日々愚案

歩く浄土242:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理1

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特別機密保護法の成立をきっかけに、壊れつつあるこの国のありようを直視しながら、未知の世界を構想しようと片山さんとの対話をはじめた。米国に追従して戦争をできる国にする戦争法(安保法)や共謀罪も法となり、憲法改正が日程に上がっている。戦後は総敗北した。国民の生活の底にはおおきな穴が開き、生活苦が主題になりつつある。これはじぶんのなかで実感としてある。アベゾウの酷薄や冷酷からは狂気が漂う。なぜここまで戦後の理念は総敗北したのか。国民国家と経済がビットマシンと融合した科学知や技術が国家という理念を非関税障壁の最たるものとみなすように世界が変貌したからだと思う。どれほど民主主義の理念を唱えても空しい空念仏である。民主主義の理念の底は瓦解している。
総表現者という理念には二重の意味がある。ビットで生を刻む文明史の転換に知を采配する生の分割統治という知識人の役割というものがまったく無効になったということ。体制的か反体制的かを問わない。ビットマシンと融合した科学知や技術が生を断片化するとき、そのむきだしになった生の断片を采配する者たちは、人びとを新しい世界システムの属躰として馴致する。人格を媒介としない自然が粗視化され、人びとはそれが生であると順応していく。反体制的知識人という概念は消滅する。かれらは民主主義という空念仏しか称名することしかできないからだ。かれらが世界を未知の世界を公然と構想することはない。意識の外延性はビットマシンと融合する諸学が企図する文明史の転換を自然なこととして受容するから、人格を媒介としない生の条理はより過酷なものとなっていく。片山さんが最新サイトでそのあたりのことをうまく書いているので引用する。

いまぼくたちの足元に広がっている荒野とは、たとえばこういったものだろう。何もかもが剝き出しである。剝き出しの生存競争、適者生存、文明のただなかに現れた弱肉強食の世界である。結局のところ人間は、このような自然しかつくってくることができなかった。それは動物たちの自然からははぐれているけれど、共同幻想を介して動物的自然へ回帰していくものなので、どこまでいっても弱肉強食なのである。
  現に世界のどこへ目を向けても、人々の生は非情な荒野に投げ出されており、動物たちが死闘を繰り広げるように、人と人が剝き出しの状態で争い合っている。こうしたありさまに「嫌悪の情」を催し、動物化しないための戒律や規範をつくり、宗教や法や国家を構築し、近代に至っては民主主義や人権思想を発明し、ここまでやって来た。そうしたやり方が、全面的に行き詰っている。(「小説のために 第十六話」)

この事態を嘆くことによって急峻な時代の軌道を変えることはできない。ここでも総表現者という理念が効いてくる。知によって分割統治される人びとの人格を到来する文明史の転換は一顧だにしない。人格というコストパフォーマンスの悪い理念を、人格を担っているそれぞれの生をビットや分子言語に還元し、ばらばらな素子に解体することで、ばらばらな情報を商品として発売し、人びとがそれを購入することになる。そこにはもうどんな生の固有性もない。総表現者のひとりを生きるときかろうじて世界システムの属躰であることに抗命できる。総表現者のひとりを生きるとき、固い生存の条理の手前にやわらかい生存の条理を可能とする内包自然があることを知らず問わずに識ることになる。内包自然の大地を総表現者のひとりとして歌い、踊り、舞うとき、どんな強いAIが跋扈しようがここに侵入することはできない。この理念を確乎としたものにするために第三者を疎外した固い生存の条理の大元をなす神という超越の起源に迫っていきたい。

