日々愚案

歩く浄土243:複相的な存在の往還ーやわらかい生存の条理2

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イエスを生活することを実践した千石剛賢(1923-2001)はたしかに卑小であることがそのまま偉大である生を生き切った思想家である。信仰集団「箱舟」を主宰し、メディアは若い女性を囲う猟奇的なハーレムの首魁と散々千石剛賢を批判した。それらのことはどうでもいい。波瀾万丈を生きた千石剛賢とは何者か。『父とは誰か、母とは誰か』をていねいに読んだ。言葉が言葉を生きるように、イエスの言葉を生の真芯で生きた特異な思想家だと思う。だれもが思想を生きるとき独学である。独学でないような思想は存在しない。千石剛賢は語りの人であり、書記の人ではない。しゃべり屋さんであって書き屋さんではない。ここにかれの魅力がある。インタビュアーはすがたを消し、千石剛賢が語るように語りをまかせている。かれのキリスト教への信はたおやかな生の条理をもたらすだろうか。その一点を念頭に置いて一気に読んだ。かれの信の語りは凡庸ではない。生のど真ん中で生きた信がなまなましく語られている。語りのあちこちで親鸞の言葉が出没する。

小学校を出てからさまざまな職を転々とし、短気でケンカに明け暮れる。このままだと犯罪者になる。あれた日々を送っているとき、ふと聖書の言葉に出会い、のめり込む。聖句への鬼気迫る全身没入は、聖句がかれを引き寄せたとしか思えない。知識人でもなければ大衆でもない。かれはいったい何者か。イエスの言葉を生のど真ん中で一切の建前を排除し本音だけで生きた総表現者のひとりだったというのがかれの生にふさわしい。考えたいことを好きに考え、生きたいように生きた、ただの人である。しかし千石剛賢にやどった信は民主主義という奇怪な宗教の信とはまったくことなる自然であった。千石剛賢の本を読みながら、幼少時に失明し、あるとき視力が戻り、識字しながら、そのとき読んだ本がドストエフスキーだったというエリック・ホッファーのことを思いだした。独学者は学問のメインストリームを歩んだ者が思いつかないようなことをときに思いつく。沖仲仕哲学者のホッファーは貨幣についてニーチェが真っ青になるようなある発見をする。むかし書いた文章からそこを書き写す。

『エリック・ホッファー自伝』が強い印象でのこった。生涯を季節労働者や港湾労働者として路上で思索した異端の哲学者は生についていくつか大いなる発見をする。たとえば弱者と強者についての俗耳とは異なる鋭い洞察。制度化された知という権力とはいっさい無縁の地平でそこを生き抜いたものだけが感知しうる世界をホッファーは書き遺した。湿気や自己憐憫のかけらもない不可被侵に貫かれた当事者性の思考に触激された。
「『神は、力あるものを辱めるために、この世の弱きものを選ばれたり』という聖パウロの尊大な言葉には、さめたリアリズムが存在する。弱者に固有の自己嫌悪は、通常の生存競争よりもはるかに強いエネルギーを放出する。明らかに、弱者の中に生じる激しさは、彼らに、いわば特別の適応を見出させる。弱者の影響力に腐敗や退廃をもたらす害悪しか見ないニーチェやD・H・ローレンスのような人たちは、重要な点を見過ごしている。弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ。われわれは、人間の運命を形作るうえで弱者が支配的な役割を果たしているという事実を、自然的本能や生命に不可欠な衝動からの逸脱としてではなく、むしろ人間が自然から離れ、それを超えていく出発点、つまり退廃ではなく、創造の新秩序の発生として見なければならないのだ」(『エリック・ホッファー自伝』中本善彦訳)。当為や願望として語られた弱者の役割ではなく不可被侵の側からつかみだされた確乎たる生の理念に出会うことはまずない。
もうひとつ。ある晩きつい仕事を終えて鏡に映ったじぶんのやつれた顔を見て彼はためらうことなく仕事を辞めることにし、賃金を貰いバスに飛び乗ろうとする。一握りの札束を振るとバスが止まった。「金がなくなるまでの二週間あまり、人生は御伽噺のように思えた。貨幣の発明の重大さを悟ったのだ。それは人間性の進歩、つまり自由と平等の出現にとって欠かせない一歩である。貨幣のない社会では、権力だけが統治の道具としてものを言うので選択の自由が存在しないし、粗暴な力は分配不能なので平等も存在しない。しかし他方で、貨幣のカは強制力なしでもコントロールできるのである。弱い少数派であるユダヤ人や、銀行取引が発達するなかで、いまだ封建君主の支配下に置かれていた商人階級が果たした役割を考えると、どうも貨幣は弱者が発明したもののように思われる。(略)金と利潤の追求は、取るに足りない卑しいことのように思われがちだが、高邁な理想によってのみ人びとが行動し奮闘する場所では、日常生活は貧しく困難なものになるだろう」。いずれの見解もホッファーの生存感覚を貫いており、彼にとっての言葉のはじまる場所をリアルに描いている。世界を主観的な善意や口先の絶望で眺めるのではなく、生きることとかんがえることが釣り合った、こういう虚飾のない言葉に出会うのは稀なことだ。そしておそらくわたしたちの文化的な土壌のなかで彼の発見がまともに検討されることはない。(『Guan02』あとがき)

