日々愚案

歩く浄土15

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好きな言葉と音があります。「胸がいっぱい」になります。
1971年、カザルスはニューヨーク国連本部で、”the Song of the birds”を演奏します。94歳のときです。
演奏の前に、短いスピーチもあります。はあはあ言いながらしゃべります。

I haven’t
played in public
for nearly forty years.

I have to play
today.

This piece is called
“The Song of the Birds.”

The birds
in the sky,
in the space,sing
“Peace Peace Peace.”

The music is a music
that Bach and Beethoven
and all the great
would have loved
and admired.

It is so beautiful
and it is also the
soul of my countly

Catalonia.

カザルスの短い詩と
鳥の歌。

そして、『喜びと悲しみ』の文章。

過去八十年間、私は、一日を、全く同じやり方で始めてきた。それは無意識な惰性でなく、私の日常生活に不可欠なものだ。ピアノに向かい、バッハの「前奏曲とフーガ」を二曲弾く。ほかのことをすることなど、思いも寄らぬ。それはわが家を潔める祝祷なのだ。だが、それだけではない。バッハを弾くことによってこの世に生を享けた歓びを私はあらたに認識する。人間であるという信じ難い驚きとともに、人生の驚異を知らされて胸がいっぱいになる。バッハの音楽は常に新しく、決して同じであることはない。日ごとに新しく幻想的で想像を絶するものだ。こういうところがバッハで、自然と同じように一つの奇跡である。
 私の一生で、自然の奇跡をあらたな驚きの目で眺めない日は一日もないと思っている。山襞のかげりにしても、朝露にきらきら光る蜘蛛の巣も、日光にそよぐ木の葉もそうだ。私は常に格別に海を愛してきた。できるだけ、いつも海岸で暮らすようにしている。この十二年間、プエルトリコに住んでいるのもこのためである。私は仕事にかかる前に海岸を散歩するのが長いこと習慣になっている。なるほど、昔に比べると最近の散歩の時間は短くなった。だからといって、海の驚異を感ずることが減ったというわけではない。海はなんと美しく神秘的だろう。無限に変わっていく。一瞬から次の瞬間へと決して止まることがない。絶えず変容して、いつもなにか異なる新しいものになっていく。(10~11p)

なにか大事なことがぜんぶ言われていると思います。カザルスは理念を語っているのではありません。終生フランコ独裁政権への抗議と反ファシズムの立場を貫いた硬骨漢です。ヒットラーの前で演奏をして欲しいということを即答で断ります。
音によぎられた、想像を絶する信じがたい驚異と歓びが、かれのチェロだと思います。
なにか「胸がいっぱい」になります。カザルスは、音を説明するのではなく、音を生きたのです。そのことが聴く者に響きます。わたしは性をそういうものとして生きたいのです。

「モラルとは直観です。そして直観とは明々白々たる体験のことです」(『エンデと語る』子安美知子)と語るエンデにもおなじようなことを感じます。「あなたが自分の自我を認識しようと思うなら、それを自身の内部に探しても、まったく無意味です。あなたの相手に他者のなかに、あなたの自我が見つかります」。(同前)そのエンデが言います。

 オデュッセイやイーリヤス、千夜一夜物語、ドン・キホーテ、私たちの昔話、ファウスト、バルザックやドストエフスキーの偉大な小説、シェイクスピアのドラマやコメディ|これらはすべて、何かを証明したり、論証したりするものでは決してありません。これら自体が何かなのです。これらはそれぞれの世界を描きだしているのであって、世界の説明をしているのではありません。ここで私は、あるロシア人の人形使いのことを想い出さずにはいられません。その方に私は一度お会いする光栄に浴しました。その方は何年もの長い間、ナチスの強制収容所に入れられておりました。ほんの僅かのじゃがいもの残りから、彼は少しずつ指人形の人形を一揃いつくりました。そして監視人が近くにいないとき、それで子どもにメルヒェンを演じて見せ、子供を笑わせました。また、子どもたちといっしょに、子どもたち自身の運命、さらにはその死さえも演じました。判決を受けた人と共に、死刑執行の前夜、その人の運命を演じたこともたびたびでした。それを演じた彼のそのやり方が、死刑を前にした人々に、再び自分たちの尊厳を思う気持をとりもどさせたのでした。彼らは死なねばなりませんでした。しかし、その死に方が変わりました。泰然と、心安らかとさえ言えるほどになったのです。それがそれらの人々に何の役に立ったのか、と問うことも確かにできるでしょう。けれども、私はそういう問いはいたしません。(『なぜ子どものために書くのか?』ミヒャエル・エンデ/上田訳)

「けれども、私はそういう問いはいたしません」とエンデが言うとき、それはエンデの生存感覚に根ざしたなにかです。理念ではありません。理念のさらに奥にあるリアルななにかです。ヴェイユが匿名の領域によぎられて「聖なるもの」という言い方をするとき、それは理念ではありません。もっとリアルなものです。

人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない」(『ロンドン論集と最後の手紙』(「人格と聖なるもの」杉山毅訳)10~11p)

どれを読んでも「胸がいっぱい」になります。それぞれの個性的な言い方で言われていますが、おなじことを言っているのではないかとおもいます。どの言葉も世界を俯瞰していません。そこにいてそこが生きられています。こういう言葉が好きです。

カザルスの「胸がいっぱい」になることや、エンデのモラルは直感であり、直感とは明々白々な体験であるということや、ヴェイユの「聖なるもの」は、剥きだしの世界の無言の条理とどう向き合うことができるのでしょうか。これらの言葉をわたしは自身の体験を重ねながら反芻しています。