社会的な存在の意識が経済という下部構造から規定されているようにみえて、しかし意識がなければその意識のありようを指さすことはできない。おなじように無意識から意識がつくられているようにみえて、意識がなければ無意識を措定できない。ここになにがあるのか。意識はだれがどうやろうとはじまりの不明を抱えこむということだと思う。これも同一性のなぞに属することだが、ユダヤ教の神のなかからキリスト教のイエスがあらわれたことの意味がずっとわからなかった。なぜ旧約聖書から新約聖書がでてきたのか。おおむね半世紀のあいだ釈然としなかった。イエスはユダヤ教の信徒をパリサイ人だと苛烈に批判した。律法主義を第一義とするユダヤの神を奉ずるレヴィナスの立つ瀬が立つ瀬がなくなるじゃないか。ユダヤ教であれキリスト教であれ、いずれにしても信の共同体をつくることにおいて変わりはない。天上と地上の位階性も変わらない。言葉はもともと同一性の手前あるにもかかわらず、なぜ同一性に統覚された事象としてしか神はあらわれないのか。ユダヤ教の神もキリスト教の神も、いうまでもなく、あらかじめ、暗黙に同一性を担保にして、その同一性のすきまをうめるものとして表現されてきた。そうするとユダヤ教の神とキリストの教の神はどこがちがうのか。わたしはニュートンの古典力学とアインシュタインの相対性理論ほどのちがいがあるように思う。

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半世紀にわたりわたしを拘束してきた解きがたい問いを滝沢克己の思想の軌跡を追いながら考えていく。東京帝大法学部に進学するが、俊才が説く法の根源のあいまいさに学ぶことのむなしさが襲い、九州帝大で哲学を勉強するが、そのむなしさはつのるばかりだった。じぶんがじぶんに疎隔されている。そういう生の感受性が幼少の頃から滝沢克己にあった。

 それは私がまだ幼なくて、十一歳を少し過ぎた頃でした。私の町から遠く離れた田舎にあった学校からの帰り道、ある日私は、じやが芋(いも)を洗うために裸足(はだし)で小さな水車を踏んでいる年老いたお百姓を見かけました。日本の夏の終りがいつもそうであるように、暑い午後でした。そうしてあたりはすべて見馴れた風景でした。それにもかかわらず、突然、ある奇妙な思いが、―「あの老人は結局のところ何のために、あんなふうにかれの仕事を続けているのだろうか」という奇妙な疑いが、私の胸に浮んだのです。太陽は明るく輝き、家路はいつもの道でした。それにもかかわらず、私はまるで、(どうしてかは分りませんでしたが)見知らぬ、深い森の中へ移しおかれ、濃い霧に包まれて、たった独りでそこにいるかのように、感じたのです。しばらくして私は、また家路を辿り始めました。そのとき私は、その奇妙な瞬間を、それと意識して長く心にとめようと思ったわけではありませんでした。しかし、その出来事の余韻は、その後私から消え去るどころか、時とともにますます大きくなって、とうとう私は次のような問いから、もはやどうしても逃れることができなくなったのです、―「この私はそもそもどこにいるのか。私はいったいどこから来たのか。私は結局のところどこへ行くのであろうか。」
 その時から私にとって生活は、いわばその実在性と意味を喪失しました。目的のない努力というひそかな感じを懐(いだ)くことなしには、私は勉強することができなくなりました。友達と話をする時には、まるて眼に見えない厚いガラスで隔てられてでもいるかのような感じがしました。どうしてこうなったのか、どうしたらこの窒息しそうな状態から脱け出ることができるのか、それが判然となることを私は心底から願いました。(滝沢克己『現代の事としての宗教』1965年7月15日、ベルリン自由大学における講演の一節)