千石剛賢の言行録もしだいに人びとの記憶から抜け落ち、おなじような扱いをうけるだろう。イエスに性欲はなかったのかとあちらこちらの教会の牧師を訪ね、不意打ちのような問いを投げかけ、嫌悪される。教会というところはへりくだりの傲慢さがあると千石は身にしみて感じる。そのとき愛欲の海に沈んだ親鸞の言葉を知り千石剛賢イエスの全身に歓喜が湧きあがる。カザルスにとってバッハの音楽が日々あらたなものであったように、千石剛賢にとってイエスの言葉は日々なまなましく迫ってきた。西田幾多郎とバルトという知の巨峰に学ぶことが学問の王道だとすれば、独学者は偏奇な解釈を思いつく。わたしの内包もそのひとつだ。オリジナルな思考は知が通念とみなすことの内部で起こることはない。真という通念は否定されると同時に拡張される。ユダヤ教の神がイエスによって信の極大期を迎えなだらかに減衰し、生の不全感を技術が充填しかかっている。意識の外延表現は文明史のこの転換を避けることはできないが、ビットマシンと諸学の知の融合をまるごと包み込むことができると知を構想することも可能である。それが内包論の試みだが、通念は奇怪な観念だとみなす。イエスを生活した千石剛賢の日々もそうであったにちがいない。イエスという人格に近づくということが千石剛賢の信の真芯にある。ユダヤ教の神からキリスト教の神への大転換が神の子であるイエスという人格を媒介にしていることにたしかに千石剛賢はふれている。それが孔子や釈迦では生活できなくても、イエスは生活できるということの意味をなしている。

千石イエスというのは、私自身がいちばん嫌うことやからね。千石がイエスであるわけがない。そんなバカバカしいことはない。聖書的な意味で、千石某が死なんことには、キリストは獲得できない。もちろん、イエスを生活できない。私たちがイエスを信じるというのは、かりに田中三郎という人がいて、その人がイエスさまを信じるという、こういうもんじゃなくて、田中三郎という者が、キリストの考えを生活していく上において、どんどん死んじまうことだ。これを聖書では「外なる人が壊れる」と、こう言われているんです。修行や努力じゃなくて、キリストの考えを自分の存在において、また生活の場で行為していく。そこで〈古き人〉はどんどん死ぬ。外なる人はつまりやぶれる。すると「私たちの外側の人は朽ちていきますが、私たちの内側の自分は、日に日に新しくされていくのです」(コリント後4-16)。イエスそのものが生活できはじめる。
 釈迦は生活できない、孔子も生活できない、マホメットも生活できないが、イエスは奇妙なことに生活できる。イエスを生活するとなると、その生活の中身はキリストでなきゃならんことになる。そこにキリストとの合体が起きる。その人格は、もちろんイエスになる。イエスになれば〈古き人〉が死ぬ。〈古き人〉が死ぬということになれば、これは罪は消えざるをえない。なぜならば、罪というものは〈古き人〉にしか作用してないんだから。そうすると、「死にし者は、罪より義とせられたればなり」(ロマ6-7)と。キリストとの出会いということは、いうならば〈古き人〉が死ぬ、つまり自分が死んじゃうことだ。だから、生きようとおもってキリストに近づくと、実は反対に死んじゃうんです。それが〈十字架の死〉なんです。要するに、生きようおもうてキリストに近づくんですけど、でもほんとうに近づいていくと、死んじゃう。
 やっぱり死ぬのはいやで、どうしても死にたくないと頑張れば、聖書に言われていますように「己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ」(マタイ16―25)と、こないになっちゃうんです。生と死という相対的生命の存在次元から一歩も出られないということです。死ぬのがいやだと気張ったらですよ。もちろん死ぬのはいやだといっても、この死は、存在的な意味での死であって、生理的な、心臓が止まるとか脳波が止まるとか、そういう意味じゃないんです。この死によって人間の中身が変わっちゃうことです。
 最初は、キリストに近づくことは、生きることやとおもって近づく。私も、昔はそないおもうて近づいたんです。でも、死んじゃうんです、自分は。死なないとぐあいが悪いですね。パウロは、この境地を「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2-20)というふうに言うた。これは奇妙な言葉です。「キリスト我が内に在りて生くるなり」の「我」は、イエスになっちゃう。ところが「最早われ生くるにあらず」という「われ」は、パウロ自身であるはずです。たしかに「われ」が変わっちやってる。つまり自分が変わるわけです。変わらないと、聖書に言われているところの「人もし更めて生まれずば」(ニコデモ問答。イスラエルの教師であったニコデモに主が言われた言葉。「人もし更めて生まれずば、神の国を見ること能はず」ヨハネ3-3)、ここは一部のキリスト教では「新生」といってるんですけども、もし今申し上げたように、中身がすっかり入れかわらないとすれば、それは観念的な言葉にすぎない。つまらんです。新たに生まれたつもり。新たになったつもり。死んだら天国に行けるつもりですね、これは。 だからイエスを生活するためには、いっさいの観念を排除せなあかん。とくに、宗教観念がいちばんいかん。もう、そんなの取っちまえ。

