日々愚案

歩く浄土16

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このブログをよく更新するようになりました。きっかけは日本人人質事件で日本政府が最初から救出する意図はなく見殺しにし、かれらが無惨な最期を遂げ、たまらんな、という気持ちになったからです。後藤健二さんの凜とした面貌がかつてのじぶんと重なり、なんとか、かれに言葉を届けたかったのです。自分がなにをやっているかを解る知性もなく、身の程知らずの安倍晋三という稀代のアホが、積極的平和主義に名を借りて戦争を起こそうしていることに危機感をもったことも事実です。彼の現実の認識は歪んでいます。それがなにに由来するのかはわかりませんが、大半の人の感覚と大幅にずれています。彼の言動からそれを感じます。その奇異な感じがいちばん嫌いだと言ってきました。おそらく彼は精神を病んでいます。もうひとつ、わたしのなかで内包論のイメージがふくらんできて、それを言葉にしたいと思っていたこともあります。

わたしはじぶんの考えてきたことから状況への発言をやりたいと思いました。借りものの言葉や情緒で批判をやりたくなかったのです。反政府の運動が成果をもたらすことがないということは明々白々です。どういう世界をつくるのかということについてなんの構想もないからです。それこそ空念仏です。
わたしは長年考えてきたじぶんに固有な方法で、あたらしい世界認識の方法によって、この危機を超えていこうと考えました。わたしは内包論をすすめることでそれをなそうとしています。

更新を頻繁にするようになってよかったなということがひとつあります。ブログはその日に考えたことを推敲なしにアップしています。アップしたときは絞りきったぼろ雑巾のようです。次になにを書くか、なにもないのです。でもしばらく寝ると書きたいことが溜まってくるので、それをせっせとブログに汲み出しています。

2002年に『Guan02』を出したとき、思わず前書きで、三人称がない世界という言葉を書いてしまいました。直観的に出てきた言葉です。その言葉に10年余、自縄呪縛され、頭が壊れました。考えることができなくなったのです。その呪縛からきれいに抜け出ました。2015年2月22日の夜半です。いきなり突きぬけました。夜中なのに青空が見えました。じぶんながらびっくりしています。なかなか貫通しなかった内包論が根幹のところでつながったのです。大枠で内包論の骨格は仕上がったと思っています。

抜け道のない思考の迷路についてもう少し具体的に書きます。同一性の彼方にある根源の性と分有者という考えはいまも生きています。なにも変更することはありません。しかしそれは困難がなかったということではありません。困難の極みでした。この考えだけでは行き詰まります。身をもってわかりました。分有者の連結という難解がどうしても外延論理をふっきることができないのです。10年余悪戦苦闘しました。連戦挫敗して思考が停止しました。どこにも思考の抜け道がなかったのです。わたしは思考の限界にぶちあたって考えることができなくなりました。ここをくぐり抜けるのにどう苦労したかはもういいのです。そしてやっと還相の性という考えを手にして、内包論を再開したのです。

そしてブログを更新しながら、それがだれにも起こることであり、だれにも起こりうるということに気づいたのです。だれにも根源の性は内在しているということです。そう考えると一気に楽になりました。だれにも起こりうることだと考えると分有者の連結はすらすらとできてしまうのです。ほんとに意外でした。ヴェイユはデモクラシーではない形態を希求しました。外延論理で三人称である分有者の連結は、わたしがわたしであるとどうじにあなたであるという内包の驚異によって二人称としてあらわれます。

ついにもっとも困難な難所を突きぬけました。分有者の連結など考える必要がないのです。ずいぶん無駄足を食いました。ふとドゥルーズのn個の性のことを思いだしました。ドゥルーズにはわたしの気づきがなかったのだと思います。思考の限界を突き破ることができずに追い込まれて死んだのではないかと思います。ひとごとではなかったのです。思考するということはそれだけ真剣なことなのです。