世界と厚いガラスで隔てられた生活を送るなかで、ふと目にした西田幾多郎の著作を読み、感想を雑誌に書き、それがたまたま西田幾多郎の目にとまる。滝沢克己の論文にいたく感激した西田幾多郎はあなたほど私の考えをふかく理解した人ははじめてである。感動した、一度遊びに来ませんかと書簡を滝沢克己に送る。次のようなエピソードがある。「また、こんな話もあります。田辺元博士が、西田先生に迎えられて京大教授となり、西田哲学に強く影響されながら、一方で厳しく西田先生を批判されたことは周知のところですね。そのとき西田先生の高弟たちはほとんどが田辺説に傾いた、そのころのことです。西田先生が『滝沢君だけは田辺説にけっして賛同しないだろう』と言われたというのです。以上のような話をいつか亡き鈴木大拙先生に話したことがありました。大拙先生は、私の話に深くうなずきながら言われました、『そうか、西田がこんなことを言うとったわい。『自分が育ててきた京大の弟子たちよりも、自分の考えていることをいちばんよく理解している男が一人いる。それはキリスト教の男だがな』と。それが君の言う滝沢さんという人だろう』。これは西田哲学と滝沢神学(インマヌエル哲学)との間を語る重要な証言だと、私は思います。」(八木誠一・秋月龍珉『ダンマが露わになるとき』秋月龍珉の発言)田辺元は種社会進化論を奉じ天皇制を賛美した。たしか西田幾多郎は近衛内閣のとき、太平洋戦争の聖戦文を起草している。

西田幾多郎と会い、バルトを薦められ、新婚間もない滝沢克己はシベリア鉄道を一週間横断し、フンボルトの留学生としてドイツに到着し、紹介状ぬきにバルトの家を訪れ、聴講したいと申し出る。

 カール・バルトという名を私が初めて知ったのは、たしか昭和六年(一九三一年)、故西田博士の『無の自覚的限定』に収められたある論文のなかだった。
  「バルトのような深い考えの出てくるのは、さすがドイツだと思う」。
 その当否はともかく、同じころ読売新聞の座談会でこういわれた博士の言葉は、なぜかいまも私の記憶にはっきりと残っているが、それでも、そののちまもなく、その人から親しく教えを受けることになろうとは、夢にも思いもうけなかった。
 ところが、こえて昭和八年の秋、いよいよドイツに出かけることになって、鎌倉のお宅に初めて西田先生をお訪ねすると、先生は、物そのものが物を言うとでも形容すべき例の調子で、ずばりといわれた。

 「ハイデッガーはつまらぬものだ。かれには『不安』とか『死』とかいうことばかりがあって、かんじんのGod(神)がぬけている。・・・いまドイツではとくにこれといっておもしろい哲学者はいないようだ。むしろ神学者の方がおもしろい。なかでもバルトがいちばんしっかりしている。しかし、ナチスに追放されて、いまはもういないということだ」。

 しかし、W・Ⅴ・フムボルト協会の給費生として、私はドイツ国内でだけ勉強するようにきめられていたから、そのときにもまだ私は、バルト先生に会うことさえ、まったく考えていなかった。
 こうして、私は、一九三三年の十一月末、誰に学ぼうというあてもなく、ベルリンの駅に降り立った。ちょうどナチスが政権を握った年、国会炎上の裁判の結果がやがて新聞に発表されようという頃だった。
 街々の窓から窓へ、にぎやかに張りわたされたハーケン・クロイツと、プロシャの三色の旗の波の下、軒ごとにヒトラーの巨大な肖像を飾ったショーウィンドー。そのなかに一つ、「今日の神学的実存」の第一冊が、片隅をピンでとめられてななめにさがっていたのが、いまもあざやかに私の印象に残っている。
 ナチス・ドイツの人たちは、当時の日本を盟友と信じて大いに歓迎してくれたはずだが、言葉のほとんどわからない、貧乏でひとりぼっちな学生だった私の自尊心は、そのためにかえって、しばしば深く傷ついた。そういうとき、私は、うすぐらいベルリン北部の四階の私の巣で、よくじっとして、ながいこと机の上にうつぶしていた。すると、ふしぎなことに、そうして底なしに沈んでゆく私とは何のかかわりもない何かが、こつんと私を支えて、ふいに私の肩を軽くし、ほのかな光とともに、もう一度私の頭をあげさせるのであった。
 そんなふうなある日、私は留学生のクラブで食事中、ふとカール・バルトがまだボンで講義をしているという事実を知った。一つはむろん言葉の分からないせいでもあったが、ベルリンの講義はいっこうに面白くないので、私はさっそく、四月からボンに移る決心をした。そしてその準備のためにもと、乏しい財布の中から、カール・バルトの『ロマ書』を買い求めた。
 「キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の福音のために選び別たれたるパウロ―」
 生まれて初めて、私は新約の書簡に接した。それなのにどうだろう! バルトのドイツ語は、読みはじめた最初の日から、私にとってfremd(無縁)ではなかった。それを受けいれるのにすこしの無理もいらなかった。ながく親しんできたカントやフッサールの哲学はむろん、最も近しいはずの西田哲学の文章にくらべてさえはるかに「自然に」、私の胸にしみとおった。あの堅い、目に見えぬ何か、―いつも私の知らぬまに私の所に来て、私を支え、警め、励ましてくれたその誰かが、いま親しく、しかも今まで知らなかった明らかな人のことばをもって、その祝福を告げたのである。

