日々愚案

歩く浄土13

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〈わたしは性である〉とか、〈自己の中の絶対の他〉という言い方をよくしますが、おそらくHさんの「重なりの1」と、取りだし方は違うかもしれませんが、よく似ているような気がします。4半世紀前に書いたことを再録し、コメントしているのは考えてきたことをもっとていねいに言いたいからです。大枠の考えになんの変更もいらなかったのは驚きでした。なにを書いたかもう忘れていたのです。

対象Aと対象Bが関係してAでもBでもない対象Cが生まれ、このとき生まれた対象Cが同一性の彼方です。この驚異はふたたび対象Aや対象Bに跳ね返ります。そのことをよぎられることや宿られることに比喩してきました。
言いたいと思うたくさんのことがあります。
よく考えると根源の性という内包存在はもともと無限小のものとしてだれのなかにもあるのです。これがまた不思議なことですが、この気づきや不意打ちは、固有の他者との縁(えにし)によって知覚されるのです。そしてこれもまた妙なことですが、その刹那、この知覚は同一性に封印されます。それ以降は、うまくいったりいかなかったり、だれもが経験する性や家族といういうことになります。

ヴェイユは匿名の領域から人間のなかにある「聖なるもの」を言い当て、パウル・ツェランは「私が私であるとき、私はきみである」と言いました。
片山さんは作品「九月の海で泳ぐには」の作中で、主人公が赤ん坊にじっと見つめられて、自分を発見し、そこは彼だけの場所であるとどうじに、そこにきりのない肯定があるという気づきを書いています。それはひとつの知覚です。この出来事は奇跡であり神秘です。
いずれの考えにも表現のおおきなうねりがあります。わたしはこのうねりの先に行きたいのです。このうねりをもう少していねいにたどれば、もっと先までわたしは行けるし、どうじにこの世のしくみがおのずから生成変化を遂げることになるという直感に突き動かされています。

ここから先はわたしの固有の考えです。世間の大半の人の考えとずれます。
もう一度言います。自己のなかにはふかいところに、自己ではない、自己ということではいいえない、けっして共同化できない、それ自体としての領域があります。なにか特別な境地をいっているのではありません。それはだれのなかにも、すっかり忘れら去られるようなことがあっても、ひっそりと、ともかくそれはあるのです。自己ではないのです。共同性でもないのです。もちろん自己を前提とした対幻想ではありません。まだそれがどういうものであるかうまく言えた人はいません。
そこでは、わたしは、わたしの外延論理の同一性を保ったまま、その生命形態の自然ということが転位されるのです。わたしたちが生きているということは身体という同一性として生きているということです。環界から身分けをうけ、そこに主観や自我や、もろもろのものが棲まっています。それを精神といおうと、心といおうと、たましいといおうと、なんとでも言えます。
レヴィナスはこの生存の同一性を破れないかぎり身の毛のよだつ邪悪が止むことはないと考えました。アーレントは凡庸な悪について言いました。世界の無言の条理は変わるでしょうか。変わりません。かろうじて西欧近代の理念がこの社会をうすい皮膜としておおっています。それはじつに脆いものです。わたしの経験からはそうなります。世界の無言の条理に歯が立つことはないのです。
同一性という思考の慣性そのものが歪んでいるとわたしは考えました。それは、存在するという知覚が太初に制約をうけているからではないかと考えるようになったのです。知識として書いているのではないのです。わたしを貫く生存感覚を言葉にしようとしています。

人はパンのみにて生くるにあらずというという聖句がありますが、パンがないと死にます。だからわたしの内包は日々の光熱費や食費のようなものではありません。なくても暮らしていけます。たまにあったらいいなというぐらいのことかもしれません。

思考の慣性を拡張したいと思っています。
まず、単独の自己があり、その自己がもう一人の他者と出会い対の世界をつくり、その対の世界がねじれて国家になったという理念はわかりやすくはありますが、閉じた世界をぐるぐるまわっているだけのような気がします。帰り道がないのです。共同性から降りる方途がないのです。道に迷ってしまいます。せいぜいいきなり他人を蹴ったくるようなことは止めましょうとか、お金に困っている人がいたら無理のない範囲で援助しましょうとしかならないのです。自力作善は極悪よりましですが、自力作善をどれだけ広めても世の中はよくなりません。そのやり方で人と人がつながることはありません。つながっている気になることはできます。それは愚鈍です。虚偽です。レヴィナスは同一性の戯れと言い切りました。よくわかります。