旧約の神と新約の神を分かつものは媒介である。イエスという人格を媒介にしてイエスを生きることができると千石剛賢は言っている。旧約のヤハウェの神はバイオレンスで、怒りに触れないように生きることしかできない。だから「ヨブ記」のような生を脅迫するだけのものが生まれる。そんなもののどこかいいのか。旧約から新約への跳躍は人類史的な表現の転回点だと理解してよい。神と人びとのじかの関係は適者生存をそのままなぞることしかできない。イエスが実在したかどうか、そんなことはどうでもいい。神の子であるイエスという観念の大発明が神と人びとのつながりにある手がかりを与えた。この発明には巧妙なしかけがある。原罪を負う民はイエスになることができないという逆理が神の子であるイエスという媒介と共に挿入されている。ひたすらにキリストであるイエスを信心するしかすべがないのだ。ずるいと思う。ああ、この世には神も仏もいないという心情になることはだれのなかにも起こりうるが、その神や仏は相対的善の表象である。イエスという人格を媒介にして神への廻向を捧げても、往相の生をうることはできるが、還相の廻向を手にすることはできない。だからヴェイユは不在の神に祈ったわけだ。
千石剛賢の「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」というパウロ理解はふかい。身体が亡ぶことが死ではないと千石剛賢は理解している。この理解は意図せずに親鸞の正定聚と重なっている。生きるごとに死ぬ日々にキリストが「我が内に在りて」生きるというのだ。よくわかる。レヴィナスが自己は起源に先立って他者へと結びついていると言うとき、自己の自己性と第三者性は切り結んでいない。他者へと結びついたときその自己は自己という領域になるほかない。レヴィナスは生涯このふしぎを知解することができずに、自己の自己性を第三者として疎外し国家の正義を要請した。