 聴講生は世界各国からの留学生をふくめて四、五百人。遠くからは聴きとりにくいので、私はいつも前から三、四列目、講壇のまんまえの、スイスからきた学生たちのなかにまじって、席をしめた。
 最初の時間、私は思いもかけなかったことだが、先生はまず讃美歌の本をひらいて、その一節を合唱することから始められた。そうして講義の内容は、これもまた私にとっては実に突然、「処女マリアの受胎」の一節だった。ところが、それさえすこしも、私を当惑させはしなかった。私にとって深い驚きだったのは、それよりもむしろ、教壇の右側の入口から先生がゆさゆさとはいって来られたその瞬間から、すでにそこに醸し出された雰囲気が、その晴れがましさにもかかわらずなぜかきわめて自然であって、何一つ異様にひとの気をひくようなもの、故意の姿勢を強いるようなアクセントを含まないということだった。私はいつものとおりそこにいた。ただじっとして先生の顔を見つめたまま、先生のことばに耳を傾けていた。先生は私などむろんのこと、いかめしいナチスの制服に身をかためた学生たちさえまるでそこにいないかのようにゆっくりと、スイスなまりのドイツ語でお話をつづけられる。いやそれは、先生が話すというより先生自身が何かにじっと耳をすましているというふうだった。大がらな先生のからだそのものが、言葉のない言葉にゆすぶられて、ある時は息をつめ、ある時は大きく息を吐くようだった。
 一時間を終わって外に出たとき、私はかつてない心の安らぎを覚えた。教室にはいるということは、それまでの私にとって、いつも何か特別のものになることを求められるということだった。ところが、さいわいにもいま私は、私がすでに置かれているそこで、一厘一毛の背のびもせずに、至高の学を学びつつあった。そこではすべてが真剣ではあったが笑いに満ちて、どこか幼な児の遊びに似ていた。(『聖書のイエスと現代の思惟』所収「バルト先生の人と神学」)

バルトに圧倒的な影響をうけ、すぐにバルトとのあいだに神人の理解について異同が生じる。かれはつぎのように書いている。「忠実に先生のあとにしたがいながら、「聖書原理」を信じない私の存在は、それを信じる先生の教えが私にとって不可解であった以上に、先生にとっては奇怪であった。」カール・バルトが滝沢克己に投げかけた「聖書によらずして人間が正しく神を信ずることは、原理的には可能であるが、事実的には不可能である」という問いかけに、滝沢さんは、バルト先生、ぼくは神と人との関係をインマヌエルとして直覚したとき、まだ聖書を読んだことはなかったのです、と応答している。なんとこのやりとりが34年もつづいた。同一性を暗黙の公理として人と神や仏という超越のあいだがらをどれだけ論じてももつれた糸はほどけない。わたしは、キリスト教によらずして神を語ることはできないと生涯主張しつづけたカール・バルトにたいして、キリスト教を原理としなくてもそれは可能であると言い返しつづけた滝沢さんの間合いの取り方を、そのまま滝沢さんに返したいと思う。神仏という超越の手前に内包の生がある。それがあることによって、はじめて神仏という超越が可能となるシンプルな情動のことを根源の性と名づけている。この生の知覚にはすきまがない。だから浄土が歩くことになる。