    2
パウル・ツェランが言います。

もろもろの喪失のただなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起こったことに対しては一言も発することができませんでした―しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けていったのです。抜けて行き、ふたたび、明るいところに出ることができました―すべての出来事に「ゆたかにされて」(ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶)

言葉は一度潰えると思います。言葉は無力です。わたしの体験からはそうなります。言葉の背骨は抜き取られます。「死をもたらす弁舌の千もの闇の中」で言葉は潰れます。それでも「言葉はこれらの出来事の中を抜けていったのです。抜けて行き、ふたたび、明るいところに」。同一性の彼方からの襲来です。同一性のしばりの彼方に広大な生の未知があるのです。おのずとそこを抜けて、ふたたび、明るい場所に出ることができるのだと思います。自力ではありません。意志の力でもありませ。おのずから、です。わたしも地獄の底板を踏み抜くようにして熱い自然に触れました。わたしはその驚きを根源の性と名づけたのです。人であることの背後で息づく熱い自然について『内包表現論序説』と『GUAN02』を書きました。

その頃は根源の性の分有者という言い方をよくしていました。根源の性の分有者は、自己に先立ち、じかに性なのですが、分有者の性には往き道と帰り道があったことに当時は気づきませんでした。往相の性と還相の性があるのです。
いまわたしの表現の理念は還相の性を礎にしています。たったこれひとつでグローバリゼーションの猛威と、グローバリゼーションに追い詰められた無道な反逆者どもを、ともに迎え撃っています。おうかかってこいです。

人倫が決壊する善悪の彼岸と、カザルスの触った音やヴェイユの言葉はどういう間柄にあるのか。しきりにそのことが気になります。知識として語りたいのではありません。わたしの生存感覚をもっと言葉にしたいのです。書けぬことも書かぬこともあります。そのことを普遍的に言いたいのです。

ちょっと休憩です。夭折した漫画家坂口尚の作品に『紀元ギルシア 』というのがあります。関心のある方はぜひお読み下さい。あっ、かれには『石の花』と言う作品もあります。名作です。こちらもどうぞお読み下さい。下手な説明はしません。ぜひお読みされることをお薦めします。読んで損はしません。かれの先見性にびっくりしますよ。先の引用の人たちにつらなる息づかいができる人です。
昨晩遅くに、ヤマザキマリの『プリニウス』のⅠとⅡをアマゾンでポチったらまだ夕方なのになんともう届きました。この人の漫画も面白いです。『テルマエ・ノマエ』は笑えました。

人は閉じた共同観念の内部にいてその観念に信をもつときどんなに惨いふるまいもできます。日本の軍隊がかつての戦争のとき、中国でやったことです。戦争のなかではありふれたことです。やがて内省とともに狂気の共同幻想として片づけられます。なにかそれでは片づかないのではないか。イスラム国を名のる無道の者らによって日本人人質が惨殺されたときに、閉じた共同幻想の信以上のものを感じました。報道や本で知る、ボスニア・ヘルツェゴビナの殺戮のときも、ルワンダの殺戮にもおなじものを感じました。一瞬で人間は太古の精神の形象に憑くことができるような気がするのです。
白川静が書いていることをすぐ思いだしました。

くらしの地所の四隅に図像文字を刻んだ青銅の呪器を埋めたり、道を歩くとき首をぶら下げ結界を張り、未明の時代をおののき生きた太古のひとびとの面貌を空想のうちで思いやるとき、文化人類学は巨大な錯誤を犯しているのではないかという疑念がよぎります。物たちと逍遥遊しながら喰い寝て念じ、おのずと物たちと死別し、みずから物たちのあいだに挟まって生きるありようは、歴史としても人間の現存性としてもほんとうはまだすこしも表現されていないのではないか、そんな気がします。(『guan02』138p)

わたしは人類史の全体をモダンと定義したいのですが、太古の面々が自然と亀裂を生みそこに観念というものが自生し始めた頃の太古の精神の形象というものがあるような気がするのです。自然からむっくり起き上がったこの観念はそれがなにであるかもまだ分別されていません。自然から離脱することからくる激烈な恐怖の作用と自然への回帰したい反作用がどうじに生じたと思えるのです。明暗不明で自他未生の生です。文明という薄い皮膜を取り去るとわたしたちは一気にそこまで退行できるような気がします。それが出来事のいちばん根っこにあるのではないか。そう思えてなりません。フロイトが触った自然であるエスをそこまで拡張したい誘惑があります。

わたしたちの生命形態の自然は太古に環界から身分けをうけ、そのなかに言分けを封じ込めたのです。それが綿々とわたしたちの現在まで連なっているのではないか。音声言語で気配のようなものを互いに察知し共有することができましたが、文字を媒介にしないとそのことを言い当てることはできません。

安田登さんは『あわいの力』のなかで、甲骨文字や金文は「殷」の武丁王の時に生まれたが、「心」に相当する文字はないと言っています。BC1300年の頃のことです。そして「心」を手にした人間は最初からそれを使いこなせたのかと問い、この目に見えない不思議なシロモノに大いに振り回されたのではないかと答えています。なにかピンとくるものがあります。(「歩く浄土2」)

嫌なことを言いますが、おそらく事実だと思いますが、生きた人間から皮を剥ぎ、ランプのシェードにする奴が家に帰ったら優しいお父さんができるのです。それが人間だと思っています。アーレントの凡庸な悪をなんの痛痒もなく体現できるのが人間です。人はそういう存在でもあると思います。
それでも、それは人倫として許されないからやっては駄目なんだ、という理念ではなく、人が人に対してそういうふるまいをすることを思いつかないという人間の関係のあり方も可能だと思います。わたしはそこをめざしています。モダンな心性をめくり返して包むというわたしの考えはそういうものです。どうすればそれが可能となるのか、ずっと真剣に考えています。おのずからなる人倫はあります。

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