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外延論理では、これから日本の社会は急速に壊れていくと予感しています。わたしのなかでは予感は可能性ということになります。やっと素足で地面に立つことができるのです。自己が単独で世界と対座するという表現意識はグローバリゼーションの猛烈な圧力に抗しえません。わたしはそう思っています。それが現在に対するわたしの見立てです。ことごとく敗北していくと思っています。そして敗北を自覚する者にその範囲で自由が貸与されるのです。
もしここで人類史もまたモダンであるとするひとつの理念を提示できたら、わたしはそれが世界の現在やわたしたちが生きている現実にたいする勝利だとひそかに考えています。またそれが可能だと思うから書いているのです。

ユングは言います。集合的無意識の発見の驚きについて語っています。

私の直観は、次のような事実にたいして、急激でしかも思いがけない洞察をもたらした。すなわち、私の夢は私自身であり、私の生活、私の世界、他人が自分勝手の理由や目的のためにつくった理論構造とは異なる私の全現実であるという事実である。それは、フロイトの夢ではなくて、私自身のものなのだ。私は閃きのように、その夢が何を意味したかを了解した。(『人間と象徴』河合隼雄監訳 79p)

後継者問題につきものの悶着があったのです。跡目はユングと言われながら、ユングはフロイトに反抗したのです。『変容の象徴』をていねいに読んでいくとそのいきさつがわかってとてもおもしろいのです。フロイトにもユングにも「胸がいっぱいになる」という太陽感情はありませんでした。日本人だからユングは読まなくてもわかるところがたくさんあります。

膨大なフロイトの著作からこれだけ取りだせばほかになにもいらないと言ってもいい考えがあります。すごいことにフロイトは気づきました。その箇所を探し出すのに時間がかかりました。その箇所を引き写します。

さて、われわれが人間の心を分解すると、人間の心は超自我、自我、エスという三つの国あるいは領域あるいは区画に分かれます。
(略)
エスはわれわれの人格の暗い、近寄りがたい部分です。エスについてわれわれの知っている僅かなことは、夢の作業と神経症状形成との研究を通じて知りえたことなのであり、そのうちの大部分のものは消極的性格を持っており、自我の対立物であるとしか言いようがないのです。比喩を云ってエスのことを言い現そうとするなら、エスは混沌、沸き立つ興奮に充ちた釜なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるかはわれわれには解らないのです。エスはもろもろの欲動からくるエネルギーで充満しています。しかしエスはいかなる組織も持たず、いかなる全体的意志も示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。
(略)
エスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。そして、これは極めて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。
(略)
言うまでもなくエスは価値判断をいうことを知らず、善を知らず悪を知らず、道徳を知らないのです。(『フロイト著作集1』人文書院 446~448p)

引用の部分に書き込みをしていたのでスキャンできずキーボードから入力しました。入力しながら思わず傍線を引きたくなりました。わたしの内包の知覚のちょうど真裏から触っているのです。エスは混沌とした沸き立つ釜であり、論理も、矛盾律も、時間も、善悪の倫理もないとフロイトは言っています。内包のきりのなさを同一性で触っているのです。矛盾律が通用しないということは同一性が破れているということと同義です。なぜそこまでフロイトが言わなかったというと、エスを記述しているフロイトの同一性が壊れるからです。そこだけはかれは回避しています。矛盾律が存在しないことを基礎づける同一性はすでに破綻しているのです。

ユングもフロイトも偉大な才能です。ただ、対象Aと対象Bが関係してAでもBでもない対象Cが生まれることの驚異については、その表現のうねりについては、書き切れていません。わたしはいまふたりの言説を眺望できる場所に立っています。偉大な才能の制約がよく見えます。かれらもまた対立するように見えて、単独で世界と対座するという思考の慣性の場所から発言しています。

ネットで世界を見聞すると、暗澹として、たまらん気持ちになります。同一性という思考の回路に、そこを断ち切る生の豊穣さはありません。
もしも、わたしたちが自己よりはやく、じかに性であるなら、もっと、世界には音色のいい風が吹くと思います。そこには国家も戦争も、殺戮も、苦界もありません。たとえ歴史としてそれが現成されるのに長い時間がかかるとしても、わたしたちはただちに野の花、空の鳥になることができます。山川草木悉皆成仏とはそういうことです。とても色っぽいのです。そこをめざしています。

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