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モーゼに導かれエジプトを脱出したユダヤの民はシナイ山でモーゼの十戒として知られる超越神ヤハウェと契約する。キリスト教が出現するまでおよそ千年と考え、歴史の背景を括弧に入れ、ヤハウェからナザレのイエスまでを同一性の表現として考えてみる。ヨブの受難を深読みすることはしない。旧約の神と新約の神はなにがちがうのだろうか。神と民とのじかの契約で埋まらないものが旧約の神の概念のなかで胚胎されてきた。絶対神と衆生の矛盾が知の特異点を生じたのではないかと思う。神と人びとを結びつけるためにはなにか媒介が要請される。同一性の矛盾を絶対神との契約で埋めることができなくなったということではないか。イエスという人格を媒介にして同一性が差異性を埋める手立てとして神の子であるイエスという人格が表現として要請されたと仮定してみる。「ヨブ記」を深読みするのは健全ではないという直観がまずあった。超然と存在する絶対神との契約とはべらぼうではないか。わたしはこの神を好まぬ。超絶的な神への隔たりが尋常ではない。ヤハウェは同一性の化身ではないか。神を廻向するためにイエスという人格が招き寄せられたのだと思う。神の子であるイエスを廻向することによってどんな苦界に沈もうと一途にイエスを信仰することで神の国へ召されることができる。観念の大発明だった。イエスがキリストであるという観念は自力廻向の神をみごとに表現することができた。この信はいかなる迫害に遭おうと第三者を隣人として信を成就できる。隣人とはなにか。私性が共同的に疎外された第三者である。その第三者もまた私性としてほかの第三者を共同的に疎外する。こうして第三者は互いに見知らぬ隣人として遺棄される。この意識の外延的な表現理念からやがて、のちにカトリックと分岐したプロテスタンティズムの肥沃な精神風土を土台にして資本主義社会が誕生することになる。

吉本隆明は思想の土台に大衆を据えたが、滝沢克己はインマヌエルの原事実を「衆」ではなく、「ただの人」として表現した。連合赤軍事件の同志粛清が報道されたのはたしか1972年だったと思う。翌年春にわたしたちもおなじような出来事に遭遇した。赤軍事件の顛末をメディアは狂気の殺人集団として煽り立てた。このとき吉本隆明と滝沢克己のただ二人だけが事件の思想的な意味を真正面から論じた。連合赤軍事件への滝沢克己の発言を貼りつける。