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あるときわたしの日々を変容する生の知覚が訪れました。びっくりしたのでそれがどういうことであるかいっぱい考えました。わたしに起こった不思議をなんとかわかりたかったのです。わたしのさわった熱い自然を根源の性、その根源の性を分有するものを分有者と名づけました。それで一件落着ということはなく、いっそう思考の迷路に入り込んだのです。傍から見たらわたしの書く言葉は呪文のようなものだったと思います。そのなかで10年以上かかって還相の性という言葉をつくりました。この考えを手がかりにすれば、内包論をすすめることができると思い、書くことを再開しました。それでもなにかもうひとつの気づきが必要だったのです。うすうすは感じていました。それがないと国家から降りる方途がもうひとつ見えてこないのです。その手がかりになったのが長年の友人Hさんの「重なりの1」でした。かれは「重なりの1」を縦に考えています。じつにその通りなんです。根源の性は自己にもともと内在しているのです。わたしとあなたの「あいだ」にあるものではないのです。そう考えないと分有者の連結は外延論理のしばりから解けないのです。

そしてそのことに突然考えが及んだのです。内包論が対他性をもつきっかけになると思います。ああなんだそういうことか、それならわかるとなるような気がします。わたしの言葉が呪文ということは対他性を持ちえなかったということではないかと思います。当の本人がぎりぎりとどれだけ考えを掘り進めていっても、対他性がないならお祓い文になり、思考は空転します。
あたりまえのことに気づきました。わたしに起こったことはだれにだって起こるということです。わたしに起こった不思議はだれにも起こりうるのです。だれにも根源の性が、気がつかないだけで眠っているのです。自己の深いところにもともとあるのです。

簡単なことでした。それはだれのなかにも根源の性があるということに気づいたからです。なにも特別なことではないのです。もともとわかってはいたのですが、そのことをよく自覚できるようになりました。ブログを書きながらあらためて気づいたのです。考えるのがずいぶん楽になりました。深い呼吸ができるようになりました。
わたしのなかでは、国家のない世界や、国家からどうやれば降りることができるのか、ていねいな言葉の手続きは必要ですが、その骨格が一気にできあがったことになります。そのことにも驚きました。内包論による内包親族論は可能です。

内包親族論は還相国家論と同義です。マルクスの資本論は贈与論として拡張されます。そこへの道行きはまだまだ長いものとなりますが、内心では内包思想の骨格が見えてきました。それは突然のことでした。ふっと解けたのです。解けてしまえば他愛ないものです。なぜこんなかんたんなことにいままで気づかなかったのか。わたしを不意打ちした内包の知覚はだれにでも縁があれば起こることです。いきなり襲来する、その刹那、この知覚を同一性に封印することに自覚的であればいいのですが、ある意味、生身の人がこの知覚を同一性に封じ込めてしまうのは不可避だと思います。親鸞でも悩んだ煩悩です。それでもそこが終局ではないのです。縁のたんなるはじまりです。

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いまわたしにとって自己意識の用語法は制約ではありません。外延論理と内包論理の往還のコツもつかみました。もう頭が壊れることもありません。
なにより、国家のない世界のイメージをありありと描けるようになったのです。思考として還相国家論という内包親族論をつくることは可能です。言葉でつくることができるということはその世界が実現可能だということです。なにも厳めしい叙述の体系をつくらなくてもよさそうです。要諦は一枚のコピー紙に書くこともできます。それくらいかんたんなことです。

内包論では自己のなかの絶対の他は根源の性ということになります。それはわたしにとって掛け算の九九とおなじようにたしかなことです。外延論理、つまり自己同一性ではということですが、一人称と二人称はべつの出来事としてありますが、内包論では一人称と二人称はおなじものではないのですが、べつのものでもないのです。わたしはわたし(一人称)、でありながらわたしはあなた(二人称)であるからです。わたしがじかに性であるということはこういうことです。それは自己ということに還元することもできないし、共同性に還元することもできない、それ自体の領域としてあります。わたしが根源の性を分けもつあり方を自己とは言わずに、分有者と呼んだのはそういう含みがありました。

弁別のためにその先後をいえば、根源の性によぎられることによって、内包論理では、その知覚は、じかに性としてあらわれます。外延論理にもどすと、この性は事後的に自己として認識されます。それが自己が性であるということです。自己は自己でありながら性なのです。同一性の世界では、自己が一人の他者と出会い対の世界をつくり、その対手があなたという二人称となります。I、YOU、HEの世界です。
自己が性であるということは内包論による認識です。すでにわたしは外延論理と内包論理を自在に往還しています。意識は自然に切り替わります。コツをつかめてきたということはそういうことです。

