている。この深淵とは何かと問い、ヘーゲルは絶息し探究を断念した。不一不二は聖道門系の禅宗が得意とした。自と多の観念の関節を外しなめらかに順接しているように自と多をつなぐテクネーである。天皇の赤子も日本的自然性の粋としてある。西田幾多郎の自己の中の絶対の他や、覚者のほかに仏なしも、この意識の系に属している。自力廻向の信はここまではくることができる。ユダヤ教の後塵を拝してきたキリスト教が誕生した意味についてすこしだけじぶんなりに納得することがあった。差異性で同一性を埋めるという意識の充填のありかたが、はるかにヘーゲルに先行していたことに気づいた。なるほど自己の観念のありかたは共同の幻想に同期するものとしてしか考えられた気配がないということ。いまわたしたちが当面している文明史の転換はこのことと深く切り結んでいる。
無媒介に神と衆生が神人の契約をすることはべらぼうなことだ。ここで超越神は民の生活を統覚する同一性の化身にほかならないから、民の生活が安寧のうちに送られることはない。不都合は信心が足らないからだとされる。無慈悲な神になにを忖度することがあろうか。このときキリスト教が新教として激烈に登場する。ヤハウェの神はのっぺらぼうだった。神はいかなる意味でも衆生と重なることはない。ただ酷い生の条理だけが信や責務として課せられる。そんなべらぼうなことがあるかい。そうやってイエスは歴史に衝撃をもって登場した。生の非条理がたわみにたわんでイエスという人格を同一性に刻み込んだ。それが表現としての、神の子であるイエスの差異性ということの意味だった。同一性を刻むこということは観念の大飛躍だったと思う。二千年のあいだ使いまわされて神通力が消えかかったときにニーチェが神は死んだと宣言し、代償としてうつろを手にした。まさに天に唾したわけだ。ニーチェに憧れ、ギリシャ以来の形而上学を神ぬきで語ろうとしたハイデガーの壮大な試みはここにある。ヘーゲルも『キリスト教の運命とその精神』で存在を神ぬきで語れるか挑んで挫滅し、その不如意を括弧に入れて、意識から同一性を記述しそびえる意識の学をつくった。ヘーゲルさん、同一性のなぞを差異性で埋めることはできないということだよ。ヘーゲルさん。差異性は同一性の派生態なのだよ。ヴェイユは敏感だからこのうそに気づいた。「一七八九年、全世界に向かって発せられた権利の概念は、その内容が不十分であったがために、それに委託された機能を遂行することができなかった。人間的固有性の諸権利について語ることによって、二つの不充分な概念を混合させてみても、われわれにとって好都合に事は運ばないであろう」(『ロンドン論集とさいごの手紙』)わたしは若い頃にヴェイユの気づきに気づいた。それが内包論であるとも言える。そういう観念的なことにどんな意味があるのか、もっと現実は逼迫しているではないかという問いも可能ではある。ではその問いをそっくりそのままお返ししたい。いったいこの国になにがあるか。戦争をしないという主権さえない日本的自然生成の粋である天皇制しかないではないか。それが平和憲法という虚構だ。
しばらく前に、イスラエル軍がパレスチナにミサイルを撃ち込んだ。ネットでパレスチナの高校生の女の子が、たくさんの人が死んでいる、私も明日の朝まで生きているかどうかわからない、とツイートしてた。そのような日々をわたしも生存の大地で重ねてきた。過ぎぬ時代の過ぎぬことがあり、その過ぎぬことはいつも遺棄される。そうやって時代は推移していく。だから、わたしはイエスにそっと耳打ちしたい。あなたがパリサイ人を憎むとき、あなたはあなたの主観的意識の襞にある信をこっそり共同化しているでしょう。その信は世界に虚構のかたちで広まりますが、人と人はそのありかたではつながらないのです。ここで人と人はつながると信じるときに人と人は互いに離反しています。そのことを親鸞は他力と言いました。まったくの孤絶でむきだしの世界を生きるとき、どんなはからいにもよらず、人と人はつながっているのです。ひとりでいてもふたりということはそういうことです。この機微をあなたはご存じですか。気づいていたけど知らないふりをしてごまかしたでしょ。それともほんとうに気づいていなかったか。たぶんイエスは絶句すると思う。
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神の探究を断念したヘーゲルは壮大な意識の建築物を意識の明証性を根拠にしてつくった。マルクスもヘーゲルの精神の劇をそのまま貨幣の運動に転写して資本論をつくった。神とは何かと問い、『キリスト教の運命とその精神』でその問いを放棄したヘーゲルは「有論」から意識の探求を記述した。同一性の闇の深さがこの有論によくあらわれている。なにもヘーゲルは思考しえていない。ヘーゲルは『小論理学』のなかで存在するということを定義する。「有論」として知られていることだ。「本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性である」。「純粋な有〔あるということ〕がはじめをなす。なぜならそれは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめというものは媒介されたものでも、それ以上規定されたものでもありえないからである」。