日々愚案

歩く浄土18

61VS7hp9HLL__AC_UL160_SR160,160_日々ほとんど愚、たまに、もしかしたらこれ善かも、という具合に、わたしもふくめ大半の人が生きているのではないかと思っています。そうでなければ愚者ほど浄土に近いという考えは生まれません。ヴェイユの記したことでいまでも好きな言葉があります。それは、「ある一つの秩序に、それを超越する秩序を対比させる場合、超越するほうの秩序は、無限に小さなもののかたちでしか、超越されるほうの秩序のなかに挿入されえない」(春秋社刊『シモーヌ・ヴェイユ著作集Ⅲ』24p)という言葉です。

秩序を超えるもうひとつの秩序を想定するとき、それは無限小のものとしてしか現実の秩序に挿入できないということはわたしの実感に即しています。よくわかります。それはやがてパン種のようにふくらみます。よくわかると言って、ヴェイユの2倍近くも生きたからなあ。ここでヴェイユのいうひとつの秩序はわたしの考えでは外延世界に、超越するほうの秩序は内包論の世界としてあります。
これからも折に触れヴェイユの好きな言葉をとりあげることがあるという気がします。

わたしたちのいまを象徴するヴェイユの言葉があります。

 集団を構成する諸単位のひとつひとつの中には、集団がおかしてはならないなにかがある、ということを集団に説明するのはむだなことである。まず、集団とは、虚構によるのでなければ、「だれか」というような人間的存在ではない。集団は、抽象的なものでないとしたら、存在しない。集団に向かって語りかけるというようなことは作りごとである。さらに、もし集団が「だれか」というようなものであるなら、集団は、自分以外のものは尊敬しようとしない「だれか」になるであろう。
 その上、最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧しようとする傾向があることではなく、人格の側に集団的なものの中へ突進し、そこに埋没しようとする傾向があることである。あるいは、集団的なもののもつ危険は、人格の側の危険の、見せかけの、見る人の眼をあざむきやすい様相に外ならないのかもしれない。
 人格は聖なるものである、ということを集団に言うことが無益であるとしたら、人格に向かって、人格そのものが聖なるものであると言うこともまた無益である。人格は、言われたことを信じることはできない。人格は自分自らを聖なるものだとは感じていない。人格が自らを聖なるものと感じないようにしむける原因はなにかといえば、それは人格が事実において聖なるものでないからである。
 ある人びとがいて、その人びとの良心が別な証言を行なっているのに、外ならぬかれらの人格はかれらに聖なるもののある確かな観念をあたえ、その確かな観念を一般化することによってあらゆる人格には聖なるものがあると結論するとしたら、かれらは二重の錯覚の中に存在していることになる。
 かれらが感じているもの、それは正真正銘の聖なるものの観念ではなく、集団的なものが作りだす、聖なるもののいつわりの模造品にすぎない。かれらが自分たち自身の人格について、聖なるものの観念を体験しているとすれば、それは、人格が社会的な重要視(人格には社会的な重要視があつまる)によって、集団の威信とかかわりをもつからである。かくして、間違ってかれらは〔自分たちの体験を〕一般化することができると信じている。
 このような間違った一般化が、ある高潔な動機から発したものであるとしても、この一般化には十分な効力がないので、匿名の人間の問題が、じつは匿名の人間の問題でなくなるのが、かれらの眼には見えないのである。しかし、かれらがこのことを理解する機会をもつのは困難なことである。なぜなら、かれらはそのような機会に接することがないからである。
 人間にあって、人格とは、寒さにふるえ、隠れ家と暖を追い求める、苦悩するあるものなのである。
 どのように待ちのぞんでいようとも、そのあるものが社会的に重要視され暖かくつつまれているような人びとには、このことはわからない。(勁草書房刊『ロンドン論集と最後の手紙』15~16p 原文にある傍点はブログの制約で略)

長い年月を経て読み返すと、ヴェイユが言っていることは、もうじぶんの言葉になっていると感じます。だからヴェイユの言葉を使わなくてもヴェイユの言いたいことはじぶんの言葉で言えます。
ヴェイユの「集団」という言葉は、吉本さんの共同幻想で置きかえ可能です。ヴェイユが「人格」と呼ぶものは、わたしの言葉では生命形態の自然にあたります。わたしは今回のシャルリー・エブト事件で、自由・平等・友愛という1789年経由の人権宣言というものの制約が露出してきたのではないかと考えました。現実的にはいくらこの理念を使い回しても事態を収拾できないのではないかと感じています。
パリ市民革命で近代市民主義の諸原理である自由と平等と友愛が個人に付与されました。観念の革命としては偉大だったと思います。以後それ一本でやってきたのですから。この理念は人格は個人に属するとされています。個人の基本的人権や生存権はこの理念によりもたらされました。すごいことです。でもかなり制度疲労が出てます。それが現在の特徴のように思います。人格の理念化をどれだけ外延してもこれからの世界は伸びやかにならないと思います。そんなものはグローバルな資本家たちがすぐ商品にします。民主義を未完のプロジェクトだといくら順延してもおなじです。