もう少し言いたくなりました。次のような言い方をよくしてきました。「あるものがそのものにひとしいというとき、あるものと、そのもののあいだに根源の一人称をおくとどうなるか。あるものとそのものは内包の関係にあるから、厳密には同一とは言えない」。
この言い方はまだあいまいだったと思います。あるものとそのものの「あいだ」におくとどうなるかという問いの立て方がよくないのです。この言い方に縛られていたことも混乱の原因だったのです。「あいだ」は空間的な概念です。じぶんに内在する垂直な概念としていえばよかったのです。つまりそのことに気づくとか気がつかないということとはなんの関係もなく、それぞれのひとのいちばん深いところに無限小のものとして根源の性はひそんでいるのです。迂闊でした。

そうするといままでいってきたことをまたべつの言い方ですることができます。根源の性によぎられて、はじめて、わたしの各自性の本態があらわれると言ってきました。だから、はじめのわたしと、よぎられたわたしは、まったくべつものです。「わたし」→根源の性→〈わたし〉となります。生存の同一性は保たれています。「わたし」は〈わたし〉となり、この〈わたし〉がじかに性なのです。〈わたし〉がじかに性であることを自己が事後的に認識します。その刹那、性は自己に隠れます。そしてそのことを忘れてしまい、自己から性に向かうのです。

こういう頭の体操みたいなことはわかい頃、吉本さんの共同幻想という考えを理解するときやったように記憶しています。共同性が外化された実体と、観念としてある共同幻想を、いまでは瞬時に息をするように切り替え可能です。慣れやコツです。概念を理解すると、ごくふつうにできるようになります。内包論理と外延論理の往還もそういうことです。自然に息継ぎができるようになります。もう自己意識の用語法は制約ではなくなりました。
この突きぬけた感じの訪れは、片山さんと緊急討議を一年持続したことも大きな要因です。なにしろ思考の電源が常時オンになるのです。昨年から好きなマッキンのアンプで好きな音をいつも聴いていることも大きかったと思います。よくピアノ曲を聴いています。好きな音になにかいつも誘われている感じがするのです。好きな言葉を切り出すことを途絶えることなくできるようになったのです。

根源の性の分有者は自己であるとともに性だから、そこでは、外延論理で三人称というものが、相互に二人称の関係としてあらわれることになります。内包論としてはそうなります。内包論のどこにも三人称はありません。三人称があるために国家ができるのです。二人称だけでは国家はできません。論述終わり、です。このことはだれの中にも根源の性があるからこそ可能となるのです。
夢中になるから固有の他者をかけがえがないと思うのではありません。太初に根源の性があるから、かけがえがないという不思議が起こるのです。そしてこのスイッチは一度オンになったら切れることはありません。だから内包の渦は、はじまりがあってだんだん深くなるのです。カザルスが触った音のように。

わたしは神仏と恋愛の彼方を、いまは神仏と往相の性の彼方と言い方を変えています。そのほうがわたしの言いたいことをよく現すことができるからです。往相の性の彼方にあるのは還相の性ということです。ここより妖しくて色っぽい場所はないと思います。
世のなかの対の世界は同一性のしばりや慣習をつよくうけます。それはそれで味わい深い世界ですが、それ自体とならず、自己と共同性のはざまにおかれ、3分の1の場所しか占めることしかできません。わたしは、それ自体で、それがすべてというあり方が好きです。わたしたちが生きている同一性の世界より、こっちのほうがずっといいです。

世界のどんなに深いものより深い世界がここにあります。その場所のことをわたしは還相の性と呼んでいます。好きよりもっと好きな世界がここにはあります。恋愛の彼方は恋愛よりもっと濃くて、ひりひり、じんじんします。姿も形もありませんが、自己の陶冶と他者への配慮が無理なく同期し、他者の生存を自己の生存の手段にしない、そのことが唯一可能な場所であるように感じています。わたしの表現の要です。
ここから折り返すと国家は消えてしまいます。国家はよくても災いだから、できもしないのに、なくしましょう、ではないのです。消そうとしないでも消えるのです。富もまた分配のしくみをいじらなくても、贈与として分有されます。ここが未知の生が可能となる跳躍点です。わたしたちはだれもが、それぞれに、歩く浄土を生きられるのです。

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