 たとえば連合赤軍派のリンチ事件というようなものが起こりますと、あれは人間でない、非人間だ、あれは狂気の集団だ、というふうにみんな申します。政府はもちろん、あらゆるマスコミ、それから革命的といわれている政党や組合、はては当の親たちまでもが、そういうことを言わなければならないようなふうになりました。『歎異抄』のなかには、「人が人を殺さないのは、自分の心が善くて殺さないのではない」という意味の、親鸞聖人の有名な言葉がございます。しかしああいう惨いことが起こりますと、私どもはどうしても、あれは別だ、自分とは何の関係もない、というふうに思います。いわゆる「革新的政党」はむろん、「新左翼」といわれる諸党派でさえもが、ほとんどみんな、あれは自分たちとは別だ、まったく何の関係もないということを、一所懸命申しました。それはなるほど、「一皮剥けば人間みんなおんなじことだ」というようなことを言って、彼等を許すと同時に自分をも許して、そのなかに居直ってしまうというようなことも、人間にはとかくありがちなことですから、自分たちはかれらとは別だ、違うと言うそのことじたいを、一概に咎めるわけにはいかないかもしれません。けれども、そういうふうにかれらを自分から差別する時に、差別している自分自身というのはいったい何ものか、そういう自分のいま置かれている此処はギリギリのところどういう場所かということが本当にはっきりしているかといいますと、それがなかなかそうではない。そぅではなくてただかれらは非人問で、われわれは人間だ、自分はかれらのような人非人でなくてよかったということでありますと、すでにそこにひっそりと恐ろしいことが始まっている。ドイツ人はひと言でシャーデンフロイデと申しますけれども、そういうふうにかれらを非難するとき、その非難することにある快感を覚える。かれらを人間以下に貶すと同時に、知らず識らず自分を人間以上のものにしてしまう。こういう自己満足、薄暗い快感みたいなものがそこにありますと、実際にはその時すでに、何かある致命的なことが私どものなかで音もなくその作業を開始している。ああいう大変なことが起こってくるというのも、何か特別な人にだけ関わりある特別なことなのではなくて、むしろこういう眼に見えないところにその発端が潜んでいるのではないか。そういう奥深い、現実の人の生命の芯とでもいうようなところを、ふだんによく見つめ、突きつめて考えるということを、「善良な市民」とか、「教師」とか「学生」とかいわれる者たちのほとんどだれ一人としてやっていない。そのために、けっして特別に悪い人とかバカな人とかいうのではないのに、いえそれどころか、むしろ人一倍正義感が強く、頭もよく、勇気もある人たちが、ほんとうに正しく生きよう、世界中の不幸な人たちのためにもっと立派に闘おうと思えば思うほど、いろんな意味で周囲から駆り立てられ、自分で自分を追いつめて、ついにはあそこまで―「正義の革命」の名において次々に罪もない友だちを殺してしまう、というところまで行ってしまう、―こういうようなのが実際のことなのではないかと思うのです。(『わが思索と闘争』)

民主主義の自由と平等は虚構であることも滝沢克己はよく発言していた。脚下にインマヌエルという事実があることをくり返しくり返し説いていた。風通しのいい大正デモクラシーが大戦の敗色が濃くなるにつれ、左翼への弾圧が苛烈になり、獄中転向を強いられた。滝沢克己の思想は天皇制への批判を括弧に入れ、あることをないことにしている面があったが、全共闘の学生達との出会いである完成を迎えたのではないか。公私ふくめて多大の恩義が滝沢さんにはある。どういう境遇にあろうと人は自由に生きていくことができると滝沢克己は金太郎飴のようにおなじことを主張した。災難がわが身を襲わない範囲で、そのかぎりで言説をなす思索家ではない。戦争期の天皇は地上における神の顕現であるとカール・バルトへ書簡をだしている。インマヌエルの原事実がこの世のしくみを変えることはない。バルトでも、滝沢克己でもいい、かれらの信を生きるものが複数集まれば、この世と同型のしくみをつくることになる。信は内包化するほかに信を解体することはできない。