「はじめにおいてわれわれが持っている無規定なものは、直接的なものであって、それは媒介をへた無規定、あらゆる規定の揚棄ではなく、直接的な無規定、あらゆる規定に先立つ無規定、最も最初のものとしての無規定である。これをわれわれは有と呼ぶ。われわれはそれを感覚することも、直観することも、表象することもできない。それは純粋な思想であり、かかるものとしてそれははじめをなすのである」。ヘーゲルさん、有論で解明されなければならなかったのは「純粋な有〔あるということ〕がはじめをなす」というその〔あるということ〕がどういうことであるかであったはずですね。あなたは有論を同一性を根拠に展開していますが、純粋な有が無根拠であることを認めますね。いきなり無規定の直接性が有として忽然とあらわれています。それはどういうことか、なにもあなたは思考しえていません。端的に言えば、同一性にはなんの根拠もないのです。その無根拠に意識の刻み目を入れていっても、失敗・反省・納得という精神の自然をただなぞることにしかならないのです。絶対知はたんに適者生存を称揚することにしかならないのです。精神を物質に置換して貨幣の運動を細かく刻んだマルクスの資本論が、マルクスの非望とはべつに厄災を招来したことは歴史の事実です。はじまりの不明を抱えこんだ思考はそれ自体としてニヒリズムとなるほかない。かれらは意識の明証性に溺れすぎた。わたしはむしろヘーゲルの精神現象学は神学が神学の内部に抱えこんだはじまりの不明を外延したもうひとつの神学であるようにみえる。ヘーゲルの意識の学を理解するほどに生の不全感は昂じる。Beyond Here Lies Nothin’であり、世界はいまeverything is brokenだ。
意識を、自己の精神を基点に記述しようと、神を基点に記述しようと、対象を粗視化する認識の様式はまったく同一である。望遠鏡で遠くを眺めると鳥は近くにみえる。反対側から覗くとちいさくて点のようになる。拡大することも縮小することもできる。それが同一性の効用だ。ヘーゲルによって粗視化された自然を逆向きに求心していくと同一性の化身であるヤハウェの神があらわれる。衆生のちいさな自然はヤハウェという同一性の権化の属躰となるしかなかった。その自然を受容するほかに生きようがないからだ。この自然のなかにイエスという人格が躍りでた。壮観だったと思う。乱舞する磔刑。際限なく磔刑が繰り返された。繰り返すごとに信徒が増えていき、ついにキリスト教がローマの国教となる。イエスという人格を神の子として同一性に刻み込んだからだ。神という観念と衆生のあいだに差異性が表現されたということだ。すさまじい観念の革命だったと思う。なにがすさまじい人類史的な観念の革命だったのか。この観念の偉大な革命は自己の信が共同の信と同期する信を地上にもたらした。それはただイエスを神の子であるという人格を媒介にして表現された。おそらく旧約の神から新約の神が表現されるまで千年の歴史の時間が重ねられている。そして磔刑という十字架の威力は二千年に渡って世界を平定した。この精神のありようは内面と世界と名づけられてきた。あるいは文学と政治と云うべきか。内面はすでに共同化され、自己が各自の自己である自己の固有性はあらかじめ封じ込められているということだ。この観念の営みの全過程をわたしは外延表現と呼んできた。
イエスという人格を同一性のなかに差異性として組み込むことでキリスト教は世界性を獲得したことになる。自己の信は共同的な信へ、共同的な信は自己の信へ相互に灌流するが、ヘーゲルの精神現現象学が存在することのふしぎをはじまりの不明として抱えこむように、神という観念もそのはじまりに起源の闇を孕むことになる。「初めに言があった、言は神とともにあった、言は神であった」(ヨハネ一・1)言葉が神であるというとき、言葉である神への衆生の信は生にとどかない。「ヨブ記」のような奇怪な観念が語られるだけだ。自己の信が共同の信となることは言葉が神であろうと、その神を信心することであろうと、原罪が障壁となって信が成就することはない。わたしたちは始原の遅れを外延化するほかに生きるすべはないというわけだ。つまり新約の聖句にはできないことしか述べられていない。原罪を意識するほどに信が深まるという不自然がある。新約の宗教には還り道がない。還り道の信を拒むようにキリスト教の信はつくられている。神と人との関係は分離はできないが、おなじものではなく、かつ神という光は身勝手に衆生の生を照らすだけである。この矛盾は共同の信で衆生一人ひとりの生を照らすという観念のありようが狭すぎることに起因する。イエスというペルソナを媒介にすることで土俗的な宗教であったユダヤ教が世界宗教になる秘儀がそこにあるとしても、空間化された共同の信はどうやろうと自己に固有のものとして、一人ひとりにとどくことはない。共同の信が自己の信であるように錯認される。そのひな型が文学でもある。どんな自己の信であれ、信のなかに共約された信があらかじめ刻印されている。そこにはどんな固有の信もない。意識はなぜ無限であるかのように、神はなぜ無限であるように、あらわれるのか。意識の内包性が心身一如の自然のなかにきりのない善きものとして注ぎこまれるからだ。存在の内包性を切断し、解離して、神という超越が同一性的に表現されたということだと思う。おそらく神も生の不全感に悶々としている。なにより神もまた自身を領域として生きたくてたまらない。外延的な意識を内包的な意識に往還することがじかにここに関わる。(この稿つづく)