  2

原罪についての千石剛賢の考えたことを追尋する。箱舟の会員がヨハネによる福音書にある「私は世の光である」ということの解釈を述べると、千石剛賢がつぎのように言う。

 これはもちろんイエスの名です。実質なんです。人間とはなんぞやという問いに対する答えなんです。イエスという人格はね。だから、イエスという人格を抜きますと、問いのままになっちやいます。答えがないんですね。そこで、いろいろと答えを出してみたところで、ぜんぶ誤解ですね。だめなんです。ですからイエスという人格は、その名は、人間の人間とはなんぞやという問いに対する答えでもありますし、また、神が人間にかかわられる場だともいえるんです。「知恵」とも「場」ともいえます。
 だから、隠喩的に「光」と言ってありますけれども、それはイエスの人格、またはイエスの存在の実質なんです。これは、原罪を取り除くところのすばらしい神の知恵でもあるし、力でもあるんです。そやから、イエスによらなければ、原罪は除かれないんですね。
 これもユダヤ人がたいへんつまずいたことなんです。イエスが「汝の罪はゆるされた」とおっしゃったことに対して、けしからんと、このやろうは。人間のくせして、神の子気取りをしよって。神のほかに罪をゆるすことができるかいと。それが「罪はゆるされた」なんてとんでもないこと言いよってけしからんゆうて、ユダヤ人はすごく立腹してますよね。イエスを十字架につけるひとつの原因になってたでしょうね。倣慢すぎる、けしからんと。
 しかし、けしからんことは、なにもないんです。ユダヤ人は、とんでもないことを知らなかったのです。かれらは真剣に、神が罪をゆるされるんだ、神しか罪がゆるせないんだと思い込んでいたのです。これはまちがいなんですね。神は罪をゆるせないんです。だから聖書では、「人の子、地にて罪を赦す権威あることを」(マタイ9-6)と、こういう表現がしてあるんですね。
 ヘブライ民族というのは、存在ということについての知恵は抜群の民族なんです。ところが、わからなかったんです。神が罪をゆるせると思い込んでいたんです。だから、イエスが「汝の罪はゆるされた」なんて言われるから、このやろう、なにをぬかすと。けしからんと。これは聖書にも書いてありますよ。神のほかに罪をゆるすことができるかと。こういう倣慢なやつはぶっ殺さなしゃあないと思ったんでしょうね。けど、たいへんなまちがいを起こしたんです。キリスト教のある一派の人々でも、そういうふうなことを思ってる人があるかもしれませんね。神が罪をゆるすと。
 神は罪をゆるせない。絶対にゆるせないんだ。これを別の言い方でいいますと、神は罪を認めないんです。だから助かるんです。神が罪を認めたら、神に自己矛盾が起きてしまうんです。簡単にいうと、罪が実在になってしまう。そうなったら、誰もかれも助からへんです。そうでしょう。神は罪を認めません。ゆるせないんですよ。罪をゆるすというのは、人の子だけなんですね。だから、今もなお神は罪を知りません。
 これは、喩えとして聞いていただいて結構ですが、だいいち、神が罪をゆるすとかどうとかゆうことになったら、罪を認識せなならんことになる。神が罪を認識したら、神の心の中に罪が入り込む余地があることになる。こんなもん、えれえことになっちゃう。神の心にあるものは、「光あれと言たまひければ光ありき」(創世記1-3)というように-神の心ゆうたら変な言い方ですけどね。擬人的にゆうたら、ちょっとぐあいが悪いんやけれども-神の心の中に罪が入り込む余地があったらどうにもならないんです。罪が実在化してしまいますからね、これはゆるせません。ゆるすすべがないんです。ところが、ありがたいことには、「神は不善を見ず」です。罪を認めません。ですから、罪をゆるすことは、神はされないんです。罪をゆるすのは、人の子だけなんですね。この間の消息に関しては次の機会に詳しく説明したいとおもいます。

ユダヤ教がキリスト教に飛躍したとき、この新宗教にイエスという人格と原罪が導き入れられた。神と人とのじかの契約は神の都合を忖度する無慈悲なものだから、神の子であるイエスという人格を媒介に人びとと神の距離を詰めようとする宗教が新規に発明された。原罪とはなにか。なぜ原罪をキリスト教は必要としたのか。おそらくここには宗教の起源に関する秘儀がある。宗教もまたはじまりの不明を抱えこんでいるのではないか。人間の精神の夢が自己意識の至上物として外化されたものが宗教であるという見解はつまらないので却下する。神という超越に神の子であるイエスという人格を媒介に挿入することで神と人のつながりを近しいものにしながら、なぜ民は原罪は負わなければならなかったのか。ここにどんな逆理があるのか。神は自己意識の外延的な表現の極限であるから空間化するなという戒めが意識の素過程として込められているのではないか。そのことに神という超越は答えることができない。尋ねはするなよ答えぬぞという戒律が秘められているように思う。あるいは答えることができないと言うべきか。この思考の限界は存在の複相性を挿入すると、竪超の信を親鸞ら横超で破ったように、ひょいと越えることができる。神は意識の外延性が表現されたものではなく意識の内包性が同一性を担保として表現されたものであると考えると、ヘーゲルのはじまりの不明が宗教のはじまりの不明まで外延される。ヘーゲルにおいて不明なものは宗教の的信の起源においても不明であるということ。内包のきりのなさが同一性の化身である超越神として外化されたということだった。ヘーゲルのはじまりの不明を神という観念のはじまりの不明まで巻き戻すことができる。一気に宗教的信の表現史を拡張したことになる。意識の外延性をどれほど緻密にしてもはじまりの不明をつかむことはできない。滝沢克己のインマヌエルをたどろうと、千石剛賢のイエスを生活するを追尋しても、それは変わらない。キリスト教の原罪はおおまかに親鸞の極悪深重や悪人正機と重なるが、わたしはべつものだと思う。親鸞のそれのほうがはるかにやわらかい。インマヌエルの原事実もイエスを生活するということも、神の近傍まで漸近することはできるが、神と人びとの生は隔てられている。絶対に分かつもののない隔たりと、絶対につなぐことのないつながりを侵犯することはならぬと宗教は諫める。なぜか。かんたんなことだと思う。宗教の教義が解体するからだ。千石剛賢はその間近まで行っている。