去年タリバンから撃たれて、でもわたしは負けないというようなことをいった女の子がノーベル平和賞を受賞しました。制度疲労の極限です。ネットで彼女の受賞の言文を読もうとしましたが、気持悪くて読めませんでした。人と人がつながるということはそういうことではありません。迫害を一般化することでは人と人はつながらないのです。「間違ってかれらは〔自分たちの体験を〕一般化することができると信じている」とヴェイユは言います。その通りのことです。
それが「ある高潔な動機から発したものであるとしても」とも言っています。その通りです。さらに「匿名の人間の問題が、じつは匿名の人間の問題でなくなるのが、かれらの眼には見えないのである」と言います。非命に斃れた後藤健二さんの活動もこの錯誤の内にあります。
自由も平等も博愛も個人は自己によって所有されることを前提とした表現なので、人と人はもともとつながっているということをうまくつかみだすことができないのです。自己を実有の根拠とするかぎり、ヴェイユの知覚に触れることはできません。

それでは競い合う、激突する共同幻想の正邪は決定不能であることをすでにヴェイユは言い切っています。引用では人格と匿名の人間の問題の対比しながら、無人格的なものに内属する「聖なるもの」を手がかりに、現にある秩序を超越する秩序としてデモクラシーとはべつの形態が暗喩されます。外延表現としてはぎりぎりここまでしか言えないのだと思います。
ヴェイユの生の知覚はわたしによく似ています。二十歳の頃にヴェイユの本を読んで、直観的にわかりました。知識ではないのです。知覚です。

喉元が凍りつく尋常でない事件が国外でも国内でもあります。わたしはそれでも人倫が決壊することはあり得ないと考えています。わたしはなまなましい邪悪なものの只中を長年生きて、譲れぬことを譲らず、そこを生き通し、そこから偶然、生還しました。理念で語る善と悪ではありません。そんなものが吹っ飛んでしまう、言葉がまったく無力ななまなましい生の激突がそこにありました。皮膚感覚として焼きついています。わたしの生存感覚として、人倫は脆いですが、わたしにおいて人倫が崩壊したことはありません。それがすべてです。

おのずからなる人倫は、いまわたしが生きている根源の性としてあります。それは無限小のものとしてだれのなかにもあるものだと思っています。それが内包論です。
ある気づきです。それを探している人、それを欲しい人にしか伝わらないし、届きません。しかしそれは知覚として、知識ではなく存在します。けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないようなものとして。
わたしは根源の性を分有する分有者に無限小のものとしてひそんでいる還相の性を手がかりにそこをひらこうとしています。喰い、寝て、念ずる生の原像を還相の性を生きることとして。そこに国家はありません。

このあいだバスに乗って立っていたら、韓国語を話すおっさんから、席を譲られました。照れくさいし断るのもなんだと思い、はにかみながら頭を下げて座りました。でもよく見るとそのおっさん、おれとあまり歳変わってなさそうだった。むかし、レニー・クラヴィッツを聴いたとき、すげえ、と思いましたが、フライング・ロータスもすごいぞ。ユチュブで、Coronus, The Terminatorをどうぞ。

コメント

1 件のコメント
  • 倉田昌紀 より:

    こんばんは。「おのずからなる人倫は、いまわたしが生きている根源の性としてあります。それは無限小のものとしてだれのなかにもあるものだと思っています。それが内包論です。
    ある気づきです。それを探している人、それを欲しい人にしか伝わらないし、届きません。しかしそれは知覚として、知識ではなく存在します。けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないようなものとして。
    わたしは根源の性を分有する分有者に無限小のものとしてひそんでいる還相の性を手がかりにそこをひらこうとしています。喰い、寝て、念ずる生の原像を還相の性を生きることとして。そこに国家はありません。」。国民国家の届かない場所、共同幻想に取り込まれることのない場所。根源の性の分有を、知覚する小さな感じることのできる感覚。まさに人類史の甦りの蘇生する嘗て体験したことのある感覚の蘇りの心性そのものの「譲れぬことを譲らず、そこを生き通し、そこから偶然、生還しました。理念で語る善と悪ではありません。そんなものが吹っ飛んでしまう、言葉がまったく無力ななまなましい生の激突がそこにありました。皮膚感覚として焼きついています。わたしの生存感覚として、人倫は脆いですが、わたしにおいて人倫が崩壊したことはありません。それがすべてです。」ということなのでしょうね。

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