 ようやく最後に「日本的天皇崇拝」の問題について記します。これについては後日、詳細な論文を書きたいと思います。しかし今すでに明確に言えることですが、これは現在のドイツにおける「ヒトラー崇拝」とはおよそまったく異なるものなのです。こういうことが言えるのは、いわゆる「天皇崇拝」を文書として基礎づけたり解釈したりしたとされる日本の最も重要な古典が(天皇崇拝に対する)端的で最も鋭い批判-何人かの天皇に対してさえも-で満ちているということ、また批判的で国際的な精神が我が国で少なくとも今まで最も盛んだったのは、まさしく「天皇崇拝」が真剣に受け止められた時代であったということ、からであります。(何人かの天皇は日本における偉大な仏教徒でもあったのです。)私の考えでは、私たちの本来の伝統ほど人種的、民族的な高慢からほど遠いものは世界中で他にはないと思います。天皇の座が一人の天皇から次へと(基本的には天皇の第一男子ですが、しかし時々その弟へも)厳格な規定に従って「次つぎと譲られる」ことによって、そしてまた、相互にまったく異なる天皇と臣下との「不可逆的な」順位や、臣下たち自身の間の序列が、「親密な血族関係にもかかわらず」まったく厳しく保持されてきたことによって、両者は(すなわち、一方は自分の祖先および臣下に対する関係における天皇、他方は天皇および相互に対する関係における臣下は)、最も深く謙遜にされるのです。そしてこの謙遜さは自分の内から外へも注ぎ出され、それによって異なる血や文化が私たちの中に自由に入ってくることができるのです。私はこの謙遜な態度の中にのみ、万世一系の皇室の血の繋がりが数千年もの長い間(その始まりはもはや歴史的には規定できません)今日まで発展してきたという驚くべき事実の根拠を、見出すことができるのです。私たちが自分たちの天皇に「忠実」なのは、彼が「神聖なる日本の血」の「最も優れた代表者」だからではありません、そうではなく、まったく端的に、彼が私たちの天皇(「父」)であり、そして私たちが彼の臣下(「子供」)だからであります。ですから、天皇は自らの優越性を宣伝する必要も、また自らの誤りを隠す必要もありません。そして私たちは自らの功績を天皇の前でも国民の前でも公言することは必要ないのです。
 これらはすべて本当に興味ある事柄で、詳細に研究する価値のある、そう言ってかまわないのならヨーロッパの人にとっても研究する価値のある事柄です。前に述べましたように、後日これについて論文を書きたいと思っています。しかしながら、先生が 「日本の天皇崇拝」と「国家社会主義」とをもう単純に同一視なさらないようにと希望します。(『カール・バルト=滝沢克己 往復書簡1937-1986』)

かつての大戦期で滝沢克己が心境を述べている。「そこへあの戦争だ。先生のご消息さえ知る由もなく、私はちょうど傷ついた獣のようにひとり身を伏せて、かすかな息をつきながら、いつ終わるともしれぬ嵐のしずまるのを待つだけだった。」滝沢克己はここで「天皇」をインマヌエル(神、我と共におわす)の地上的な顕現であるとみなしている。なぜこういう錯覚を滝沢克己がすることができたのか。同一者の空隙を襲い、同一者を収奪する自力廻向の粋として天皇制があることは自明だが、なぜこんなうさんくさい宗教に滝沢克己はいかれるのか。心身一如を実有の根拠にするかぎり意識の外延的なこの形式からのがれるすべはない。同一者が自然に融即する見事な自然生成のしくみがここにある。それはすでにあるもので、未知をつくりだす力はどこにもない。わたしの理解では滝沢克己のインマヌエルと天皇制はちぐはぐなものとして存在している。
やわらかな生存の条理をつかもうとする試みのなかで、ユダヤ教の神がナザレのイエスという人格を媒介に神の概念を飛躍させキリスト教となり、のちに資本主義社会の精神の倫理の核となって表現され、人格という概念を外延的に産みだした観念の祖型が、イエスがキリストであるということのなかにあると識るだけで充分である。意識の外延性を意識の内包性に往還するとき、キリスト教という観念は内包の面影として存在している。だから意識の外延性を伸張すれば人権の理念が誕生することは必然であったように思う。内包への過渡として過程的にキリスト教の理念は自力廻向として存在している。イエスを生活するというイエスの箱舟の主催者である千石剛賢の『父とは誰か、母とは誰か』をたどりながらキリスト教的な信を追いかける。内包論は未知の世界認識によるたおやかな生存の条理が実現可能であることを現実的に構想している。なにより内包論を究尽すればこの世のしくみはおのずから変わることになると確信している。(この稿つづく)

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