 創世記をもし神話にしてしもうたら、ほんとうは新約聖書は解けないんです。でも理詰めでみると実際、「園の中に生命の樹および善悪を知の樹を生ぜしめ給へり」(創世記2-9)という表現にはやっぱり、ふざけるのもええかげんにしてくれって言いたくなる。「園の中」といったら、中央です。中央に二本生ぜしめることは不可能です。中心の左右とか前後ということになるはずです。聖書の表現は、もう不合理もいいとこです。
 誰やか知らんけども、聖書では 「善悪を知の樹」と表現してあるのに、したり顔をして 「知恵の樹」とか言うんです。どこにそんなことが書いてあるんです。「知恵の樹」なんて書いてないんですよ。「善悪を知の樹」なんです。しかも、それが園の中心に二本生ぜしめてあると。そんな器用なことはできへんのです。ところが神は、そういう器用なことをされてるんです。中心に二本生ぜしめるゆうたら、生ぜしめ方は一つしかない。どっちか先にとりあえず生ぜしめさしておいて、その葉っぱの上に、もう一本を生ぜしめなならんです。そんな樹は知らんわ。
 ということは、これ、一本なんです。二本だけど、一本なんです。「生命の樹」と「善悪を知の樹」というのは、二本じゃなくて、一本なんです。一は即多であり、多は即一なんです。平面的な感覚では、どうしても二は二なんです。一は一なんです。二が一になったり、一が二になったり、絶対にしないんです。ところが聖書ではそうなるんです。そういうことに慣れた感覚が、ヘブライ感覚ちゅうんですけど、ヘブライ人の感覚はだいたいそういうのに慣らされていたんですね。二が一になったり、一が二になったりするんです。ですから、これは二という表現がしてあるけど、実は一本の樹なんですね。

希有な思想家千石剛賢はこなれた言い回しで内包の起源に思わず知らず触っている。「一は即多であり、多は即一」であるという言い方はかれのなかのあいまいさであるが、1が2であり、2が1であることは内包の核心をなしている。唯一神は存在の内包性を切断して同一性に憑依した信である。わかりやすくいえば唯一の超越神はそれ自体のなかに存在の根拠をもっていない。だからわたしは超越神は同一性の化身であると言ってきた。旧約のヤハウェは生の不全感の体現者である。なんと、神自身が自身にたいして不如意なのだ。創世記は神話ではなく、創世記に信の起源があるとすれば、宗教的信がそれ自体のなかに矛盾を抱えることになる。しかし神と人びとの契約は共同的な信であるから、人びとの一人ひとりにとどくように信がもたらされることはない。この絶対的な矛盾を解決しようとしてキリスト教が誕生した。自己の信であると共に共同的な信であるということは深刻な矛盾を信の内部にはらんでしまう。この矛盾を回避するにはいかなる信の空間化もせずに不在の神という言葉に祈るしかない。不在の神に向けて祈るときかろうじて共同の信からまぬがれる。この可視化できないヴェイユにとってだけ存在する固有の神とはなにか。無限にじぶんをちいさくすることで神とであうとき、おのずとヴェイユは神と融合し、神を根源の性として、自己を領域のように生きたというしかない。それは神が同一性の殻を脱ぎ捨てて存在の内包性そのものになることを意味する。神が神のままで内包を措定することはできるか。そこにヴェイユはひとりで立っていた。ひとりでいてもふたりという生の知覚を神という超越で表現することはできない。人間にとって自己意識の無限性のようにあらわれる神という超越の同一性の素過程は根源の性を淵源としている。〔と共に〕は〔根源の性〕においてはじめて可能となる。なによりこの信は共同化できない。(この稿つづく)

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